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人間はなぜ歌うのか? 人類の進化における「うた」の起源

人間はなぜ歌うのか? 人類の進化における「うた」の起源

 音楽なんていったいなんの役に立つのか? と正面切って問うのはなかなか勇気がいることだ。とりわけそれがレトリックではなく本心からの問いであり、さらには、その問いに進化生物学的な視座から答えようなどというと、あまりのスケールの大きさに卒倒しそうになる。これまで、この問いを立てて答えを探ろうとした研究者はさほど多くない、とジョーゼフ・ジョルダーニアは伝える。むしろ、驚くほど少ない、と。なにしろ進化論の始祖、チャールズ・ダーウィンでさえも、進化の系譜における音楽の役割の不可解さにはさじを投げていたのだ。ジョルダーニアは、人間にとってもっとも身近な音楽である「うた」に関する比較音楽学的・人類学的・進化生物学的考察をもって、この問いに答えようとする。そこから導き出すストーリーは、あまりにも大胆だ。いわく、「人間を人間足らしめたのは、まさしく『うた』だった」。人間の祖先は言語を獲得するよりも先に「うた」を手に入れ、「うた」の力でここまで――まさしく僕たちの今の姿まで――進化してきたのだ、という。

 話のさわりだけをさっくりと説明しよう。ジョルダーニアによれば、比較音楽学的な調査の結果からは、モノフォニー(独唱)よりもポリフォニー(複数の声部を持つ合唱、本書では西洋音楽におけるそれよりも広い意味で用いられている)のほうが「うた」のかたちとして古いという仮説がたてられるという。つまり、まず単純な旋律があり、それが次第に複雑な合唱になったのでなくて、人間の「うた」はそもそもが合唱だったのだ、ということだ。また、ジョルダーニアは、生物学において見過ごされがちなある重要な事実を指摘する。すなわち、樹上に住む生き物はよく鳴き声を発するが、地上に住む生き物は鳴き声を発しないのだ。これはある種自明の理で、外敵に発見されるリスクの高い地上では、生き物は沈黙せざるを得ない。にもかかわらず、人間は歌う。少なくとも、「うた」を歌うというよくわからない習慣を捨てることなく地上に立ち、進化を遂げた。この矛盾に対するジョルダーニアの答えは、まさに逆転の発想だ。人間はむしろ、声を上げ、威嚇することで自分たちの身を外敵から守ることを選んだのだ。二足歩行も、頭髪も、その他あらゆる人間のある種不可思議な進化のあり方も、身を隠すのではなくあえて身を晒し、天敵を威嚇するという生存戦略の結果なのだ。

 その仮説の正当性については、ぜひ本書を読んで検討してもらいたいのだけれど、威嚇のために声を上げる、という観点から人間の「うた」の特性を分析すると、意外なほどストーリーはすんなりと進む。たとえば、人間の「うた」がそもそもポリフォニー=合唱であったらしいという話にしても、より効果的な威嚇のために声をあわせ、リズムをあわせ、より大きな音を発しようとしたことから派生したと考えれば納得がいく。和音もまた、音に厚みをもたらすことに貢献したとかんがえられる。現存するポリフォニー文化でしばしば見られる長短二度の音程による「不協和」なハーモニーも、効果としては同様だ。むしろ、複雑な倍音を持つ鋭い不協和音のほうがより効果的だったかもしれない。

 音楽なんていったいなんの役に立つのか? その問いに答える方法はいくらでもある。いっそはなから役立たずだと認めてしまうのも手だし、音楽の社会的な機能や療法的な機能を並べ立てていかに音楽が有用かを論じることもできよう。しかし、本書は違う。「うた」は人間を人間たらしめた、もっとも重要な本能なのだと言う。ジョルダーノは本書の末尾でこのように高らかに宣言する。

われわれは心底から社会的であり、心底から音楽的である。われわれの音楽性と社会的本性は何百万年ものあいだ、相携えて進んできた。音楽を競争[コンペティション]の手段として用いる多くの他の種とは異なり、われわれにとって音楽は何よりもまず協同するためのツールである。それが、和声が歌う人々を一つのグループにまとめ上げた理由であり、おそらくそれが、われわれの社会的本質の最良のシンボルと言えるだろう。(pp.301-302)

 もちろんこれを、音楽好きが自分の都合の良い証拠だけ集めた妄想だと斬って捨てる人もいるだろう。音楽を嫌う人だってたくさんいる。しかし、音楽という文化がこれほどまで地球上に偏在し、そして絶えることなく伝えられてきた事実を前にすると、このくらいの理屈がなければ納得ができないのだ。

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