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月: 2017年2月

ロックンロールとトーン・クラスター(ヴェルヴェッツに関する覚書)

Velvet Underground & Nico-45th Anniversary

 いまさら言うことでもないだろうが、Velvet Underground(以下、ヴェルヴェッツ)の音楽性は混乱していると思う。一方にはダウナーで退廃的な1stがあり、もう一方には作りかけの甘ったるい珠玉のポップスが散りばめられた4thがある。一方にはノイジーでヒステリックな2ndがあり、もう一方には静寂さえもその内に畳み込んだ謎めいた3rdがある。プロデューサーであるウォーホールとの軋轢、あるいはメンバー間の音楽性の違い、などといったバンドそのものの紆余曲折が音にも反映されている、というのはあまりに図式的な、ありきたりな話ではある。

 僕がヴェルヴェッツの偉大さを感じるのはとりわけ上に掲げた“I’m Waiting for My Man”を聴いたときだ。ロックンロールという音楽の持つ形式をとことんまで誇張しきった成果がそこにあるように感じられる。

 ロックンロールの核をなすのは、グルーヴを寸断するカッティング・ギターである(と断言してみる)。軽快な循環的コード進行とエイトビートのリズムは水平的、ないしは回転運動的なグルーヴを常に生み出し続ける。そこに楔を打ち込むかのように、ギターのリフが重なる。たとえばチャック・ベリーがさりげなくリフに組み込むシンコペーションは、水平的なグルーヴの力点を垂直の力で常にずらし、断絶を生み出す。*1その瞬間に生まれるスリルこそがロックンロールなのだと思う。

 ひるがえって“I’m Waiting for My Man”では、ギターやヴォーカルをのぞく各楽器がまったく同じ8分音符のフィギュアを絶え間なく刻むことによって、ロックンロールはトーン・クラスターの連なりへと変容してしまっている。ひずみを全面に押し出したローファイな質感も、本来ならば和声的なはずの響きをノイジーなクラスターに近づけている。もはやそれは水平方向と垂直方向の運動のあいだに生まれる緊張関係を越えていて、クラスターの連なりそのものが前進し続けるかのようだ。

White Light White Heat

 ウォーホールのプロデュースを抜け出した2ndは、そのヒステリックなまでにノイジーな録音もあいまって、「クラスターの連なりとしてのロックンロール」というコンセプトを見事なまでに完遂している。同時代、ないし一世代あとのアート/ミニマル志向のロック(たとえばクラウトロック)が概して、ドローンが持つ豊かな倍音構造とか、反復パターンのつくりだすモアレのなかをサイケデリックにトリップする方向に向かいがちなことを考えると、ヴェルヴェッツのミニマリズムは特異だ。

E2-E4 – 2016 – 35TH ANNIVERSARY EDITION

 ヴェルヴェッツのミニマリズムは反復への陶酔であるとか、プロセスへの没入といったものとは無縁である。それはむしろいまここの連続性を断ち切って、クラスターが響くごとにそのプロセスをやり直す。ロックンロールのスリルがそのグルーヴにではなく、グルーヴの切断のほうへと導かれ、最終的には、徹底的な、しびれるほどの退屈さと化す。不思議なことに、その退屈さは聴くものを熱狂させてやまないのだ。

*1:水平/垂直という比喩はメロディ/和声みたいな対立と等価なものとして広く使われている… ように思うが、とくにここではそれを拡大して、時間軸方向を「水平」、ある時点で鳴る音の連なりを「垂直」として用いている。要するに右方向に進行していくピアノロールを思い浮かべて貰えればいい。チャック・ベリーのギターはその垂直方向に分節を刻み込んでいく。

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思弁的メロドラマ(けなしているわけではない)――テッド・チャン『あなたの人生の物語』について

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

 映画の日本公開はまだ少し先だけれど、アカデミー賞ノミニーにも選ばれていたし、そもそもそのタイトルからいろいろと気になっていたので読んでみた。長編を読むのはなかなかしんどい体調が続いており、あわせて買った『虐殺器官』はそれゆえまったく読み進められる気配がないが、こちらはわりとすんなり読めた。

 世間でこれらの作品がどういった評価を受けているのかについては寡聞にして知らないけれど、表題作「あなたの人生の物語」に関して言えば、あらかじめ期待したほどには感心しなかった。なるほど、基本的なアイデアは面白い。とくに、ある物理現象は因果論的(AのせいでBが起こる)にも目的論的(Bが起こるためにAが用意される)にも記述できる、という点に着目してみせるあのくだりには興奮した。また、強いサピア=ウォーフ仮説にのっとったような、言語習得に伴って主人公に起こるある決定的変容、というプロットも(その変容の描写も)上手いな、と思う。しかし、ネタバレ全開になるけど、異星人との接触によって地球人とは違う時空間構造のなかを生きるようになる、というアイデアについていえば、カート・ヴォネガットの諸作品におけるトラルファマドール星人のそれを思い起こさずにはいられない。しかも話の落とし所もちょっとそういうところがある。So it goes.というやつだ。あらかじめ未来がすべてわかっていたとしても、もしかしたら異なる未来を歩きうるとしても、世界がそうなっているからには、そうすることをためらわずに選ぼう。それが悲壮なものであれ幸福なものであれわたしはそれを選ぶのだ、と。ニーチェ流の永劫回帰に対する絶対的な肯定というか。ただヴォネガットスラップスティックなユーモアの奔流のなかにこのメッセージを忍ばせるのに対して、チャンはいささかメロドラマめいた叙情性を通じて、露骨に語り手に吐露させてしまう。というとけなしているように聞こえるかもしれない。しかしドラマとしてはかなりよくできている。あらゆる要素が最後のイェスに集約されるために組み立てられていて、その緻密さには舌を巻く。うーん、しかし、ウェルメイドなメロドラマ(というかホームドラマ)のパーツパーツがSF的なギミックに置き換えられている感じがしてなにか食い合わせが悪いように感じる。これを食べづらい材料をおいしく料理した逸品、と思う人もいるかもしれないが、しかし。

 このメロドラマ性とSF的(というか「理系的」)なギミックの組み合わせが持つやな感じが最も押し出されているのは「ゼロで割る」だと思う。19世紀末~20世紀初頭にかけての数学のいち大転換(いわゆる不完全性定理ヒルベルト・プログラムの挫折)の歴史的記述に導かれるように、とある夫婦の終わりが語られる。妻である数学者は、この学問の正当性を根底からゆるがすある証明を発見してしまったのだが、数学にほとんどすべてを献身してきたがゆえに、日常生活を支障をきたすほどに衰弱してしまう。妻の失望があまりにも本質的であるために、夫が妻を支える術はもはやない。それで離婚に至るだろう会話がはじまるところでこの物語は終わるのだが、正直なにを言いたいのかわからない。たしかに自分の信念を支えてきたものを自ら否定してしまうというのは親殺しのようにむごく絶望的なプロットなのだが、彼女はそのような発見をするような天才であるにもかかわらず、その発見を乗り越えるほどの知的好奇心を持ちあわせていないという点でなにかその人物像はいびつであるように思える。それほどまでに彼女の発見が決定的だったということだろうが……。ひとつの学問を殺してしまうような直観を持ちながら、ひとつの学問を自ら殺してしまったことを受け入れきれない、という意味では主人公の苦悩はきわめて人間的ではあるのだが、そうするとこの作品が描いているのは人間の責任能力の限界であって、数学という学問に象徴される知性や理性の限界ではない。そう考えてしまうと、理系的な要素として挿入されるエピソードも通俗的なメロドラマの一種にしか見えなくなるし、結果として物語としてはあまりにもくどすぎるものになる。SF的ギミックがメロドラマに新鮮な息吹を吹き込んでいた(あるいはSF的アイデアにメロドラマとしてのストーリーテリングの完成度を接続した)という点で表題作のほうがずいぶんと完成されている。というか、不完全性定理以後の数学には美が消えてしまったとでも言いたげな作者の覚書にはちょっと辟易させられた。数学は不完全なので全部幻で妄想にすぎない、というのはあまりにもナイーヴなのでは?

 と、これら2作品をこんなふうに評してしまうとテッド・チャンが嫌いであるかのように思われそうだが、ものすごく好きな作品もある。たとえば「理解」は、脳のリミッターを外した中二病患者がぐんぐん能力を拡大していって、「全盛期のイチロー」も真っ青なスーパーマン化してゆく、ほとんどスラップスティックな描写が炸裂している。“Understand”という原題が使われるタイミングも見事。しかしこれを説明的に訳してしまうとインパクトが薄れそうだから、訳者の人は困ったろうなあ、と思う*1。20分くらいのショートフィルムにして撮ってほしい。また、「七十二文字」の遺伝子工学錬金術をかけあわせたような科学の世界はぞわぞわ、わくわくする。なにがなにのアナロジーで、どういう意図がこめられていて… などということを考え始めると止まらないのだが、現実世界に変に結び付けず、主人公は彼の世界のなかで選ぶべき独創的な技術を生み出そうと歩み出して終わるのがまたいい。「バビロンの塔」のファンタジー描写もたまらない。オチはとってつけたようなところがあり、「ゼロで割る」と相通ずるやだみが感じられるけれど、描写は圧倒的だ。「地獄とは神の不在なり」も天使の降臨が日常茶飯事となった世界で繰り広げられるひとつの群像劇という設定がすごく面白かった。神学的にどうこうはわからないが、聖書で描かれるような奇跡がほんとにしょっちゅう起こってたらどんなことが起こるのか、という思考実験が、よく物語に生かされている。「顔の美醜について」も、かわいらしいじゃないですか。こんな作品ばっかりだったらアレだけど。NHKでドラマ化してほしいね。

 とまあ作品集のなかでも「これはいい!」というのと「これはどうなの?」というのが入り混じっている、というのが率直な感想だ。本人もある程度意識しているだろうが、文学ではなく科学を手にしたボルヘスとでもいうべき想像力とファンタジックな情景描写は、これは凄いものだ。スーパーマン描写というのも、ある意味「記憶の人、フネス」を彷彿とさせるところもなきにしもあらず。しかしボルヘスがするような後味の悪い、薄気味悪い読後感を残すようなことがあまりないのが不満で、それは上で述べたようにこの人にはウェルメイドなドラマを書く才能があまりにも大きすぎるということに尽きるのではなかろうか。知らんけど。

*1:主人公に対峙するライバルは、主人公とのバトルで一言“Understand”と発する。すると主人公は、ライバルが巧みに自分の記憶のなかに埋め込んでいった伏線の意味をすべて「理解」し、そのために敗北してしまう。ここの一言は命令形で訳するのがもっとも文脈にそっているのではないかと思うのだが、原文にきちんとあたったわけではないので寝言です。

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