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「DXP(デジタル・トランスフォーメーション・プラネット)―次のインターフェースへ」「コレクション展 2:電気-音」「特別展示:池田亮司」@ 金沢21世紀美術館

そんなわけで金沢21世紀美術館に行っていたのだが、目当ては《100 Keyboards》に加えてコレクション展と池田亮司。ついでに特別展も見てきた。

DXP(デジタル・トランスフォーメーション・プラネット)―次のインターフェースへ

「DXP(デジタル・トランスフォーメーション・プラネット)―次のインターフェースへ」はデジタルテクノロジーの現在をアートで見る、みたいなメディアアート寄りの展示だったのだが、これは非常に退屈だった。

DXP展は、アーティスト、建築家、科学者、プログラマーなどが領域横断的にこの変容をとらえ、今おこっていることを理解し、それを感じられるものとして展開するインターフェースとなります。

金沢21世紀美術館 | D X P (デジタル・トランスフォーメーション・プラネット) ―次のインターフェースへ

というけれど、「インターフェース」としての展覧会の限界を感じてしまう側面のほうが多かった。結局、部屋の中にオブジェクトや映像や文字を配置するという展覧会のインターフェースは問われることがなく(ARで参加を促したり(GROUP、河野富広など)、ゲームをプレイできたり(Keiken)といったものはあったけれど)、かといってそのインターフェースがうまく活用されているという印象も抱けず、言葉は壮大だけど実際の体験としては中途半端、みたいなよくなさ。

シュルティ・ベリアッパ&キラン・クマールのインスタレーションには惹かれたのだけれどもっと空間的な余裕を持って展開されるのが見たかったし、AFROSCOPEのデジタル絵画が液晶ディスプレイのスライドショーで見せられるだけというのはもったいなかったのではないか(そのような展示の条件が提示されていたのかもしれないが)。

解説を読んでいても、なんかどうなんだと思うことが多かった。

レフィーク・アナドールの脳波の運動を可視化した映像とオブジェクト(《ニューラル・ペインティング》)について「視覚化されることで直観的に体験できる」みたいに書いてあったのだけれど、視覚化されたからといって体験できるわけじゃないだろ、というか、その体験は少なくとも「追体験」ではないし、ある状態の脳波に対する理解でもない。可視化することでなんとなく「直観的に体験」した気になれてしまうこと自体に対してちょっとどうなの? って言うべきなんじゃないか。これはビッグデータ可視化系の作品だいたいに言えることなんだけど。

メルべ・アクドガンの廃墟の写真を生成AIを使って復元する作品《ゴースト・ストーリーズ》についても、次のような解説(公式サイトより)はちょっと迂闊じゃないかと思う。

様々な社会的しがらみや先入観により行き詰まる建築の再生を、AIを介することで一足飛びに、新鮮なイメージをアウトプットします。建築という容易には変えがたい対象に対して、ビジュアルで訴えかけることの重要性だけでなく、先入観を超えた先に希望を見出そうとする、AIを介在させることで獲得できる新しい可能性を示しています。

同上

アクドガン本人がどう言っているのかはちょっと調べただけではわからないのだけれども、「AIを使えば先入観のない画像が生成できる」という素朴な楽観論をいまどきアーティストや研究者がとるだろうか……。

コレクション展 2:電気-音特別展示:池田亮司

どちらかというと目当てはこっちだった。

出ている作品は割とすきなものが多くてよかったのだけれど、ジョン・ケージや塩見允枝子、田中敦子のインターメディア的な表現であったり、カールステン・ニコライや毛利悠子、涌井智仁などをはじめとするサウンドや電気信号の物質性や現象にフォーカスした作品は、それだけじゃなくなにか見せ方や語り方を変えていかないと難しいのではないかと考え込んでしまった。

気を抜くと「それはフェティッシュじゃん」みたいになっちゃうというか。フェティシズムも大事だし、っていうかそれぞれの作品が単なるフェティシズムだともまったく思っていないのだけれど、そこに感じているワンダーを他の文脈により開かれたものにしていく回路がもっとはっきり必要だよなと。コレクション展ということもあって既存のフレームを打ち破る見せ方というのはハードルが高いのかもしれないけれど。

招聘作家のひとり、小松千倫のサウンドインスタレーションとオブジェ(素材がひかりのラウンジの天井の木材でキャプションを二度見した。あとずんだもんの声しなかった?)は、個人的に覚えたそういう閉塞感に対して別の視座を持ち込もうという意識が感じられておもしろそうだったけれど体力的にあまりじっくり見れなかった。もう一度見に行こうとしたけど断念。無念……。

あとシンプルに田中敦子のベルがクソうるさいのはめちゃくちゃよかったです。

さて池田亮司。案の定あまり好きではなかった。どんなビッグデータを扱おうとも池田亮司色になるやん。っていうのは作家としては長所でもあり、あれだけ明確なシグネチャーと美的なジャッジがあると見てられるんだよな。その強さはすごいと思う。

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[Soundmain Archive] 高橋アフィ(TAMTAM)インタビュー ドラマーとしての経験から紐解く、サウンドメイクにおける“質感”の重要性(2022.01.21)

初出:2022.01.21 Soundmain blogにて。
可能な限りリンクや埋め込みは保持していますが、オリジナルの記事に挿入されていた画像は割愛しています。

東京を拠点とする4人組、TAMTAM。レゲエ/ダブをルーツに、R&B、ジャズ、エレクトロニックなダンス・ミュージックまでを貪欲に取り入れたハイブリッドな音楽性をポップに響かせるまさしく「フィール・グッド」なバンド(公式プロフィール参照)だ。

そのドラマーであり、アレンジやサウンド面のプロダクションの要を担ってきた高橋アフィが、Forever Lucky名義にて初ソロ作『UTAKATA NO HIBI』を2021年11月にリリースした。ビートテープ(ヒップホップなどのビートメイカーが自作のインストをまとめたもので、現在もしばしばカセットテープで流通する)にオマージュを捧げて編まれた本作は、ざらついたドラムのテクスチャが独特の雰囲気を漂わせる快作。軽やかで気取りないサウンドながら、浮遊するようなリズムとコード感に引き込まれる。

今回は、そのユニークな制作プロセスについて深堀りしつつ、ドラマーという経験に根ざした、サウンドに対する高橋ならではのアティチュードを語ってもらった。

「デカい音」を追い求めて出会ったダブ

まず、オーソドックスな質問になりますが、ドラムをはじめたきっかけについて教えて下さい。

もともと高校時代吹奏楽部に入って、そこで打楽器に出会ってドラムを始めたのがきっかけですね。バンドをやりはじめたのも高校からで、はじめは普通のロックバンドが好きで、コピバンをやっていました。高校3年生ぐらいのときにはフリー・ジャズとかノイズにすごいハマって。自分もやってみようとするんですけど、そのライブっていうのが、盛り上がらない……(笑)。自分たちが下手だったこともあって、本当に「なんでやってるんだろう」っていう辛いライブが多かったです。一方その頃、ヒップホップとハードコアにもハマって、Struggle for PrideやTHINK TANKのライブによく行ってました。自分でもやりたいけれど、それならドラムじゃない方がよいかもと悩んでいました。

そんなある時、Struggle for Prideのライブの対バンで、Vermilion Sandsというダブバンドを観て、「あれ、ダブって、どの音楽よりも音量デカいかも」と衝撃を受けたんです。その流れでHeavy Mannersのライブも見に行ったら、信じられないくらいデカい音が鳴っていて、かつドラムやベースが中心の音楽で、お客さんも楽しそうに盛り上がっているしという踊っているライブを初めて観て。そこからレゲエとかダブをやるようになり、紆余曲折あって今、という感じですね。

Heavy Mannersのライブ映像(2012年、長野「OnenessCamp」)

今はTAMTAMとして活動されていて、特に近作ではダンサブルなサウンドを追求している印象だったんですが、もともとはノイズとかフリーキーなカルチャーからダブにハマっていったんですね。

ざっくりいうと、デカい音を鳴らしたかったんです(笑)。ドラムをはじめた当初も、Radioheadとか、ギターがデカい音を鳴らしているバンドが好きで、より激しい音楽をつきつめたらノイズとかインプロに行ったんです。そこからは「大きい音量でいかに受け入れられるか」が目標でしたね。

高橋さんはサウンドのプロダクションに着目した聴き方をよくされていて、そうした観点をふまえて記事の執筆などもされていますよね。そういった分野に関心をもつようになったのはなぜでしょうか。

ドラムを演奏していることからですかね。個人的にドラムって最も録音の影響を受けやすい楽器だと思っていて。ポップスで使う楽器は、ギターもボーカルもアンプやマイクを通した電気的に増幅された音が基本で、演奏者はその増幅された音を聴きながら演奏していますよね。もしくはシンセなどのライン楽器のように生音が無い楽器か。ドラムは楽器自体の音が非常に大きいので、ドラマーは基本的に楽器の生音を直接聞いているんです。ただレコーディングやライブだとマイクを必ず通すので、結果自分の聞いた生音とは多かれ少なかれ音が変わっているんですよ。

TAMTAMのライブ映像(2019年)

世のドラマーがみんなそうかはわからないんですけど、自分の叩いた演奏、自分の耳で聞いた演奏がそのまま録音されているということが感覚的に少ない。いまのポップスだと、スネア・バスドラ・タムなどにそれぞれマイクを立てて、それをドラムというひとつのパートとして擬似的に再構築しているような録音が基本になっている。それにすごく違和感があるというか。

はじめは、自分が演奏しながら体感している音と、録音されてまとまった音に差があるのがすごく気持ち悪くて。プロダクションやミックス含めた音作りを気にしないと自分のやりたいことができないなと思って、録音のことが気になりはじめたんです。自分の演奏したと思っているものと全然ちがうものが聞こえている、というのをいかに同じような音が鳴るようにするか、あるいは録音での変化をどういうふうにポジティブに使うのかを考えるようになったということですね。

高橋さんのnote。デイリー・プレイリストや月ごとのベスト・アルバムなど、充実の記事が並ぶ。

note(ノート)

高橋アフィ|note

『UTAKATA NO HIBI』ができるまで

『UTAKATA NO HIBI』はご自身でドラムを演奏して制作したビートテープです。まず、制作にいたった経緯をお聞きしてもいいですか。

もともと、今年の7月とか8月ごろに個人的にカセットテープブームが再燃して。それをきっかけに自分でもカセットテープを作ってみたいなと思い、ただ自分一人だとなかなか腰が重そうなので、周りを巻き込む形でTAMTAMのメンバーに「カセットテープでソロをつくろうよ」と誘ったんです。中目黒のwaltzやOdd Tape Duplicationという戸田公園にあるカセットテープ専門店でビートテープをよく買っていて、「カセットテープといえばビートテープ」という自分のイメージもあってこういうかたちになりました。

はじめてのソロ作品でもありますが、特にソロとして意識したことはありますか。

「ひとりでつくる」ことを目標にしたのが大きかったです。いつもはバンドなのでそれぞれプレイヤーがいるんですが、僕は鍵盤やギターは全く弾けないんですよね。なので様々なサンプルを使用して、ピッチを変えたり切ったり貼ったりして制作しました。基本的にSpliceのものを使用しています。あと、TAMTAMだったら展開ありきというか、ポップス的な聴かせ方も意識するんですけど、逆にそれをやらないことで、短いビートをどんどん並べるという形式になりました。

収録曲のタイトルが全部日付らしき8桁の数字ですよね。『UTAKATA NO HIBI』というタイトルもあいまって、日記みたいなコンセプトなのかなと。

タイトルは作成日です。“-2”が入っているものはその日2個めのビートという意味ですね。日記的なスピード感もひとつのテーマとしてあって。ビートテープの良さって、つくってからすぐに届くみたいな、産地直送の親密な感じにあると思っていて。毎日録って、一日二日ぐらいで仕上げてすぐにまとめて出す、みたいなやりかたでつくりました。

MacBook Pro内蔵マイク(!)がつくる独特のニュアンス

今回の制作環境についてもお伺いしたいです。ドラムの演奏も含め、ご自宅で制作されたんですよね。

(ジャズ系ライター・評論家の)柳樂光隆さんがハイエイタス・カイヨーテのドラマー、ペリン・モスにインタビューした記事があって(ハイエイタス・カイヨーテの魔法に迫る 音作りのキーパーソンが明かす「進化」の裏側 | Rolling Stone Japan)。そこで「ドラムを小さく叩いてマイクを思い切り近づけることでラウドな感じになる」と言っていたのを読んで、実験として自宅でドラムを叩いてみるようになりました。家に防音設備がないので、話し声ぐらいの音量で……いま話している音量(今回の取材はリモートで実施)と同じぐらいになるように叩いて、そこからマイクの距離とプラグインで音を上げていくんです。録音も、MacBook Proの内蔵マイクを使っています。大きな音を出すと割れちゃうので、ぎりぎり割れないくらいの、囁くような音量で叩いて録音しました。

MacBook Proの内蔵マイクで録音した、というのはTwitterなどでも言及されていましたね。音質はもちろん、物理的に置ける場所が限られるのでマイキングの自由度も狭まるんじゃないかと思うんですが……。

そうなんですよね。モノラルだし、ゲインもないからすぐ割れてしまう。ただざらっとしたローファイな感じを出そうとしたときに、内蔵マイクが一番そのニュアンスを出せたんです。あと、自分で演奏するんだったら、音量調整が効くじゃないですか。他の人にこの小さな音量で叩いてもらうのは大変ですけど、自分で叩くならやれるというか、マイキングに合わせて演奏を変えることで自分で責任をとれる。

実際に録音して手応えはいかがですか。

手作り感のある音が魅力的に、ざらっとしている感じでまとまればいいなと思っていたんですが、期待している以上にちゃんと録れました。iPhoneで録ったドラムよりももっとローファイな、ちょっと割れちゃってるけどそこ含めて“思い出感”のある音で。プレイヤーであると同時にドラムの録音の質感こみで狙ってつくったので、そういう意味で演奏としてもサウンドとしてもおもしろいものになったかなと。

iPhoneで録ったよりも……とおっしゃいましたけど、Macbook Pro以外にもいろいろと試されたんですか。

iPhoneは一度やってみたんですが、うまく音が割れなくてやめちゃったんです。意外にハイファイだったんですよ。普通にマイクを立てたりもしていたんですけど、小さい音量で叩いているニュアンスを入れようとしても、思ったよりちゃんと録れてしまう。

マイキングは本当に難しくて。『UTAKATA NO HIBI』の制作後、TAMTAMで昨年の10月にBADBADNOTGOODのカバーを撮影したんですが、そのときはドラムにちゃんと2本マイキングしました。そのあたりでやっと、マイクでも自分が求めているローファイな感じで録れるようになったんです。

TAMTAM – Signal From The Noise (Rework of BADBADNOTGOOD)

内蔵マイクでの録音はひとりで叩くからこそできるというところもあって。MacBookでの録音が一番欲しいニュアンスを出してくれるということはその時点でわかっていたんですけど、TAMTAMでやってみたら他の人の音をすごく拾っちゃったんです。そういう意味で、ひとりで、静かなときに録るからこそできる方法ですね。猫を飼っているので、猫が鳴いたりするとその声が入っちゃいますが……今回のビートテープも1曲ぐらい鳴き声が遠くに入っちゃってます(笑)。

あと、叩いた演奏としてはよくても、ビートメイカーとしてはミックスがめちゃくちゃ大変ということもあって。そもそもモノラルだし、いい演奏だなと思ったものを次の日聞き返したらバスドラが全部割れていて、それをどうやって解消するかみたいなこともあったりして(笑)。結果ものすごく遠回りしてつくった気もしています。

「ドラマー」と「ビートメイカー」、2つの顔が補い合う制作プロセス

演奏して「録れたな!」と思う感覚と、ビートメイカーとしての困難はまた別というのは面白いですね。小音量で、MacBook Proの内蔵マイクにあわせた演奏をしてみるということのほかに、今回の作品でドラマーとして意識したことはありますか。

いままでソロでなにかつくるときには、ドラムを叩かない音楽をやっていたんです。DAW上で最初から最後まで完結できる、プレイヤー的な自分が出ないものを。だから、ドラムを叩くということ自体がかなり挑戦だったというか。

今回は基本的に「先にビートをつくって最後にドラムを入れる」というつくり方をしているんですが、先につくっておいたビートや展開を、自分の演奏を加えることでどうやって生々しくしていくかを意識して演奏しました。どうしても、打ち込みだけでつくるとシンプルでさらっとしたトラックになりやすいんです。そこにドラムで生々しいニュアンスを入れていく。

トラックをつくってからドラムをかぶせる、という方法をとった理由はあるんですか。

単純に、ドラムだけ先に録ると、自分でもなんだかよくわからない……っていうのもあれですけど(笑)、ドラムから発展させるやり方だとビートが主役にならないと思ったのが一番の理由です。あと、先にトラックで無茶振りをしておいて、それに自分が一番触れている楽器であるドラムをあわせていく……融通がきくパートとしてドラムを使う、このやり方がドラマーである自分を活かせるなと思って。

一方、ドラマーとして演奏する以外にも、ビートメイカーとして作品に向き合う時間も多かったと思います。ビートメイカーとしてはどんなことを意識しましたか。

内蔵マイクの録音だったので、ドラムに全然ローがないところに無理やりローを出すとか、ローファイ感を気持ち良く聞こえさせるのを、ミックスで意識しました。録り音から特徴があるので、その面白さを残しつつ、綺麗にしていくことを目標にしましたね。サンプルをつかうときには、ドラムの質感に合わせるためにかなりプラグインを多用して。ローファイなドラムがメインなのにハイファイな音がうしろで鳴ってるというのは気持ち悪いなと思ったので、距離感とか解像度の調整みたいなものはすごく時間をかけたかな。

あと、Ableton Liveにデフォルトで入っているSamplerというインストゥルメントを使って、できる限りもともとのサンプルから離れるように、加工してから使うようにしました。Samplerはサウンドのエディットがやりやすくて。個人的な好みなんですけど、「面白い箇所をサンプリングしている」というよりは「加工してちょっと変に使っている」っていうのが、すごく好きなんです。それこそスクリューとか。どのサンプルも、元ネタそのままでなく「ああ、こう変えたのね」っていうのがわかる、むしろ元ネタを聴いてもどう変えたかたどり着かないように、というのはすごく意識しました。

Ableton公式による「Sampler」の解説動画

今回の『UTAKATA NO HIBI』はもちろん、TAMTAMのアルバム『We Are The Sun!』(2020)をリアレンジした『~Home edition』でもDIYでミックスをされていますよね。取り組んでみて、いかがでしたか。

「どこかに負担がかかりそう」みたいな手法が試せるのがDIYの最大の良さかなと思います。それこそ、小音量でドラムを叩いてガサガサした音で録音するというのは、ミックスにもプレイヤーにも負担がかかるやり方です。そういうやり方でも、DIYならトライ・アンド・エラーを繰り返しながらできる。

あともうひとつ、個人的に現代の音楽の大きなトレンドのひとつとして「質感」があるかなと思っていて、DIYだとそこにアプローチしやすい。ローファイにしろ、hyperpop的なエッジな音にしろ、昨年話題になったrage beat(参考:【コラム】What is “RAGE Beat”? – FNMNL)なんかも音色ありきの音楽じゃないですか。

質感の追求は演奏のみで完結することが少ない……つまりミックス段階での追求になりますよね。外部にすべてミックスを頼むとどうしても時間も手間も必要だし、新たなことをやろうとすれば、結果的に自分もかなりミックスに関わることになる。そういう意味で、自分の好きな質感をある程度まで追求できるというのも、DIYでやれる良さだと思います。特異な音でなくても、昔の、それこそビートルズにせよソウルの名盤にせよ、かなり特殊で面白い録り方をしているものが多い。DIYなら、そういうヴィンテージ的な気持ち良さにも少しでもアプローチできる可能性がある。

TAMTAM – Worksong! (Home Edition) #StayAtHome #WithMe

noteに「2021年お世話になったプラグイン10選」という記事も上げられていましたけど、DIYでミックスまでやるようになってから、そういった情報も以前より収集するようになりましたか。

そうですね。その過程で、自分のなかで「いいな」と思っていたものが実はひとつのプラグインでだいたい解決している、みたいなことに気づくこともあって。買って使っていくうちに、「ああ、これって結局このプラグインっぽいってだけか」といった話がわかるようになるので、たとえば外部にミックスを頼むときも、ある程度話がしやすくなるというか。

たとえば、自分でやるまではダブラー(エフェクターの一種で、同じ内容の演奏を重ね録りすることで音の厚みや空間の広がりをつくる「ダブリング」の手法を再現するもの)がどういうものかとかも全然わかっていなかったんです。それまでは「ちょっと左右に広がって気持ち悪い感じにしたくて」みたいな話をして、「この音源とかこの音源とかみたいな……」と伝えていたのが、「ダブラーをかけてください」と伝えられるようになった。すごく進みも早くなったし、自分でやったうえでエンジニアの人にわたすというやり方もできるようになって、エンジニアからさらに尖ったアイデアが出る時もある。DIYである程度のレベルまでもっていったうえでエンジニアと一緒にやっていくみたいなやり方が、今後は自分に限らず基本になっていくのかなと思いますね。

ありがとうございます。ちなみに、このサイトの読者にはDAWでのプロダクションに通じた人が多いこともあり、今回制作で重宝したプラグインを挙げていただけるとうれしいです。

特に重宝したのは、次の2つですね。

AudiThing「Speakers」
https://sonicwire.com/product/A9381

wavesfactory「Casette」
https://www.wavesfactory.com/audio-plugins/cassette/

プレイヤーだからこそ磨かれた「音色」へのアンテナ

こういう話も聞きたいなと思っていたことがあって。ドラムにかぎらずベースやキーボードのプレイヤーが演奏動画をSNSやYouTubeにアップして、そこから注目を集める人がでてくる、という動きがありますよね。高橋さんはどういうふうにご覧になっていますか。

そういう動画を僕が知ったタイミングだと、ドラムだとゴスペル・チョップス系のドラマーが、何人かでフィルインやドラムソロを重ねていく“Shed Sessions”系が多くて。テクニックを中心に見せる、あくまでプレイヤーからプレイヤーへのコンテンツというところが強くて、あまりハマれなかったんです。ただ、最近だと、JD Beckなんかがわかりやすいと思うんですけど、SNSでシェアされるくらいの短さに収めるようなタイム感がそのまま音楽性につながっているようなプレイヤーが増えてきたと思います。それはクリエイティブだし新しい価値観の音楽だと思って、ものすごくハマっています。

ドラマーであるJD Beckは、シンセのDOMiとのユニット「DOMi & JD BECK」としてYouTubeチャンネルを持っている

あと、Nate Woodみたいに、ドラマーとしてのパフォーマンスを活かしながら自分ひとりで曲もつくる、という人も。彼のつくるリズムキメキメの曲は、「ドラマーが演奏するための曲」だからそうなっているのかなと思っているんですよ。そういうふうに、プレイヤー的な視点から自分の音楽性を作っていく/活かしていく流れが進んでいくと面白いなと思っていて。演奏をシェアするだけじゃなくて、曲を作って演奏している人たち……限られた短い時間のなかで自作曲をやろうとしているような人たちに、とくに注目していますね。

Nate Woodのパフォーマンス。同時に複数の楽器を操り重ね録りしていく様は驚異的のひと言

やや大きい質問なんですけど、ドラマーであり、ご自身で録音やビートメイクもするという立場から見た、昨今の音楽シーンで注目しているアーティストやシーンがあれば伺いたいです。

録音的な観点でいうと、さっき言ったような産地直送、できたてが届いているみたいな感覚があるものがいいなと思っていて。たとえばdeem spencerは、トラップ的フォーマットを軸としながら、ローファイな宅録っぽさが良いなと思って聴いています。声の処理が私小説みたいなんですよね。あと、昨年ようやくDean Bluntにすごくハマって。「プライベートでつくったものを勝手に聴いている」みたいな感覚があって、すごく面白い。Nick HakimのKEXPでのライブ動画もすごくよかったですね。マイクも少ないし音も割れているんですけど、その生々しさが最大の魅力になっていて素晴らしい。そういったところに注目していますね。

コロナ禍の2020年夏に配信された、Nick Hakimのホームスタジオからのパフォーマンス

最後に、ドラムをやっていて、ドラムを叩くという経験があってよかったな、ということはありますか?

録音の仕方次第で出来が変わったり、制作で一番音色に気をつける必要があるのはドラムだと思うので、そういうところに細かく注目するようになったことですね。それこそ、ダンスミュージック系だと、バスドラの音ってすごく重要じゃないですか。ジャンル性を作るのがリズムの音色で、つまり楽器だとドラムなんですよ。音色が大事だと思える感性、そういうことをビビッドに感じられるようになったのは、ドラムをやっていてよかった一番のところかなと思います。

取材・文:imdkm

高橋アフィ プロフィール

TAMTAMのドラマー/マニュピュレーターであり、Forever Lucky名義でソロ活動中。Homemade cassette tape lebel”ZiKON International”主宰。好きな音楽は新譜、趣味はYouTube巡り。

Twitter : @Tomokuti

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「自治とバケツと、さいかちの実-エピソードでたぐる追廻住宅-」@ せんだいメディアテーク

せんだいメディアテークの正面に掲示された、展覧会「自治とバケツと、さいかちの実」のポスター

仙台経由で金沢に行ったので、帰りがけにせんだいメディアテークに寄った。そこでたまたまやっていた「自治とバケツと、さいかちの実-エピソードでたぐる追廻住宅-」(11月3日(金・祝)~12月24日(日)まで)を見たのだが、思いの外よかった。

戦後に「応急簡易住宅」として住宅が建てられ、戦災にあったひとや海外からの引揚げ者が暮らした、仙台市の追廻住宅。しかし暮らしが成立するとまもなく市の緑地計画の対象となり、立ち退きを迫られ……と国や行政に翻弄されながら団結して営んできた暮らしの記録と記憶を展覧会に構成したもの。アーティストの佐々瞬と伊達伸明が構成・制作を担当している。

追廻の前史や住民たちが編んだ追廻40年史を年表や歴史資料を使って淡々と提示するイントロダクションを抜けると、追廻の歴史と暮らしを再構築したインスタレーションが展開される。公式に書き残される記録からはこぼれ落ちるディテイルを、会場内に散りばめた断片的なエピソードを通じて示すのも良いし、そこにあんまり公に残らなさそうな陰影が落とし込まれてるのも良かったと思う。

2023年現在、追廻住宅があったところは青葉山公園になっている。戦後にふっと誕生し、終戦から70年を経てなくなってしまったコミュニティのことを思うと少しビターな気持ちになる。仙台市民ではないから追廻のことはまったく知らなかったけれど、訪れていたお客さんのなかには、なにか懐かしがっているらしい人もいたので、仙台の人にはまたちがった見え方がしたのかもしれない。

言ってしまえば、日本ではいわゆる「地域アート」にしばしばみられる、地域のリサーチをベースとしたインスタレーションと言ってしまえるのかもだけれど、それが追廻住宅というコミュニティの歴史を再構築して残す試みと、うまくマッチしていた。コンテンポラリーアートの文脈から外れて、地方都市の文化複合施設であるせんだいメディアテークのミッションとちゃんとシナジーを起こしてるというか。

せんだいメディアテークは特に東日本大震災以後こうした記憶の問題に対して継続的にアプローチしていて、震災をアーカイヴする「3がつ11にちをわすれないためにセンター」だったり、開館20周年展「ナラティブの修復 せんだいメディアテーク開館20周年展」もそうした問題意識をもった企画だった(ざんねんながら見に行けなかったんだけど……)。特に、今回展示を構成した佐々と伊達は「ナラティブの修復」の出展作家でもある。

10のナラティブ。「ナラティブの修復」展に寄せて|美術手帖

当然、これを「アート」の土俵で語ろうとすればさまざまな批評が可能ではあるのだろうけれど、しかしこれを「アート」として語ることで見過ごされるものも多そうな気はする。さまざまなメディウムを複合的に空間内に構成し、ナラティヴを喚起するというインスタレーションの手法は、それ自体批判的な検討も行われて久しいが、一方で、そこでつちかわれてきたノウハウじたいはまだ使いようがいくらでもある。というようなことを思ったりした。ある意味「山形ビエンナーレ」もそういう志向があったか。良いか悪いかはぱっとわからないが、自分は好ましいと思う。

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ASUNA《100 Keyboards》 @ 金沢21世紀美術館

金沢21世紀美術館でのASUNA《100 Keyboards》、会場前の様子

2023年12月8日・9日にかけて行われた、サウンドアーティストASUNAのパフォーマンス《100 Keyboards》を見てきた。衝動的に2日ぶんのチケットを取ってしまって、「全通じゃん」と思ったが、じっさい2日間見ることができて大変良かった。良いパフォーマンスだった。

かんたんにパフォーマンスの概要を記すと、おもちゃの電子キーボードを100台以上放射状にならべ、アイスの棒でキーを固定してドローンを鳴らしていく。すると、たとえ同じピッチのキーを鳴らしっぱなしにしていても、キーボードの個体差や電池消費に伴う電圧降下、また空間内の反響などさまざまな要因によって、響きには音波の干渉によるうねるような「モワレ」が生じる。低い音域でのうねりと、より高い音域でのうねりが組み合わさって、ときにそれらのうねりがリズムに聴こえたり、シンプルなメロディに聴こえたりもする。

以上のように、《100 Keyboards》というタイトルやそこで示されているコンセプト、またどのような現象が起こるかは非常に明快で、ある意味ではコンセプチュアルでプロセス的な作品に思える。つまり、実現されるべきコンセプトがあり、それを忠実に遂行することによって、なんらかの現象が生起するプロセスを提示し、見守る、というような。1

パフォーマンス中のASUNA

しかし実際に見た《100 Keyboards》はもっとはっきりと「演奏」であり、ポストパフォーマンストークで畠中実さんがちらっと言っていたように、「世話をする」ような介入が細やかに行われていた。鳴らされるキーボードが徐々に増えてクレッシェンドし、おもちゃのキーボードから鳴っているとは思えないくらいの大音量に会場が包まれて、徐々に音が減らされて、静寂に戻る。90分ほどのパフォーマンスだが、思ったよりもあっという間に終わる。

パフォーマンス中は会場内を歩き回れたので、キーボードをじろじろ眺めながら耳を傾けてうろついていたのだが、コンクリートの床に汗が滴っているのが見えた。観客のものではない。寒さがすこし和らいだタイミングだったとはいえ、12月上旬の金沢、しかも会場の空調は切ってある。演奏者のめちゃくちゃな重労働がうかがえる。地べたに置いたキーボードを少しずつ鳴らし、音を決め、ピッチを決め、ときにはそれもいったんやめて鳴らすべき次のキーボードを探し…… と間断なく動き回る。

《100 Keyboards》をうまく鳴らすには、そのための経験と耳が必要になる。また、キーボードの個体差が大きいので、ひとつひとつの扱いを心得ていなければいけない。どう操作したらどの音が出るか、みたいなすごく具体的なレベルで。すぐに減衰してしまうピアノの音じゃこれできないものね。音響的なおもしろさ・豊かさも含めて、「コンセプトにのっとれば誰でも実現可能」という種類の作品とは性質の違うユニークなパフォーマンスだった。そしてそれは、キーボードひとつひとつが持つ来歴(そもそも中古品だからそのブツには固有の来歴があるし、人から譲り受けたものもたくさんあるという)と向き合う行為としても見、読むことができるだろう。

開演前に会場で誰かがリゲティ・ジェルジュの《ポエム・サンフォニック(100台のメトロノームのための)》(1962年)の話をしているのを小耳に挟んだのだけれど、あれはまさしくコンセプチュアルでプロセス的な作品だ。

一度100台のメトロノームをセッティングしたら、あとは各々のメトロノームが動きを止めるまでその現象を見守るしかすることはない。あるいはスティーヴ・ライヒの《振り子の音楽》(1968年)も同様に、スピーカーを仰向けにおいて、そこにつながったマイクを上から垂らし、振り子のように揺らすことで断続的なハウリングを起こして、しまいには(振動が止まることで)ハウリングの持続音に結末する。

見る前はどっちかというとそういう感じのイメージだったのだが、いい意味で裏切られた。

と同時に、その面白さはわかったうえで、「このパフォーマンスを誰かに委任することはできるのだろうか?」という問いも浮かび上がる。実際二日目のトークに登壇した佐々木敦さんがそんな提案をしていたけれど、「誰でも実践できそうなキャッチーさ」と「実際にパフォーマンスで感じられる面白さ」とのあいだをどう捉えるか? というのは実はこの作品を考えるときに大事なところのように思う。スコアにしたらしたで、まったく違うリアリゼーションが起こってきてそれも楽しい。インスタレーションにすれば観客の鑑賞の仕方も干渉の度合いも大きく変わる。けれどもASUNAさんのやる《100 Keyboards》の持っている面白さにまずはフォーカスするのがよさそうだ。

  1. ここでいう「コンセプチュアル」はおそらく一般的な用法とは異なっているかもしれない。ふつうコンセプチュアル・アートは概念 concept をめぐるアートだとか(コスース的なやつ)、脱物質化したフィジカルな支持体を持たないアートだ(ルーシー・リパード的なやつ)とか言われ、あるいは単純になんらかの伝えたいメッセージが明確に存在するという程度のニュアンスでも使われる(日常的にいわれる「コンセプチュアル」はだいたいこの用法)。どちらかというと自分はもともとフルクサスが好きだったので、スコアの遂行に審美的な判断を含めないジョン・ケージ~フルクサス的なリジッドさにもっとも「コンセプチュアル」なものを感じる。それはどっちかというとプロセスの美学というべきかもしれないが。奥村雄樹の「コンセプチュアル・アート」観にも大きく示唆を受けている。 奥村雄樹|コンセプチュアル・アートの遂行性 ── 芸術物体の脱物質化から芸術家の脱人物化へ (artresearchonline.com) ↩︎
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日曜日のプレイリスト #002

隔週で新譜を中心としたプレイリストを共有していきます。「今週の新譜!」という速報/時事ネタってよりは、直近数ヶ月で聴いたものをゆるっとキュレーションする感じです。

Apple Musicのプレイリストも添えたいんだけれどいまアカウントがなくって。どうしたらいいすかね?(アカウントなくてもプレイリストつくれる?)

SUNDAY PLAYLIST #002 2023/12/10 by imdkm

以下、各曲かんたんにコメント。

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書くことの力(文學界2020年8月号)元原稿

 以下は、文學界2020年8月号に掲載されたコラムの原稿である。校正前のデータから起こしたものであり、実際に掲載された誌面とは細かい差異がある。著作権の帰属は筆者にあるという認識のうえで、自己判断で転載する。

 Author’s Eyesというこの欄に与えられた紙幅は一頁、千二百字ほど。多少とも文章を書き慣れた人だったら、あっさり書けるだろう分量だ。文芸誌という場に慣れた人なら、気の利いた「視点」を織り交ぜた含蓄あるエッセイにまで仕上げることも造作ないかもしれない。しかしそんな文章を書いてみようという気にはそうなれない。

 「最近、文芸誌のリニューアルが続いてるし、なんかどさくさに紛れてエッセイの一本でもどこかに載らないかな」などと言っていたのはいつだったか。別に熱心な読者でもないくせに。冗談を装った驕りだ。しかしいざ「群像」から依頼があったときは笑ってしまった。世界自体が悪い冗談みたいだった。いや、依頼するほうも受けるほうも真剣ではあるのだが。「この自分が?」という居心地の悪さ。居心地が悪いなりに、書くべきと自分が思えることを書こう、と思って、自分が着ているTシャツに関するエッセイを寄せた。

 つづいて本誌、「文學界」である。悪い冗談その二。いやこちらも依頼するほうは真面目なのだろうけども。「そんなこと言って、たかだか一、二頁のエッセイじゃないか」と思われるかもしれない。それはある程度正しい。しかし、その「たかだか一、二頁」さえ割り当てられることのない人のほうがよほど多いのだ。安直にそういうことを言いたくはないし言うべきではない。「そう、貴重な機会だからがんばろう!」と今後のキャリアを見据えたポジティブシンキングも無理だ。しかし引き受けた。次のことを言いたいがためだ。

 書くことというのはそれ自体、力である。なんの力か、といえば権力にほかならない。間違っても能力ではない。上手/下手のような基準とは無関係だ。ある一定の領域を専有して自分の表現したいことを表現する。誰にも邪魔されずに。それが言葉である必要さえないと思う。その権力がどのように人びとへ配分されるか。権力の配分。これはまさに政治である。

 たとえ世に出すことを前提とせずにひっそりと書いていたとしても、それは潜在的に権力に関わる実践である、と思う。しかしとりわけその政治性が問題になるのは、書かれたものをひろく流通させる出版においてである。ZINEや同人誌、ひとり出版社のような活動が重要性を持つ理由はこの文脈のなかにあるし、インターネットの普及期、あるいはブログの普及期に一部の人びとが抱いた期待もこの文脈のうちにある。

 だからこの力をだらしなく行使しているとしか思えないような事例を見るとうんざりすることがある。特に、ベテランというか、書くことが習慣となった人特有の傲慢さを感じ取ったときに。もっと言えば、書けば読まれるとわかっている人の傲慢さ、か。手癖でちょちょいと、みたいな。お前もそうじゃないのか、と言われたら、そうかもしれない。とか考えれば考えるほど筆は鈍くなっていく。しかし筆なんか鈍いほうがずっといい。

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[Soundmain Archive] uami インタビュー iPhone1台で生み出される驚きのサウンド、独自の〈声〉の使い方に迫る(2021.12.16)

初出:2021.12.16 Soundmain blogにて。
可能な限りリンクや埋め込みは保持していますが、オリジナルの記事に挿入されていた画像は割愛しています。

シンガーソングライターであり、自らトラックを作って活動するプロデューサーでもあるuami。豊かな表現力を持つ声と、繊細でときにトリッキーなビートが注目を集める新鋭だ。メロディラインにポップな顔を覗かせる一方で、実験的でエクストリームなサウンドも飛び出すその奔放な作風は、約束事から解放された清々しさと共に、どこか謎めいた雰囲気を醸してさえいる。多作家としても知られ、2019年に初めて作品集を発表した際には、アルバム・EP・シングルあわせて70曲を同時に配信。その後もコンスタントにソロ作のリリースやコラボレーションを重ね、2021年だけでも3作のアルバム・EPをリリース。そのユニークな作風とバイタリティあふれる活動の背景を聞いた。

自分なりの歌声を探して

uamiさんは多作な印象があります。今年に限っても、アルバム『火と井』、『昼に睡る人』、EP『zoh』と3つの作品集を出していて、シングルも出している。ものすごいバイタリティだと思います。最初から創作意欲がどんどん湧いてきていたんでしょうか。

本当に最初の最初はカバー用のトラック作りから始めたんです。で、ちょこちょこ作曲してみるかみたいな感じで。当時は「AメロがあってBメロがあってサビがなきゃだめ」というのが念頭にあったので、苦戦していました。2018年くらいからいろんな音楽に触れるようになって、自分の作品の幅も広がったというか、「Aメロ・Bメロ・サビ」みたいに固定された決まりってないんだなというのがわかりだした。それから、「こういうのも作りたい、ああいうのも作りたい」と作っていくようになりました。

最初はカバー曲のトラック作りだったということは、歌うためにトラックを作り始めたということですか。

そうです。自分はピアノがばりばり弾けるわけじゃないから弾き語りもできないし、どうしようかなと思っていたんです。YouTubeとかにあるような怪しいカラオケ音源を使うよりも、自分で作ったほうがいいんじゃないかみたいな気持ちがあって(笑)。

もともと、歌うことはお好きだったんですか。

好きだったんですけど、小さい頃はカラオケが苦手で。でも、中学校から高校くらいからひとりカラオケに行きだして。あと、吹奏楽部に入っていたので、トレーニングで歌うこともあったりして、歌に興味が出て。他にも、通っていたピアノ教室でちょっとだけ、ソルフェージュ(楽譜を読み、解釈するための基礎訓練のことで、譜面を「ドレミ」に読み替えて歌うソルミゼーションなどを含む)というのかな、歌ったりもしていました。

演奏や歌う以外に、音楽にはどう触れていましたか。好きなアーティスト、とか。

自分で初めてCDを買ったのは宇多田ヒカルとか椎名林檎でした。でも、中学校では本当に部活が忙しかったので、そういうJ-POPに疎くなっちゃったんです。中学3年生で部活から解放された頃、マイケル・ジャクソンが亡くなって。それがきっかけで、家にたまたまあった『BAD』(1987年)を聞いてみたりして、そこからめちゃくちゃマイケル・ジャクソンを聴き込みました。次はK-POPにハマって。BIGBANGとか東方神起とか、あのへんがすごかった時代です。ボーカロイドにハマっていたときもあります。あと、大学で一瞬軽音楽部に入っていたんです。歌で参加してくれないかと言われて、一度ライブに出てやめちゃったんですけど。そのときは邦楽のロック、KANA-BOONとかキュウソネコカミとかを聴いていました。

uamiさんの曲で面白いなと思うのが声の使い方で。歌い方のバリエーションが幅広い。ラップするときもあるし、ぐっと唸るような、それこそ椎名林檎みたいな歌い方のときもあるし、ウィスパーになったり、かと思えば過激なデスボイスになったり。そういう声の探求をこれまでにされてきたのかなと。

高校から大学の最初くらいのときは、めっちゃ声を張り上げる感じの歌い方をしていました。でも、あるとき、カラオケに行ってきちんと最初から最後まで歌う以外にも、家でちょっと「ふふふふ」みたいな感じで歌うときの歌い方でもいい、歌い方はひとつじゃなくてもいいんじゃないかなって気づいて。いろんな声を試した結果、息の多く入ったウィスパー寄りの歌い方を最初に見つけました。自分が歌いやすいし、後で録音を聞き返したときにも聞きやすい。それがこの3~4年ですね。で、そこから後に解体ザダン壊というユニットで一緒に活動することになるhonninmanとかに衝撃を受けて。honninmanからノイズとかシャウト系の音楽をいろいろと教わって、自分もやってみたいなと思ってさらに幅が広がりました。

uamiさんの作品には張った声の使い方ってないなと思っていたんですよね。だから、いま「もともと張った歌い方をずっとしていた」っていうのが面白くて。

反省をいかしてじゃないけど(笑)。自分は張り上げた声でうまく聞かせるよりも、他の表現の仕方のほうがあってるのかなというのがわかってきたので。

iPhone一台で完結する楽曲制作、その工夫

具体的な制作のプロセスも伺っていきたいと思います。まず、いまの制作環境を教えて下さい。

iPhoneのGarageBandで、特にそれ以外のアプリもなんにもないんですけど……。iPhoneのGarageBandの中で、弾いて、打ち込んで、あとで編集画面でちょっと調整したりとか。

声の録音は、ほんとに、イヤホンをつなげて、ここに入れています(iPhoneを持ち上げて、内蔵マイクに向かって声を出すジェスチャー)。

マジすか。

はい。

マジすか……。

はい(笑)。

マイクを外付けするインターフェイスもありますけど、そういうものは使わずに……。

人から「こういうのあるよ」って教えてもらうこともあるんですけど、「ああ、そうなんや、あるんや~」みたいな。アプリとかも、結局は使ってないですね……(笑)。

使っていて、ソフトウェアの限界って感じませんか? これができたらいいのに、みたいな。

ありますね。決定的なのが、曲の途中でテンポを変えられないんです。どうしてもテンポを変えたいときには、一回プロジェクトファイルを書き出して、書き出したファイルを新しいプロジェクトに無理やり差し込んでいます。具体的な曲名でいうと、2020年のEP『キンカジュー』の中に「ルシー」という曲があって。

中盤から曲調が変わって、テンポも変わる。それはプロジェクトファイルがもともと2個あって、1回冒頭の部分を書き出してから、別のプロジェクトに差し込んでます。「餞」も、もともとプロジェクトが2個にわかれていて。若干テンポが変わるんですよね。

声が伝える「肉感」

uamiさんの作品では、声を録音するだけではなくて、重ねたりエフェクトをかけたりすることも多いと思います。かなり細かくフレーズを割ったり、単純にハモるだけじゃなくて、声をいろんなところにちりばめたり、繊細なアレンジをしていますよね。その多重録音のプロセスについてもお伺いしたいなと思っていて。

だいたいトラックができて、1本主軸になるメインボーカルを録ったら、メインボーカルのハモリ、上・下を録っていきます。そのときに「こういうの入れたらいいかな」って思いついたらその場で入れちゃいます。ハモリが録り終わったあとも、「ここにコーラスを入れたほうがいいな」っていうところが見つかったら、付け足す。この間「マーキース」ってシングルを出したんですけど、あれは歌いながらメインのメロディを決めていった曲なんです。そのとき、ボツになったメロディラインも、後ろのコーラスとして残しておいたり、使わなかったテイクもコーラスに使ったりしています。

他にも、メインの歌があってコーラスがあるというだけじゃなくて、声そのもので遊ぶというか、声自体を素材にするようなアプローチもありますよね。特に、『火と井』では歌というより声みたいな存在感の音がたくさん出てくる。そういった声のアプローチの違いはどのように使い分けていますか。

『火と井』に関しては、もともと声だけでトラックとかリズム隊とかをやってみたくて。そう思っていたときにBjörkの『Medulla』(2004年)に出会って、「これこれ!」って。声だけで1曲構成することに憧れがあったんです。やっぱり声だけだと肉感の出方がぜんぜん違うので。でも、「こういうイメージにしたいから」というよりは、「ここに声を重ねたほうが自分が気持いいな」みたいな感じでどんどん重ねていきます。感覚的な作業です。

Björk – Triumph of a Heart (『Medulla』収録)

サウンドの表現を豊かにする細かな手作業

uamiさんのトラックはすごく繊細で、「こんな音がGarageBandで出るんだ!」ってびっくりすることが多いです。一方、『昼に睡る人』では歪んだ音がすごく印象的でした。ギターや声を思いっきり歪ませたりして。今回、こうしたサウンドを多用した理由はありますか?

今回の『昼に睡る人』は、J-POPみたいな曲を作りたくて。でも、そのまんま歌うとちょっと照れるなぁ……とか(笑)。自分の趣味として、メジャーっぽいけどちょっとおかしいみたいなものが、聴いていてすごく気持ちいい。だから、自分の曲でもサビに邪魔なノイズを入れてみたり。聴く者を惑わせたい……というか、自分が惑いたいんですけど(笑)。

そういう加工も全部GarageBand内蔵のエフェクトなんですよね。『昼に睡る人』だと、「灰の在処」とかにあったと思うんですけど、ボーカルがぷつぷつととぎれとぎれになったりとか……。

あれは、ちょっと切って、間をあけて、切って、間をあけて、みたいな……。

マジすか!? ああ、そうなんだ!

あとは、何種類かあるマイク用のエフェクトをトラックごとに使い分けて、もとは1本のボーカルデータだったのを、ここを切ってこれはこっちのエフェクトをかける、ここは削除する、とか。めっちゃ細かくやっています。

編集でそういうエフェクトを作りだしたり、細かいエフェクトの使い分けを行っているんですね。一般的なDAWでは、オートメーションを使ってエフェクトのかかり具合を曲の中で調節できますけど、そういう風に「だんだんエフェクトがかかっていく」のではなくて、場面がきりかわるように音が変わることって、uamiさんの場合たしかに多い。

エフェクトを途中で変える機能があればそれに頼っていると思うんですけど、いまのところ見当たらなかったので、細かい作業をたくさんしています。ちゃんとしたなめらかさ、なだらかな変化にならないところは面白さでもあるかなと。ちょっとかくかくしているな、みたいな。

以前、honninmanさんとのユニット・解体ザダン壊のパフォーマンスで、honninmanさんが歌うのにあわせてuamiさんがGarageBandをその場で打ち込んでいるという動画を見たことがあって。すごい使い込み方をしていますよね。

自分が普段の曲作りで(そういう風に)使っているんです。楽譜がもともとあって、それにそって打ち込んでいるのとは違って、即興性が高いことを重ねてやっているという意識で作っています。

曲が完成してからの話になるんですが、プロジェクトを音声ファイルにして、BandcampやSoundCloud、あるいはサブスクにアップロードしますよね。そのとき、ミックスとかマスタリングはどうしていますか?

ミックスもGarageBandで行っています。WAVに書き出した時点で完成形のときと、一回書き出したWAVをさらに別のプロジェクトに読み込んで増幅させたり、リバーブとかをいろいろ調節するときと、自分でやるときはその2パターンです。『昼に睡る人』とかビクターからのリリースの場合は、あちらでマスタリングをしてくれていますけど、その際も元の感じをいかしてもらっています。バランスは自分でGaragebandでやっていたままです。周りで音楽をやっている人から、「ミックスとかマスタリングはしないの」って言われる時期もあって、自分も「そういうのしなきゃいけないのかな」って思ってたんですけど、自分が聴いて不自然に思わないのに、する必要は今の時点ではないのではと思って(笑)。

コラボレーションがもたらす変化と、カバーへの思い

uamiさんはコラボも数多くやっていらっしゃいますよね。解体ザダン壊(2019年~)もそうですし、没 a.k.a. NGS(Dos Monos)さんとの「踊る火炎 (ep)」(2020年)、君島大空さんとのユニットavissiniyon(『avissinyon』、2020年)、サ柄直生さんとのコラボ「まねごと」(2021年)もありました。こうした方々とコラボレーションして得るものというか、自分の作品にフィードバックされるものってありますか?

ありますね。没さんと作品を作る前は、他の人に送ってもらったトラックにメロディをつけることに苦手意識があったんです。自分でトラックを作ってそこにメロディや歌詞を入れたほうがやりやすいなって。「踊る火炎」では5曲か4曲くらい、没さんが作ったトラックに自分がメロディをつけました。うまくできるか不安だったんですけど、とりあえず流して歌ってみよう、みたいに勢いでやったところ、「あ、楽しいな」みたいな(笑)。コラボって楽しいんだとわかって。没さんのトラックが自分がいつも作る感じとは違ってサンプリング色が強かったので、自分もそういうものを作ってみたくなったり。

あと、サ柄さんの場合は、完成形が最初送っていただいたトラックとだいぶ違うんですよ。最初はすごくシンプルだったんです。でも、自分がメロディと歌詞をつけてボーカルデータを送って次に返ってきたのが、ああいう細かい砂みたいなノイズが散りばめられているもので、「すごい、かっこいい!」となって。「まねごと」以降は、自分も小さい砂のようなノイズを自分の声にくっつけたりしてみています。

もう一つ、uamiさんの活動で気になっているのが、カバーをよく発表されているじゃないですか。宇多田ヒカル「traveling」のようなみんなが知っているJ-POPの曲に限らず、1e1さん、~離さん、abelestさん、NTsKiさんなど、同じ時代を共有している人の曲をどんどんカバーしているのが印象的で。カバーしよう、と思う動機は何なんでしょう。

一番大きいのは「この曲好きだな、歌いたいな」ということで。「この有名な曲をやったら自分の曲も聴いてもらえる」みたいな、そういう感じでカバーはあんまりしてないというか、したくなくて。あと、自分がいいカバーにあんまり出会ってこなかったなっていう思いがあって。どうせやるんだったらこういうカバーをしたいなという、カバーにたいする反骨精神みたいなのもあって(笑)。

これまで作ってきた曲で特に思い入れがある曲ってありますか?

最近のものだと「oocyst」。~離さんが立ち上げられたi75xsc3eというレーベル(https://i75xsc3e.hatenablog.com/)を知ったときに、「よくわからないけれどどこかにある空間」のイメージが浮かんで、それを意識して作った曲なんです。歌詞が日常生活の中でうまれてくるのではなくて、ある架空の空間を意識して作った曲は初めてだったなと思います。建物かどうかもわからない、漠然とした空間のイメージの曲。

「マーキース」は制作に1年くらいかかっていて。曲自体は去年にはほとんど出来上がっていたんですけど、最初に思い浮かんだメロディが既存の曲に似ているんじゃないかと思い始めて。実際に既存の似ている曲を知ってしまったこともあって、もともと作っていたメロディを変えようかと思っていたんです。そうしたら、ある日ボーカルデータがプロジェクトファイルからすべて消えていて。「ああ、これはもう録りなおせってことか」って。トラックに関しても、バンドチックな音なので苦戦しました。自然に聴かせるための微調整が大変で。他にも、たくさん、たくさん思い入れがありますね。

最後に、今後の抱負、やってみたいことをお聞かせください。

来年はラップのEPを出してみたいなと。あとは、『昼に睡る人』をリリースするにあたって、やっぱり視覚情報があったほうがとりついてもらいやすいのかなぁって思って、自分でティザーを撮影して編集してみたんです。そうしたら、ちょっと可能性が見えてきた。映像を今後もちゃんとフル尺で作ったりしてみたいなと思います。

あと、『zoh』というEPはいまのところデジタル配信オンリーなんですけど、CDじゃない形でフィジカルを出したいなと思って。CDも出すかもしれないですけど。面白い形態で出せたらなと思って計画を練っております。

めちゃくちゃ具体的で未来が楽しみになります。今回はuamiさんの口から制作について具体的にお聞きできてよかったです。ありがとうございました。

ありがとうございました。

取材・文:imdkm

uami プロフィール

uami(うあみ)
福岡県出身・在住。2017年から作曲開始。今のところ主にiPhoneを使用しトラックメイクやボーカル録音、ミックスまでを一台で完結させている。2019年には3タイトル全70曲を同時配信リリース(CONNECTUNE, SOPHORI FIELD COMPANY)。また、SoundCloud等においても随時楽曲を公開し、2021年には自身初となる全国流通CDアルバム『昼に睡る人』をリリース。CDデザイン等も手がける。君島大空、没a.k.aNGS(Dos Monos)、サ柄直生 との 共作や、honninmanとのユニット「解体ザダン壊」としての活動も行う。

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書評:ポップ・カルチャーで/の歴史を語りなおすアーティスト、ジェレミー・デラーの活動を網羅した一冊。Jeremy Deller, Art is Magic, London: Cheerio, 2023.

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Amazon→Jeremy Deller, Art is Magic, London: Cheerio, 2023.

イギリスのコンテンポラリー・アートの作家、ジェレミー・デラーの作品集(というかなんというか?)で、本人による自作解説エッセイを豊富な図版と一緒に収めた大型本。デラーは2004年のターナー賞受賞者であり、日本でも結構紹介されている。最近では2021年に岡山県倉敷市にて個展(作品の上映)が行われているし、来年開催される第8回横浜トリエンナーレにも出展が予定されている。

先日ブログで取り上げた山本浩貴『現代美術史――欧米、日本、トランスナショナル』(中公新書、2019)でも、クレア・ビショップの「関係性の美学」批判の流れで紹介されていたりする(そういえば『関係性の美学』の邦訳出るんですってね。10年前、おれの学生時代からずっと邦訳の話があったのが、ついに……)。

本書には主たる作品がおよそ時系列順に網羅されていて、専門家やコラボレーター、親しいアーティストたちとの対談も収録。デラーの着想から実践までをユーモラスに、いきいきと知ることができる。特にデラーは音楽好き、ポップ・カルチャー好きには刺さるアーティストだと思うので、もし知らないという人がいたらチェックしてみてほしい。ここでは本の内容をどうこう言うというよりは、自分の好きなデラーの活動についてつらつら書いて置こうと思う。

デラーのおそらく最も有名な作品は、1980年代サッチャー政権下で起こった炭鉱労働者によるストライキにおける警官隊との衝突を再演 re-enact した《オーグリーヴの戦い The Battle of Orgreave》(2001年)だろう。イギリスには歴史的事件を当時のコスチュームなどに身を包んで再演する催しが文化として根付いていて、その愛好家やコミュニティが存在する(日本でも戦国時代とかの合戦を再現するお祭りとかあるけど、あれが草の根的に愛好家がいるみたいな感じか)。当時ストライキに参加した元炭鉱労働者に加えて、そうした愛好家たちを巻き込みながら、比較的近過去(なにしろ当事者はまだ存命である)をあたかも重大な歴史的事件のごとく再演していく。その様子は資料や記録を交えたインスタレーションや、ドキュメンタリーフィルムとして公開された。

Excerpt: Jeremy Deller & Mike Figgis, The Battle of Orgreave (2001) from Artangel on Vimeo.

デラーのアプローチは、《オーグリーヴの戦い》のように、イギリスのオーセンティックとされる歴史に近過去や現在をどのように結びつけるか? ということに要約できるように思う。そこにしばしばポップ・カルチャーが参照されるのも特徴的だ。初期の代表作である《世界の歴史 The History of the World》(1997-2004)は「アシッド・ハウス」と「ブラス・バンド」という一見つながりがなさそうなふたつの音楽を、様々な概念や社会・政治的な出来事をブリコラージュしてマッピングし、「実はこのふたつの音楽はつながっているのだ!」と主張するドローイング。ここから発展してデラーは《アシッド・ブラス Acid Brass》(1997-)というプロジェクトを実現させる。

ヘルシンキのブラスバンドによる《アシッド・ブラス》の再演。

この作品がすごく好きで、ぱっと聴いただけでも面白いし、全然ちがう二つの文脈がぶつかることで、あたかも孤立した、ないしは特定のナラティヴに囚われた文化にまた別の光が当たるのがすごく面白い(その意味では、ウィリアム・モリスとアンディ・ウォーホルを世紀と大西洋をまたいで並置しその類似点を探った《愛さえあれば Love Is Enough》(2015)も面白い。社会主義者と資本主義の権化が似通うとは)。

レイヴカルチャー(《アシッド・ブラス》)と炭鉱労働者のストライキ(《オーグリーヴの戦い》)のリンクはデラーのなかで重要なようで、Aレベルで政治学を履修する学生たち(高校生くらい)にセカンド・サマー・オヴ・ラヴの歴史を講義する映像作品《エヴリバディ・イン・ザ・プレイス 不完全なイギリス史 1984-1992 Everybody in the Place, An Incomplete History of Britain 1984-1992》(2019/リンク先で鑑賞可能)ではその関連がより直接に論じられている。学生たちの反応も良い(機材並べて鳴らして遊んでるのうらやましー。こういう授業あったらよかったな。まあ全日制の高校行ってないんであれですが……)。

しかしもっとも印象的なのは、第一次世界大戦のソンムの戦いから100年のメモリアルとして企画された作品《ここにいるからここにいる We’re here because we’re here》(2016)だろう。イギリス中の街なかに、第一次世界大戦の戦士の紛争をした人々が突然あらわれる。かれらは特になにをするでもないが、話しかけたりアプローチした人にはソンムの戦いで戦死した人の名前が刻まれたカードが配られる。パフォーマンスは最終的に、「蛍の光(Auld Lang Syne)」のフシで“We’re here because we’re here…”と合唱して、絶叫して終わる。

ある種のフラッシュ・モブ的な、SNS時代にぴったりの企画である(上掲の公式サイトでは実際、居合わせた人々のSNSへの投稿が記録としてまとめられている)と同時に、静的で局所的なモニュメントとは異なるかたちで失われゆく記憶を伝える試みとしてユニークでもある。

ほかにも、プロレスラーであるエイドリアン・ストリート(惜しくも今年7月に逝去)を題材にしたドキュメンタリー《痛めつける方法は山ほどある So Many Ways to Hurt You》(2010/リンク先で鑑賞可能)、イギー・ポップを写生教室のモデルに招いた《イギー・ポップの写生教室 Iggy Pop Life Class》(2016)など、名前を見るだけでも惹かれる作品やプロジェクトが数多い。もし洋書を扱ってる書店でみかけたらちょっとめくってみてほしい(安い本じゃないからね)。美術館や大学の付属図書館に入ったりもするんじゃないかしら。

(なお、本記事では、作品タイトルの邦題は拙訳、制作年は基本的に公式ウェブサイトや美術館のウェブサイトなどに準じている)

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書評:カンボジアのシンガー、ロ・セレイソティアの生涯を描くプレイリスト付きグラフィック・ノヴェル Gregory Cahill, Kat Baumann, The Golden Voice: The Ballad of Cambodian Rock’s Lost Queen

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Amazon → Gregory Cahill, Kat Baumann, The Golden Voice: The Ballad of Cambodian Rock’s Lost Queen

Pitchforkの記事(The 10 Best Music Books of 2023 | Pitchfork)で紹介されていてちょっと興味があって調べたら、日本でもKindle版が買えて、Kindle Unlimitedでも読める。

カンボジアのシンガー、ロ・セレイソティアの生涯を描いたグラフィックノベルで、47曲におよぶサウンドトラックがあわせて公開されている。読んでるといいタイミングで「何曲目を再生/停止」みたいな指示がでるのでそれにあわせるかたち。カンボジア・バタンバンの農村から、その歌声に目を留められて首都プノンペンに招かれて、国営ラジオのシンガーとしてキャリアを重ねるが、冷戦下の東南アジアの不安定な政情に翻弄され、ついにはクメール・ルージュ体制下で命を落とす。

このグラフィックノベルで描かれる1960年代末から70年代後半にかけてのキャリアは目覚ましいもので、プライベートも激動している。嫉妬深い最初の夫、子供も生れた二番目の夫ともすれ違い、挙げ句権力者の介入で別れるはめに(当然、権力をかさに関係を強要される)。同時に、母親と娘の愛憎・葛藤から和解へ、という筋もある。とはいえ、いずれも脚色が強いようだ(そもそも記録が乏しいのだから仕方がない)。末尾にはフィクション/ファクトの対照表もついている(そしてそこにもサウンドトラックがついている)。

ロ・セレイソティアのキャリアと人生も激動なら、サウンドトラックから聴こえてくるサウンドも、演奏の面でも録音の面でも目覚ましく変化を遂げている。

カンボジアの音楽といえば、『カンボジアの失われたロックンロール』というドキュメンタリーが以前話題になっていた。これは日本では(正規には)いま見る手段がない。配信はリージョンブロックがあって見れない。見たいんだけどな(正規に)。その点で本書は英語ですがKindle Unlimited入ってるという方はサントラ流しつつ読んでみてはいかがか。

背景情報を調べようとしたら、意外とカンボジアの音楽に関する日本語のWikipedia項目が充実していることに気づいた。たとえば、ロ・セレイソティアの項目もある(出典の不足があるが……)し、カンボジアのロックをコンパイルしたコンピレーションについての項目は英語版からの翻訳であろう、その功罪までくわしく書いてある。

カンボジアン・ロックス – Wikipedia

しかしまあ、ロシアのウクライナ侵攻や、ハマスの攻撃に対する反撃という名目ではじまったイスラエルのガザ侵攻(そして虐殺)、そしてそれらにとどまらない世界各国での人道に反する犯罪的な行為を思うと、ここで描かれていることを冷戦下の悲劇としておくことはできないのだろうなと思う。陰鬱な気持ちになる。

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[告知]本日発売・EYESCREAM 2024年1月号で長谷川白紙にインタビューしました。

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EYESCREAM 2024年1月号にて長谷川白紙にインタビューしました。

なんと大ボリュームで6P・1万字強。自分はあんまりこういう長尺インタビューをやらないんでちょっと新鮮でした。長谷川白紙の現在について話を聞きつつ、もうちょっと俯瞰した話や、結構突っ込んだ話もしています。1万字もあるのに泣く泣くカットした部分も多いですが、読み応えはあるのではないかと……。

ユリイカの長谷川白紙特集も充実のインタビューや論考が目白押しですし、あわせてどうぞ。インタビューはユリイカに原稿を納品した後で行ったんですが、自分の論考とちょっとリンクするというか、あながち間違ってないな、と思える部分も多くて楽しいインタビューでした。

インタビューではApple Musicのホリデー企画で制作・リリースされたポール・マッカートニー「Wonderful Christmastime」のカヴァーについて面白い話が聴けました。これ、聴いてもらったらわかるんですけど、長谷川白紙がはじめてオートチューンを使った曲(!)なんです。長谷川白紙がこの曲を選んだ理由、そしてオートチューンをどう捉えているのか、インタビューで語ってもらってます。

Apple Musicご利用の方はすぐに聴けますし、iTunes Storeで単曲購入もできますよ。

イベントの登壇も決まったしなんかこのタイミングで出ずっぱりになってしまい申し訳ない気もする。仕事自体は価値のあるものにできたとは思いますが……。

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