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月: 2022年7月

「現代音楽」の世界を物見遊山(藤倉大『どうしてこうなっちゃったか』を読む)

藤倉大『どうしてこうなっちゃったか』幻冬舎、2022年(アフィリンク注意)

作曲家、藤倉大の自伝エッセイ『どうしてこうなっちゃったか』を読んだ。名前は聞いたことあるけど作品を知ってるわけでもない。でも、なんとなくポチった。サブスクで藤倉大の作品を流しながら読んでみる(なんかこう書くとシャバいな)。すると、これがめっぽう面白かった。

困ったらとりあえず開きがちなSpotifyの「This Is~」。身構えて再生してみると思ったよりもキャッチーで、色調に富むのに鮮やか、みたいなバランスがすごい。

なにが面白いかと言えば、まず第一に異世界転生とかのチート主人公かなんかかよと思うような藤倉の存在感もさることながら、出てくる人物の片っ端からキャラの濃いこと。また、現代音楽という多くの人にはあまり馴染みのない世界がどう動いているのか、ひとりの作曲家の視点から見えてくることも面白い。ざっくばらんな語り口と「マジかよ」というエピソードに導かれて読み進めると、作曲家ってどういうふうに食ってんの? みたいな下世話な関心も満たされるし、かと思えば、作品1本を書き上げ実演するのにどんな苦労とよろこびがあるかもリアルに描かれて、そのまっとうさに胸打たれる。

なにより、いち作曲家としてなにを試みようとしていたか、自分がこの音楽――たとえばオーケストラによるアンサンブル、たとえばオペラ、たとえばライヴ・エレクトロニクス――にどんな魅力を感じているかを書き付ける筆致が良い。第十五章で、オーケストレーション(オーケストラで鳴らすために作品を練り上げる、まあポップスの領域で言うところの「アレンジ」というか)の面白さを、具体的な例を並べて簡潔に説明したうえで、「少ない数の楽器から多彩な音の花を咲かせるのが、オーケストレーションの醍醐味だと僕は思う。」と一言まとめるあたりは、「うわ、これパクろう」とか思ったりする(ちゃんと出典を明記して引用しましょう。今回はKindleで読んでいるうえ、なぜか位置番号がうまく参照できない。あしからず)。

さらに、坂本龍一やデヴィッド・シルヴィアンといったアーティストとの交流のエピソードからは、録音芸術としてのクラシックという、馴染み深い一方でいささかややこしい領域のあり方にも思いが及ぶ。いま音楽というと録音された商品を指すことが多い。それが巨大な資本の投下されたプロジェクトであれ、ベッドルームからえいやっと放たれた音声ファイルであれ、のっかっている土俵は根本的には同じだ。同じであるがゆえに、さまざまな〈力〉の多寡がそのまま格差としてプレイヤーにのしかかってくるわけだが……。そこに、いわば畑違いの作曲家が乗り込んでゆくことの意味について考えざるをえない。とか言い出すとじゃあ現代音楽ってのも結局さぁみたいなことにもなるけどまあそこまで踏み込まない(そのあたりのやだみや辛さを感じるエピソードもそこかしこにあるのである種誠実なエッセイだ)。

まあ、オーケストレーションにせよ録音芸術としてのクラシックにせよ、ほんの数段落言及されるくらいの話なんだけど、起伏の激しいエピソードのなかにあるそういう細部にこそ含蓄の多いエッセイだ。軽く読めるしおすすめしたい。

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山をみる(あとWIRE「Map Ref. 41°N 93°W」)

少し遠くの業務スーパーまで買い物に行った帰り、自動車を走らせていると、舞鶴山という天童市のランドマーク的な山が進行方向の真正面に見える。ランドマークといっても、さして標高の高くない、盆地の底にぽこっと湧いたような山なのだが、その表面にはいつもすこしめまいを覚える。植生がつくりだすさまざまなテクスチャがぎゅっとひとつの面に凝縮されていて、まるでまわりの風景から浮かび上がるように見える。そのまま吸い込まれてしまうような気がしてくる。

いったん山の中に自分が入ってしまえば、規則性のあるようなないような木々の連なりに奥行きを感じられる。しかしそれが山肌として外側から眺められるときには、表層のうごめくような質感に還元される。はたしてそれが遠いのか、近いのかも判然としない。遠さを示すのはただいま足をつけているこの地面からの連続性と、空気を通して霞んでいく色合いだけだ。うっすらとした方向感覚喪失の陶酔がもたらされる。遠さと近さが入り混じってしまうような空間の感覚は、整然と幾何学的にマッピングされたものとはぜんぜん違うような気がする。

わけいって体験される山ではなくて、視覚的なオブジェクトとしての山は、なにか独特な異物感がある。よく交通の都合で山寺駅を使うことがあるのだが、プラットフォームから見える山の風景にはいつもぞわっとする。あるいは仙台に向かって関山街道経由で車を飛ばすときにも、あたりを囲む山肌の質感にぞくぞくする。

最近は、そんな山が意外と好きなのかもしれないと思いはじめた。ロマン主義的な崇高(フリードリヒの絵画みたいな)の表象とか、あるいは富士山みたいにモニュメンタルな存在ではなくって。以前大分県にしばらく住んでいたとき、特に豊後高田市だったと思うが、山の風景が地元で慣れ親しんだ山となかなか違うのに驚いたものだが、思い返してみると、あれも自分が求める山だったかもしれない。いまとなっては、なかなか行くにも億劫な距離ではあるのだが……。

Wireの「Map Ref. 41°N 93°W」(『154』、1979収録)では、緯度・経度や等高線といった概念を通じて幾何学的に再構築される地図上の自然と、いままさに目の当たりにしている自然とのめくるめく往還が描かれている。最初のヴァースで語り手は(といっても文体はほぼ三人称なのだが)ひとしきり自分が体験している自然に驚異とともに思考をめぐらせるが、コーラスでは我に返る(所有格の一人称、myがだしぬけに登場する)。「思考の流れをさえぎり/経度と緯度の線が/定義して、研ぎ澄ます/わたしの高度を」。なんだか松江泰治の航空写真を思い起こしたり、あるいはその後の歌詞が示唆する墜落事故から、ロバート・スミッソンの仕事を連想したりもする。
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