そのドラマーであり、アレンジやサウンド面のプロダクションの要を担ってきた高橋アフィが、Forever Lucky名義にて初ソロ作『UTAKATA NO HIBI』を2021年11月にリリースした。ビートテープ(ヒップホップなどのビートメイカーが自作のインストをまとめたもので、現在もしばしばカセットテープで流通する)にオマージュを捧げて編まれた本作は、ざらついたドラムのテクスチャが独特の雰囲気を漂わせる快作。軽やかで気取りないサウンドながら、浮遊するようなリズムとコード感に引き込まれる。
もともと高校時代吹奏楽部に入って、そこで打楽器に出会ってドラムを始めたのがきっかけですね。バンドをやりはじめたのも高校からで、はじめは普通のロックバンドが好きで、コピバンをやっていました。高校3年生ぐらいのときにはフリー・ジャズとかノイズにすごいハマって。自分もやってみようとするんですけど、そのライブっていうのが、盛り上がらない……(笑)。自分たちが下手だったこともあって、本当に「なんでやってるんだろう」っていう辛いライブが多かったです。一方その頃、ヒップホップとハードコアにもハマって、Struggle for PrideやTHINK TANKのライブによく行ってました。自分でもやりたいけれど、それならドラムじゃない方がよいかもと悩んでいました。
そんなある時、Struggle for Prideのライブの対バンで、Vermilion Sandsというダブバンドを観て、「あれ、ダブって、どの音楽よりも音量デカいかも」と衝撃を受けたんです。その流れでHeavy Mannersのライブも見に行ったら、信じられないくらいデカい音が鳴っていて、かつドラムやベースが中心の音楽で、お客さんも楽しそうに盛り上がっているしという踊っているライブを初めて観て。そこからレゲエとかダブをやるようになり、紆余曲折あって今、という感じですね。
(ジャズ系ライター・評論家の)柳樂光隆さんがハイエイタス・カイヨーテのドラマー、ペリン・モスにインタビューした記事があって(ハイエイタス・カイヨーテの魔法に迫る 音作りのキーパーソンが明かす「進化」の裏側 | Rolling Stone Japan)。そこで「ドラムを小さく叩いてマイクを思い切り近づけることでラウドな感じになる」と言っていたのを読んで、実験として自宅でドラムを叩いてみるようになりました。家に防音設備がないので、話し声ぐらいの音量で……いま話している音量(今回の取材はリモートで実施)と同じぐらいになるように叩いて、そこからマイクの距離とプラグインで音を上げていくんです。録音も、MacBook Proの内蔵マイクを使っています。大きな音を出すと割れちゃうので、ぎりぎり割れないくらいの、囁くような音量で叩いて録音しました。
デラーのおそらく最も有名な作品は、1980年代サッチャー政権下で起こった炭鉱労働者によるストライキにおける警官隊との衝突を再演 re-enact した《オーグリーヴの戦い The Battle of Orgreave》(2001年)だろう。イギリスには歴史的事件を当時のコスチュームなどに身を包んで再演する催しが文化として根付いていて、その愛好家やコミュニティが存在する(日本でも戦国時代とかの合戦を再現するお祭りとかあるけど、あれが草の根的に愛好家がいるみたいな感じか)。当時ストライキに参加した元炭鉱労働者に加えて、そうした愛好家たちを巻き込みながら、比較的近過去(なにしろ当事者はまだ存命である)をあたかも重大な歴史的事件のごとく再演していく。その様子は資料や記録を交えたインスタレーションや、ドキュメンタリーフィルムとして公開された。
デラーのアプローチは、《オーグリーヴの戦い》のように、イギリスのオーセンティックとされる歴史に近過去や現在をどのように結びつけるか? ということに要約できるように思う。そこにしばしばポップ・カルチャーが参照されるのも特徴的だ。初期の代表作である《世界の歴史 The History of the World》(1997-2004)は「アシッド・ハウス」と「ブラス・バンド」という一見つながりがなさそうなふたつの音楽を、様々な概念や社会・政治的な出来事をブリコラージュしてマッピングし、「実はこのふたつの音楽はつながっているのだ!」と主張するドローイング。ここから発展してデラーは《アシッド・ブラス Acid Brass》(1997-)というプロジェクトを実現させる。
この作品がすごく好きで、ぱっと聴いただけでも面白いし、全然ちがう二つの文脈がぶつかることで、あたかも孤立した、ないしは特定のナラティヴに囚われた文化にまた別の光が当たるのがすごく面白い(その意味では、ウィリアム・モリスとアンディ・ウォーホルを世紀と大西洋をまたいで並置しその類似点を探った《愛さえあれば Love Is Enough》(2015)も面白い。社会主義者と資本主義の権化が似通うとは)。
しかしもっとも印象的なのは、第一次世界大戦のソンムの戦いから100年のメモリアルとして企画された作品《ここにいるからここにいる We’re here because we’re here》(2016)だろう。イギリス中の街なかに、第一次世界大戦の戦士の紛争をした人々が突然あらわれる。かれらは特になにをするでもないが、話しかけたりアプローチした人にはソンムの戦いで戦死した人の名前が刻まれたカードが配られる。パフォーマンスは最終的に、「蛍の光(Auld Lang Syne)」のフシで“We’re here because we’re here…”と合唱して、絶叫して終わる。