コンテンツへスキップ →

月: 2018年11月

Jeremy Dutcher『Wolastoqiyik Lintuwakonawa』――クラシック、ポップ、人類学が交錯する一作

 TLでにわかに話題になっていたJeremy Dutcher。名前は英語圏の人かな? と思いつつアルバムタイトルも何語かわからないし、フランス語も出てきたりする。調べたらカナダの先住民コミュニティに育ち、クラシックの教育を受けた後人類学も学んだらしい。カナダはそもそも英語圏とフランス語圏が一国のなかに同居しているわけだけれども、しかしもちろん先住民も多数いるわけで、英仏を中心としたアングロサクソン中心のカナダ音楽界に対する挑戦もあるらしい。蓄音機に正対するミュージシャン、というアートワークもいろいろと複雑な歴史を感じさせる。調べてみたいのう。

 このアルバムは人類学的な調査によって渉猟された先住民の歌声を採譜して、クラシックの技法を用いつつ蘇らせる、というひとつの意欲的なプロジェクトであると同時に、それがポストクラシカルの問題系のひとつ(と思う)である録音技術の活用みたいなところと通じ合っていて、しかもカナダの歴史的なコンテクストにも分け入っている。とはいえサウンド自体は有無を言わせぬ迫力もある。

 ここでは単旋律のプリミティヴな歌とポリフォニックないしハーモニックなクラシックとの衝突があり、恐らく歌唱法についてもテナー歌手として受けた教育と先住民の歌とのあいだで衝突が起こってるんではないかと聴いた印象で思う。もちろんあえて衝突させてるわけじゃないだろうけど。むしろ、丁寧にケアして蘇らせ、現在に生きる者として先住民に伝わってきた音楽をプレゼンテーションしようとしてるんだろう。しかしまあ、いろいろ考えてしまう取り組みではある(この記事を参照→「和声」という枷)。歌詞で語られている内容とアレンジがどれほどかみあっているのか、ドラマチックな演出の是非は、とか……。

 やっぱりジャケットは象徴的で、初期の録音技術においては記録することと再生することが物理的に等価だったわけですよね。だからこれだけ見ても録音してるのか聴いてるのかわからない。聴く/録るというどちらにも属さないミュージシャンが、中立な機械の前に座ってるという構図。このアートワークの元ネタになっているのは白人の人類学者? エンジニア? が先住民の歌声を録音しようとしてるところなんだけれど、録る・録られるという主客の関係を止揚しようとしている(ギャグではないです、念の為)アーティストの試みが鮮やかに出ているなあと思う。コロニアルな人類学的眼差しと眼指される先住民という図式を相対化して、さらに一歩先に行こうみたいな。

 とはいえ言説先行ではなく人を震わす作品になっているのも確かなので一聴をおすすめしたい次第。

コメントは受け付けていません

音楽の有用性について――河西秀哉『うたごえの戦後史』(人文書院、2016年)

うたごえの戦後史

うたごえの戦後史

 河西秀哉『うたごえの戦後史』(人文書院、2016年)を読了。戦後の合唱運動が戦前・戦中の厚生運動から思想的においても関わる人物の点でも地続きであることをはじめとして面白い話が数多い。戦前は全体主義に奉じる国民の育成のために、戦後はいわゆる「戦後民主主義」に適した「近代的な市民」の教育のために、ほとんど同じロジックを展開しつつ、全国的な合唱運動が組織されたわけだ。また、共産党の影響下で政治色が強かったうたごえ運動とか、あるいは日本独特の「おかあさんコーラス(ママさんコーラス)」のような敗戦から高度経済成長までの合唱運動に関する記述もきわめて興味深い。求められる役割、あるいは合唱が奉仕すべき対象を少しずつ変えながらも合唱運動は脈々と続いてきた。

 ここで両義的なのは、さまざまな理念や目的のもとで組織化される合唱運動が、音楽を手段として社会や個人を変えようというものであった一方で、また同時に音楽という文化を広く大衆へ根付かせるための手段でもあった――つまり手段と目的が常に曖昧に重なり合っていた――ということだ。音楽はメッセージを伝える「声」であり「活動」である。そしてまた、「声」や「活動」は音楽を世に根付かせる役割も果たす。社会なり政治なりと音楽とは切り離し難い、というのはまさにこの点にこそ見出されるべきかもしれない。

 さて、ざっくりとまとめると合唱運動が理想とした運動の参加者像は、戦前・戦中は全体主義に奉ずる国民、戦後には民主主義社会を支える近代的な市民であったのだけれども、本書では高度経済成長以降、そもそも合唱のような集団によるレクリエーションの文化が衰えることによって合唱運動全般が退潮してゆくことが指摘される。問題をこと音楽に絞った場合、レコードの普及やマスメディアの急速な発達によって、ポップ・ミュージックが「ともに歌うもの」から「聴取し、消費するもの」へ移行したことで、合唱が社会全体に対して持つ影響力が衰えていったことは想像がつく。本書では、社会運動のなかに音楽を組み込み、その有用性をプレゼンテーションする合唱運動の戦略を「音楽の社会化」と繰り返し呼んでいるが、「音楽の社会化」よりも先に、消費文化の発達による社会そのものが変容し、そもそもそうした役割を音楽のような娯楽に求めること自体が低調になっていったものと思われる。

 昨今、音楽を社会から切り離されたある種の余剰、「無駄なもの」として位置づけたうえで、「無駄だからこそ意味がある」というような論の展開をする人が多いけれども、歴史を紐解けば音楽がよかれあしかれいかに「有用」なものかは嫌というほど例が出てくる。「音楽は本当は世の中に必要ない(でもだからこそ必要なのだ)」というのはそうした「有用性」の危うさに対する防御反応なんじゃないだろうか。そこを認識したうえで戦略的に音楽の無用さを訴えるぶんにはいいと思うんだけれども、単に音楽の有用性を否認しているだけだとそれはそれで誰かさんに足元すくわれてもしゃあないんではという気がする。

natalie.mu

 ナタリーで大石始さんと高岡謙太郎さんがやっている連載は、録音物やパフォーマンスとしての音楽のみならず、その外側に広がっている音楽の裾野に分け入っていくような内容で毎回おもしろい。上掲のチアダンスを取り上げた回なんかはここまで書いてきた音楽の「有用性」をよく示していて、人によってはきわめて不純に感じられるかもしれない。しかしそうした価値判断や好き嫌いは別として、果たしてチアダンスを通じて音楽が示そうとしている「有用性」の正体はなんなのか、という批判的な考察は常に必要だろう。

 全体主義に奉じる臣民の教育から、自立した近代的な市民の教育へと変遷を辿った合唱運動(戦後の合唱運動に大きな流れをつくった「おかあさんコーラス」はジェンダー化された女性の役割分担という問題も含んでいてそう簡単にまとめられるものでもないのだが)の流れの後に位置づけられるであろうチアダンスの求める理想の個人像は、「リーダーシップ」や「問題解決能力」といった言葉にあらわれているように、資本主義社会における理想的なビジネスパーソン像に重なる。だいたい高度経済成長時代くらいまでは、近代的な民主主義国家をつくりあげるために個々人に自発性とか主体性が求められていたのが、いつしか奉仕の対象が国家とか民主主義という理念ではなく資本主義社会にすり替わっている。もちろん「有用」な音楽は、そうした主体の教育にも適している――必ずしも最も適しているわけでもないと思うけれども。

 芸術とか文化がこのような「有用性」を見せるのは個人的にもあんまり好きなもんじゃないのだが、しかし一方で芸術は無用なものであるとただ唱えることで現実を否認するのも気に入らない。最近はとくに愛国ソングとかBTSのあれこれなんかで「音楽と政治」の危うい関係が取りざたされることが多いけれど、そうしたポップ・ミュージックの世界の外側に広がる音楽の外延において音楽が重宝されるその「有用性」への意識もまた重要であることを再認識した。『うたごえの戦後史』はその点できわめてアクチュアルに読める一冊ではないかと思う。

コメントは受け付けていません

興行師・経営者に擬態するデュシャン「デュシャンと日本美術」展

 東博デュシャン展、第一部は思いの外ためになった。第二部は、まぁ……。

 まずこの展示を通じてデュシャンの仕事にまとめて触れると、立体視への関心やロトレリーフ、遺作のディテイル(両眼用に開けられた2つの穴、はたから見ると見世物用のジオラマのような内部構造など)からは美術から排除されてきた視覚文化に対する意識が感じられたし、その文脈で精密光学なるタームも考えるべきなのだろう。

 また、大量生産品を作品に転用するレディメイドもさることながら、大量のマルティプル、出版物やポスターへの自作イメージの再利用、逆に広告に由来するイメージの自作への転用、また「産業」の文脈におかれるロトレリーフ等々、作品の多くが工業化・資本主義化された近代の消費社会にまつわるモチーフや形式を援用していることも、改めて興味深い(フルクサスのインスピレーション源としてのデュシャンの理解が深まったというか)。

 第一の点(美術の制度外の視覚文化に対する関心)と第二の点(消費社会へのアジャスト)を自分なりにまとめると、興行師・経営者としてのデュシャン、というフレーズに行き着く。近代的な「アーティスト」なる職業が世の中の諸生産体制の変化によって揺らいだことへの応答として、より直接消費社会にコミットしうるような「アーティスト」像の模索として、見世物屋や技術者への擬態と、(度重なるマルティプルの制作などのかたちで)いささか戯画化されたつくる=売るのサイクルそのものを活動の軸とした起業家・経営者への擬態が彼の活動のなかにあるのではないかということだ。

 ただそれは消費社会の論理にアジャストして生き抜くことのみを目的としたものではない。あくまでそれは擬態であり批評的営為である。言葉遊びによるユーモアやいささか露悪的にも思える性的なモチーフへのオブセッション(この展示においてはデュシャンの若年期からのささやかな執着として異性が位置づけられていたように思う)といった作品に内在する余剰や、需給にもとづく市場原理のほかにも価値体系をもつ美術なる領域を生活に隣接させようという試みそのものが、すでにして撹乱的だからだ。

 美術なる領域、あるいは制度の読み替えと共に、市場経済がすっかり浸透した生活の領域への侵犯という、ふたつの試みが限りなく隣接する場所にデュシャンはいるのであって、そう考えてみると千利休の日常の美が云々みたいな悠長なことを言う第二部は、もちろんそれ以外にも言うことはいろいろあるのだが、美術や工芸の伝統とか制度といったもののなかに安住しきっていてまったくつまらないと思う。

 個人的には立体視やロトレリーフ、遺作の問題系に連なる消費社会における視覚文化の脈絡においてデュシャンを考えるっていうの面白そうだなあと思ったのでまあいろいろ読みたい、暇があればね…… 平芳さんの本からかな……。

 そういえば平芳さんの美術手帖でのレビューよかったっすね。

bijutsutecho.com

コメントは受け付けていません

cupcaKKe「A.U.T.I.S.M」に朝っぱらから心打たれる

 cupcaKKeの今年二枚目(!)の新作『Eden』、独特の華があるというか存在感のある声質でやっぱラップうめぇ~というのがまっさきに思い浮かぶ。えっぐい下ネタを交えながらがんがんボースティングしていくさまは痛快、歌詞読んでるとその清々しさに笑ってしまう。

 しかし最後の曲「A.U.T.I.S.M」のしょっぱなで「自閉症の子はみんな私が味方だってわかってる Every kid with autism know that my heart with ’em」とかまして、フックでは「自閉症(Autism)」を「ユニークな考え方をする個人こそが大事なんだ A unique-thinking individual strongly matters」と読み替えるのには恐れ入った(各単語の頭文字を見てみましょう)。ヴァースで披露するフロウも畳み掛けるようで気迫が違う。

genius.com

 下ネタもボースティングも一切なしでひたすら自閉症の子たちに「私は味方だ、話も聞く、あなたを自分と同じ人間として尊重する」と説き、一ライン一ラインが彼らを勇気づけるために割かれる。正直パンチラインしかない。全文訳したいくらいなんだけどわかんないところがいくつかあるのでいまはやめておく。でもセカンドヴァースはおれが読んでも勇気づけられる。cupcaKKeみたいな大人がいて、こうして表現者として持てる武器を使って誰かのために戦ってる、しかも彼女の持ち味の下ネタとか露悪性は一切使わずただメッセージを伝えることに献身するかのよう。というのが既に打たれるというか。そもそも彼女のキャラクター自体がきわめて(露悪的でありつつ)批評的でもあるんだけれども。

 「で、もしハンプティ・ダンプティが壁から落ちたら/もう一回登りゃいいって言ってやれ And if Humpty Dumpty fall off the wall / Tell Humpty Dumpty re-climb, ayy」という具合にマザーグースを引用して「失敗したってやり直したらいい」と訴えるヴァースのラストラインはもはや泣ける。これが家族を含めた自閉症当事者にとっていいメッセージかどうかという点には常に注意を払うべきかとは思うけれども、少なくともリスナーに対するある種の啓蒙みたいな役割は果たしうる。

コメントは受け付けていません

sleepyhead『DRIPPING』が予想外にツボに刺さる一作だった

 好著『すべての道はV系へ通ず。』の著者、藤谷千明さんがTwitter「今年の「カッコいいで賞」は完全にこのアルバムだから…(´6ω6)」とおっしゃっていたので聴いてみたらたしかにかっこいい。昨年解散したV系バンドSuGのvo.である武瑠のソロプロジェクトだそう。

DRIPPING

DRIPPING

 ダンスサウンドを結構取り入れている一方で、デジロックみたいに言われちゃうようないなたさもなく、かといってバキバキ最先端いってますみたいにもならずバランスがいい。めっちゃツボにハマる。メロディラインやコード進行のちょっとしたところにV系っぽさが残ってるのがまた味わい深い。自分のようなV系サウンドに慣れていないリスナーにもすんなり聴ける、適度なエグ味というか……。単純に美メロだしエモい(Emo的な意味でも)。

 と、楽曲そのものの良さはもちろん保証済として、サウンドに注目すると、M3「結局」のスタッターやちょっとしたヴォーカルチョップの使い方がささやかながら耳を惹きつける。M6「HOPELESS」のサビ頭で始まった直後のシンセや変拍子グリッチを織り交ぜた間奏も信頼できる感じばりばり。M8「アトノマツリデ」でのスラップベースの使い方やシンセのパターン、ドロップ的な箇所のアレンジはがっつりFuture Bassの影響が出てて気持ちいい。M10「退行的進化」のダブステップを意識したとアレンジも、ばきばきのダブステップではないにせよツボを抑えた感じがある。

 と思ったらこの曲とM11「LAID BACK」はTeddyLoidとの共同プロデュースだそう。でも決してTeddyLoid色に染まりきってはいない印象。TeddyLoidを交えたインタビューを読んでみたら出てくる固有名詞がA$AP mobやケンドリック・ラマーといったラッパーたちからHalseyみたいなシンガー、あとClarkやらFlying Lotusなど。なるほど……。先月リリースされたEP「NIGHTMARE SWAP」ではリード曲にSKY-HIが参加してprod.がTeddyLoid。こちらはもっとTeddyLoid感あり、かっこよい。

 ただ、EP全体聴くと、サウンドがもっとメインストリーム感出てきた一方で、アルバムのちょっとインディっぽい音像も魅力的だったかしら……。アタックが強くて分離がよく、ステレオ感や空間を強調するようなサウンドはほかのポップスと並べても見劣りしない強さがあるんだけど、みんながみんなそれになってもつまらんなーと最近思うので…。

NIGHTMARE SWAP

NIGHTMARE SWAP

 事務所とかレーベルに所属しないで完全に自主でやってるっていうのも凄い。SuGを解散して以降のこのsleepyheadをV系と呼ぶのかはわかんないものの、V系を掘ってみようと思いつつ入りあぐねていたところだったので、ちょっとここからいろいろ調べてみようかなと思った。ふつうの感想文でした。

コメントは受け付けていません

ソングとサウンドの往還についてちょっと考える

radiko.jp

 アトロクのポップスサウンドの作り方特集by冨田恵一冨田ラボ)。冨田恵一の落ち着いたわかりやすい喋りと自分のワークフローをある程度一般化して明快に認識している感じ、かつそれをプレゼンする巧みさにやっぱビビる。「(ワンループものが今では当たり前だけど)僕はとにかくコードを展開させる男だったので……」に笑う。結局ワンループでどんな展開を生み出せるかみたいなことに手練れたちが興味を持ってきているのが面白い。ただ『ナイトフライ 録音芸術の作法と鑑賞法』はコード進行の話をほぼしない(たしか一箇所だけ我慢できずにしている)でアルバム一枚論じきるという本で、和声ではない方法論を言語化しようという問題意識はあのときからあったんだと思う。

ナイトフライ 録音芸術の作法と鑑賞法

ナイトフライ 録音芸術の作法と鑑賞法

 一方で先日ROTH BART BARONのインタビューではサウンド偏重からのソング回帰という話も出てたりしていていろいろ考えた。しかしたとえばソングの強度が高まった故に大胆なサウンドが生まれる、みたいなことをBon IverにせよFrank Oceanにせよ近年のゲームチェンジャーを見て思う。


 最近ずっと頭のなかでループしているBillie Eilish「When party’s over」の簡素だが攻めたアレンジなんかは、「この『ソング』のうえではここまでできる」的なアティチュードを感じたりもする。

 単なる差異化や新しさのギミックのためにサウンドがあるわけじゃない。まずソングありき、という考え自体がサウンドの可能性を押し広げている、という面もあるのかもしれない。

 まあ循環的なんですよね。ソングは単にサウンドの抽象化・記号化ではないし、サウンドは(ライヴであれ録音であれ)ソングのリアライズにとどまらない余剰をつねに持っている。というかそもそもソングはなにによって構成されているのか、メロディ、リズム、和声、どれも実は本質と言い切れなくて、実に掴み所がない。まあいろいろと美学的な見解があるとは思いますが。

コメントは受け付けていません

言葉において「具体的」とはなにか

www.cinra.net

 ポップスと固有名詞の関係って音楽の消費のサイクルと時代が移り変わるスピード感の関係性の問題なんじゃないかと思う。ヒップホップが具体的なのって構造の問題もあるけど新曲出てくるサイクルが圧倒的に早くて速報性があるからだよね(ヒップホップはBlack CNNだというChuck Dの至言もあることだし)。かつ、いかに時事ネタやトレンドに敏感に反応するかが重要なセンスとなるからこぞって固有名詞がリリックに盛り込まれるようになる。直喩(like~)表現に対してもめちゃ寛容だし。その点については小出さんが言っているように韻を踏むためのテクニカルな戦略としてそうなんだと思うけど。

 対してJ-POPがどんどん抽象的になっているとすれば(より正確にはその仮説がある程度真だとするならば)、猛スピードで移り変わるトレンドに対してJ-POPがおいつけなくなり、時事性を取り入れるよりもある程度の耐用年数を見込める表現のほうが好まれるようになったから、という推測もできると思う。また、そもそもさまざまなクラスタを貫通するような固有名詞の力というものが落ちてきているのもあるんだと思うけど、しかしそれもそれで鶏と卵というか、ポップスが売れなくなってきている――ヒットが「崩壊」している――がゆえに固有名詞のマジックが薄れてしまった、というふうにも言いうる。

 しかしそもそも固有名詞がない=曖昧、というのもなんか違うだろと思う。曖昧なのが悪いわけでもない。固有名詞がレトリックとしてなにかしら効力を発揮する場合と、そうではない場合がある。むしろ固有名詞がないのにきわめて具体的な手触りがある詞というのもあって、最近じっくり詞を検討して思ったけどあいみょんは割とそういうところがあるかなと思う。一方でたとえば椎名林檎、特に初期の固有名詞の使い方はむしろその空虚さを際立たせてる気がする。固有名詞にまみれているのになにも伝わってこないような曖昧な歌だってある。言葉において「具体的」とはなにか、あるいは「即物的」とはなにか。レトリックの問題でもあり時代と文化の関係性の問題でもある。

コメントは受け付けていません

中村佳穂『AINOU』、凄まじい作品

 中村佳穂『AINOU』凄まじい作品、歌い方から伺えるビートに対する解釈が円環的じゃなくて、拍を重ねていく感覚と小節を分割していく感覚を自在に行き来しているのが個人的には一番ぐっとくるのだけれど、さらに発声のコントロールのきめ細かさが半端じゃない。非音楽的な声の「震え」をこんなに巧みに使いこなせる人はそうそういないだろう。言ってみれば崎山蒼志さんの唱法とかに近いのかもしれないけど、やっぱグルーヴに対する感覚は圧倒的に際立ってる。音域の広さや声量に還元されない巧さがある。ところどころにグラニュラーというかスタッターみたいなグリッチが挟み込まれるんだけど、1曲目「You may they」でいきなり自分のボーカルをグリッチさせようというその肝の座り方も凄いよ。作品の突き放し方というかさ。

www.cinra.net

中村:とにかく話し合いが大事だと思っていました。たとえば、MockyとかDirty Projectorsを同じように「かっこいい」と思って聴いていても、レミ街の人たちはビートやバランスを、私は歌や流れを聴いてるんですね。根本的に音楽の聴き方が違うのに、でも同じように「寂しい曲だね」って感じる。「それはなぜなんだろう?」ってことに向き合う時間を大事にしました。

中村:[……]バラードとか一部の曲以外は、ビートミュージック的にこういうメロディーがかっこいいっていう、彼らの提案を膨らませたものが基本になっています。今までは、ずっと弾き続けてきたフレーズなりパートなりをトリミングして、かっこいいと思った部分を即興的に膨らませるっていう曲作りだったので、メロディーの尺が先に決まっているのが苦しくて。

 楽曲からはいかにも自然な印象を受けてたんだけど、インタビューを読むと凄い時間をかけて「サウンドメイクにこだわった作品をつくる」って課題に向き合った結果がこれなんだな。ビートに対する解釈が新鮮に聞こえるのは中村さん自身の資質と彼女がビートミュージックに感じた魅力を丹念にすり合わせた結果なのだろうし、それが孤独な作業じゃなくてなによりもコラボレーションの結果だったということが胸を打つ。「次のアルバムはサウンドメイキングを中心に、一緒に話し合いながら作っていきたいです。あなたの人生を一定期間奪うことになってしまいますが、協力していただけませんか?」と人にお願いする勇気というか、そうまでしないとつくれないものがある、そうまでしてつくりたいものがある、という思いってそうそうないし、彼女自身の持てる力と求める音楽像ががっちりと融合していることがはっきりとリスナーに伝わってくる、そんな作品が実際に出来上がってしまった、それが驚異だろう。

 おれは4曲目の「FoolFor日記」がほんとに心掴む名曲やと思います。全曲そうなんだけどさ。ここから折坂悠太に通じる道もある。ビートミュージック、ソウル、フォーク、民謡の土臭さ、全部通過したあとに残る音響の豊かさ、なんも言うことないっす。『平成』と『AINOU』の2018年でした。もうそれでいい。

AINOU

AINOU

平成

平成

コメントは受け付けていません

現代低域考(仮)

 最近なにかと話題なのが「低域」である。ここ日本において「音圧戦争」の次のバズワードは間違いなく「低域」だろう(そしておそらく震源地はGotchになるはず)。というとモダンな打ち込みの音楽を連想する人が多いかもしれないけれども、よく引き合いに出されるのはAlabama Shakesだ。こないだサンレコmabanuaが「Alabama Shakesは『トラップかよ!』というくらい低域が鳴ってる」ということを言っていて、実際「Don’t Wanna Fight」とか、トリガーでサブベースを足してるのではないかというくらいキックが下の下まで鳴っている。

 加えて言えば、ベースラインもよく100kHzとかもっともっと上を強調して「鳴り」を演出することがよくあるけれども、「Don’t Wanna Fight」を含めて『Sound & Color』のベースは結構下の帯域をうねうねと動いている。左右の空間を贅沢に使いつつ、サウンドの重心をぐっと押し下げることによって結果的にギターやヴォーカルといった中域にかたまりがちな楽器にも余裕が生まれている印象だ。金物やリヴァーブも含めて無理なく上の帯域が鳴っているので、くぐもっている印象はなく、あくまでウォーム。帯域で言えば上から下まで、定位で言えば左右を十分に活かしたミックスによって、ラウドさと自然な「鳴り」を両立させている。

www.soundonsound.com

 『Sound & Color』のレコーディングについてエンジニアにインタビューした記事で印象的なのは、ポストプロダクションで試されたトリックの数々もさることながら、次のような発言だ。

周波数のスペクトラム全体のなかで全部[のサウンド]がうまくバランスがとれていれば、自然とラウドに感じられるし、サウンドが死んでしまうほどにリミッターをかけなくて済む。だから僕がSound Emporium[録音したスタジオ]でやった数多くの実験というのは[……]結局それぞれの楽器が適切な場所に収まって、おのおの可能な限り大きく鳴るようにすることだったんだ。

 低域はばっさりカットして、中高域にサウンドをつめこむアプローチでは、いわゆる「音圧戦争」で槍玉に上がるようなリミッターのかかりまくったぺったりとした音像になってしまう。かわりに、鳴らせる帯域をくまなく使って、それぞれの楽器が適切な場所を見つけられるようにすること、それが大事なんだ、ということだ。

 もちろん低域の扱いにも言及がある。ダンスミュージックをDAWで作る人ならば馴染みのことだと思うけれど、ベースとキックドラムがかちあわないようにうまくサウンドメイクすることが、いわゆる「太い」サウンドを無理なくつくるためには重要なテクニックになる。低域は特にピッチの感覚が鈍りやすいし、タイトさを失えばすぐにぼやんとした締まりのない音像になる。それゆえ低域の処理には気を使う。それに加えて「なんで生ドラムがこんなに鳴るの?」というキックの鳴りについては、以前も雑誌かSNSか、どこかで話題になったことがあると思うけれど、わざわざ共鳴用のバスドラムを隣にセッティングして、残響だけを録音して使ったんだそうだ。また、キックをリアンプすることもよくあるらしい。

 いろいろと並べてみたものの、結局『Sound & Color』の制作過程をざっくりとまとめると、おのおののサウンドの質感みたいな要素を除けば、音楽が記録される周波数の帯域‐スペクトラムのなかにどのようにサウンドを配置していくかがキーとなっていることがわかる。というかこれはもう端的に、あらゆる録音芸術のミックスの根本的な命題なのだが。デジタル録音の普及によってこの命題はよりシビアになっていて、それゆえに80年代の技術的な過渡期にはさまざまな試行錯誤があったわけだけれども、そのぶん適切にパズルが組み合わさったときには大きな効果を発揮する――たしか山下達郎も昔のインタビューで、適切に準備さえすれば、デジタル録音はアナログよりもずっといい音でミックスできる、というようなことを言っていた。いま手元にないので出典が出せないけど。まあこのへんはきちんとまとめてZINEにする予定です(いま製作中のZINEとは別)。

 以前もブログで言及したけれども、現在このアプローチがうまい具合にアレンジと噛み合って音楽的にうまく言っているのは、個人的な印象としては、Dirty Projectorsの『Lamp Lit Prose』だ。

 ほか、上から下まできちんと出すことによって「あたたかい、でもきっちりハイファイ」な音像を実現したものとしてはmabanuaの『Blurred』なんかもある。

 米津玄師の「Flamingo」は低域をほとんどオミットした奇妙なサウンドになっている一方で、中低域より上のサウンドはなかなかに密度が濃く、低域の薄さを感じさせない巧みなプロダクションになっていると思う。

 追記:結局なんで「低域」が大事かというと、そこもまたサウンドを配分する(比喩的に言えば)空間的リソースにほかならないからで、ここも有効活用すると全体のアンサンブルがより自然に鳴る、ってことですね。これを書くの忘れてた。

コメントは受け付けていません

テレビ、ラジオ、YouTube、Spotify――ミュージシャンとファンのコミュニケーションについて雑感

 米津玄師がYouTubeにひとり語りのラジオを公開。オフィシャルインタビューを自身のウェブサイトで公開するというのもすっかりお馴染みになってきたけれども、自分の声で自分の曲を語る、かつYouTubeで、というのは米津らしいように思う。深く知ってるわけでもないのだけど……。つまり、熱心なファンがたくさんいて(環境的な条件)、しかも自分の言葉をちゃんと聴いてくれるうえなんならすごく直球に受け取ってしまう(ファンの質としての条件)、だからこそなるべくあいだにものを挟まずに言葉を届けたい(ミュージシャンとしての意識)、が重なってないとやろうと思わないし効果もないだろう。

 浜崎あゆみSpotifyとかでアルバムリリース前にファンへのメッセージを配信してて、「そんな使い方あるか?!」ってマジでびっくりしたんだけど、それと似た感触があるな。木村カエラもメッセージ配信してたんだけど、それは30秒とかなのに、あゆは2分とかあるの。数倍。笑 どれだけ熱いれてるんだよ、っていう。まあそういうところ、椎名林檎とかとはすごく対照的で、彼女はマスメディアや公の場への露出のしかたが巧みだし、東京事変のときもアルバムコンセプトをテレビ関連で統一したり、マスメディアに媒介される自意識をのりこなすのがうまいんだろうと思う。あるいは浜崎あゆみaikoに置き換え可能なのかもしれない。

 昔からミュージシャンのなかでテレビを根城にするかラジオを根城にするかみたいな派閥というか傾向ってあったわけだけれど、もはやSNSを前にしてしまえばテレビとラジオの境界線ってあってないようなもので、あらゆるマスメディアはインターネットを中心として液状化しちゃってるからもうそんな派閥わけも無効だよなあ。そのうえでみんながみんな自前のウェブサイトでインタビューとか発信するようになってくると、どういう手段でファンへメッセージを発するかで如実にミュージシャンのスタンスが出てくる感じはするね。あくまでファンとのコミュニケーションという点に限って言えば、テレビ、ラジオ、ウェブとメディアを横断して「公」の領域をうまく使っていく椎名林檎に対して、プラットフォームを通じて直にメッセージを届けようという米津玄師(あるいはいわゆる「98年組」で言うなら浜崎あゆみ)という対はできるのかもね。星野源椎名林檎寄り、とか。

 まあ、しょうもない与太話ですが。

コメントは受け付けていません