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月: 2022年9月

言葉の不気味さ

ここ数年、おそらく仕事としてものを書くことが増えてからだと思うけれども、言葉の不気味さに耐えられなくなることがある。ある特定の形象や音の連なりが意味を持ち、その羅列がなんらかの表現になる。それがたまらなく気味悪く、おそろしい。言葉を使うこと自体に支障があるわけではない。むしろ、支障なく使えてしまうこと自体に対する違和感がばけもののように思え、書くにしても、読むにしても、言葉に向き合っていると、ふと自分と言葉のつながりがうまくつかめなくなり、あるときはあまりに遠く、またあるときはあまりに近く感じられ、身震いしてしまう。耳の奥や鼻の奥に言葉がべたりと貼りついて自分の頭や身体をむしばんでいるような感覚にとらわれる。かといって、言葉から逃れた自由な状態を理想として焦がれているわけではない。ちょっとした拍子に、自分と世界の同期がずれて、ステレオトラックの位相がみだれるようにして、そうした不気味さがうかびあがってきて、それがあまりにも恐ろしい。そういうとき、調和を取り戻すために、詩を書いたりする。詩なんか書いてるのかと思われるかもしれないが、最近たまに出している、短い歌モノがそれだ(そのように発表するわけでもなく、思いついた言葉を書きとめ、それをいじくりまわすこともあるが、割と稀だ)。

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一語一語を吟味して、すくなくともそのときの自分にとって意味と響きが過不足なく感じられる状態へ、一文字ずつ積み重ねていくと、同期が取り戻されていく。そうすると不思議と言葉はすっかりよき他人となって、つむぎだした当の自分と関係なく、自立しはじめる(ように感じられる)。とはいえ、いつまた言葉が空虚でグロテスクな顔をむき出しにするのかわからないから、言葉と向き合うことにはうっすらとした影がつきまとう。言葉は自分にとって、便利な道具でもなければ、軽やかにたわむれる対象でもなく、まして実存的ななにかを安心して託せるような存在でもない。少しずつ、様子を伺いながら、うまく同期をたもちながら、付き合っていく、よくわからない、不気味な対象(ここで、「だ」というのか、「なのだ」というのか、あるいはもっと凝った展開をするのか、わからなくなった)。

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