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調性の崩壊と演奏者の解放

おおよそ18世紀に確立した古典調性と呼ばれる音楽のフレームワークは、20世紀初頭にその構造的極限に達した後に崩壊を迎え、十二音音楽やミュジク・コンクレート、不確定性の音楽といった諸実践へと開かれていった。調性とはいわば楽音の内部に持ち込まれたヒエラルキーのことであって、それはその用語の端々に――主音、属音、下属音…――あらわれている。ある調性のなかではひとつの音が他の音に対して優位にあり、旋律や和声は主としてその調性における主音へと「解決」されるべく、一定のケーデンス・ラインに従って連結されていく。あらゆる音には主音へと向かう役割が与えられ、それに奉仕するのである。

こうしたヒエラルキーはたとえばオーケストラのような集団の内部にかたちづくられるヒエラルキーとも重ね合わされる。とりわけ一人が一旋律を担う管弦楽器においては、自らの発する音の行く先はオーケストラという集団を束ねる指揮者と、楽曲の内部から各々の音を導く調性のシステムによって制御されることになる。とすると、調性の崩壊という事態は次のようなテーゼをも導くことになる。すなわち、「楽音≒演奏者の解放」である。

実際、調性が崩壊した二世代ほどあとに勃興したミニマル・ミュージックにおいては、あきらかにそうした意図を持って制作された楽曲が数多く見受けられる。Terry Rileyの《In C》(1964)、Frederic Rzewskiの《Les Moutons de Panurge》(1968)、あるいはLouis Andriessenの《Worker’s Union》(1975)といった作品は、調性の崩壊以降にみられるようになるプロセスへの志向と共に、指揮者によって統率されるオーケストラというモデルによらない集団演奏によって新たな音楽的経験を生み出すことを目的としているといえる。

ポップ・ミュージックの想像的な分業制度

ポップ・ミュージックはかなり柔軟に調性の外にある概念――ブルーノート、ノイズ、不協和音等々――を取り入れてはいるものの、やはり根本的には調性音楽の範疇にある。それゆえポップ・ミュージックの内部にもまた、ヒエラルキーが存在する。それは既存のオーケストラのような大集団というよりも、数人~10人程度の比較的小さな集団へと効率化されてはいるのだが、リズム隊やギター、ヴォーカルといった楽曲の構造上のヒエラルキーに従った分業は維持されている。

あるいはそれは、たとえばJB’sにおける罰金制度に代表されるバンドのあり方によって、しばしば強化されていると言ってもいいかもしれない。絶対的な権力者としてのバンマス、それに服従することによって生まれる強烈なグルーヴ。その魅力を否定したいとは決して思わない。

ポップ・ミュージックというフォーマットにのっとる限りにおいて、こうした構造的分業制は維持される。それが現実に存在するアコースティックな楽器とは関係のない電子音から構成されるとしても、音色や音域の特性によってリズムを提示するブロック、和声を提示するブロック、旋律を提示するブロック、といったかたちでけっこうはっきりと分業のありようを見て取ることができるものだ。バンドでつくろうがひとりでつくろうが、楽曲の構造上形成される音色の諸ブロックの分かれ方をここで、ポップスの想像的分業制、と呼んでみることにする。そこから逸脱すれば、それはもはやポップソングというラベルをはぎとられ、エクスペリメンタルというおためごかしのラベルを新たに貼り付けられることになるだろう。

調性の枠内にとどまるポップ・ミュージックにおいては、演奏者の解放に相当するようなイノベーションは起こり得ないのだろうか。たといひとりで打ち込みで作っていたとしても想像的な分業制度を音色にこめてしまうのだとしたら?

ヒエラルキー抜きのポップ・ソング

そこに、SOPHIEが現れる。彼の音楽を聞いて面食らうのは、それが明らかにポップ・ソングとして機能しうるというのに、想像的な分業制がそこに見いだせないからだ。ベースラインとドラムとコードはいびつに図太いシンセベースによっていちどきに代替されてしまっている。ドラムスとSEの区別もなく、強いて言えば歌声だけがメロディを提示することによってかろうじてひとりそこに立っているかのように思える。しかしそれもずたずたに断片化され、性急にSEと混じり合ってしまう。

そもそもトラップ・ミュージックやフューチャー・ベースといった最近の流行にその萌芽があった――トラップのベースラインと同化するキックなど――とはいえ、SOPHIEのそれは露悪的なまでに「やり過ぎ」であって、しかし奇妙なポップさを勝ち得ている。それはまさしく、音楽の想像的分業制によってではなく、個々の音色の薄気味悪いと同時に人懐こい性格によるところが大きいだろう。すなわち、次から次へと浴びせかけられる音色のシャワーが、想像的分業制すら廃したポップ・ソングという異物を生み出した、というわけだ。

その聴感上の新奇さを埋め合わせるように、SOPHIEの曲にあてられた歌詞も和声も陳腐なほどポップだ。泣きたくなるほどやすっぽい話… と菊地成孔なら言いそうな。しかし、そこに厳然たる不在――ヒエラルキーの、想像的分業制の――の穴が空いているが故に、それを単純に調性の枠内にとどまるポップスとまったく同じものと見なすことはできない。この奇妙な音のシャワーをいくらでもいくらでもと浴びている内に、自分までプラスティックの粒子になってしまいそうな幻覚をみてしまう。

かようにSOPHIEの《PRODUCT》はポップ・ミュージック史になにがしかの爪痕を残したに違いないと思う。それはアンチ・ポップでもなければド直球のポップでもない、ポップを換骨奪胎しきった、正真正銘オルタナティヴなポップだ。

PRODUCT [帯解説・ボーナストラック収録 / 国内盤] (BRC493)

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