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充分未来

充分未来

すこしまわりくどい話からはじめる。

韻を踏む、という行為の魅力は、なによりもことばとことばのあいだに思いがけない関係性を生みだし、想像力をぐっと遠くまで連れて行ってくれることにあると思う。ただ「音が似ている」というだけで撚り合わされたことばが、いわゆる「こうもり傘とミシン」のように運命的な(しかし偶然的な)出逢いを果たす。さしづめ韻とは「手術台」のようなものだ。そこからことばはシュールレアルな力を得て、イメージへと一気に跳躍する。

しかしとりわけ「うた」において韻を韻たらしめる条件というのは書き言葉よりも複雑だ。というのは、ことばが発音されるとともに引き伸ばされ、歪められることによって、多少無理のある脚韻も「うた」においては成立する、ということがままある。こうしたねじれた韻は、書き起こされて図示されうるわかりやすく形式化された韻とはまた異なる。「うた」においてのみ、声においてのみ成立し、イメージへと跳躍する韻というものがある。

本題に入ろう。

真部脩一のソングライティングはことば遊びのような性格を持っていて、それがかれの作家性の重要な要素であると私は思う。ことばを通じて描かれる物語や情景、あるいはそこから生じる感情に重きを置くのではなく、ことばそのものが折り重なり、ぶつかりあってイメージを生み出す、そういう感じがかれの書く曲にはあった。かれの書く詞はたとえば「物語を効果的に描ききれているか」というような、合目的性では評価しきれない。目的を欠いたことば自体の運動をつかみとる必要がある。

そのテクニックのうちのひとつに、押韻があることは言うまでもない。突拍子もなく飛び出てくる固有名詞や、ありふれたメタファーをひとひねりすることで生まれるユーモアと並んで、かれの詞には効果的な押韻がいたるところに見られる。彼が2017年に結成した新バンド、集団行動の二作目にあたる『充分未来』を聴いて感じたのは、そんな押韻の魅力がこれまで以上に詰まっているということだった。かつそれは、書き文字のなかでは姿をなかなかあらわさない、まさに「うた」の韻だ、と思った。

たとえばタイトル曲の「充分未来」は相対性理論時代を少し彷彿とさせるような、わらべうたのように牧歌的なことばのならびのなかに、モラトリアムとその終わりが描かれた一曲だ。4回繰り返されるAメロは、同じことばづかい(繰り返される「~の中」など)を含めて律儀に韻が踏まれている。完全な脚韻やそれに近いものだけをピックアップしても、「ユートピアルートビア/ゆとりある」「ハートは止まない/過去はまだない/カッコーは鳴かない」という具合だ。童謡を思わせる「たんたんたぬきは穴の中/かんかんからすも山の中/とんとん遠くの森の中」という戯画化された、抽象的な韻律のなかに、3番目だけ「炭酸ガラスの瓶の中」と具体的なイメージを滑り込ませているのも心地よい。

あるいは「フロンティア」は韻によって繋げられることばたちの運動が、ちょうど平歌とサビの見せる世界の広さを対比して見せている。平歌では、グルーヴを切断するかのように歩き出し、立ち止まりながらスタッカート気味に踏まれる「フロント/プライド/フライト/暗い日を」といった韻が、歌詞から香る別れや孤独を強調する。それに対して、サビではすこしねばりの聴いた「もの思えば/追えば/ことばが/フォーエバー/とれば」というなめらかに流れる韻が、開放感あふれる詞の内容とあいまって、これから始まろうとする新しい旅への期待を高めている。それはまさに「行き場のないメロディーが」想像力の翼を得て羽ばたき出すように感じられるのだ。

さらに、いずれの韻も、反復されるメロディやリズムのなかに流し込まれることで、母音の不一致やシラブルの多寡を乗り越えて、ことばの連なりとして浮かび上がってくる。「春」ではその意外性がより際立っていて、メロディの鋳型へと注ぎ込まれた「窓辺に立ち/アドベンチャー」や「戻れずに/モノレールの」といったことばが、ゆるやかにつながってさまざまなイメージを聴き手のなかに呼び起こしてゆく。

しかし、単純ながらもこのメロディと韻の関係をもっとも感じさせたのは、真部脩一らしからぬストレートでポップなギターロックである「鳴り止まない」だった。「朝8時から/流れ出したこの曲が」という出だしの8小節には、一見韻らしい韻はない。けれども、1小節目と4小節目冒頭「あ」が「あー」と1小節半引き伸ばされ、同じように「な」が「なぁー」と引き伸ばされることによって、この音たちはもとのことばの一部であることをやめて、「ああ」という感嘆の響きに同化するのだ。

なに、ごく単純なことじゃないか。と思われるかもしれない。しかし、ことばを巧みに操って聴き手をほんのちょっとシュールレアルな非日常に導いてきた真部が、まっすぐにロックンロールの、音楽の快楽を描き出したこの曲において、この発見はなかなかに清々しいものだった。彼の作家性をそのままに、胸をくすぐるような青春の香りを漂わせるこの曲は、たんにキャッチーなだけではない魅力を持っている。

それにしても、こうした真部の楽曲を堂々と歌う齋藤里菜の歌声のたのもしさはなんだろうか。『充分未来』にもうひとつ発見があるとするならば、お仕着せでも歌い上げるでもなく歌詞に、メロディに寄り添ってのびのびと声を発する齋藤の魅力が溢れているところにあるかもしれない。集団行動は新メンバーや新ヴォーカリストを募集するなど、今後も姿を変えていくことだろう。それがいつか相対性理論のように不定形な「ユニット」のようになるのか、あるいはバンドとして洗練されていくのかはわからない。しかし、『充分未来』が捉えている集団行動というバンドの姿は、ポスト・相対性理論といった前置きを抜きに、バンドとしてのゆるやかな成長を見せていることは間違いない。

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