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月: 2022年6月

山形-山口日記(6/7 東京トランジット編 pt.2)

深夜、喉がからからになって目覚める。飲み物と、せっかくなので明日の朝食を探しにコンビニへ向かう。が、コンビニが閉まっている! オフィス街のコンビニは閉まりがち。おれは学んだ。ちょっと歩いたらミニストップがあったので、飲み物とパンとアイス買って宿に戻る。チョコミントのアイスって場合によってはなんか変な風味が出る(妙な香ばしさというか)よな。

リヒター展。まあ「見ておきたい」程度のモチベーションで、「実際みたらまあまあだったわ」みたいなことになるだろうなって思ったんだけど、割と真剣に観てしまった。2時間がっつりかけて、しつこく見ていた。アブストラクトペインティングはなんだかんだ面白い。最初の5枚で40分くらいかけちゃった気がする。

ゲルハルト・リヒター展 (exhibit.jp)

なんも知らんなりに、リヒターがやりたいことというのを延々考えながら見ていると、やはり「イメージ」(と和製英語で言うのがいいもんなのかわからないが)の提示なんだろうなという気がする。写真を絵画に。あるいは絵画を写真に。そうしたメディウムの変換を通じてもなお維持される、物理的な支持体に依存しない質。写真のドキュメンタリー性(インデックス性?)や、絵画のマチエールがそれぞれのジャンルにおいて担保する真正性に対する拒絶。みたいな。そうして抽出された「イメージ」は、たとえば「○○のイメージ」という指示作用から切り離された、ただそこに存在する不気味ななにものかでしかなくなる。徹底的に非人間的なリヒターの自然観はそのまま「イメージ」の世界にも適用される。風景画や静物画の重要性というのは多分そのあたりにあるんだろうなと思う(その意味で、不法占拠された住居を描いた作品の不気味さをタイトルのマジックのように説明するキャプションはちょっとずれていて、そもそも世界は言葉の助けがなければ不気味であり、「イメージ」もまた不気味な世界のひとつである、ということなんじゃなかろか)。

そうした「イメージ」のモデルがガラスであり、あるいはグレーペインティングであり、あるいはカラーチャートなのだろう。それ自体はなにも指示しない空虚として、あるいは中立的で特定の色調を欠いた無としての、「イメージ」。とはいえ、入ってすぐのガラスのインスタレーション?はあまりにも図式的というか、コンセプトを提示しましたみたいに見えてしまうのだが……。

メディウムなりジャンルの固有性、あるいは外部からもたらされるテクストが「イメージ」が「○○のイメージ」たりうることを保証してしまうことに対して、リヒターは深く抵抗しているように思える。《ビルケナウ》の展示が、もととなった写真、連作4枚、連作の写真複製、そしてグレーのミラーで構成されていたことは、「○○のイメージ」の装いをはぎとって「イメージ」へ還元するために必要だったのだろうと思う。単に「○○のイメージ」を覆い隠して不可視にすることだけでは、表象への批判たりえない。単に絵の具で覆い隠せば、それは絵画の文脈のなかでなんらかの正統性が保証されてしまいかねないからだ。不気味な空虚としての「イメージ」へたどり着くには、メディウムのあいだを変換してゆかなければならない。

その意味でオイルオンフォトはやっぱりおもしろい。多くのオイルオンフォトが日付をタイトルに付してそのドキュメンタリー性(いや、あれって撮影の日付ではないのか? まあいいか)やスナップショットの親密さを示唆しながらも、油彩と写真が接触してコンフリクトを起こすことで、「イメージ」が発生する。みたいな? みたいな。

みたいなことを延々考えながら見てたら、2時間経ってたとゆうことでした。コレクション展も一応見た。

パレスサイドビルのカレー屋で昼食を食べたあと、そのまま神保町へ向かう。三浦さんとひさしぶりに会った。いやほんと、2年ぶりとかじゃないか? 下手したらもっとか。何度かZoomで話したり電話したり、TALK LIKE BEATSに出てもらったりとかあったけども。YCAMの石若さんと松丸さんの公演がよかった話をする。

少し遅れて、木下さんとhonninmanがやってくる。昨晩連絡があり、東京来てるならご飯でも、みたいな話になっていたのであった。せっかくだし三浦さんと一緒に会ったらおもしろいのでは? と思って呼んだのだ。4人でいろいろ話した。久しぶりに人とこうやって話したからとても楽しかった。考えてみると、木下さんだけじゃなくてhonninmanも会って話すの初めてで、「うわぁ、リアルhonninmanだ!」となった。いや、ライブは見たことあるんだけど。神保町の喫茶店をハシゴしていろいろとお話。いきなりこんながっつりしたこと話すんだ、みたいな話題も多くて、ひきずられて自分もいろいろ話した気がする。

屈指の神回ことTALK LIKE BEATS木下百花さん回(あと中編・後編もあります)。

三浦さんは諸事情で途中で帰られたのだけれど、そのあともしばらく3人で話して、最終的には「柴田聡子はマジですごい」ということで落ち着いた。また会いましょう、と誓って解散。

神保町から東京駅まではタクシー。思ったよりちょっとかかったけど問題なし。山形までの新幹線のなか、グロッキーになってしまって、意識が何度か飛んだ。母親が駅まで迎えにきてくれたのだが、「飛行機で福岡まで行って、そこから山口に行くのもアリ」と言われ、ああ、最初から相談しておけば……と思った。まぁ、東京に寄りたかったというのも本音なので、難しいところではあった。

文字通り長い旅だった。往復15時間も新幹線乗ってたよ。はぁ……。

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山形-山口日記(6/4-6 YCAM編)

6/4

朝6時ごろ起きてうすらぼんやりしつつ準備。8時半の新幹線で東京から新山口まで向かう。なんと4時間半! 遠すぎる。遠すぎるが行くしかない。新幹線の車内では、予習として石若さんや松丸さんの参加作やリーダー作を聴いていく。

新山口からYCAMまでは電車とバスを乗り継ぐ。ワンマン列車がオレンジ色のレトロなやつでかっこいい。地元のワンマン列車はもっと味気ない。山口駅からJRバスでYCAMへ。プレス向けの楽屋に通してもらい、先に着いてらしたライターさんと軽く挨拶。大学院のときにお世話になった先輩と同僚だったということで、なんか知っててもらったようだった……ありがたい。

その後、YCAMの渡邉さんにひととおり施設を案内してもらった後、いったん宿泊先のホテルにチェックイン。危うく眠ってしまいそうになるが、思いの外時間はない。あらためてYCAMへ向かう。

ホワイエで開場を待っていると、細田成嗣さんと遭遇。アイラー本(↓リンク)で声をかけてもらってDOMMUNEでトークもしたのだが、直接お会いするのはこれが初めて。初めて!? ちょっとびっくりしたが、たしかに会った記憶はない……。近況報告や今回の公演についてちょいちょい話す。

AA 五十年後のアルバート・アイラー(アフィリンク注意)

公演自体の感想はまた別途記事になるのでここでは書かないが、初回でかなり実験的な試みということもあって、なにが起こっているかを把握するのがまず大変だった。とはいえ石若さんのパフォーマンスも、「エージェント」たちの演奏もおもしろかった。アフタートークも丁寧に今回の試みをときほぐしていた。

その後、渡邉さんらと晩ごはんを食べ、やや遅くに宿に戻る。そのまま寝ればいいものを、なかなか眠れず、変な時間まで起きることに……。

6/5

山口滞在2日目。この日はお昼の公演だったので、時間までホテルでゆっくりしていた。といっても、もっぱら予習である。配られていたハンドアウトを読んで、きのう公演中とったメモを読む。お昼すぎ、YCAMに向かう。

2日目の公演から松丸さんが参加。ざっくり書くと、2日目は結構マジックが起こっていた(初日もだけどね!)。奇跡みたいなことがあるんだな……と息を呑む。

公演後、細田さんも結構評価が高かった様子だった。「即興」としての評価は自分はおいておくが(経験値がなさすぎるので)、しかしこれほど実験的な試みがうまくショーとしてスリルのある展開を見せたというのは、やはりおどろくべきことだ。

時間もわりとあったのでいろいろまわろうかと思ったのだが、大雨で出歩くにも出歩けず、宿に戻ってそのまま。すこし仕事をしたり、やはり予習をしたり。翌日はさらに取材。なのでその準備。

ふと思い立って、7日の東京でひさしぶりに□□□の三浦さんに会おうかなと連絡してみる。午後にお茶することに。

6/6

ホテルをチェックアウトしてから取材まで時間があいてしまうので、YCAMで作業させてもらいつつ待機する。Notionでつくった資料を、PDFでエクスポートして、iPad AirのGoodNotesに読み込む。するとApple Pencilで書き込みもできる。最近なかなか使いどころが難しかったiPadの活用方法が見えてきた。

午後から取材。どうなるものかと思ったものの、無事聞きたい話は聞けた……と思う。インタビューだったのだが、インタビュー自体を記事にするわけではないので、どっちかというとヒアリングみたいな感じだろうか。終了即、新山口駅へ。時間の見込みが甘かったのもあって結構ぎりぎり。ホームまでダッシュ! した。ここからまた4時間半、新幹線に揺られる。

東京につくとまあまあの雨。バスで宿に向かう。ゲルハルト・リヒター展を朝イチで見るために竹橋駅の周辺に宿をとっている。ナインアワーズ。オフィス街の夜ってマジで静か。晩飯をコンビニで買って食べる。ぐったりしながらカプセルに入って、寝落ちしてしまう。

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山形-山口日記(6/3 東京トランジット編)

いろいろあってYCAMこと山口情報芸術センターで開催される石若駿「Echoes of unknown egos」をみにいくことになった。しかし山形から山口までがあまりにも遠い! いろいろ検討してみたけどもうよくわからなくなり、時間はかかるが堅実な新幹線での移動となった。

そいで、この日朝8時の新幹線で東京へ向かう。美術館をまわるつもりでお昼にはつく行程にしていたのだが、みたい展示が微妙になく、結局アーティゾン美術館だけになった。

ジャム・セッション 石橋財団コレクション×柴崎敏雄×鈴木理策 写真と絵画ーセザンヌより | アーティゾン美術館 (artizon.museum)

アーティゾン美術館では柴田敏雄と鈴木理策の二人展(さらに、ふたりがセレクトした絵画や彫刻作品も展示される)がやっていて、かなり対照的なふたりの作品を比較しながら見てけっこう楽しんだ。風景を平面に還元したうえで、平面上の分割(線、テクスチャの差異、要素の粗密……等々)によって(いわゆるフェノメナルな)空間をつくりだす柴田と、写真の機構的・光学的特性を活かして空間や時間を描き出す鈴木。どちらも「モダン」といいうる作風だが、前者が近代絵画の問題系を引き継いでいる意味でのモダンさ、後者はむしろ写真の媒体固有性への問いを常にふくませているという意味でのモダンさ、みたいな感じだなあと思った。

それは写真の画面のなかでどのような造形的な操作が行われているかにやはり如実にあらわれているし、モチーフの選び方もそうだと思う。たとえば水を扱うときに柴田はその運動を消し去る(露光時間を長くしてぼかしてしまうとか、あるいは運動の痕跡を造形に還元してしまう)ところがあるが、鈴木は波の扱いに特徴的なように、その運動をうまく写真のレイヤー構造(前景、中景、後景)と重ね合わせる。もちろんモネの睡蓮を参照した作品では水面が不動ではあるのだが、それは問題となっているのが「水」ではなく「水面」であることを考えれば、まあわかりやすい(その限りであれはハーフミラーをつかったミラーポートレイトと並べて見れる)。海において波は奥行きの運動を連想させる(浜辺から撮る限りにおいて)。それが写真に封じ込められる、その媒体に固有な空間性のアナロジーになっている。ような気がする。

雪舟の作品をはさんでふたりの作品が展示される最後のパートは、プリントのくろぐろとしたニュアンスを強調する柴田と、印画紙の白さへとぎりぎりまで接近してゆく鈴木の対比がはっきりでていて、おもしろいがそこまでバイナリでよいのだろうかという気にもなった。

Transformationとかも見ましたが……クレーかっけ~とかそういう感じで見てしまった。寝不足だったのと、柴田+鈴木で頭つかいすぎたのもあり……。

じゃっかんぐったりしつつ、アーティゾン美術館めのまえのすき家で昼飯を食べ、適当に時間を潰しながら新橋の宿に向かう。入り口の階段も寝床までの通路もめちゃ狭いドミトリーだったが一泊するだけなら居心地はよかった。晩ごはんを食べにふらっと駅前まで出たほかは、寝床でつぶれていた。

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