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カテゴリー: Japanese

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テレビ、ラジオ、YouTube、Spotify――ミュージシャンとファンのコミュニケーションについて雑感

 米津玄師がYouTubeにひとり語りのラジオを公開。オフィシャルインタビューを自身のウェブサイトで公開するというのもすっかりお馴染みになってきたけれども、自分の声で自分の曲を語る、かつYouTubeで、というのは米津らしいように思う。深く知ってるわけでもないのだけど……。つまり、熱心なファンがたくさんいて(環境的な条件)、しかも自分の言葉をちゃんと聴いてくれるうえなんならすごく直球に受け取ってしまう(ファンの質としての条件)、だからこそなるべくあいだにものを挟まずに言葉を届けたい(ミュージシャンとしての意識)、が重なってないとやろうと思わないし効果もないだろう。

 浜崎あゆみSpotifyとかでアルバムリリース前にファンへのメッセージを配信してて、「そんな使い方あるか?!」ってマジでびっくりしたんだけど、それと似た感触があるな。木村カエラもメッセージ配信してたんだけど、それは30秒とかなのに、あゆは2分とかあるの。数倍。笑 どれだけ熱いれてるんだよ、っていう。まあそういうところ、椎名林檎とかとはすごく対照的で、彼女はマスメディアや公の場への露出のしかたが巧みだし、東京事変のときもアルバムコンセプトをテレビ関連で統一したり、マスメディアに媒介される自意識をのりこなすのがうまいんだろうと思う。あるいは浜崎あゆみaikoに置き換え可能なのかもしれない。

 昔からミュージシャンのなかでテレビを根城にするかラジオを根城にするかみたいな派閥というか傾向ってあったわけだけれど、もはやSNSを前にしてしまえばテレビとラジオの境界線ってあってないようなもので、あらゆるマスメディアはインターネットを中心として液状化しちゃってるからもうそんな派閥わけも無効だよなあ。そのうえでみんながみんな自前のウェブサイトでインタビューとか発信するようになってくると、どういう手段でファンへメッセージを発するかで如実にミュージシャンのスタンスが出てくる感じはするね。あくまでファンとのコミュニケーションという点に限って言えば、テレビ、ラジオ、ウェブとメディアを横断して「公」の領域をうまく使っていく椎名林檎に対して、プラットフォームを通じて直にメッセージを届けようという米津玄師(あるいはいわゆる「98年組」で言うなら浜崎あゆみ)という対はできるのかもね。星野源椎名林檎寄り、とか。

 まあ、しょうもない与太話ですが。

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小沢健二『Eclectic』再考(一瞬だけ)

realsound.jp

Eclectic

Eclectic

 そういえば小沢健二の『Eclectic』とかとんと聴いてないと思いApple Musicで視聴。あー、今になって(リテラシーが上がって)聴くとたしかにこれは面白いアルバムだ。結局オザケンはこういう「ビート」の方向には進まなかったわけだけどceroまで連なるような日本流のネオソウルの流れを用意したんだと思うと偉大だ。

 ネオソウル的なグルーヴ(ここではざっくり『Voodoo』とか、J DillaThe Roots、Questloveらへんの流れを想定する)はサンプラーがもたらしたループミュージックの再身体化というふうにひとまずまとめることができると思うんだけど、『Eclectic』はそうした身体性への志向(演奏において、聴取においても)をいっぺん捨てておいて、リズムの構造を解体してコンポジションすることに重きを置いたのだ、というふうに思える。3 1/2小節単位(14拍)で進行する「あらし」や3小節単位で進行する「1つの魔法(終わりのない愛しさを与え)」に見られる、ダンスミュージック一般の定型を崩すような楽曲構成にそれは明らかではないだろうか。また、バックビートを強調するのではなく、むしろパーカッションの絡み合いやそれによって暗示されるクラーベによってグルーヴを支配するビートの作り方(「∞(infinity)」とか「bassline」、「甘い旋律」に明確だ)は、実は『文化系のためのヒップホップ入門2』で提示されているような「南部化」、もしくはもっとマクロな観点でいうならば、「ラテン化」を先取りしているようでもある。

文化系のためのヒップホップ入門 (いりぐちアルテス002)

文化系のためのヒップホップ入門 (いりぐちアルテス002)

 菊地成孔が『Eclectic』について、「[…]このご時世に[…]こんな弾力の無い、要するに昔の歌謡曲みたいな緩いトラック作れる方がよっぽど稀少的才能」(『歌舞伎町のミッドナイトフットボール小学館文庫版、p.73)と言っているけれども、ヒップホップやR&Bのトラックとして見た場合には、不可欠のグルーヴが欠けているというのは事実だろうと思う。それは本人の適性もあるだろうし、そもそも狙いが違ったのかもしれない。一方で上の引用に菊地が続けて言う次のような指摘はかなり興味深い。

[…]野口五郎のNY期~フュージョン期とか、郷ひろみのNY期とか、松崎しげるとか元ラッツの鈴木雅之とかまで含めて、要するに「日本のAOR」「歌謡AOR」っていう物が過去にはあって、久保田利伸以降のNY入った音楽は田島貴男まで含めて総てそれの代替品、もしくは到達点に見えつつも実は別物だという事で、それの本流の方の系譜を小沢健二は現在一人で継いでいるとも言える。(pp.73-74)

 読む人によっては揶揄のように思えるかもしれないが、10年代というディケイドをかけてシティポップ再評価の波に価値観をまるごと書き換えられた僕のような人間には、ものすごくまっすぐに的を射た指摘であるように思える。

 いま「シティポップ」のレッテルのもとで受容されている音楽とここで言及されている「歌謡AOR」には細いが深い溝があるのかもしれないけれど、少なくともそういう布置において見た場合、小沢健二がビートの実験に勤しみながら日本流のAORを(無意識に?)引き継いだ『Eclectic』がいまになって重みを持っているのは自然な流れだろう。「流動体について」のリリースから本格化した日本での活動再開以降は『Eclectic』期を忘れたかのようにギターを鳴らしてポップスを歌いあげているオザケンだけれども、たとえば「フクロウの声が聞こえる」のカップリングである「シナモン(都市と家庭)」の打ち込みベースのファンキーなビートにその面影は浮かんでいる。

フクロウの声が聞こえる(完全生産限定盤)

フクロウの声が聞こえる(完全生産限定盤)

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現代のイメージ一般におけるアスペクト比の問題に関するノート

 小鉄さんのツイートに関して多少思うところがあって、いま動画を表示するもっとも一般的な媒体ってタブレットスマホだと思うんですよね。で、iPhoneとかPixelを見てもらえばわかるように、スマホにおいてはたとえばテレビにおいてはあったような、統一されたアスペクト比の規格が存在しないわけです。モデルがかわるごとにアス比が変わるのもザラだし、なんなら最近はスクリーンに切り欠き、いわゆるノッチまである。また、スマホタブレットのみならずPCについても同様で、ディスプレイ自体のアスペクト比が多様化しているのに加えて、ディスプレイの大画面化に従って、スクリーン上で表示される動画の仕様と物理的なディスプレイの形態が一致する必然性は格段に下がっている。たとえば今年、YouTubeが動画の再生画面をアスペクト比に従って変形させるように仕様を変更した(レターボックスの廃止)んですけど、それってまさに、フレームの形態とイメージの仕様が一致する必然性がなくなったことの象徴なんだと思います。いままでは、スクリーンのなかに物理的なディスプレイに範をとった擬似スクリーンをわざわざつくってたんですよ。そんなんいらなくね? という。シアターモードとかフルスクリーンだとレターボックス的なのつきますけどね。

 そういうわけで、スマートフォン以降、あるいは大型ディスプレイ以降の動画において、カットごとのアスペクト比が違うのはある種当然の流れ、現在の映像にたいする人びとの感覚の反映なんだと思います。一方ではライブ演出なんかではLEDディスプレイによってかなり自由な形態のスクリーンを大規模に実装することが可能にもなっていて、動画というかイメージ一般におけるフレームの不定形さはイマジナリーな領域(コンピュータースクリーン上の無限に広い平面)においてもリアルな領域(巨大サイネージ、LEDディスプレイ)においても進行しているわけで、面白いですよね。

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「SHOPPINGMALL」再考――vaporwaveの「美学aesthetic」を複数化する

FANTASY CLUB

FANTASY CLUB

 tofubeatsの前作『FANTASY CLUB』に収録された「SHOPPINGMALL」は、先駆けてYouTubeで公開されるなり2016年話題のトラックとなった。メジャーデビュー以降、ヒップホップあがりのダンス・ミュージックのプロデューサーとして、J-POPにいかにして食い込むかに腐心してきたように見える彼が、その集大成といえる盛りだくさんのコラボレーションに彩られた『POSITIVE』を経て、唐突につきつけた鋭い言葉。ショッピングモールを背景に「最近好きなアルバムはあるかい?」と問いかけるこの曲は、彼の持ち味である批評精神を改めて知らしめた。

 またそれは、tofubeatsを語る上で無視することができないインターネット・カルチャーの文脈を強く意識させるものだった――とりわけ、vaporwaveと呼ばれるミーム・ミュージックの文脈を。しばしば本人も語ることだが、vaporwaveの記念碑的作品であるMacintosh Plus『Floral Shoppe』のリリースにほんの少し先駆けて、彼はポップスをスクリューして過剰なエフェクトを施したダウンテンポ主体のEP『スローモーション(ひみつの)』をリリースしている。

 このシンクロニシティが予見していたように、tofubeatsはvaporwaveに一時期深い共感を覚え、Macintosh Plusの同作より「リサ・フランク420/現代のコンピュー」をしばしばフロアを「清め」るためにかけたりもしていた。

 vaporwaveにおいてショッピングモールは特権的なアイコンの位置を占めている。その象徴性はたとえば猫 シ Corp.によって広められたMall Softなるコンセプチュアルな派生ジャンルを生み出した。ショッピングモールはローカルな特色を貫通してしまうその空間的な均質性から、ポップカルチャーにおいてヴァナキュラーなものが消失した高度資本主義社会の象徴として描かれてきた。その文脈をひきついだうえで、インターネットというこれもまた均質的で空間性の消失した空間――すでにこの時点で自己撞着が起こってしまっているのだが、われわれにとってインターネットはあいかわらず「空間」のメタファーで語られる――に対するフェティッシュとなかば混同されるかたちで、vaporwaveの文脈のなかに取り入れられていった。

 しかしvaporwaveにおけるショッピングモールは徹底的に空虚であり、しばしば「廃墟」のイメージに重ね合わされる。スクリューとチョップによる徹底的な文脈の破壊、チープな音色による意図的な凡庸さ。文脈と差異化のゲームから降りて、無意味な操作、凡庸なテクスチャそのものに浴するvaporwaveの美学にとってモールは最適の舞台であると同時に、そのモールでさえすでに機能不全に陥っているという徹底的なシニシズムの徴候をも示す「空間」なのだ。

 vaporwaveの方法論的な始祖として位置づけられるDaniel Lopatin(Oneohtrix Point Never)の『Chuck Person’s Eccojams Vol.1』(2010年)はすでに、ポップソングの断片を楽曲構造を無視した恣意的なループとエコーによって音響に還元し、ポップ・ミュージックを成立させる音響空間(=録音芸術にまつわる言説においてしばしば空間的なメタファーが飛び交うことに留意したい)そのものを現出させた。その抽象的な音響空間はポップ・ミュージックの周縁/限界を示す「廃墟」であり、その「廃墟」に具体的なアイコンと批評的な象徴性を付与したものがモール・ミュージックとしてのvaporwaveである、とひとまずはまとめることができるだろう。

 とはいえ、「ポップスの音響空間=均質的なショッピングモール」のなかでその無意味さや触覚そのものと戯れるという美学は次第に当初のラディカルさを失い、文脈を際限なく拡張しながら、ノスタルジーの境域へと近づいていってしまった。それはvaporwaveの再ポップ化とでも言うべき現象であって、2010年代も末になってこの音楽にふたたび脚光があたりつつあるいま、むしろvaporwaveとは特定の時代を想起させる記号や肌触りの集積と大雑把に定義したほうがよくなったのかもしれない。あらゆるカルチャーの彼岸と思えた「廃墟」は実はまったく廃墟などではなく、未だ機能する――というか過剰なまでに機能し、われわれの生活をとりかこむ――現実の空間そのものであったことが明るみに出たわけだ。

gamelifehack.hatenablog.com

 しかし、だからといって初期vaporwaveのシニシズムとぎりぎりの批評精神を復興させよう、というのもまた単なるノスタルジーに過ぎないだろう。モダニズム進歩主義や歴史的アヴァンギャルドの反骨精神をそのまま反復することはできない。それはすでに1960年代のネオ・ダダが試みて、断念したことだ。むしろネオ・ダダはその後のポストモダンの展開への結節点として、モダンにそもそも内在していた「不純さ」(おおざっぱにいって、フリード的な意味での、あるいはケージ的な意味での「演劇性」)を抽出し、換骨奪胎したものと言えるだろう。むしろわれわれが習うべきはネオ・ダダ的なスタンスであり、vaporwaveのシニシズムに内在していた別個の可能性を再び開かせる方向へと、意図するにせよ意図せざるにせよ向かうほかないものと思われる。

 ふたたび「SHOPPINGMALL」に戻ってみる。結論直前まで一気にすっ飛ばすと、この曲は、vaporwave的な無意味との戯れ、時代を象徴する感性に一度距離を置きながら、現実のショッピングモールに足を踏み入れる曲だと言える。地方に住まう人びとにとってはあまりにも自明なことだが、ショッピングモールは思想的な遊戯の舞台である以前に、われわれの生活を支える文化的インフラである。ファスト・ファッション、ファスト・フード、シネマ・コンプレックス、中途半端な品揃えの新刊書店、あるいは「ヴィレッジ・ヴァンガード」。それらが都市生活者からどれほど批判され、嘲笑されようとも、殺風景なロードサイドにかろうじて文化をもたらす一大拠点なのである。

 ポップ・ミュージックと「わたし」との関係を自問自答するtofubeatsの煩悶は、ほかでもないショッピングモールを歩き回るなかで発される。だだっぴろい空間の各所で鳴り響く無意味なオートチューンとか、流行りのバンドのヒットソングに満たされた空間のなかで孤独に歩くなかで問われるのは、自分がほんとうに求めているものはなにか、といういささかナイーヴな問題だ。このショッピングモールに自分がほんとうに求めるものがある気はしない。しかし、まさしくここにおいて、自分は文化を実践していかなければならない。

 つまり、この問いはtofubeatsの端的に実存的な問題であると同時に、「この空虚さのうえに文化は可能か」という彼のプロデューサーとしての実践――ビジネスを続けられるか、ではなく、ビジネスにモチベーションを注ぎ続けられるか――に関わる問題でもある。そしてまた、リスナーにとっても、「それでもなお音楽を信じられるか」、ないし、「信じ続けられているか」というアクチュアルな問いとして響くのである。

 机上の空論じみた「廃墟としてのショッピングモール」を、われわれの文化的な生活を支える実在の「ショッピングモール」に引き戻す。vaporwaveのシニシズムを、我がこととして再び捉え直す。単にそこに限界を、終焉を重ね見て事足れりとするのではなく、ここからはじまるなにかはありうるのかと問う。「SHOPPINGMALL」とはそのような曲であるし、『FANTASY CLUB』はその果実でもある。神という絶対的な対象を欠く「祈り」に包まれた『FANTASY CLUB』については筆者の以下の記事を参照されたい。

caughtacold.hatenablog.com

caughtacold.hatenablog.com

 加えて、JEVAの「イオン」、あるいは田我流のその名も「vaporwave」といった話題曲もまた、同様の文脈から語られうるだろう。


 自明視されているショッピングモール像やvaporwaveの美学=aestheticを、日本のローカルな文脈からふたたび照らし直す。われわれの足場がほかならぬこの空虚さやもどかしさにあることを明るみに出しつつ、そこから始まる文化の可能性を示唆する。こうした戦略は、単にaestheticの「誤解」あるいは「曲解」と言われるかもしれない。本来は現実世界から隔絶された仮想空間で展開された文化を現実にそのまま移植することの是非は問われるだろうし、「vaporwaveはそういうもんじゃない」という反発も生まれるかもしれない。けれども、自分はあえてこれらをaestheticの批判的な反復であり、有意義であると擁護したい。

 そもそもvaporwaveをめぐる言論は、もとから多い方ではないうえに、過剰に欧米中心的、あるいはアメリカ中心的すぎるきらいがある(たとえば過去のこの書評を参照のこと。Vaporwaveは誰のものか、と思ってしまった――Grafton Tanner, "Babbling Corpse: Vaporwave And The Commodification Of Ghosts," Zero Books, 2016. – ただの風邪。)。vaporwaveのつくり手はグローバルに分散しており、その文脈も拡散しているはずである。われわれはショッピングモールをアメリカ人のようには見ない。「廃墟としてのショッピングモール」は日本でも冗談ではなくなってきているものの、アメリカの比ではないだろうし、向こうではよりアクチュアルな感覚としてこの「廃墟」は受け止められている可能性はある。それを、インターネットの均質性、非‐場所性だけを担保に「グローバルに共有された時代の感性」などとくくることは可能なのか。もちろんそうした国境を超えた共感、シンクロニシティは起こりうるし、まさしくtofubeatsとvaporwaveの共振はそうした現象だったわけだけれども、改めて「われわれは同じものをみているか」と問い直す必要があるのではないか。

 あるいは、アジアにおけるvaporwave的表象の受容は、なかばオリエンタリズムの視線を感じるアジア外のものとは異なる文脈のうえにあるのではないか。たとえばそれは中国にとってはノスタルジーというよりもバブル期の日本という具体的な繁栄の象徴として自らに重ね合わせうるものかもしれないし、韓国にとってはプレK-POP期であり現在に通じる韓国大衆音楽が形成されつつあった80年代という文化的原点への回帰といいうるかもしれない――少し時代は異なるけれど、たとえばIUによる大衆歌謡のカヴァー(「어젯밤 이야기(昨日の夜の話)」など)にそうした香りをかぎとることも可能だろう。

 グローバルに浸透したvaporwaveを、そのアメリカ中心的な言説布置から改めてローカルな、アクチュアルな問題に接続しなおす。そのうえで、vaporwaveの操作の美学(チョップ、スクリュー、カットアップ)に立ち返り、「ここからなにが生まれるか」を、無意味の戯れとしてではなく、文化の未来の問題として考える。tofubeats「SHOPPINGMALL」はその契機であった、とここでは結論づけたい。

 ちなみに、vaporwaveの操作の美学がもともとヒップホップの文脈から生じたもの(チョップド&スクリュードはヒップホップのミックステープで用いられた手法が一般化したものだ)であることを考慮すると、vaporwave的な美学の批判的継承の受け皿としてヒップホップのミュージシャンが浮上しているのはきわめて興味深いし、的を射ている。田我流「vaporwave」はもちろん、Future Funk的なアニメの引用や80’sノスタルジー、映像加工をふんだんに用いたDJ CHARI & DJ TATSUKI「ビッチと会う feat. Weny Dacillo, Pablo Blasta & JP THE WAVY」も例として挙げておくべきか。

 最後に、まもなくリリースが控えるtofubeatsの新譜『RUN』のいくつかの部分に、この論が触発されていることを告白しておく。「操作の美学」の向こうでわれわれを待つえもいわれぬ「何か」の姿が『RUN』で描かれ、そして語られる――あくまで個人的な見方だけれど――ことを予告して本論を閉じる。

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【動画】宇多田ヒカル「誓い」のリズム解釈とフロウ

 自作動画です。しこしこつくってました。以前とりあげた宇多田ヒカル「誓い」の譜割りについて、基本的なリズムの(おれの)解釈とおもしろいと思ったポイントに絞って解説しています。コンテントIDにひっかかってないけど、こういう使い方ならいいのかな?

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「芸能」の復興――星野源はなぜ三浦大知に共感するか

 この夏に最も話題を呼んだJ-POPのリリースといえば、三浦大知『球体』(及びその次作「Be Myself」)、そして星野源「アイデア」だった、とひとまず言ってよいだろう。これらのリリースでお茶の間から音楽ファンまで広いリスナー層に訴えかけたこのふたりは、互いにリスペクトを捧げあい、とりわけラジオ番組やTV番組をホストしている星野は、自らの番組で『球体』について語り、あるいは三浦を出演者として招くほどだった。

アイデア

アイデア

 なぜこのふたりがこれほど共感しあっているのか、ということを考える際に重要な点がある。それは、「芸能」というあいまいで周縁的な――それでいて私たちの生活に最も馴染みのある――領域への愛着だ。

 芸能とはなにか。それは、語りとか演奏とかダンスといった表現領域の純粋性とか専門性から離れて、多様な芸(=アート)が混じり合う、境界上の世界だ。芸能というくくりののなかにはそれぞれのプロフェッショナリズムが存在し、はっきりとした分業制が敷かれている一方で、それが劇場であるとか街頭であるとかテレビであるとか、いわゆるメディアを通じてひとたび私たちの前に姿をあらわす場合には、雑多な芸事がからまりあった総合的な娯楽としてたち顕れることになる。

 その傾向がより顕著になったのはおそらく戦後、テレビが芸能の主要なメディアとなり、また芸能界そのものとなったことに起因するだろうから、ここからの議論はもっぱらそうした「テレビ以降の芸能」の問題と考えてもらったほうがいいかもしれない。

 さて、芸能のこの不純さは私たちを常に引きつける一方で、ことそれが表現としての価値付けの問題になると、ほとんど忌むべき対象となる。いわゆるファイン・アートとかシリアス・ミュージックと呼ばれるハイ・アートの世界のみならず、ポップ・ミュージックの世界においても、芸能的な不純さには両義的な態度がしばしば見られる。

 というのもこの不純さは表現者にある程度の制約や妥協を強いるものであり、かつ表現者の神秘性を損なうものだからだ(あるいはそれとは矛盾するように、「親密さを疎外する」という理由で芸能を忌避する流れもあると思うけれど、ここでは取り上げない)。あえてテレビ出演を避けたり、メディアとのタイアップを避けたりといった戦略によって、表現者は芸能の世界とうまく距離をとり、自身のイメージが過剰に捻じ曲げられることのないよう注意深く動くことになる。

 また、そうした不純さに対する微妙な態度は受け手の側にも見られる。これもよく言及されることだけれど、日本を代表するR&Bの名プロデューサー松尾潔いわく、「歌って踊るパフォーマーと、歌だけ歌うパフォーマーがいる場合、たとえ両方とも同じくらい歌が上手くても、売れるのはたいてい後者」だという。「歌もダンスも」よりも「歌だけ」の方がより高尚に思えてしまう、という先入観は、「二兎を追う者は一兎をも得ず」にも似た、パフォーマンスの純粋さに対する信仰によるものではないだろうか。

 あるいは、バラエティでよく見かける「芸能人」がコアな音楽好きだったりすると、途端に評価が一変したり、などというのもよく聞く話だ。そこにはどこか、猥雑な芸能の世界に対する、純粋な音楽の世界(などというものは――クラシックの世界にさえ――ないのだけれど)の優位が感じられる。

 他方、星野源は一貫して、あいまいで境界的な領域のうえで活動を展開してきたと言える。SAKEROCK時代からすでに演劇の世界に足を踏み入れていたことをここで過大評価するつもりはないけれども、いまから振り返ってみればそのように解釈もできる。あんまりこういう言葉を使うのも好きじゃないのだがあえて言えば、「マニア受け」するようなインスト・エキゾ・バンドみたいなことをやりつつもメインストリームの世界に単身乗り込んでいき、ほとんど国民的と言える歌手になったその足跡は、単なるセルアウトとかそういうものではなく、あらかじめ志向していたものだ、と考えたほうがすんなり納得できるし、彼が売れたのも、そもそもそういった素養が彼に備わっていたためだ、という予感もさせる。

 その極地が、ひとつにはNHKの生バラエティ番組「おげんさんといっしょ」であり、次には冒頭で言及した「アイデア」だ。

 「おげんさんといっしょ」は、放送時間のまるまるほとんどが生演奏の音楽とコントで構成され、また高畑充希藤井隆といった女優とか芸人の音楽的なポテンシャルを開花させる場としても極上のプログラムである。嬉々として主婦のかっこうをしてカメラに向かう星野自身の姿は、芸能という領域が持つ猥雑な力とポップな魅力を体現するかのようだ。もはや時代錯誤といっていいスタジオ内のセットも、ミュージシャンに着せられるコスプレまがいの衣装も、単なる気まぐれやサーヴィスではなく、星野源が思い描く芸能のあり方なのだ。

 また「アイデア」は一見するとOK GOとかいったミュージックビデオの名手と並べて語りたくなるビデオだけれども、細かなカメラ割りと「撮って出し」の生々しさ、そして繰り返し画面にあらわれるスタジオの「裏側」から垣間見える現場の空気感などは、むしろ日本のバラエティショーの脈絡に位置づけるべきものではないかと思う。菊地成孔はかつて星野源のパフォーマンスを「ひとりシャボン玉ホリデー」と呼び、じっさい星野自身もクレージーキャッツへの愛慕を隠さない著名人のひとりなのだけれども、「アイデア」のビデオほど星野のクレージーキャッツや「シャボン玉ホリデー」的なバラエティショーへの愛着を形式の点からして表現しているものはないだろう(もちろん、これまでのビデオやパフォーマンスにおいてもそのオマージュとおぼしき要素はたくさんみられるわけだけれども、詳しく論じるほどの知識が私にはない)。

miyearnzzlabo.com

 アルバム『YELLOW DANCER』以来星野が掲げているイエロー・ミュージックなる概念については、本人から、あるいは評論家やライターからいろいろに言及されてきたけれども、そうした語りに微妙に欠けているのは、こうした芸能的な視座ではないかと思う(もう言われてたらごめんなさい。っていうか本人がもう言ってそうだけど)。イエロー・ミュージックは、洋の東西を問わないさまざまなジャンルの日本的なごった煮であるだけではなく、芸能という雑多な領域へ足を踏み入れることを恐れず、むしろ芸能というものの価値を再び認めなおそうという彼の活動そのものを指しているようにも思える。

 途切れることなく続くタイアップ、J-POP的な構成に対する執着、嬉々として歌番組に出演するスタンス、どれもいわゆる「音楽好き」――とりわけロックのイデオロギーに強く影響を受けているタイプの――からすれば、彼の足かせのように見えるかもしれない。しかしむしろ、外から見ればクリエイティビティを制限するように見えるその不純さこそが、星野源が復興しようとしている価値観そのものなのではないか。

 ひるがえって、三浦大知に目を向けてみよう。三浦は、「歌って踊る」ポップアクトとして近年稀に見る洗練を遂げ、日本のエンターテインメントに改めてパフォーマーとしてのプロフェッショナリズムをプレゼンしなおしているかのようなところがある。そのスタンスは、表現者としての自意識から離れて、さまざまなプロフェッショナリズムが交錯する芸能という領域に、まさにど直球を投げ込んでいると言えよう。『球体』は、芸能の領域に特有の高度な分業制を極めたところにどのような表現が可能かという取り組みであり、「Be Myself」はそのテレビ映えする展開や振付の妙からして、その成果をメディアの場へとうつしなおす一曲だ、と思う。

 そのように考えると、星野源三浦大知に共感する理由は自ずとはっきりするだろう。ふたりとも、少しずつ文脈は違う――前者はテレビの育んだ戦後の芸能文化を、後者は高度なエンタメの制度としての芸能を自らの系譜として選ぶだろう――とはいえ、ロック的なイデオロギーから抜け出した、あいまいな芸能という領域に、改めて光を当てる表現者だからだ。

 ただし、彼らが復興しようとする芸能とは、旧態依然とした企画で徐々に視聴者から見捨てられつつあるテレビ業界のなかにあるのでもないし、まして時代の変化に遅々として対応できない音楽業界にあるのでもない。むしろそれは、文化の共通言語を失った時代の私たちが再び互いに語り合う言葉を作り出すための、新しい芸能、オルタナティヴなポップである。それは星野源がこれまでにドラマの主題歌のなかに忍ばせてきた多様性への讃歌に伏線を読み取ることができるし、三浦大知のエンターテインメントに対する圧倒的な信頼と献身にその可能性を感じることができる。

 メディア環境が急激に変化を遂げるなかで、彼らは少なくとも切りうるカードを切りながら、自分たちなりの芸能のあり方を考えている。それがいったい5年後、10年後にどんなかたちをとるのかなんてわかりやしないのだけれど、少なくとも私は、彼らの進まんとする方向に――人びとの共通言語をつくりだす、雑多でポップな芸能という領域の復興に――共感を惜しまない。

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Future Bassのサウンドと星野源「アイデア」――あるいは、現代ポップスとダイナミクス

 お前いつまで「アイデア」の話してんの? と思われるかもしれませんが、以前から書こうと思っていたこととまさに関連している発見があったので書く。

 星野源「アイデア」の2番にあたる部分にFuture Bass的なアレンジが施されていることは既に多くの話題を呼んでいる。若きMPCの名手であるSTUTSをフィーチャーしたそのビートは、アタックの強いパーカッシヴなドラムや対照的にフィルターがゆるやかなアタックを描くリードシンセ、ストリングスのグリッサンドをピッチベンドのように用いるオーケストレーション(耳での判断だけれどおそらくオーディオをプロセスしているわけではなさそう)など、メインストリームのJ-POPとしては意欲的なサウンドとなっている。

 一方で自身の解説によれば、サウンドとしてはいつもどおりの星野源のようにも思える1番――つまり朝ドラ「半分、青い。」のOPに用いられた部分のアレンジの着想もFuture Bassから得ている、としている。

で、もう1個テーマとしては、僕がすごい好きで2017年……まあ、その前からもちょこちょこ聞いていて、2017年は特に聞いていたビートミュージック。フューチャーベースだったり、そういう、通常はエレクトリックな機材を使って作るような楽曲。特に「チキチキチキチキ……」ってすごくハイハットがもう早く鳴っているビート。そういう音楽のジャンルをですね、生演奏でできないかな?っていうのもいちばん最初の発想のひとつでした。

でも、そういう風にして……だから名残りで「チキチキチキチキ……」っていうのは残っているんですけど、それはタンバリンですごく早くカースケさんがやってくれていて。

miyearnzzlabo.com

 つまり現状では16分で刻まれるタンバリンがFuture Bassっぽさの痕跡だということなのだけれど、もうひとつ(本人がそう意図したかどうかはさておき)Future Bassっぽさを1番に見出すとすれば、それはAメロからBメロまでの休符の置き方とリズムのアレンジにある。

 「おはよう 世の中」という最初の1行から「すべてはモノラルのメロディ」までのAメロ部分は、「お/はよう/よの/なか」というように、要所要所で歌のなかに休符をたっぷりとあてた、緩急のついた譜割りになっている。また、バンド全体の演奏も、その歌と同期するように休符でタメを作っていて、結果として大胆な余白が強い印象を残す。

 また、「涙零れる音は」以下のBメロ部分ではテンポの解釈がハーフになり、元々速めのテンポであるこの楽曲に対するアクセントとして機能している。そこからサビになだれ込む構成はまあまあオーソドックスだ。

 ここで取り上げた、バンド全体が同期してつくりだす余白、そしてテンポの解釈を変えることによるアクセントといった要素は、Future Bassのサウンドにもしばしば見られるものだ。とりわけ前者は、以前ブログで取り上げた「ビルドアップ‐ドロップ構成」(分水嶺としての「ドロップ」――Perfume『Future Pop』レビュー記事補遺 – ただの風邪。参照)と並んで、Future Bassを含むEDM以降のダンス・ミュージックのプロダクションに最も特徴的な要素と言ってよい。

 その典型的な例として、Wave Racer「Flash Drive (feat. B▲by)」を挙げる。1:32ごろのドロップ以降の展開に見られるように、強拍をヒットするようにリードシンセやドラムサウンドが配置され、ほぼ無音になる箇所も存在する。こうしたキメとタメの対比が、ハイハットの「チキチキ」と並ぶFuture Bass独特のグルーヴを生み出している。

 「Flash Drive」のドロップ以降の展開と「アイデア」Aメロとの比較は明白だろう。「アイデア」Aメロで強拍におかれた全パート同時のキメと、大胆な休符によるタメは、まさにFuture Bass的だ。また、「Flash Drive」でスラップベースが変わらずソロを鳴らしつつも他のパートが同様のキメとタメをキープしている点は、「アイデア」の「鶏の歌声も」から「すべてはモノラルのメロディ」までの部分でギターと他のパートが繰り広げるかけあいを彷彿とさせる。

 「アイデア」の1番から2番への展開はとても急に思えるものの、聴き心地に極端な違和感はない。それは、サウンドこそバンドからエレクトロニクスに変化してはいても、基本的なアレンジの方向性が一貫しているからにほかならない。

 音量の飽和状態(全パート同時のヒット)からゼロ地点までのギャップ――すなわちサウンドダイナミクスを巧みにコントロールすることでキメとタメをつくるという手法は、EDMの常套手段でもある。制作環境が完全にデジタルに移行し、0から1までのダイナミクスのコントロールDAW上で容易に行えるようになったために普及した手法と言える。

 「ビルドアップ‐ドロップ構成」の多くも、ビルドアップを通じて達した音量の飽和状態から、誇張されたベース音やパーカッションによるドロップに移行するダイナミクスの変化にその多くを負っているように思う(厳密には、帯域ごとの音の抜き差しなど、より細かいテクニックが積み重ねられているんだと思うけれど、詳述はしない)。

 そのバリエーションとしては、これもまたFuture Bassでよく使われるFlume型のドロップも同様だ。強烈なサイドチェイン(ある音が鳴らされたときに、他の音が引っ込む効果)や、リズムのすき間を縫うようなリードシンセの配置によって強調されるダイナミクスの変化が、EDM独特のケレン味を生み出している。

 もちろん多様化をきわめるEDMにおいてはこれらの手法も絶対的なものではないし、「ビルドアップ‐ドロップ構成」について書いた際にも触れたように、いまやメインストリームはこうした手法から距離をとりはじめているとも言える。

 とはいえ、DAW環境以降可能になったダイナミクスの大胆なコントロールはEDM以外にもその例が見られ、ポップスの語法として定着する可能性も予感させる。

 たとえば今夏の来日や宇多田ヒカルのリワークでも話題になったSuperorganismは、サンプルの途中に無音を挿入してちょっとした違和感を残すアレンジをしばしば用いる。驚くのは、そうしたダイナミクスのコントロールを応用したアレンジを、小規模なスタジオ・ライヴの場なんかでも実演しているところで、ほかにもスポークンワードとかりんごをかじる音の挿入の仕方なんか、DAW的な環境を身体化して見せてるようなところがある。

 そういうわけで、星野源「アイデア」を端緒に、EDM以降(というか厳密にはDAW以降?)のダイナミクスのコントロールに注目してみた。っつーか最近EDMばっか聴いてたけどこういうのでかいハコででかい音で聴くとマジでいいんだろうな~ 野外のEDMフェスとか行きたいわ~ いま一番行きたいもの、それはUltra Japan。以上です。

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分水嶺としての「ドロップ」――Perfume『Future Pop』レビュー記事補遺

realsound.jp

 オリコン週間アルバムランキングで1位をとった、Perfumeの新作『Future Pop』について書きました。EDMとPerfumeの距離感の微妙さ、そして本作で迎えた堂々たる融合、という感じの内容です。ただ本文中で言及しきれないことがあったので若干補遺。

 まず、EDMにおけるビルドアップ‐ドロップ構成について。本文中でも書いたとおりEDMバブルも落ち着いたいまではドロップに対してどうアプローチするのかというのが多様化しています。第一に、これみよがしのビルドアップ‐ドロップ構成から距離をとった、ポストEDM的なスタンス。今年のFUJI ROCK FESTIVALでも来日を果たしたいま人気のデュオODESZAは、壮大なスケールのサウンドを展開しつつも構成はいわゆるEDMではないです。

 あと、「あのトップDJが脱EDM?!」と話題になったCalvin Harrisの『Funk Wav Bounces Vol. 1』も、ドロップのもたらすクライマックスから離れて、ファンクのグルーヴで適度にレイドバックさせつつじわじわ上げるアプローチという意味でわかりやすい例。

 他方、ドロップをいかに過激に先鋭化させるかというアプローチもあり、トラップとかダブステップとかあるいはハードスタイルといったブチ上げてなんぼのジャンルがそんな感じという印象です。そもそもトラップもダブステップもハードスタイルもEDM化する前はビルドアップ‐ドロップ構成とは特に関係なかったわけで、特にハードスタイルはこの構成を取り入れることでEDMの文脈に乗り、改めて流行しているという感じでしょうか。

 過激すぎてヤバいドロップの例はたくさんありますがこないだ出たCarnage「El Diablo」はもはやビルドアップとドロップ以外のパートが存在せず、ビートレスで始まって延々ビルドアップが続いた後に耳をつんざくようなドロップに入って、ひとしきり暴れたあとはまたビートレスになって再度ビルドアップ、以上を2セット、みたいなエクストリームさです。『Funk Wav~』がアンチクライマックスだとしたら、こっちはクライマックス以外存在してない。

 あと、Iimori Masayoshiさんのツイートで知ったYOOKiE「BASSQUAKE (feat. Jeff Kush)」は、ドロップでほぼサブベースしか鳴ってないので普通のスピーカーで聴いてもほぼ無音、ヘッドフォンで聴いても体感できるか微妙。うちのスピーカーはぎり鳴ったかな~ いや鳴ってない気がするな~ くらいのあれです。

 同じ系統でいうとHEKLER「Basic Bass Tune」もドロップはほとんどサブベース(歪んだ倍音がたくさん入ってるのでこっちは普通のスピーカーでもなにが起こってるかはわかる)。現場で聴きてぇ~。

 最後に変わり種中の変わり種。ゼロ年代に世界的に流行したファンキ・カリオカ(バイレ・ファンキ)が現在世界的に見ても最もクレイジーサウンドに謎進化を遂げていることはご存知の方はご存知のことと思いますが、そんななか、MC Hollywood「Tipo Rave Balança O Popo」はEDMのビルドアップ‐ドロップ構成を取り入れてパロディ。脈絡なく入ってくるビルドアップから、いつものすっかすかなファンキサウンドに突然戻るドロップは絶妙なユーモアを醸してます。

 といった例を挙げてみていくと、『Future Pop』はなんだかんだ言うて構成としてはEDMに寄りつつも、エキセントリックな音使いや過激なドロップは避けて、ポップスとしても成立するバランスをうまくとっているように思います。ある種の「中庸さ」を保つことで、EDMのダイナミズムとJ-POPの親しみやすさを両立させている、というふうに言えるかと。中田ヤスタカのソロを聴いても割と「中庸さ」は感じるので、そういうゲームには乗らないという意志があるんじゃないかな。どうだろう。

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「和声」という枷

 鈴木惣一朗が聞き手をつとめた細野晴臣のインタビュー集『細野晴臣 とまっていた時計がまたうごきはじめた』(平凡社、2014年)を読んでいたら、興味深いくだりがあった。細野の1989年作『オムニ・サイト・シーイング』に収録された「Esashi」についての発言だ。江差追分に伴奏をつけくわえたこの曲で同作は始まる。

民謡にコードを付けるっていうあのスタイルは、やってみたかったからやったんだけど、あとで後悔したんだ。コードを付けちゃいけなかったなと思ったの。特定の色を付けちゃうことになってしまったからね。そのあとに、そんな傾向が流行ったこともあって、余計に落ち込んだね。

 続けて聞き手の鈴木は、論を補うようにこう語る。

――コードを付けるってことは、ボイシングによって、歌の心情を説明しちゃうことになるわけですよね。

 そしてまた、

――ブルーズなんかもそうですけど、本当は単旋律のままで、聴き手が感じるべき音楽の世界がある。それを、西洋的なハーモニーで説明してはいけないということですね。

 つまり、和声の概念がないモノフォニックな民謡に対して和声をつけくわえることが、果たしてその曲が本来持っている可能性を閉ざしているのではないか、という問いだ。

 しばしば現在のポップスでは、主旋律に対して別の和声進行をあてるリハーモナイズという手法が制作過程のなかで用いられることがある。同じ旋律でも異なる進行が添えられることでそのニュアンスが変わる様はクレショフ効果さながらであって、音楽がかきたてる私たちの情動は、メロディそのものというよりも和声の時間的な進行と旋律との関係性によって規定されていると言ってよい。

 とはいえ、よく指摘されることだけれどもこういう旋律に対する和声の優位が確立されたのはせいぜい18世紀とかそのくらいであって、たまたまそれが西洋音楽のスタンダードになって、現在のポップ・ミュージックまで地続きになったにすぎない。

 人類史とかそういうスパンで見れば西洋音楽においてさえ和声が音楽の主要な要素に数えられるようになった期間はほんのわずかでしかない。和声を伴う合唱みたいなものは洋の東西を問わず広くみられる(むしろ単旋律の厳密なモノフォニーのほうが少ないという)ものだけれど、それにしたって近代的な和声の体系とはまったく異なる、身体化された対位法のような原理で働くものだ。

人間はなぜ歌うのか? 人類の進化における「うた」の起源

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アフリカ音楽の正体

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 そのように考えたとき、「和声が旋律の意味を規定する」ことにあまりにも慣れた自分は旋律そのものの力に対してどれほど敏感たりえているかと思ってしまう。はたして江差追分をそのものとして鑑賞しつくすことが自分にはできるのか、と。いくら無調以後の現代音楽に触れたり、あるいは和声の体系から逸脱する構造を持つブルースやジャズ、あるいはこれが一番自分にとって馴染み深いところのダンス・ミュージックに触れたところで、もしかしたら身体から剥ぎおとされた旋律への感受性があるのではないか。

 まあそんなことは杞憂でしかないんだけれど、改めてさまざまな音楽に対して耳をオープンにしていくことを心にきめるきっかけになった対話だった。それは例えば歌やそのメロディへの意識を変えていく必要の予感をもたらしたりもしたのだった。


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信仰の不在と祈りについて――星野源「アイデア」

 星野源の新曲「アイデア」が配信リリースされた。0時の解禁とほとんど同時に耳にした「アイデア」は、そのタイトル通り、予想外のアイデアがつぎからつぎへと繰り出される名曲だった。

 星野源らしいエキゾティックな旋律と折衷的なバンドサウンドが印象的なワンコーラス目から一転、フットワーク/フューチャーベースのニュアンスを巧みに取り入れたダンスサウンドへと展開し、素朴な弾き語りを経由してふたたび星野源印のサウンドへと回帰する構成。大胆に表情を変えるサウンドは、一枚のEPを一曲に凝縮したかのような印象を与える。

 この展開は、まさしくこの曲が伝えようとすることばたちのためにあつらえられたものだ。光と影のように対照的に配置された1番と2番の歌詞はサウンドの変化と呼応し、アコギの音色と歌声が響くブリッジもまた、親密さに満ちたことばに寄り添っている。そこから浮かび上がってくるのは、人びとの生活そのもの、日々のあゆみそのものを音楽や響きにまつわる隠喩によって描き出しながら、それらをまさに音楽によってそして前進させようという意志だ。

 オーガニックなバンドサウンドから、ベース・ミュージックを経由して大団円に至る楽曲構成は、Donnie Trumpet & the Social Experiment「Sunday Candy」を思わせる。Chance the RapperとJamila Woodsをフィーチャーしたこの曲は、the Social Experimentを中心とするシカゴのミュージシャンたちの折衷的なセンスを存分に発揮したもので、ChanceやJamilaをはじめとした界隈のラッパーやシンガーの仕事に通底するポップさを凝縮した、象徴的な一曲だ。

 しかし、「Sunday Candy」の根底にあるのがゴスペルと信仰だとすれば、「アイデア」の根底にあるのはかわりに星野源自身のキャリア(いつも以上に象徴的に鳴らされるマリンバの音色は彼の原点、SAKEROCKを思わせる)と、いかにしていまの世の中に希望を立て直すかという問いなのではないかと思う。

 以前tofubeats『FANTASY CLUB』についてのレビューを書いたとき、まさにChance the Rapperを引き合いに出して、「信仰による救済」を持たない日本人はどのように「祈り」を捧げるのか、という問題に対する答えがあのアルバムにはある、と評したことがある。それと地続きに、「アイデア」もまた、信仰なき世界でどのように祈るか、どのように希望を語るかに対するひとつの答えだと言えないだろうか(そういえば、同様のことを、James Blake「Don’t Miss It」をめぐる文章でも「信仰の不在」における「救い」について書いたな)。

caughtacold.hatenablog.com

caughtacold.hatenablog.com

 まあそういった解釈については僕などよりも星野源の曲にもっと親しんだ人たちのほうがよほど的を射た案を提示してくれるに違いない。この文章はあくまで楽曲の構成上思い浮かんだ「Sunday Candy」と「アイデア」の比較を単に試みてみただけだ。ただこの曲がささやかな希望を人びとに届けることだけはたしかだろう。尻切れトンボですが、また。

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