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月: 2018年12月

私的2018年のベストアルバム・EP、25枚(25位~11位まで)

 2018年はいい音楽がたくさんありましたね。そのなかから25枚ほど選んでみました。順位は一応つけてありますが、まあもうだいたい甲乙つけがたいっすよ。トップ10枚はゆるがないかもしれないけど。25位から11位まで。トップ10だけ見たい人は↓の記事をどうぞ~。

caughtacold.hatenablog.com

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The mask of masculinity is a mask that's wearing me

 音楽好きおじさんによるマウンティングがどうの問題が断続的にバズる昨今、思うのだけれど、そもそも世の男性の多くは自分も含めて実はマウンティング以外のコミュニケーションの切り出し方を知らないのではないか。というのはマスキュリンでホモソーシャルなコミュニティにおいては通過儀礼のように他人にマウンティング的な問答をしがちだからだ。それを通過するとコミュニティの内部における位置が定まり、かつそのコミュニケーションの様式を守る限りコミュニティの内部においてはある種の免状を手に入れたも同然、ということになる。マウンティングを乗り越えるということは男性にとって「盃をかわす」ことにている。

 問題はそのコミュニティには外部があるのに、そうしたコミュニケーションの様式をどこにでも通用する印籠がごとく誇示してしまうことだろう。でもって事実それは(男性の側から見える景色のなかでは)通用してしまっていたのだ。傷つけ、抑圧し、あるいは敬遠され、当人には気づかない。

 似たような事例に「下ネタ」がある。しばしばミソジニック、ホモフォビックな下ネタに、いかに「上手に」のっかるか。男性中心のコミュニティにはそんな規則みたいなものがある。そうしたコミュニケーションの様式にうまくアジャストできれば地位は上がるし、外れれば場から排除されてしまうので、初めはそれに抵抗を抱いていたとしても、そのコミュニティのなかに居場所を求める限りそうした表現に慣らされ、いつしか内面化してしまう。でもって最悪なことに、コミュニティの外側(直接的には女性や同性愛者、あるいはそうしたコミュニティに属してこなかった男性など)にもまた、「友愛のしるし」かのように下ネタをふるわけだ。よかれと思ってミソジニー、よかれと思ってホモフォビア。世のセクハラってそういうことだと思う。だから男性からしたら「女性とコミュニケーションをとるなってことか?!」みたいに感じられる。

 男性が社会生活を通して学ぶコミュニケーションの類型はあまりにも貧しい。そしてまた、自分の苦しみを語るボキャブラリーも。「非モテ」とか「弱者男性」、そうだな、これもまたTwitterでバズってた話を持ち出してしまうけど、加藤智大の手記や、それに対するリアクションとか、ああいうのを見ていると、世で語られる男性の「生きづらさ」はあまりにも類型化されていてなんだかたしかな手応えがない。いかにして「生きづらさ」を語り、乗り越え、あるいは変えていくかということに対する解像度がめちゃくちゃ粗いんじゃなかろうか。この「貧しさ」あるいは「粗さ」こそが男性性の最大の敵という気がする。

 話は変わるけど、ヒプノシスマイクの脚本家が過去にしたツイートが女性蔑視的であるとして韓国で波紋を呼び、脚本家を交代させようという運動が起こっている。その規模が実際のファンベースに対してどのくらいのものか、いまいち把握しきれていないのだけれど、指摘を受けているツイートを見ると、いかにも日本の男性――とは実は限らないのだが、それはそれとして――がよくやる、軽いユーモアのつもりでセクハラ丸出しの、中学生とか高校生に対するノスタルジーロリコン精神が混じり合ったきわどいジョークで、しかしこう指摘されでもしなければさらっと受け流してしまうほどには自分のなかで自然化されているジョークでもあった。

 実際に脚本家がロリコンであるかどうかはさておくとして、ロリコンをネタにした冗談を悪びれずにちょっと気の利いたネタツイくらいの感覚でツイートできてしまう、ということ自体が、日本の倫理水準のおかしさの指標になっている。「いやいや、ただの冗談だよ」というほうが実はまずい。なぜなら、「このくらいの冗談はアリ」というコンセンサスが世間にあるということを証明してしまうからだ。特にいまや覇権レベルの人気を博す女性向けコンテンツに関わっている人がこういうこと言っちゃうの、と、日本のコンテンツ業界特有の妙な「寛容さ」(もちろんアイロニーとして)に慣れない人はドン引きだろう。

 果たしてヒプマイの脚本家に対する抗議運動がどういう展開を見せるかはわからない。だって結構属人的なプロジェクトじゃない? 脚本家の肝いりで始まったというか。そこをすげ替えて運営できるほどのシステムができているのか。あるいは百歩譲って交代はないとして、こうした指摘に対して誠実に対応することができるのか。「日本じゃこれくらいの冗談は当たり前だし、そんなこと言われてもしょうがないっすよ」みたいに済ませるのだろうか。そういうのの積み重ねで後戻りできないレベルで日本の倫理観はだめんなってると思うのだけれど。

 ヒプマイは作品世界内での(「女尊男卑」設定のセンセーショナルな印象とは裏腹な)マッチョイズムやホモフォビア的発言、あるいは世界の描写に含まれるジェンダーバイアスなどで議論を呼んでもいるが、そこには常に「実は○○という設定があってこういう言動や描写になっている」という解釈の余地が残っている。しかしコンテンツを作る側、とりわけこのコンテンツの要となる脚本家が、極めて日本的な「寛容さ」にどっぷり浸かっている様を見ると、そうした「解釈」も単なる忖度なんじゃないかと思えてしまう。ついでに、せっかくユニークな設定をつくりだしたのに、ヒップホップのマッチョイズムもベタに取り入れてしまってるんじゃないか、とか。

 そういうわけで、ホモソーシャルな共同体におけるコミュニケーションのプロトコルミソジニーホモフォビアとシスヘテロ男性目線での「下ネタ」、そしてマウンティング)がいかに男性の「生きづらさ」を貧しくしているか、ということと、こうしたプロトコルがいかにポップカルチャーを通じて日本に浸透しているか、を最近しばしば考えた。2018年はそういう年だったと思う。自分もいち男性として配慮のない失態を繰り返した一年でもあったし、そんななかで物書きとして徐々に仕事が増えていったことで、結構葛藤が続いた。しかしここで言葉を、自分が使える語りの方法を増やしていかなかったら、ずっと自分は非モテとかそんな話をし続けないといけなくなるんだと思うとその方が怖い。その点、励みになったのは、やはりIDLESだったのかもなあ。2018年のベストアルバムはまた別に発表するし、恐らくそこにIDLESはあえて入れないかもしれないけれど、自分の立ち位置を振り返ろう、というときに戻っていく作品はIDLESだった、その意味でベストアルバムは『Joy as an Act of Resistance』だろう。

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Ariana Grande「imagine」

 Ariana Grandeの新曲。もはや『Sweetener』よりも話題をかっさらっていると言える「thank u, next」に続く「imagine」も過去の恋人たちへのメッセージで、こちらは甘美な恋人同士の日常を描いたかと思いきや、コーラスでは「そんな世界を想像して」とか「そういう世界を想像できないの?」とちゃぶ台を返すようなフレーズが出てくる。失われた関係を責めるようでもあるけれど、「想像して」と繰り返すアウトロは元彼たちに「いい思い出にしよう」とお願いするようでもあり、自分自身に「そう想像しておこう」と言い聞かせているようでもある。

genius.com

 リリックビデオもさりげなく凄い。なんでデータモッシング、と思いつつ、データが欠如してサイケデリックでカラフルなイメージになっていく様子が、かつての関係を理想化しようとする曲の内容とあっているのが面白い。最後の「Imagine it」のリフレインでブラックアウトするところもいい。歌詞のなかにも「Click, click, click and post」とinstagramを彷彿とさせるラインがプリ・コーラスにあったりして、SNS時代の人間関係を背景としたこの曲にはさりげなくフィットしたビデオだ。ちゅーか、単純に、めっちゃエモーショナルじゃない?! 崩れ行く氷河がさらにモッシュされて二重に崩れていって美しいパターンが生まれていくの素晴らしい。こいつら(Ariana Grandeとそのチーム)マジで凄い。このSNSへの適応とクリエイティヴィティの発露にもはや言葉もない。

 サウンドも結構変で、低域はあんまり使わずに、かわりにステレオ感を思いっきり強調して残響成分とかハモりの配置に趣向を凝らしている。2分20秒のあたりから出てくるピアノの音が最初アタック削れていたり、音数が少ないバラードでこのスケール感を出せるサウンドデザインとアリアナの声のオーラが凄い。細かい話をすると、基本的には3連の三拍子(正確にはすごくゆったりした6/8か)にのせたメロディなのに、「Click, click click, and post~」のプリ・コーラスのところだけ付点八分っぽい譜割りなんだよね。するとそこだけスピード感が上がるの。そのラインに続いて「Quick quick quick, let’s go」ってくるあたりなんか、デート中にインスタ映えするところ見つけて急いでセルフィを二人で撮って、アップして、「じゃ、早く行こう」って去っていくみたいな情景が浮かんでくる。おもしろい。

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「マーケティング志向」という新たなカリスマ像とその虚妄

news.yahoo.co.jp

AmPmは、巧みな戦略でストリーミングプラットフォームを「ハック」して、異例の成功を達成した音楽ユニットとしてしばしば紹介される。上掲の記事もまあ、そんな感じの紹介をしていて、別に間違っちゃいない。実際数字が出てるんだから。そして、AmPmのアティチュードはまったく正しいと思う。しかし僕が不満なのは、この記事がAmPmのマーケター的な側面をあまりにも強調して、あたかも旧態依然とした日本の音楽業界にはマーケティングが存在しないかのように書いてしまっていることだ。

だが、ビジネスライクに映るマーケティングという言葉自体、日本の音楽シーンでは避けられがちだった。J-POPシーンでは、市場の攻略よりも自己表現が価値を持つという「信仰」があるからだ。そんなJ-POPシーンから見れば、AmPmは「仏作って魂入れず」に見えるのかもしれない。

これを読むと、ある人はAmPmを慣習にとらわれないイノベーターと捉え、またある人は音楽の「魂」を踏みにじる悪人に思ってしまうかもしれない。あるいは次の箇所。

J-POPシーンには別の「信仰」もある。音楽を制作するなかで自分のパーソナルな部分を出すことに価値があるという考え方だ。「右」はそれを真っ向から否定する。[……]自分自身の感情もエゴも殺す――。すべてはマーケットを分析して得た答えだ。

エゴを排して「冷静」な「分析」に従って音楽を制作し、配信する。それで実際に成功を収めている。「良かれ悪しかれこれが新時代の音楽のあり方だ」と問題提起をしている、かのように見える。

しかしちょっと考えればわかることだが、ここで取り上げられているふたつの「信仰」――マーケティングよりも自己表現、作り手はエゴイスティックであれ――が実際のJ-POPシーンにどれだけ根付いているかは疑問だ。たしかに音楽ジャーナリズムはミュージシャンのパーソナリティを重視して、テクニカルな話題やビジネスの話題を避ける傾向にある。作品にこめた思いとか産みの苦しみとか作り手としての信念をミュージシャン自身に語らせるインタヴュー記事はうんざりするほど世の中に溢れかえっている。けれどもそれはあくまで音楽ジャーナリズムの問題でしかない。レコード会社がまさか、マーケティングをしていないとでも思っているのだろうか。バンドやミュージシャンがまさか、自分の作品をどう売るべきかつゆほども考えていないとでも思っているのだろうか。

そもそも、自分たちで曲を書き、自分たちで演奏する、というかたちのミュージシャン自体そこまで多いわけじゃないだろう。バンドブームやSSWブームのころならともかく、とりわけプロデューサーを戴いたヴォーカルグループやアイドルユニットがこれほどチャートを席巻している時代に、だ。ごく一部のロックバンドやシンガーソングライターにしか、その「信仰」は通用しない。

「信仰」にマーケティングを対置する書き手は重要な部分を見落としている。ちょっと誇張した表現になるが、そうした「信仰」を広めること自体が一種のマーケティング戦略なのだ。ミュージシャンとしてのオーセンティシティを保証して、彼こそは金を払う価値のある人間だと思わせること、それこそが重要な市場戦略だったのだ。ロックバンドであれシンガーソングライターであれアイドルであれ、「ホンモノ」のストーリーを背負っていることが、売るための必要条件だとされてきた。それが、マーケティングの詳細な方法論や技術上の条件が大きく変化したことによって通用しなくなった、というだけの話だ。「信仰」からマーケティングへ、ではなく、ある種のマーケティングからまた別種のマーケティングへと時代が移り変わったにすぎない。

実際、「2017年3月に「Best Part of Us」が配信されたのも、曲調と季節の関係性を意識して春を選んだからだ」というくだりが前掲の記事には登場するけれど、「春に春っぽい曲をリリースする」なんて、数ある「さくら」ソングがやってきたこととどれだけ違いがあるというのだろうか? TUBEが夏らしいイメージで売り、広瀬香美が冬の女王であった時代となにが違うのか? 季節感にあった曲を適切なタイミングでリリースするくらいのことを見事なマーケティングって呼んでいいのか?

「信仰」とはマーケティングのヴァリエーションでしかない。さらに言えば、マーケティングもまた「信仰」のヴァリエーションでしかない、のかもしれない。マーケティング的である、というプレゼンをされたら、「春には春っぽい曲を出す」程度のことさえ「新しい!」と勘違いしてしまうほどなのだから。

もうマーケター的な振る舞いがもてはやされるのなんか見飽きている。「自己表現という古臭い観念から自由である」というアピールは、「ありのままの自分を率直に表現している」というアピールと同じくらい、「スター」や「カリスマ」の条件だと言っていいだろう。ゴールデンボンバーの鬼龍院翔によるヴィジュアル系の流儀を汲んだ毎度毎度の趣向を凝らした仕掛けや、ポルカドットスティングレイの雫の「リスナーのニーズにあわせたマーケティング的な作曲」というアティチュード、あるいは西野カナ「トリセツ」をめぐる「マーケティングをして書いた実は戦略的な曲」なる評価、などなど……。こういう話題を聞くと人は現実には誰も信じていないような「信仰」とやらを突然信じだし、あるいは批判しだす。でも気づいて欲しいのだが、「ナイーヴな音楽業界」なんてそもそも存在しない(ナイーヴさ故に業界に押しつぶされるミュージシャンは山程いるだろうが)。

それゆえAmPmの革新性は見誤られる。凡百のマーケター的振る舞いの一部に回収されてしまう。問題なのは音楽業界が旧来のマーケティングの方法を捨てて新しいプラットフォームへとモデルを転換できないことであって、「信仰」などではないのだ。「信仰」のガワをはがせばそこにあるのは保身と既得権益と怠惰。それを批判して乗り越えることこそAmPmがやってみせていることであって、彼らはもはや弱者などではない。むしろ、既存のしがらみがないからこそ新しいマーケティングの方法を実践でき、トライアンドエラーができる逆説的な強者なのだ。

「信仰」とマーケティングという二項対立で物語をつくろうとして結局上掲の記事が陥っているのは、それこそ冷静で切実な現状認識に従って行動しているにすぎないだろうAmPmを、ゼロ年代的なネオリベのハッタリみたいに描いてしまうという事態だ。記事タイトルに使われている「想定内」という言葉に既視感のある人は、一定世代より上には多いだろう。堀江貴文がフジテレビ買収騒動のときに繰り返し口にしていた言葉だ。彼が慣習にとらわれない資本と市場の論理を武器に新しい世代としてゼロ年代のアイコンになった時代から、一歩も進んでいない。まったくくだらないと思う。

「信仰」とやらにとらわれているのは果たして誰なのか。その「信仰」をかたちを変え延命させてしまっているのは誰なのか。賢しらな顔をし、あるいはしかつめらしい顔をしているくせに、大した批判精神を持ち合わせていないのはどこのどいつだ?

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Jeff Tweedy『WARM』

 Wilcoのフロントマンによるソロ作。曲自体はわりかしWilco節なのだが、よりプライヴェート感あふれる手触り。デッドながら温かいサウンドが70年代の名盤みたいな風格を漂わせててほんと素晴らしい。「How Hard It Is For A Desert To Die」や「How Will I Found You?」みたいに無茶苦茶スローで言ってしまえばスカスカな曲も、アンビエンスを強調したりリバーブで空間を埋め尽くしてしまわず、弦の豊かな鳴りを活かしつつ、カウンターメロディやささいなフレーズを積み重ねて空間を満たしていくアプローチがシンプルながらめちゃ効果的。特にボリューム奏法の使い方が素晴らしくて、「Let’s Go Rain」で左右チャンネルに満遍なく重ねられたボリューム奏法の音色が空間の奥行きをぐーっと演出するところとか、もうほとんどオーケストラっつーか。ギターを丁寧に重ねて配置していくことで表現できることってまだこんなにあるんだ?! っていう驚きがそこかしこにある。年間ベストアルバムにランクインしているのも見かけたけど納得。ただ豊かなソングとサウンドに身を委ねてもいいし、じーっくり聴いて研究するのもいい、素晴らしい仕事だ。

WARM

WARM

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