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 この夏に最も話題を呼んだJ-POPのリリースといえば、三浦大知『球体』(及びその次作「Be Myself」)、そして星野源「アイデア」だった、とひとまず言ってよいだろう。これらのリリースでお茶の間から音楽ファンまで広いリスナー層に訴えかけたこのふたりは、互いにリスペクトを捧げあい、とりわけラジオ番組やTV番組をホストしている星野は、自らの番組で『球体』について語り、あるいは三浦を出演者として招くほどだった。

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アイデア

アイデア

 なぜこのふたりがこれほど共感しあっているのか、ということを考える際に重要な点がある。それは、「芸能」というあいまいで周縁的な――それでいて私たちの生活に最も馴染みのある――領域への愛着だ。

 芸能とはなにか。それは、語りとか演奏とかダンスといった表現領域の純粋性とか専門性から離れて、多様な芸(=アート)が混じり合う、境界上の世界だ。芸能というくくりののなかにはそれぞれのプロフェッショナリズムが存在し、はっきりとした分業制が敷かれている一方で、それが劇場であるとか街頭であるとかテレビであるとか、いわゆるメディアを通じてひとたび私たちの前に姿をあらわす場合には、雑多な芸事がからまりあった総合的な娯楽としてたち顕れることになる。

 その傾向がより顕著になったのはおそらく戦後、テレビが芸能の主要なメディアとなり、また芸能界そのものとなったことに起因するだろうから、ここからの議論はもっぱらそうした「テレビ以降の芸能」の問題と考えてもらったほうがいいかもしれない。

 さて、芸能のこの不純さは私たちを常に引きつける一方で、ことそれが表現としての価値付けの問題になると、ほとんど忌むべき対象となる。いわゆるファイン・アートとかシリアス・ミュージックと呼ばれるハイ・アートの世界のみならず、ポップ・ミュージックの世界においても、芸能的な不純さには両義的な態度がしばしば見られる。

 というのもこの不純さは表現者にある程度の制約や妥協を強いるものであり、かつ表現者の神秘性を損なうものだからだ(あるいはそれとは矛盾するように、「親密さを疎外する」という理由で芸能を忌避する流れもあると思うけれど、ここでは取り上げない)。あえてテレビ出演を避けたり、メディアとのタイアップを避けたりといった戦略によって、表現者は芸能の世界とうまく距離をとり、自身のイメージが過剰に捻じ曲げられることのないよう注意深く動くことになる。

 また、そうした不純さに対する微妙な態度は受け手の側にも見られる。これもよく言及されることだけれど、日本を代表するR&Bの名プロデューサー松尾潔いわく、「歌って踊るパフォーマーと、歌だけ歌うパフォーマーがいる場合、たとえ両方とも同じくらい歌が上手くても、売れるのはたいてい後者」だという。「歌もダンスも」よりも「歌だけ」の方がより高尚に思えてしまう、という先入観は、「二兎を追う者は一兎をも得ず」にも似た、パフォーマンスの純粋さに対する信仰によるものではないだろうか。

 あるいは、バラエティでよく見かける「芸能人」がコアな音楽好きだったりすると、途端に評価が一変したり、などというのもよく聞く話だ。そこにはどこか、猥雑な芸能の世界に対する、純粋な音楽の世界(などというものは――クラシックの世界にさえ――ないのだけれど)の優位が感じられる。

 他方、星野源は一貫して、あいまいで境界的な領域のうえで活動を展開してきたと言える。SAKEROCK時代からすでに演劇の世界に足を踏み入れていたことをここで過大評価するつもりはないけれども、いまから振り返ってみればそのように解釈もできる。あんまりこういう言葉を使うのも好きじゃないのだがあえて言えば、「マニア受け」するようなインスト・エキゾ・バンドみたいなことをやりつつもメインストリームの世界に単身乗り込んでいき、ほとんど国民的と言える歌手になったその足跡は、単なるセルアウトとかそういうものではなく、あらかじめ志向していたものだ、と考えたほうがすんなり納得できるし、彼が売れたのも、そもそもそういった素養が彼に備わっていたためだ、という予感もさせる。

 その極地が、ひとつにはNHKの生バラエティ番組「おげんさんといっしょ」であり、次には冒頭で言及した「アイデア」だ。

 「おげんさんといっしょ」は、放送時間のまるまるほとんどが生演奏の音楽とコントで構成され、また高畑充希藤井隆といった女優とか芸人の音楽的なポテンシャルを開花させる場としても極上のプログラムである。嬉々として主婦のかっこうをしてカメラに向かう星野自身の姿は、芸能という領域が持つ猥雑な力とポップな魅力を体現するかのようだ。もはや時代錯誤といっていいスタジオ内のセットも、ミュージシャンに着せられるコスプレまがいの衣装も、単なる気まぐれやサーヴィスではなく、星野源が思い描く芸能のあり方なのだ。

 また「アイデア」は一見するとOK GOとかいったミュージックビデオの名手と並べて語りたくなるビデオだけれども、細かなカメラ割りと「撮って出し」の生々しさ、そして繰り返し画面にあらわれるスタジオの「裏側」から垣間見える現場の空気感などは、むしろ日本のバラエティショーの脈絡に位置づけるべきものではないかと思う。菊地成孔はかつて星野源のパフォーマンスを「ひとりシャボン玉ホリデー」と呼び、じっさい星野自身もクレージーキャッツへの愛慕を隠さない著名人のひとりなのだけれども、「アイデア」のビデオほど星野のクレージーキャッツや「シャボン玉ホリデー」的なバラエティショーへの愛着を形式の点からして表現しているものはないだろう(もちろん、これまでのビデオやパフォーマンスにおいてもそのオマージュとおぼしき要素はたくさんみられるわけだけれども、詳しく論じるほどの知識が私にはない)。

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 アルバム『YELLOW DANCER』以来星野が掲げているイエロー・ミュージックなる概念については、本人から、あるいは評論家やライターからいろいろに言及されてきたけれども、そうした語りに微妙に欠けているのは、こうした芸能的な視座ではないかと思う(もう言われてたらごめんなさい。っていうか本人がもう言ってそうだけど)。イエロー・ミュージックは、洋の東西を問わないさまざまなジャンルの日本的なごった煮であるだけではなく、芸能という雑多な領域へ足を踏み入れることを恐れず、むしろ芸能というものの価値を再び認めなおそうという彼の活動そのものを指しているようにも思える。

 途切れることなく続くタイアップ、J-POP的な構成に対する執着、嬉々として歌番組に出演するスタンス、どれもいわゆる「音楽好き」――とりわけロックのイデオロギーに強く影響を受けているタイプの――からすれば、彼の足かせのように見えるかもしれない。しかしむしろ、外から見ればクリエイティビティを制限するように見えるその不純さこそが、星野源が復興しようとしている価値観そのものなのではないか。

 ひるがえって、三浦大知に目を向けてみよう。三浦は、「歌って踊る」ポップアクトとして近年稀に見る洗練を遂げ、日本のエンターテインメントに改めてパフォーマーとしてのプロフェッショナリズムをプレゼンしなおしているかのようなところがある。そのスタンスは、表現者としての自意識から離れて、さまざまなプロフェッショナリズムが交錯する芸能という領域に、まさにど直球を投げ込んでいると言えよう。『球体』は、芸能の領域に特有の高度な分業制を極めたところにどのような表現が可能かという取り組みであり、「Be Myself」はそのテレビ映えする展開や振付の妙からして、その成果をメディアの場へとうつしなおす一曲だ、と思う。

 そのように考えると、星野源三浦大知に共感する理由は自ずとはっきりするだろう。ふたりとも、少しずつ文脈は違う――前者はテレビの育んだ戦後の芸能文化を、後者は高度なエンタメの制度としての芸能を自らの系譜として選ぶだろう――とはいえ、ロック的なイデオロギーから抜け出した、あいまいな芸能という領域に、改めて光を当てる表現者だからだ。

 ただし、彼らが復興しようとする芸能とは、旧態依然とした企画で徐々に視聴者から見捨てられつつあるテレビ業界のなかにあるのでもないし、まして時代の変化に遅々として対応できない音楽業界にあるのでもない。むしろそれは、文化の共通言語を失った時代の私たちが再び互いに語り合う言葉を作り出すための、新しい芸能、オルタナティヴなポップである。それは星野源がこれまでにドラマの主題歌のなかに忍ばせてきた多様性への讃歌に伏線を読み取ることができるし、三浦大知のエンターテインメントに対する圧倒的な信頼と献身にその可能性を感じることができる。

 メディア環境が急激に変化を遂げるなかで、彼らは少なくとも切りうるカードを切りながら、自分たちなりの芸能のあり方を考えている。それがいったい5年後、10年後にどんなかたちをとるのかなんてわかりやしないのだけれど、少なくとも私は、彼らの進まんとする方向に――人びとの共通言語をつくりだす、雑多でポップな芸能という領域の復興に――共感を惜しまない。

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