[書評]つやちゃん『スピード・バイブス・パンチライン ラップと漫才、勝つためのしゃべり』(アルテスパブリッシング、2024)
ヒップホップとお笑いがちょっと異様に近接している昨今。そもそもラップという表現手法はその新奇さゆえにお笑い芸人からしばしば借用されてきた(コミックソングとして、あるいはネタのギミックとして)ものだけれど、特に2010年代なかばにフリースタイルブームをきっかけとして日本におけるヒップホップのメインストリーム化が改めて進んで以降は、ヒップホップとお笑いのクロスオーバーはかなりリテラルなものになった。
お笑い芸人がラッパーに混じってマイクリレーに参加し、ラッパーが賞レースにテーマソングを書き下ろす。まるで、長谷川町蔵と大和田俊之による共著『文化系のためのヒップホップ入門』(アルテスパブリッシング、2011年)で提唱された「ヒップホップは「お笑い」である」というテーゼが愚直に現実化してしまったかのようだ(同書では少年ジャンプやプロレスもお笑いと同列にヒップホップをアナロジカルに理解するために引き合いに出されているが、いま振り返れば、これ以後もっとも影響力を持ったのは結局「お笑い」に尽きるだろう)。
こうした状況をふまえれば、つやちゃんの新著『スピード・バイブス・パンチライン ラップと漫才、勝つためのしゃべり』(アルテスパブリッシング、2024年)はまさに時宜を得た一冊に思える。けれども、本書はヒップホップとお笑いの接近をよりいっそうリテラルに、ラディカルに解釈しようとする点で異色でもある。ラッパーと芸人(あるいは業界同士)の交流やコラボレーションではなく、アメリカにおけるラッパーと日本における芸人の社会的ステータスのアナロジーでもなく、先鋭化する「しゃべり」の表現としてラップ/漫才を交錯させる。もっと突っ込んで言えば、ネタ/リリックとして表現された作品のレベルにおいてこそ、ヒップホップとお笑いに共通点を見出すことができる。そうした直観に思い切りベットして、言葉をドライヴさせた軌跡が『スピード・バイブス・パンチライン』だ。
そうした着想のユニークさを更に加速させているのは、厳密な論証というよりも、異質なふたつの領域をショートさせることでロジックを飛躍させ、その飛距離で読者を説得するような奔放なスタイルだろう。AとBがほんとうに似ているだけでは単なる類似の指摘にとどまり、どこに飛んでいくこともない。むしろ、似ているかどうか、並べることができるかどうかの判断よりも先に、並置を繰り返すことでひらめきを読む側にももたらす。読み味としてはほとんど怪文書だ(いい意味で)。一方で、一本一本のエッセイには見るべきアイデアと先行する言説を踏まえた状況の整理が張り巡らされていて、人を触発するには十分なスプリングボードになりえていると思う。
第三部はヒップホップとお笑いという主題から離れてヒップホップとファッションの関係が考察されていくけれども、基本的なスタイルは変わらない。というかむしろ、前著『わたしはラップをやることに決めた フィメールラッパー批評原論』(DU BOOKS、2022)から一貫した著者のスタイルというべきだろう。
とはいえ、そもそもの出発点に違和感がないわけではない。本書ではラップと漫才こそが「現代の高度化する私たちのしゃべりの、究極の姿がある」(p.19)としているけれど、むしろ本書を読んで感じるのは、作品として構築されたこれらの「しゃべり」の表現が、むしろ日常的な「おしゃべり」に対して並々ならぬ緊張関係をも持っているということだ。「究極のしゃべり」は私たちの「おしゃべり」を規定する型なのか、それとも私たちの「おしゃべり」に対して批評的に介入してくる異物なのか。本書は字義通りには前者のスタンスをとりつつ「(お)しゃべり」の現状に対して絶望混じりのアイロニカルな態度を貫いているけれども、後者のような漫才やラップの持つ怪物的なポテンシャルが幾度となく可能性として提示されているようにも見える。そうした矛盾やアンビバレンスがなまなましくあらわれていることこそ、本書の最大のアクチュアリティかもしれない。
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