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月: 2021年11月

健康と能率(16)

WordPressがChromeからうまくいじれないという現象が発生し、拡張機能を切ったりなんだり試したのだがどうもうまくいかない。シークレットモードやゲストモードを試すと一応動くのでなにかが悪さをしている。ちなみに、Edgeだとなんの問題もない。なんじゃらほい、なんじゃらほい……とやっていたら、クッキーが悪さをしていたようだった。クッキーの削除したら平気になった。灯台下暗し。

「筆者」という(疑似)一人称をめぐる問題。別に問題ではないのだが。そんなもん勝手に使ったらええやんと思う。ただ、この由来を考えると、一人称の「私」を使えない、使うべきではない場所や書き方のなかで、便宜的に三人称としての「筆者」を一人称の代用とする慣習、というのが説明になるんだろう。この理解が正しいなら、〈「筆者」が頻繁に出てくる=一人称を使うべきではない場所や書き方で一人称を使っている〉ことになるから、どこかに歪みが生じているのではなかろうかと思う。一人称を使う書き方を通してもらうか、一人称を出さないか、どちらかに整えたほうがいいような。ささいなことだけど。

「サンプルパック」が生み出すクリエイティブとは?【サンプルパックとヒップホップ 第1回】 | Soundmain Blog

サンプルパックの話、連載ということで今後にも期待。読んでいて思ったが、Ultimate Breaks & Beatsのような定番ネタのコンパイル&リイシューであったり、ロイヤリティフリーのサンプリングCDやそれに類するライブラリ、あるいはちょっと変わったところではターンテーブリスト用のバトルブレイクスといったものも、サンプルパック前史として考えられそうだな、と思った。あるいは放送・ステージ向けの音効ライブラリも。ざっくりわければ「DJやビートメーカーのあいだで共有されてきた知識をより開かれたものにする(=作り手コミュニティからの目線)」「煩雑であったり高コストであったりする権利処理を避ける(=経済的な目線)」の両側面がサンプルパックにはあって、Ultimate~とかああいうコンピは完全に前者オンリー、サンプリングCDは前者の要素がやや薄くて後者に寄っている、みたいに言えそう。そうすると、上の記事で問題とされているサンプルパックはこうしたふたつの観点が入り混じっている(読むとわかるが)。GarageBandに実用性が高いループが入っているのは楽曲制作に必要な知識やスキルの障壁を下げるためだ。アーティストが自らの名前を関してサンプルパックを制作するのは自分の「音」を他人も気軽に利用できる共有物としてひらくことでもある。サンプルパックをリリースするプラットフォームはいわずもがな。サンプルパックは「使い勝手がいい」とか「サンプリングという手法を低コスト・リスクで実践できる」というだけではなくて、そのサウンドひとつひとつにもさまざまな知識やスキルが埋め込まれているものだ、と考えるとおもしろいように思う。

フリーのVUメーターソフトを導入して、各プラットフォームやプレイヤー間のレベル調整をちゃんとやることにした。

なんとなくTennysonのちょっと前のEP聴き返して、マジですばらしい。「You」の5連使いすごいよね。

「議論」や「対話」は過大評価されている。「内省」や「反省」もそうかもしれない。それ以前のルールや場のつくり方がないがしろにされている。

Everyone Is a Genius: Apple Will Offer Parts and Tools for DIY Repairs | iFixit News

AppleがDIY修理のためのパーツや器具、マニュアルの提供をはじめるとのこと。Appleがそこにのりだすのはいいしらせだ。一番そういうの嫌がる印象だったし。ただし、公式にパーツの供給をすることの問題も指摘されていて(任意のパーツの販売をあっさり終了して買い替えを促したり、みたいなこともできてしまう)、「修理する権利」をめぐるいち企業の方針をこえた働きかけって必要なんだなと。日本ではあんまり意識されている印象はないけれども。

特定の企業にかぎった話ではないと思うのだけれども、完結したプロダクトとして洗練させようとすると、ユーザーが手をいれられる領域ってどんどん減っていく(拡張性やメンテの利便性が削られていく)。しかし、そうした方向性の洗練は今後見直されて、メンテナンスの容易さや拡張性といった要素が改めて「良いプロダクトデザイン」の条件になっていくんだろうなと思う。”[W]e’re thrilled to see Apple admit what we’ve always known: Everyone’s enough of a genius to fix an iPhone.”という記事の締めくくりが素晴らしい。

New York Bill Seeks to Prohibit Rap Lyrics as Criminal Evidence (consequence.net)

ニューヨーク州でラップの歌詞を捜査過程で証拠に用いることを制限する法案が提出されているそうで、つまりラップのなかでああしたこうしたというのは表現であって証言ではない、ということだそう。「そんなことあるの?」って思われるかもしれないが、白人男性アーティストが曲のなかで殺人の描写をしたところで「それはあくまで表現でしょ」と受け止められる一方で、ラッパーはしばしばそのリリックの内容が裁判において不利な証拠として使われてしまう例が紹介されている(最近やとテカシとか)。という話からわかるように、これは表現の自由をめぐる問題であるのと同様に、レイシズムの問題でもある(”The use of rap and hip-hop lyrics in particular is emblematic of the systemic racism that permeates our criminal justice system.”と法律の制定に動く議員は語っている)。

2021年に再考する「R&Bの死」|ひらかわ|note

むちゃくちゃ長くて濃い記事で、本筋といえる流れの記述と同じくらいちらと挟まれる余談や見解も面白い。ジャンルというのはときに音楽的特徴の束(様式)として、ときにコミュニティにおける共通言語(あるいは歴史・系譜として受け継がれるもの、とも言える)として、あるいは商業的な要請によってはりつけられるラベルとして機能するものだけれども、そのせめぎあいが凝縮されている感もある。

「エモい」みたいな言葉を使うと、思考停止だ、もっときちんと言語化しろ、みたいな圧をおぼえるときがあるのだけれど、むしろ「エモい」で留める術をきちんと持っておくことのほうが大事なのではないか? もっと細かく言語化しよう、と思った結果、単にレトリックを弄んでいるだけになってるだけじゃないか、みたいなこともあるし、そもそも言語化というのは罠のようなもので、そう言ってしまえば自分がそもそもそのように考えていたかのように錯覚してしまう自縄自縛の装置であって、その装置をうまく使うことができれば「私」に対しても「他」に対しても重要な効果を生むことができる一方で、単に自己欺瞞を塗り重ねるだけに陥ってしまうこともある。

萌え絵がどうこう言われたときに「葛飾北斎が~」みたいなこと言うの安直な議論のすり替えと権威主義の発露という感じであまりのダサさにげんなりする(なにかみてしまった)。

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健康と能率(15)

自分のポッドキャストをやってみようかなと思って、ためしに録音してみる。が、自由に喋ろうとなると難しい。ジャッジもできないし。いくらでもとりなおしできるのもよろしくない。こんなにカットしてパンチインするのはありなのか? というか労力がかかりすぎでは? などと思って保留に。思いつきでパッと録ってアップするくらいのスピード感がないと泥沼だ。そもそもMusic + TalkをつかってSpotify専用にするか、それとも音楽はあえてかけずにYouTubeなんかにあげてしまうか……(atatakaiyuメソッドのパワポvlogで……)とか考えてたけど答えはでんね。

マイクが欲しい。つっても数万円~数十万円みたいなことではなくて、いまつかってるのが、もう12年くらい前に買った1000円くらいのマイクなの。だから5000円とか、そのくらいの価格帯のでいいんだ。じゃあ買ってしまえばいいのだけれども……。レビューみてるとSHURE SM48が手頃感あってよさそう。ちょっと欲出してコンデンサーマイクも気になるけど、おれの部屋は外からのノイズが多い(トラックとかばんばん走る国道沿いの家で、割と音が入ってくる)んであんまり音ひろいすぎても微妙かなーとか思ったりしている。

年末でリリースが重なるからか、取材の案件がいくつかたてこんで、ありがたいし、なにより作品が素晴らしいのでこちらのテンションも上がる。しかしリモートでのインタビューというのはなんだかんだ難しい。いや、そもそもインタビュー自体そこまで数多くないから、実は対面でやったインタビューってマジで2,3しかないか。おれはインタビューが上達していない可能性がある。TALK LIKE BEATSはあくまでトーク番組であってインタビューではないので……。

TLBはいまパソコン音楽クラブゲスト回が配信中。あんまりこういうこと言わないけど、めちゃくちゃいいよ。中編・後編とさらによくなっていくから覚悟しておいてほしい。ちなみにその次のゲストもいい。収録済です。

Inside Tokyo’s Genreless Rave Underground | Bandcamp Daily

Bandcamp Dailyに東京のアンダーグラウンドシーンについて記事がでてるんだけど、カトーマサカーとSPEEDが象徴的にとりあげられていた(seaketaさんも出てくるぞ)。カトーマサカーってまだ行ったことないんだけど配信みたり、あとZINEの手伝いをしたことはある。行ってみたいと思いつつ、東京に行くことすらままならず、ため息だな。イイ記事、こういうプロップスがやっぱりあるんだ、っていうのを、遠くから改めて確認できた感じが。PURE2000についてはMISTRUSTというZINEに空気感がめっちゃつめこまれた写真やレポが載っててすごいよかったんだけど、冊子版もPDF版ももうソールドアウトなんだね。

MISTRUST 20-21 | mistrustzine (base.shop)

Silk Sonicのアルバム、めちゃくちゃいい。30分強、とコンパクトだけど、ランニングタイムのコンパクトさ以上にすげぇさらっと終わる印象。クロージングトラックのBlast Offはきらびやかなバラードで締めに相応しいのだが、ふわ~っと高揚させたあとにぬっとBootsy Collinsが出てきてしゅんっ……って、「なんだこれ、夢だったのか?」みたいな終わり方するの。あと、柳楽さんがツイートしていたけど、サウンドがめちゃ独特で、粒のたった端正な音で、演奏もダイナミックだけど抑制がきいていて、エレガンスのきわみみたい。たぶんサブベースくらいの帯域がはっきり出てくるのは「Fly As Me」くらいで、しかもそれも一瞬「ぶーん……」って生々しいのが鳴る、みたいな出てきかたなんだよね。アナログにしたらそこだけ針が飛ぶのかもしれない(おおげさ)。踊れるんだけど音のレンジが狭くて演奏も抑制が効いて……というとKhruangbinもある意味そうで、ただあっちはややローファイでサイケな(オブスキュアな、ガレージっぽい)手触りなのだが、Silk Sonicはまさに名前のとおりシルクのようにスムースで、冗談のようにゴージャス、まるで方向性は違うんだよな。

そういや、卵白って冷凍できるらしいっすね。製菓系のチャンネル見てて知ったけど。卵黄だけ使うことってまあまああるじゃないですか(カルボナーラつくるとかそういう)。そこで卵白どうしたらいいんだって思ってたけど、冷凍しておいて溜まったらメレンゲとかにしてスイーツにしてしまえばいい。最高かよ。

有隣堂しか知らない世界、気づいたら登録者数10万人超えている! 昨年末の「コンテンツ地獄」で紹介したときは数千人とかだったんだよ。もう2021年の覇権コンテンツでしょ。そういやいま覇権とか言ってる奴いないよね。いるんかな。ブッコロ―ぬいぐるみ欲しい~!!!!

マイク買っちゃったよ。もうすぐ届く。

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健康と能率(14)

【解決】 Googleスプレッドシートで「サーバー エラーが発生しました。ブラウザの 再読み込み を押してください」 | MEMO-LOG (9999ch.com)

備忘録。なんか最近Google Spreadsheetの調子が悪いなと思っていたら拡張機能のせいだったらしい。AdBlock、なんだかんだで表示が狂ったりサイトが用意する機能が使えなかったり、あるいはAdBlockの解除をサイトから求められたりして気づけばホワイトリストが膨大な量になっており、もうこれ意味あんのかな? みたいになっている。

「クセがスゴいネタ」でよくやってたあべこうじの漫談をすげぇウケながら聞く高橋愛、日に日に染みてくる。

日記しばらく書いてなかったのなんでかというとWordpressの調子がなんか妙だったからなのだが、けっこうな量書いてた下書きが消えてしまったのでいっそうげんなりしてしまった。

NiziUの新曲、TikTokでバズる大ネタリミックス音源みたいなノリなのだが、そこで色気を出さずにマジでそのノリで突き抜ける潔さに感心する。実際には引用するフレーズの崩し方や変奏の仕方、音色の抜き差しなどでおおげさな展開をつくりすぎなくても飽きさず聴かせる工夫がたくさんある(展開のタイトさはあるときのTWICEとも通じるかも、それがJYPということなのかもしれんが)んだけれども、印象としては大ネタモノの軽さをまったく失っていないのがいいと思う。結果として、すげぇチャラくて軽いのになんかスケールがデカい、という一曲に。

なにわ男子のデビュー曲。甘い声や流れるメロディといったきらきらした王子様みたいな要素と、そんな流れのなか細かいところでちゃんと現代的なリズムの処理を聴かせる楽曲&パフォーマンスのバランスが良い。Cメロ(Dメロかもしれない)のダンサブルなサウンドを全体的にフィーチャーしてもよかったんではと思うけれども、この楽曲の表情のかわりかたもまたよい……。

ポリコレでもコンプラでもいいが、そうした呼称でくくられる諸問題というのは、ひとつの立場から導き出される明晰な基準ですぱすぱ切り取れるものではなくて、ケースごとに属している問題の体系もそれに対してとるべき態度のありかも違う。なのに、「きれい/汚い」「明確/あいまい」「良い/悪い」といったよくわからない二分法を持ち出して、「汚いものも大事なのにきれいなものばかりにされていく」「このままではあいまいなことが許容されなくなってしまう」「悪いことを覆い隠すのは欺瞞」みたいなつかみどころない、しかしそれっぽく響く問題提起をする人が少なくないように思う。もちろんまさしくそのような批判が必要な局面も多々あるのだが、「AはいいのにBはだめ」といった基準の恣意性が問題になっているときに、恣意性のほうにではなく、それっぽいだけで大した意味のない、しばしば単に反動的でしかない問いをたてだすのは、無意味というか、有害なのではないか? と思う。そうした素朴さは、恣意性の根源にある権力の問題を看過してしまうことで、むしろ権力に対して無防備に、あるいは迎合的になってしまいうる。

キャンセルカルチャーという言葉の問題は、それが「あるひとつの固有な現象」を扱っているかのような気分にさせてしまうことだと思う。「キャンセルカルチャー」という語は実際にはレイヤーも領域も違う問題をときほぐす努力を放棄させ、なにかを語っているかのような錯覚だけを残す。こういう語彙を適当に使う奴が「自分は思慮深く、SNSに流されない、自分の頭で考える人間だ」とでも思ってそうなことに、うんざりする。

↑正直うまく言えている気がしないが、書いとかないと気がすまない、というような感じであった。わけわかんねえよ、とかそれは違うよ、みたいなこと言ってくる奴がいても、なにを言うつもりもない。

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健康と能率(13)

命が大事なのは感情に訴えかけて伝えることじゃなくて、むしろ真顔で言わなきゃいけない。音楽でうやむやにせず、言うべきことはあるというか……音楽の出番はもっと他にあるという感じがする。

命の大事さは音楽で訴えることじゃない。いま折坂悠太が歌うこと | CINRA

1年半くらいかけて使っていた(たぶん)バルサミコ酢がそろそろなくなる。バルサミコならではのフレイバーとかはよくわからなくてむしろお酢の「お酢です!」という感じなくだばだば使えるのがいいみたいな感じでちまちま使っていた。いろんなお酢をきちんと試したい気持ちもあるが、正直お酢ってそんなに出番が多いわけじゃないからむずかしい。

鶏もも肉を皮目から重しをのせて両面焼き、焼き上がったらアルミホイルにつつんで余熱も利用し火を通す。皮から出た油に足りなさそうならバターなどを足してバルサミコ酢とはちみつ(などの甘味料)を加えてやや煮詰めソースにする。とてもおいしい。重しには鍋とかがあるとよい。

三日前、牛乳をゼライスで固めたら牛乳プリンじゃない? とおもって作ったらゼライスの量が多すぎてもちもちの牛乳ができあがってしまった。それがまずいわけじゃないのだがもとめてるものじゃなかったので、いっかい固めた牛乳をまた火にかけて溶かし、牛乳と砂糖を足し、だいたい倍量にして固めなおした。するとふるふるの牛乳プリンができてわたしは満足ですぞよ。あんな量でもいいんだな……。たぶん500mlで一袋くらいに相当すると思う。しかし都合5日間くらい冷蔵庫においといてることになるのだが大丈夫だろうか。おれの胃が。

そういえば以前、ひとから大前粟生『おもろい以外いらんねん』(河出書房新社、2021年。アフィリンク注意)をプレゼントしてもらって読んだのだが、面白かった。お笑いを題材にした青春小説であり、新型コロナ禍の記憶を刻み込んだ記録でもあり、大声をだして傑作だとひとにすすめる感じではないけど、これを読みたかったと思う人は少なくなさそうだ、という、絶妙な作品だった。一番おもしろいのは漫才の場面で、ネタがおもしろいとかじゃなくて、小説にでてくる言葉は果たして誰の言葉か――登場人物の語りなのか、神の視点なのか、それとも神に擬した作者の視点なのか――が融解するポイントとしてネタというのが機能しているように思えた。地の文と会話文、みたいな文の役割分担が小説をつくっているとすると(つまり戯曲のようにト書きがない)、ネタがどのような位置におかれているかに独特なところがあるというか。そもそもこの小説は語り手(主な視点)が何度か変わる。微妙な文彩の使い分けでその変化があらわされる。その微妙さがネタのグルーヴ感によって融解してひとつの勢いが生まれる。ときに加害的で自己破壊的でもある「おもろい」をめぐる葛藤や反省に対して、もっとも雄弁に「おもろい」の感覚をにじませているのは言葉が登場人物を離れてグルーヴしていくところであるのはなにか興味深い。知らんけど(読んだのがまあまあ前なので。半年くらい前?)。

こういう動画はなんとなく見ると楽しい。説明が明快な一方で変にがちゃがちゃしてないのもいい。

いいよねー。Jacob Collierはやっぱヤバいみたいな感想になってしまうが。

何者なんだかあんまりよくわかっていなかったHASAMI Groupにはまりそうになっている。

年末。確定申告の足音が聴こえてきます。まだぜんぜん早いだろって? おれの無能さを甘く見ないでほしい。といって別になにかやるわけじゃない。ただ戦々恐々とするだけなんだ。

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健康と能率(12)

頭痛でまた昼間寝潰す。起きてられる限界を越えていた。あきらかに肩と首の凝りからくる緊張性頭痛で、ちかくの温泉にでも行ったほうがよいかと思ったのだが、あいにく休館日だった。明日いくかもしれない。

近いうちに上京したいのでお金をセーブしていて本とかも買うタイミングを見計らっている。でもこないだ出た岡崎乾二郎『感覚のエデン』(アフィリンク注意)やもうすぐ出る栗原 裕一郎&大谷能生『ニッポンの音楽批評150年100冊』(アフィリンク注意)は買わんとならんやろなあとなっている。わいに買ってくれてもええんやで(ウィッシュリスト)。

Nami Satoさんのツイートで知ったのだが、山形で活動されているSSWのふきさん、サンクラのアカウントがあるようだ。RAF-RECで何度かライブを見たことがあって、そのときはピアノ弾き語りだったのだけれど、サンクラの音源はサウンドにすこし遊びがあったりしてまたすごく良い。

第5回 Kインディーから繋がる「世界」 | かみのたね (kaminotane.com)

書きました。Rate Your Musicというコミュニティにおける評価がある作品を「世界」に広めていく様子をざっくりまとめました。RYMは言っちゃえばたんなるレビューサイトではあるのだけれど、ある種の音楽好きには影響力があり、それは必ずしもこのサービスが本拠地としている北米にとどまるわけではなくて、このコミュニティ独自の「世界」みたいなもんがあるし、そこから開けるキャリアだってある。言いたいことはいかにRYMが自己完結したコミュニティか(外部からのバズに影響をうけた様子がないので)ということと、その一方で、本文中でも書いたけれど、RYMでの高評価を「世界で人気」と言っちゃうのも「一部の音楽好きにウケてるだけ」で済ますのも不誠実だよね、ということでした。

浅田彰がRADIO SAKAMOTOでBTSについて語っていたのを聴く。おもしろいのだけれど、怒りを打ち出すヒップホップ路線とポップなアイドル路線の止揚としてのOn、というのは魅力的でまっとうな語り方と思う一方で、単に「初期の精神も忘れてないぞ」みたいなアピールじゃなくて、その葛藤のプロセスを描き出したこと自体がある種の強さを持ってたんだよな、とか思ったりした(言ってみれば毎シーズン、ビルドゥングスロマンをやってるみたいなところもあり……)。

アニメとか漫画とか、ドラマでもそうかもしれないけれども、身も蓋もなくフェティシズムや欲望をさらけだしているようでいて、実際にはその欲望の力を抑圧しているだけなのではないか、と思うことがよくある。貨幣のように流通可能な「あるある」に還元され、特定のクラスター内でのコミュニケーションを円滑にする道具に貶められた欲望が、一方では無害で都合よく無視できるものとしておざなりにされ、もう一方では自由のアレゴリーであるかのように称揚されているような。

ここしばらく昔つくった曲(うたもの)を再録したいと考えているんだけど、プロジェクトファイルが紛失しているため、耳コピしないといけない。でもコードとかわからんまま打ち込んでいるから復元するのが難しい。めんどくさくて後回しにしていたのをえいやっと起こし始めた。かたちにできるだろうか。

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健康と能率(11)

また朝から頭痛。くたびれきっているが昼寝するタイミングもなく、前つくった曲のプロジェクトファイルをいじる。なんとか納得できるものにできたのでこれはよかった。なんかまあいい感じのタイミングでお知らせできると思います。

なんで昼寝のタイミングを失ったかというと使っていたヘッドフォンが壊れてしまったのだった。使いたいまさにそのときに。壊れた、といっても音が鳴るところではなくて筐体のほうで、安価で音はまあまあいいものの脆いと評判のモデルを使っていたこともあり、むしろよく保ったというべきかもしれない。プラの構造が割れてしまったので、断面を瞬間接着剤でくっつけて、ねんのため上塗りして補強。もっと頑丈に補強したほうがいいのか、っていうかもっとちゃんとしたモニターヘッドフォンが欲しいのだが……。

有志が企画する「長谷川白紙の歌詞を読む会」に出る。といっても4人あつまってSkype会議をしただけ。曲を聴いて、歌詞を眺め、読み、ここが面白い、ここがわからないみたいなことを、2時間以上みっちり話す。とりあげたのは「o(__*)」と「わたしをみて」と「ユニ」で、どの曲をとりあげても面白かった。しかし「ユニ」は改めて歌詞と向き合いながら、あるいは話しながら聴き、反芻したら、泣けてきてしまった。ビデオ会議中に音楽の話をしながら泣かれても困るだろうな、と思って耐えた。「見えるだろ 誤魔化すなよ」というフレーズの重みに押しつぶされそうな気もした。

【インタビュー】大沢伸一|MONDO GROSSOは誰のものでもなく存在している – FNMNL (フェノメナル)

この大沢伸一インタビューすごくよくて、大沢伸一のキャリアの微妙なつかみどころのなさ――MONDO GROSSOの音楽性の変遷を考えるだけでも謎っちゃ謎である――を解き明かすというわけではないのだが、しかしそのつかみどころのなさの一端をつかむヒントはいっぱいあるなーと思う。「音楽をつくらない人の音楽観がおもしろい」みたいなことの重要さってもしかしたら昨今忘れられかけているかもしれない。

最近レンチンでプリンをつくるのにハマっており、なにしろ安い。しかし本当ならレンジじゃなくて蒸し器かオーブンでつくったほうが絶対いい(容器やレンジの相性もあるのだろうが、いい感じの食感にしあげるのがむずい)。なので今度は蒸そうと思う。あとバニラエッセンスが欲しい。

お金になるわけではないがすげぇピンポイントに嬉しい案件というのがしばしばあり、そういうのがたてつづいた。うれしいなぁ。

たまに発作的に「マジでロックにはうんざりだ……」と思うときがある。ロック、好きですけどね。よく聴くし。

稲葉浩志が「山下達郎になりたい」と思った楽曲|日刊サイゾー (cyzo.com)

サイゾーのウェブでTOMCさんが連載を開始、B’zの音楽性を掘り下げる内容。分量はコンパクトなんだけどこれひとつ読むだけでB’zの聴き方が具体的に変わるような文章だと思う。プレイリスト(コンピレーション、DJミックスも含む)はしばしばそれだけで「聴き方」をがらっと変えてしまう力を持つけれども、そうしたプレイリスト巧者であるTOMCさんがさらに言葉によって「聴き方」にさらに深く介入しているのがすばらしいと思う。評価のエアポケットになっている領域を言語化するだけじゃなく、その言葉がいろんな領域をつなぐものになっている。

仙台在住のサウンドアーティスト Nami Satoが地元・荒浜のスケートパークでの配信に込めた思い | Qetic

仙台市荒浜のスケートパークCDP、10年目の先へ (timeout.jp)

Nami Satoさんの配信ライブはサウンドもロケーションもすべて素晴らしくて、日が暮れていくにつれてかわっていく空気の色にみとれた。荒浜のスケートパークに行ってみたい、というか夏祭りに行ってみたい。3.11の震災というのは当時京都にいた自分にとってなんだか微妙に遠くよそよそしい話で、地元にあまり大きな被害の痕跡もないから、東北出身でいま山形住んでいますといってもなにかつながりがないように思ってしまう。そのつながりのなさに居心地の悪さを覚えるのだが、それを徐々に咀嚼していくことができないかと思う。だからせんだいメディアテークの「ナラティブの修復」は見に行きたいのだ。

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健康と能率(10)

原稿仕上げないとと思ってこんつめたら日課のステッパーや体重計測がおろそかになってしまいよくない。日常のペースをもっとちゃんとつくらないと。仕事の資料読みもゾーン入ったときにまとめるんじゃなくてコンスタントに積み重ねたい。でもそれには体調がむらなく元気な必要もあり…… とか考えてたら泥沼だ。とりあえず食生活からなんとかしよう。米化オートミールをよく食べています。

愚かさをめぐる話。ある能力が低いという意味で誰かを「愚か」であるということは多くの場合不適切だが、「人間の判断力は時と場合によって大きなむらがあり、いくらでも愚かな行為をしうる」という意味で、自分をふくめてたいていの人は愚かだ、ということはおよそ間違いない、と思う。常に愚かである人はさほどいない。同じように、常に聡明である人なんてそうそういない。ある判断や行為の愚かさを属人的な能力と簡単に短絡してはいけない。それはたとえば「知性」というような言葉を使うときにも同じで、それが能力として語られる限りでしばしば差別的なニュアンスを帯びるが、もし「知性」がある制度によって保障されるもの、あるいはある技術によって身につけられるもの、として語られるならば、また別のニュアンスが生まれる。なんにせよ、こうした注意深い取り扱いが必要な言葉を振り回してはいけない。

Twitter Pro、あれは「Twitter Business」とかにしたほうがいいんじゃないのか? Amazonの法人・個人事業主向けのサービスがBusinessってなるみたいな。そしてその流れで「Twitter Student」「Twitter Scholar」「Twitter Artist」などが爆誕する。

吉本隆明の『マス・イメージ論』をなかばアトランダムに読んでいるのだが、「解体論」に出てくる「システム」という語がのみこめない。冒頭から、

わたしたちが意識的に対応できるものが制度、秩序、体系的なものだとすれば、その陰の領域にあって無意識が対応しているのは、システム価値的なものだ。構造が明晰で稠密でしかも眼に視えなければ、視えないほどシステム価値は高いとみなすことができる。

吉本隆明『マス・イメージ論』福武書店、1984年、146頁

と言い出すのだが、制度や秩序や体系ではない「システム」ってなんなんだろう。その次の段落で「システム的な、不可視の価値体」とも表現しているので、前の引用とあわせればこの「不可視」性が「システム」なるものの規定なんだろうと思う(でも可視的な制度や秩序や体系があるだろうか?)。明晰な構造を持つがその内部を把握不能なブラックボックス、みたいな感じなのかな。しかしそれがなぜ「システム」という一語に集約されて執拗に論じられるのがなんかよくわからない。80年代になにかリファレンスがあるのか……他の本もあわせて読んだらわかるんすかね。

「システム」といえば、お笑いの話で「システム」って言葉が出てくることがある。たとえば「システム漫才」という言い回しもあるし、ネタについて「システムをつくる」みたいな表現も見聞きする。けれどもそれがなんで「システム」と呼ばれるのかしっくり来たことがあまりない。「システム」と呼ばれているものはどちらかというと「アイデア」とか「コンセプト」だし、それを展開する手際だってもっとレトリカルというか、実はもっとディテイルに富んだもののように思う。

エッジが無限に鋭くなっていくYunomiさんだけれども、このあたりでどちゃくそイケボな声優ソングやってほしい。少し高めの、っていうよりは低い人の。あれよ、武内駿輔さんくらい低いの。

「文化の盗用」を考えるにあたっては、他者の文化=アイデンティティに対してどのように参与・介入するかという実践における倫理の問題と、植民地主義などの歴史や経済的・社会的な権力関係がもたらす構造的な問題というふたつののレベルを認識しておくことが大事だと思うのだが、ざっくりと「文化の盗用」と言うとき前者にフォーカスがあたりがちな印象がある。もちろんそれ自体が悪いことではなく、個人の生活――つまり実践――においてその議論が重要であることは言を俟たない。それに、このふたつのレベルは互いにきっぱりとわかれているわけではない。けれども、後者があまりに軽視されてしまうと、権力関係が隠蔽されて、「対等な他者同士のあいだでおこるいざこざ」のような不適切な認識のフレームができあがりかねないし、ひとつひとつの事例に対する解釈もずれてしまう。

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健康と能率(9)

「生活」という一語を粗雑につかうことによって、マイノリティの生活を「生活」から排除してしまう、そういう事態に鈍感な人こそ、「生活」をわかってなさそうだな、ということを思う。そりゃまあ、みんな自分のこの具体的な生活が大事なわけだし、その範囲を抜け出して考えるのってめっちゃ大変だから、そこから一歩でも踏み出すにはどうしたらいいんだろうって、きちんと考えなければならない(その限りで「生活」にきちんと向き合う必要がある)。しかし政治家なんていうさ、それこそ発言力や拡散力があり、言葉で食ってるような人が、「生活に余裕のある人の~」とか、みだりに言うもんでもないよ。「生活」や地べたの話をしているようで、SNS上の言論の綱引きに巻き込まれててんてこ舞いになっているだけっていうか。

それとまあ、今回の衆院選に対する反応を見ていると、やっぱり地方への偏見について、思うところはいろいろある。いろんな人が言ってると思うけど。選挙のときにぱっと目について心底うんざりしたのは維新が議席を増やした大阪について「あそこは別の国」みたいな言い回しをのんきに使っている人らがリベラルでございみたいな人にもたくさんいたことで、これは個人的にかつて大阪が「大阪民国」とかいって2chで(嫌韓ヘイトのコノテーションを含みながら)揶揄されていたことを(意図してるかどうかは別としてある種集団的な記憶として)引きずっている表現に見える。おぞましいことだと思う。

あと、議席という結果を見たらそりゃ「維新一色」だけど、結果にいたらなかった票を投じた人もたくさんいるはずで、単純化につぐ単純化って感じがする。これは「維新に投票した市井の人びと」の気持ちをリベラルに向けて説く人びとにも言えることで、ここぞとばかりに「市井の人びと」というマスを実体化してしまうのもよくないんじゃないのか。アメリカにおけるトランプ当選に関する(実態を必ずしも反映していない)分析と同じようなものになってしまわないだろうか。

選挙がもたらす議席という結果はたしかに実際の政治を左右する最大の要因だが、しかし議席の配分をもって民意を分析することは、やっぱり素人には難しい。専門家だって、要因が複合的すぎてばっちりの答えを出すことはなかなかできないだろうし。選挙と政治はまた違う。

いろいろ言うとりますが11月の下旬から東京都現代美術館で久保田成子の回顧展とクリスチャン・マークレーの個展。めっちゃ行きたい。しかし最近あんまり仕事をしていないので交通費や滞在費を確保しなければならない。トークとかお仕事とかの案件あったらご連絡を……。

山形からすら出ていないのでまずせんだいメディアテークとか久しぶりに行きたい気持ちもある。仙台まで行くのは車の運転を長時間するのが最近怖い(集中力が落ちているので)というのもあり、まあまあ難儀である。

ところでこのところガソリン代がうそみたいに高い。おかげであんまり外出しなくなった。自分みたいに「したくなければ/できなければしなくてもいい」ならまだいいのだが車を使わざるを得ない人(地方在住者の多く)にとっては頭痛の種だろう。EVが普及したらこうした燃料代に関する悩みはどう変わっていくのだろうか。たぶん自分の世代かちょい下くらいまではまだしばらくガソリン車(もしくはハイブリッド)が日本の主流だと思うのだがもっと下になると一気に普及する気がする。でも気候変動への関心の薄さから考えるとそんな楽観的にもなれないか。

Broadcast、múm、Dani Sicilianoなどを最近聴いている。あとLuomoも聴き返したらよかったなぁ。ゼロ年代のいわゆるエレクトロニカ、グリッチ方向ではなく生音系の。フォークトロニカというほどではなく。みたいな。LuomoはVladislav Delayがハウスやるときの別名義だけどいいあんばい、クリックとかミニマルよりももうちょっとつややかな印象。

Selected MP3ってタイトルはかっこよすぎる。

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