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投稿者: oldblog

「ミュージシャンの取り分は12%」、これって少ない?――あるいはミュージシャンの起業家化について

nme-jp.com

NME JAPANによれば、アメリカで行われた調査で、「音楽産業全体の収益に対するミュージシャンの取り分が12%にすぎない」とする結果が明らかになったそうだ。このデータに対して調査に携わった研究者のひとりは「この数字は「極めて低く」、「信じがたい量が流出している」ことを示している」と指摘しているそうだ。

とはいえ、12%という数字がこの記事が強調するほどに少ないものかどうかについては即断しかねる。

もちろん報告書が提唱するような産業構造の転換――メジャーレコードレーベルから配信プラットフォームやプロモーターへの重心の移動――とテクノロジーによる業界全体の効率化によって今後ミュージシャンの取り分が増加していくことはありうるし、まだまだ改善の余地はある。実際、2000年の調査ではアーティストの取り分は7%で、この20年弱で5%ほど増加している。この変化に寄与しているのは、報告書によればコンテンツ主体からライヴなどの経験主体の消費行動への移行だそうだ。

しかし、SpotifyApple MusicといったプラットフォームやLive Nationのようなプロモーターが疑似レーベル的な役割を担うようになり、お金の流れが効率化され、相対的にミュージシャンが得られる収入の割合がより大きくなったとしても、単に人件費の担い手がミュージシャンへと移行するだけなのではないか? という疑問もある。

あえて議論を単純化するけれど、現状においてもBandcampであったり、あるいはPatreonのような購読型ファンディングサービスを使って制作活動を続け、完全にDIYに活動するミュージシャンのほうが入るお金が大きくなる可能性は充分にある。Chance the Rapperのようなスターは実際、Soundcloudやミックステープ共有サイトといったインターネット上のサービスを有効活用して現在の地位を築いた。そのうえ、クリエイティヴに対するコントロールはミュージシャンに委ねられるわけで、悪い話はないようにも思える。

しかし、DIYで活動するということは、アルバムの制作費も、ライヴの制作費も、広報費用も全部自分で管理するということにほかならない。そのためにミュージシャンは自分が信頼できる人材を選り抜いてチームを組み、なかば起業家、あるいは経営者として活動をすることになる。つまりは、いままでレーベルが負担していた金銭的・人的・時間的コストをミュージシャンが負担するようになるわけだ。

ミュージシャンのクリエイティヴを制限しつつ管理するレーベルの機能が弱体化し、プラットフォームやプロモーターのいち部門に縮小されることになれば、一般的なミュージシャンのおかれる状況は、よりDIYな起業家・経営者としてのミュージシャンへ近づいていくことになるだろう。

caughtacold.hatenablog.com

そうなれば、これまで以上に信頼できるマネージャーやスタッフを抱えることが重要になってくる。日本でいえば、メジャーレーベルに所属しつつ、個人事務所を立ち上げて信頼できるチームで活動を行っているtofubeatsの例は参考になるかもしれない。(参考:tofubeatsが神戸大学で仕事やキャリアについて講義 – FNMNL (フェノメナル))あるいは、ヒップホップにしばしばみられる、ゆるやかなコレクティヴの内部でのコラボレーション(OFWGKTAやYENTOWNみたいな)が、他ジャンルにも広がっていく可能性もある。

ミュージシャンの取り分を増やしていくことは、すなわちミュージシャンという職業のあり方を変えていくことにほかならない。それは表現者のみならず、起業家としてのミュージシャン、経営者としてのミュージシャンという側面をより強めていくことになるだろう。もちろんそれが良いとか悪いとかいう問題ではない。それでも、単純に「仲介業者を減らしてもっとミュージシャンに儲けさせよう!」という論調に陥ることには疑問を覚える。

ほかにも、コンテンツ流通やマーチャンダイジングの方法論の変化や、ヴァイラル・マーケティングに見え始めた限界、大規模なスペクタクル化=制作費の増加を伴うライヴ演出の普及など、音楽産業の「支出」をめぐっての変化には大きなものがあって、単純に中間業者を減らしてスリム化すればミュージシャンが豊かになるとは言い難い。ミュージシャンがどのようなスタンスを選ぶか――信頼できるチームを組むのか、業務をアウトソースしていくのか――こそが、検討すべき問題であるように思う。

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BTS(防弾少年団)"ANPANMAN"の衝撃――ポスト「クール・ジャパン」へ向けて

いまやK-POPアイドルグループ界で押しも押されもせぬ活躍ぶりを見せるBTS(防弾少年団)が、先日アルバムLOVE YOURSELF 轉 ‘Tear’をリリースした。そのなかに、日本人なら「おっ?」と思うようなタイトルの一曲がある。その名も”ANPANMAN”。そう、やなせたかし原作の、アニメ版もすっかりおなじみのキャラクター、アンパンマンを題材にしたものだ。それだけ聞くと、ちょっとしたノヴェルティソングというか、いわゆるネタとして消費される類の曲なのかなと思ってしまうのだが、意外にも曲の内容は、「そうきたか!」と思わされる、捻りの効いたものだった。

genius.com

大意はこんなものだ。小さい頃からバットマンやスーパーマンに憧れていた少年が、大人になるにつれてそうした荒唐無稽でゴージャスなヒーロー像を受け入れられなくなっていく。しかし、アンパンマンになら自分も近づけるかもしれない――困っている人を見つけたらそっとアンパンを差し出す、そんなヒーローにならなれるかもしれない。むしろ、そんなアンパンマンこそが新しい時代のヒーローなんじゃないのか? 超人的な力もいらない、富もバットモビールもいらない。僕はアンパンマンを求めている、僕こそがアンパンマンだ。

MCUをはじめとするアメコミもののブロックバスターが世界の映画史上を席巻し、アメリカン・ヒーロー像そのものも多様化し、進歩していく。しかし、そうしたアメリカン・ヒーローがグローバル・スタンダード化するのに待ったをかけて、BTSはアジア人としてそこにもうひとつのオルタナティヴを提示しているわけだ。アンパンマンというキャラクターを知る人にとってはちょっとユーモラスな、知らない人にとってはエキゾチックな印象を与えながら。

もちろん、アンパンマンというキャラクターが日本発のものだということを考えて、うれしくなる人もいれば複雑な気持ちになる人もいるだろう。いずれにせよ、アジア文化がグローバルにプレゼンスを上げていくなかで、日本の、ともすれば「こどものもの」として軽んじられそうなキャラクターを、このタイミングで、この文脈で取り上げるBTSの鋭さには、してやられたと感じる。作品のテーマの咀嚼の仕方も抜群だ。いわゆるアニメでおなじみのアンパンマンというよりは、そのプロトタイプである、アンパンをくばるおっさんとしてのアンパンマンを想像したほうがよりリアルにこの曲が響くかもしれない。

あんぱんまん (キンダーおはなしえほん傑作選 8)

あんぱんまん (キンダーおはなしえほん傑作選 8)

最近ひしひしと感じるのは、いわゆる「クール・ジャパン」の名の下で繰り広げられる日本の文化政策がたいした実を結ばない一方で、コンテンツのクオリティ向上や圧倒的な経済成長を背景に中韓の文化のグローバルな存在感が増している、ということだ。このことは、すっかりグローバル・チャートでもおなじみになったK-POPアイドルたちのみならず、ビリビリ動画の躍進などといったことにも裏付けられている。KAWAIIにせよOTAKUにせよ、日本文化は相変わらず海外のひとびとから一定の支持を受けているものの、その受容は「クール・ジャパン」としてよりも、むしろ「クール・アジアン」というように、日中韓を中心としたアジア文化全体がひとつの文脈のうえに整理されているような印象を受ける。

www.itmedia.co.jp

そこで登場したのが、”ANPANMAN”という決定打だというわけだ。韓国のアイドルグループが、日本の絵本のキャラクターに憧れるポップスを、グローバルにプレゼンテーションする。もはや日本・韓国といった線引きを超えて、ハイブリッドなアジア文化が新しい文化のフレームとして機能しているのだ。もちろん、この勢いの一因には、先日RealSoundでも遅まきながら紹介した88risingのようなプラットフォームをはじめとした、アジア発のアーティストをプロモートする動きもあるだろう。

しかし、日本はいまのところこうした動きにきれいに便乗することができていない。つくり手や受け手といった個人の単位では盛んになってきている交流も、少しスケールが大きくなると鈍くなりがちだ。中韓を単なるライバルであったり、ましてエキゾチックな観察の対象とみなすような風潮はすっぱりと終わりにして、政治的融和の道のりは長いとしても、せめて文化的交流は絶やさず、アジアにおける日本文化のプレゼンスを維持し、「アジア文化」という大きな枠組みを建設的に発展させていく時代だと思う。というのも、いまさらにすぎるだろうか?

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Poly Life Multi Soulのリズムメモ

夕方書いた記事の補足。

POLY LIFE MULTI SOUL (通常盤)

POLY LIFE MULTI SOUL (通常盤)

さいしょに

  • パルス
    • リズムの基礎単位
  • 拍子
    • 一小節を何分割しているかの単位
  • メトリック・モジュレーション
    • パルスの長さを維持しながら拍子を伸縮させる
      • ●=○=1パルス、●=アクセント、○=休符とした場合、
      • A:|●○○○●○○○●○○○●○○○|●○○○●○○○…
      • B:|●○○●○○●○○●○○|●○○●○○●○○●○○…
      • AとBはパルスの長さを共有しているが小節の長さ(=実質的なテンポ)が異なる。
      • よくあるパターンとしては、付点音符を使ったシンコペーションを使って小節をまたいで拍子をスムースに変化させる例
  • クロスリズム
    • 複数の拍子に解釈可能な単一のリズム・パターン
    • 小節あたりのパルスの数が公倍数になっているときに可能
    • 典型的なのはパルスの数が12の場合のクロスリズム
    • |●○○●○○●○○●○○|(四分三連の4/4もしくは12/8)
    • |●○○○●○○○●○○○|(3/4)
    • 12/8もしくは3/4の場合、基本的にすべてクロスリズムとして解釈できるが、実際にはアクセントの位置やメロディの流れによってどちらかに一意に決まることが多い。

  • ポリリズム
    • ひとつの小節のなかに異なる複数の拍子が共存している
      • 4/4のリズムの上に三連がのっている、etc…

最近流行りの三連フロウもポリリズムっちゃポリリズム

三拍子のうえで5音節の単語をくり返して小節がまわりこんだり揃ったりをくり返す。

各曲メモ(気になったのだけ)

  • Modern Steps
    • メトリック・モジュレーションを使ったリズムチェンジ
      • イントロのギターとオルガンは4/4(その後のパートとはテンポが異なる)
      • リズムボックスが入ってからは[4/4 *2 + 5/4 * 2] * 3(1パルス=八分音符として、1周期36パルス)
      • 四分三連の3/4に移行(1周期18パルス)
      • 最後のギターは7/8 + 11/8(1周期18パルス)
  • 魚の骨 鳥の羽根
    • 3と4のクロスリズム
    • キメの部分でどちらかの拍子が優勢に聞こえる部分もあるが、全体を通して3にも4にもとれるきれいなクロスリズム
  • ベッテン・フォールズ
    • メトリック・モジュレーションを使ったリズムチェンジがばんばん
      • 5/4→9/8→12/8→5/4→9/8→4/4→12/8…[20220228 いま思うと5/4は10/8と書いたほうがいい]
  • 溯行
    • 後半に4/4から12/8へのメトリック・モジュレーション
  • Buzzle Bee Ride
    • 一貫して7/4だが、クラーベがわりのベルが抜けた後半に激しいシンコペーションがある。
  • Double Exposure
    • 4/4。ただし3小節を1周期として進行するのでちょっとだけ変則的に聞こえる。
  • Waters
    • 3/4。中盤で一部周期が倍になって6/4。
    • 要所要所でクロスリズム的にとれ、後半でシンセのコードだけになるところ以降ははっきりとクロスリズム的なパターン。

以上です

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プロデューサーがサンプルパックをリリースする理由:「聴き手」ではなく「作り手」向けのビジネスあれこれ

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ヒップホップを中心とする音楽業界では、表に立つラッパーやシンガーといったパフォーマー以上に、プロデューサー(=トラックメイカー)が重要なキーを握ることがしばしばある。しかし、彼らに必ずしも正当な評価が伴っているわけではない。たしかにアメリカで活躍する売れっ子プロデューサーともなればトラックひとつでうん百万ドルなんて話も聞こえてくるけれど、それも一握りの話。あのDiploですらRihannaへの曲のプレゼンにはさんざ神経を使った挙句に「空港レゲエ」呼ばわりされる憂き目にあっている(まあ冗談だろうけど)し、ラッパーに比べてプロデューサーの地位が不当に低い、という問題提起は近年くり返しなされている。

そこで興味深かったのはPigeons & Planesの以下の記事。プロデューサーが自分のシグネチャーサウンドをまとめたサンプルパックを重要な副収入源にしているという話だ。

pigeonsandplanes.com

Chance the RapperやSZAへのトラック提供で知られるCam O’Biは、Bandcamp上で自身のドラムキットを販売している。たとえばSZAの“Doves In The Wind”で使ったサウンドをまとめたキットとか、Nonameの《Telefone》で使ったサウンドをまとめたキットなど、気になるリリースがたくさんある。


Cam O’Biはプロデューサーとしてコンスタントに仕事をこなし、十分な収入も得ている。けれど、食事代やUberを呼ぶ代金くらいのお金をちょっとだけ稼いでみるつもりで、特にプロモーションもしないでリリースしたのだそうだ。すると、数回のフライトを賄える程度のお金が入ってきた。自身も驚くような売れ方だったという。

また、Cam O’BiのようにBandcampをプラットフォームに使うプロデューサーもいれば、自身のウェブサーヴィスBlap Kitsを立ち上げた!llmindのようなプロデューサーもいる。ビジネスの形態はさまざまながら、サンプルパックやドラムキットの販売はプロデューサーにとってあり得る収入源のひとつとして存在感を増しているみたい。そして案の定(というのもなんだが)、トラック提供以外の収入源を模索するプロデューサーたちもまた、今後の活動形態のひとつとして、Paetronのような購読型のクラウドファンディングサーヴィスに関心を寄せているようだ。

caughtacold.hatenablog.com
Paetronについては以前上掲の記事でまとめました。

こうした流れを見て思うのは、「作り手がよりよい環境で制作し、発信できるようにするサーヴィス」が今後の音楽-テック業界の伸びしろなのかな、ということだ。SoundCloudが経営陣を一新し、元VimeoのCEOなどの人材を揃えたのも、資本力で劣るVimeoが、「高品質なストリーミングと多様なオプション」を作り手に提供することでYouTubeと差別化を図り、マネタイズしてきたことに着目してのことだろう。創業者のAlex Ljungが目指した、特定のレコード会社やストリーミングサーヴィスに依存しない、クリエイティヴなコミュニティを育むための環境を模索するための一手としては、納得がいくものだ。翻って、こうしたサンプルパックやドラムキットの販売もまた、同じ文脈で捉えられると思う。少なくともミクロな視点から言えば、コンテンツへの対価という意識は今後どんどんなくなっていき、属人的なパトロネージか、「作り手」に向けたビジネスが発展していくんじゃなかろうか。

ほか、記事にしようかと思いつつタイミングを逸していたけれど、SONYがリミックス曲のクリアランスを手がけるヴェンチャー企業のDubsetとの提携を発表したり、オンラインマスタリングサーヴィスのLANDRがディストリビューションまでワンストップで手がけるサーヴィスを展開し始めたりと、作り手により効率的な作品発表とマーケティングの手段を提供するサーヴィスがどんどん始まっている。SoundCloudもこの流れにうまくのって、持続的なサーヴィスになってくれるといいな。

Roland ローランド コンパクトサンプラー SP-404SX

Roland ローランド コンパクトサンプラー SP-404SX

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「インターネットの王様は継続的なコンテンツだ」――密かに帝国を築くアーティストたちと、Jack Conteの起業家精神に学ぶ

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記事後半で取り上げるPomplamoose。見目麗しいNataly Dawnと髭面のナイスガイJack Conteの二人組。

caughtacold.hatenablog.com

 昨日のエントリ(上掲)に引き続いて、インターネットと音楽の込み入った関係について。昨日のエントリでは、SoundCloudの経営危機に見る「音楽をシェアする」サーヴィスの難しさと、クロスメディア・プラットフォーム化する人気YouTubeチャンネルについて書いた。おおざっぱにまとめれば、作り手と聴き手のあいだを仲立ちするサーヴィスやメディアの現状というのが昨日のテーマだった。ひるがえって今度は、個人単位でインディペンデントに活動するアーティストたちや、彼らを応援する人々の視点に切り替えてみる。

地道でコンスタントな活動こそが評価される、インターネットのファンダム

playatuner.com

 playatunerというメディアに昨日付けでこんな記事が掲載されていた。昨日の記事を書いていた段階では知らなかったけれど、まさしく今日書こうと思っていた内容とシンクロするものだった。

世の中には「気がついたら水面下でめっちゃ売れていた」というアーティストが存在するのだ。自分でほぼ全ての作業をやり、少数で動き、徐々にネットでファンを獲得していく。一般世間が気がついた頃にはもう追いつけないレベルのファンベースを築いているのだ。

 バズを起こすでもなく、アーティストやレーベルからフックアップされて脚光を浴びるでもなく、「気がつけば売れていた」アーティスト。その正体は、巧みなメディア戦略をよしとするよりも、YouTubeSoundCloudを通してコンスタントに楽曲やミックステープ、アルバムをリリースしたり、あるいはライヴを定期的に欠かさず行うことで、自分の音楽をただ地道に人々に届けることに励んだアーティストだと言って良いだろう。たとえば冒頭で取り上げられているBlackbear。彼はSpotifyでの再生回数やマーチャンダイズでの売上を相当稼ぎ、大きなファンダムを築いているというが、メディア上で目立ってバズっているわけでもないそうだ。

彼の特徴としては、やはり自分の寝室で曲を作り、ミックスやマスタリングも自分でやっていたということだ。ビルボードチャートにて1年間もチャートインし、ゴールド認定された「idfc」は、まさに彼のベッドルームで制作されたものであった。「自分が1人で家で作った曲がこんなに聞かれてるのは凄いことだよ」と語っており、驚いたことにMVなどもほぼ出していない。

 プロモーション活動のYouTube一極化という話題を昨日のエントリで取り上げられたけれど、MVのような主要な動画コンテンツもなく、インディペンデントなアーティストが着々とキャリアを積み上げてきたというのは驚嘆に値する。もちろんその伏線として著名アーティストとの共作などもあったとはいえ、いかにメディア露出を増やし、SNSでバズるかというようなプロモーションとは一線を画している。その次に取り上げられているRussのストーリーも凄い。

彼はレーベルの手助けがない状態で、11個のアルバムをリリースし、サウンドクラウドで毎週1曲を公開し続けた努力家である。さらにライブも欠かさずに、50人しかいなかった客が2年間の間に数千人規模まで増えた。

 同記事では、とにかくコンスタントにリリースすること、他のアーティストによるリミックスやファンによるシェアに寛大であることがこうした成功の秘訣ではないかと示唆している。個人的に付け加えれば、こうした活動が可能になるのも、昨日言及した「音楽の流通経路の多様性」が確保されているからにほかならないと思う。それゆえSoundCloudの危機はなおさら憂鬱を呼ぶのだけれど。「一人で全部やる」スタイルのアーティストはどんどん増えていくだろうし、あるいは地縁的な繋がりによる互助的なコレクティヴがより重要になるだろう。Odd Future周辺から派生したアーティストたちのつながりや、Chance the Rapperというスターを産み、Nico SegalやJamira Woods、Nonameといった注目アーティストを発信するシカゴのシーンはその象徴と言える(その意味でNonameはちょっと同記事の趣旨からは外れるようにも思うがどうだろう)。

Scum Fuck Flowerboy

Scum Fuck Flowerboy

Odd Futureと言えばTyler, the Creatorの新譜出ますね。楽しみ

 しかし、地道で継続的な活動が成功の秘訣と言われても、現実には「生活」という大きな壁が立ちはだかっているわけで、並大抵の努力ではこうした成功は手に入れられないだろう。YouTubeの広告収入で生活できるようになるなんていうことはもっと狭き門だ。また、聴き手の側からしても、YouTubeSpotifyといったサーヴィスを通しては直接アーティストを支援することができないというネックがある(僕がBandcampで音源を買うのを好むのは、アーティストによりダイレクトにその支援が届くからだ。望むなら、価格を上乗せだってできるし)。継続して活動を続けたい作り手と、そんな彼らをサポートしたい聴き手をインターネット上でつなぐ場があれば……。

 と、煩悶しながらYouTubeを見ていると、まさにそうした場を提供するサーヴィスを、多くのYouTuberが利用していることに気づく。「継続型クラウドファンディング」とでも言うべきそのサーヴィスの名はPatreon。前々から面白いサーヴィスだなーと思っていたのだけど、この間改めて調べてみて、共同創業者の名にびっくりしてしまった。

人気YouTuberからアーティスト、そして起業家へ:Jack Conte(Pomplamooseメンバー / Patreon創業者)に学ぶ

www.patreon.com

 前項でも言及したように、Patreonが提供するのは一種のクラウドファンディングだ。しかし、Kickstarterのような既存のクラウドファンディングがプロジェクトベースで投資を募るのとはちょっとわけが違う。Patreonはクリエイターの活動に対して、作品単位か、ないしは毎月一定額ずつ支援していくという投資スタイルをとっている。クリエイターはその見返りに、支援額に応じたエクスクルーシヴなコンテンツを提供したりする。利用しているクリエイターの幅はとっても広い。DIY1のYouTuberからASMR系2のYouTuber、ゲーム実況者、イラストレーター、ソフトポルノやフェティッシュ動画の作り手などなど。2013年に立ち上がったこのサーヴィスは順調に業績を伸ばしているらしく、現在の利用者は5万人以上のクリエイター、そして月当り100万人のパトロン(出資者)を数えるまでに成長している。

 創業者は、Jack ConteとSam Yamの二人。え? Jack Conteって…… と思って調べたら。やはりあのJack Conteだった。“VideoSongs”というユニークでポップなオーディオヴィジュアル作品をリリースして知名度を挙げた人気音楽ユニット、Pomplamooseの片割れだ。彼らの熱心なファンならばもしかしてとっくに常識というか、周知の事実だったのかもしれないけれど、恥ずかしながら割に長いことPomplamooseの活動をフォローしていたにもかかわらず、彼がPatreonの創業者だということは知らなかった。いや、もっぱらNatalyの活動ばっか追ってたせいという説もあるけど…… とにかく驚いた。

 PomplamooseがつくるVideoSongsとは、レコーディングの様子を収めたフッテージを組み合わせて、一切の吹き替えやあてぶりなしで一曲を仕立て上げる、とってもスマートかつユニークな作品たちだ。ポップ・ミュージックの名曲をこの上なくキュートなアレンジで聴かせ、魅せる彼らのプロジェクトはいつ見ても本当に面白い。チャンネルにアップロードされている作品は残らずチェックした方がいい。ついでにJack ConteNataly Dawnおのおののチャンネルもチェックすべし。彼らこそまさに、魅力的なコンテンツを継続的に提供しつづけることで着実にファン層を拡げていったアーティストの先駆けだ。

比較的近年の作品で、Wham!のカヴァー。Natalyの魅力が全面に押し出されていて「ああ! ナタリー!」となる(?)

Edith PiafのLa Vie En Roseをカヴァーした比較的初期のVideoSongs。まだ編集がせわしく、ちゃかぽこしているのが楽しい。

Pomplamoose Live

Pomplamoose Live

ツアーも何度かやっていて、ライヴ・アルバムも出してます。

 そんな活動をしてきたJack ConteがPatreonを立ち上げるに至ったのも納得できる。たとえば、2014年のインタヴューで彼はインディペンデントなミュージシャンをこんなふうに激励している。

レコードレーベルにビジネス面を任せてしまわない限り、もうただのミュージシャンでいるだけでは済まなくなっているんです。成功するミュージシャンは起業家です――みんなめちゃくちゃ働いて、9時5時なんて気にしない。彼ら動画の撮影から編集までを学んで自分たちのヴィデオをつくってしまうし、音楽制作ソフトの勉強をして自分たちだけでレコードをつくる。
(中略)
いますぐ始めましょう。どうすればいいか読んで勉強するのはやめて、実際にやってみることです。曲を録音して、発表して、フィードバックを貰う。それを100回以上繰り返すんですよ。3

 そして、2013年、Patreon立ち上げ当時のインタヴューではこうも言っている。

インターネットの王様はコンテンツじゃありません。[…]継続的なコンテンツです。けれど、Kickstarterのようなモデルは継続的なコンテンツには向きません。また、YouTubeからの広告収入はなかなかですが、ある種のコンテンツに注がれる仕事や熱意の量に相応しい価値がつけられているようには思えません」4

 アーティストとしての立場から言えば、とにかくインターネットを使って作品をコンスタントに発表して、自分たちでなんでもやれるようになる必要がある。けれど、ビジネス面から言えば、そうしてかけたコストに見合うだけの報酬を得るのはなかなか難しい。そのギャップを埋めるため、アーティストの継続的な活動を気軽に支援できるPatreonを立ち上げた、というわけだ。

 当初はコンテンツが発表される度に投げ銭のように支援する形式を採用していたPatreonだが、いまは毎月ごとのサブスクリプションのように支援するという形式も併せて採用している。クリエイターは月ごとに自分の制作するコンテンツに割くことができる資金を確保でき、投資額に応じた投資者へのオプションを提供する必要もあるので、コンスタントな活動に対するモチベーションも上がることになる。

DIY系YouTuberの大御所、Jimmy DiRestaもPatreon利用者。ちなみにDiRestaのYouTube上のメーカーズコミュニティに対する影響力は凄い。“DiResta inspired”で検索してみるべし

 これはなかなかよくできたエコサイクルだと思う。なにより、ソーシャルメディア上のバズやメディアへの露出を気にすることなくクリエイターは活動に専念できるし、受け手も1ドルから気軽にクリエイターを支援できる――そのうえ、エクスクルーシヴなコンテンツも手に入れられる。また、インターネット全体から見ても、プロジェクト単位で打ち上がっては散っていく花火のような単発のコンテンツや、瞬間風速だけ気にしているようなクリック・バイトまがいの使い捨てコンテンツではなく、地道な活動による「継続的なコンテンツ」が増えていくのは好ましいことだ。その意味で、「インターネットの王様は継続的なコンテンツだ」というのは単にビジネスで勝つためのモットーではない。インターネットが育む文化そのものを継続的で息の長いものにするために不可欠な理念なのだ。

 管見の限り、国内には類似のサーヴィスが見られないように思う(ドワンゴのブロマガが近いといえば近いか)。プロジェクト支援型でもなく、散発的なカンパ型でもないようなクラウドファンディングにはちょっとした可能性を感じるのだけど…… どうだろうか。少なくとも、V█LUなんかよりもよっぽど現実的な需要があると思う。

enty.jp

 日本にもふつうにありましたわいな、クリエイター支援型クラウドファンディング! イラストレーターが目立つけど、広いジャンルの人に使われてるといいなー、ちょっと調べてみよう。(7月16日追記)

おわりに

 以上、散漫ながら、SoundCloudの危機をきっかけとして、インターネットと音楽の複雑な関係性について、その現状をつらつらとまとめてみた。これといった提言はないけれど、むしろ2つの記事で紹介してきた個々の事例に、みなさんなりの可能性を感じてくれれば、と思う。現場(a.k.a.ベッドルーム)からは以上です。


  1. YouTubeDIYというとライフハック系のチャンネルも多いが、ここではガチの木工や鉄工、手仕事系のチャンネルを指す(って、個人の趣味だけど)。エクストリームDIYチャンネルとしてあらゆるチャンネルから一線を画すPrimitive Technologyもそこに含まれる。

  2. ASMR系というのは端的にいうと「音フェチ動画」のことで、その正式名称はAutonomous Sensory Meridian Responseだとかなんとか。この微妙にもっともらしい名前がもたらす胡散臭さも含めていい感じのヴァイブスを発しているジャンル。ロールプレイものも多くて、しばしばセクシャルな含みもあったりする(そのへんは邪道だと言う人もいそうだけど)。

  3. A Chat With Jack Conte, Musician And Entrepreneur | TechCrunch(拙訳、強調は原文に従った)

  4. Jack Conte’s Patreon: Anyone Can Be a Patron of the Arts | Billboard(拙訳、こちらの強調は筆者による)

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オルタナティヴなポップ・ソング:SOPHIE “PRODUCT”(2015)について

調性の崩壊と演奏者の解放

おおよそ18世紀に確立した古典調性と呼ばれる音楽のフレームワークは、20世紀初頭にその構造的極限に達した後に崩壊を迎え、十二音音楽やミュジク・コンクレート、不確定性の音楽といった諸実践へと開かれていった。調性とはいわば楽音の内部に持ち込まれたヒエラルキーのことであって、それはその用語の端々に――主音、属音、下属音…――あらわれている。ある調性のなかではひとつの音が他の音に対して優位にあり、旋律や和声は主としてその調性における主音へと「解決」されるべく、一定のケーデンス・ラインに従って連結されていく。あらゆる音には主音へと向かう役割が与えられ、それに奉仕するのである。

こうしたヒエラルキーはたとえばオーケストラのような集団の内部にかたちづくられるヒエラルキーとも重ね合わされる。とりわけ一人が一旋律を担う管弦楽器においては、自らの発する音の行く先はオーケストラという集団を束ねる指揮者と、楽曲の内部から各々の音を導く調性のシステムによって制御されることになる。とすると、調性の崩壊という事態は次のようなテーゼをも導くことになる。すなわち、「楽音≒演奏者の解放」である。

実際、調性が崩壊した二世代ほどあとに勃興したミニマル・ミュージックにおいては、あきらかにそうした意図を持って制作された楽曲が数多く見受けられる。Terry Rileyの《In C》(1964)、Frederic Rzewskiの《Les Moutons de Panurge》(1968)、あるいはLouis Andriessenの《Worker’s Union》(1975)といった作品は、調性の崩壊以降にみられるようになるプロセスへの志向と共に、指揮者によって統率されるオーケストラというモデルによらない集団演奏によって新たな音楽的経験を生み出すことを目的としているといえる。

ポップ・ミュージックの想像的な分業制度

ポップ・ミュージックはかなり柔軟に調性の外にある概念――ブルーノート、ノイズ、不協和音等々――を取り入れてはいるものの、やはり根本的には調性音楽の範疇にある。それゆえポップ・ミュージックの内部にもまた、ヒエラルキーが存在する。それは既存のオーケストラのような大集団というよりも、数人~10人程度の比較的小さな集団へと効率化されてはいるのだが、リズム隊やギター、ヴォーカルといった楽曲の構造上のヒエラルキーに従った分業は維持されている。

あるいはそれは、たとえばJB’sにおける罰金制度に代表されるバンドのあり方によって、しばしば強化されていると言ってもいいかもしれない。絶対的な権力者としてのバンマス、それに服従することによって生まれる強烈なグルーヴ。その魅力を否定したいとは決して思わない。

ポップ・ミュージックというフォーマットにのっとる限りにおいて、こうした構造的分業制は維持される。それが現実に存在するアコースティックな楽器とは関係のない電子音から構成されるとしても、音色や音域の特性によってリズムを提示するブロック、和声を提示するブロック、旋律を提示するブロック、といったかたちでけっこうはっきりと分業のありようを見て取ることができるものだ。バンドでつくろうがひとりでつくろうが、楽曲の構造上形成される音色の諸ブロックの分かれ方をここで、ポップスの想像的分業制、と呼んでみることにする。そこから逸脱すれば、それはもはやポップソングというラベルをはぎとられ、エクスペリメンタルというおためごかしのラベルを新たに貼り付けられることになるだろう。

調性の枠内にとどまるポップ・ミュージックにおいては、演奏者の解放に相当するようなイノベーションは起こり得ないのだろうか。たといひとりで打ち込みで作っていたとしても想像的な分業制度を音色にこめてしまうのだとしたら?

ヒエラルキー抜きのポップ・ソング

そこに、SOPHIEが現れる。彼の音楽を聞いて面食らうのは、それが明らかにポップ・ソングとして機能しうるというのに、想像的な分業制がそこに見いだせないからだ。ベースラインとドラムとコードはいびつに図太いシンセベースによっていちどきに代替されてしまっている。ドラムスとSEの区別もなく、強いて言えば歌声だけがメロディを提示することによってかろうじてひとりそこに立っているかのように思える。しかしそれもずたずたに断片化され、性急にSEと混じり合ってしまう。

そもそもトラップ・ミュージックやフューチャー・ベースといった最近の流行にその萌芽があった――トラップのベースラインと同化するキックなど――とはいえ、SOPHIEのそれは露悪的なまでに「やり過ぎ」であって、しかし奇妙なポップさを勝ち得ている。それはまさしく、音楽の想像的分業制によってではなく、個々の音色の薄気味悪いと同時に人懐こい性格によるところが大きいだろう。すなわち、次から次へと浴びせかけられる音色のシャワーが、想像的分業制すら廃したポップ・ソングという異物を生み出した、というわけだ。

その聴感上の新奇さを埋め合わせるように、SOPHIEの曲にあてられた歌詞も和声も陳腐なほどポップだ。泣きたくなるほどやすっぽい話… と菊地成孔なら言いそうな。しかし、そこに厳然たる不在――ヒエラルキーの、想像的分業制の――の穴が空いているが故に、それを単純に調性の枠内にとどまるポップスとまったく同じものと見なすことはできない。この奇妙な音のシャワーをいくらでもいくらでもと浴びている内に、自分までプラスティックの粒子になってしまいそうな幻覚をみてしまう。

かようにSOPHIEの《PRODUCT》はポップ・ミュージック史になにがしかの爪痕を残したに違いないと思う。それはアンチ・ポップでもなければド直球のポップでもない、ポップを換骨奪胎しきった、正真正銘オルタナティヴなポップだ。

PRODUCT [帯解説・ボーナストラック収録 / 国内盤] (BRC493)

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AIはプリペアド・ピアノの夢を見るか?――人工知能と自動作曲に関する覚書

この曲は、ソニーの研究所が開発したAI、「FlowMachines」を用いて作曲された、「ビートルズ風」のポップソングだ。イントロのコーラスワークやベルの音色はむしろペット・サウンズ期のビーチ・ボーイズではないのか、という気もするけれど、たしかにメロディにはどこかジョンやポールの面影が感じられる。2017年にはこの他にもAIを用いて作曲した楽曲を含むアルバムが発表されるという。なんとまあ、夢のある話ではないか。ただし、「AIがついに作曲を! シンギュラリティ!」と言うのは先走りすぎだろう。このAIがどのようなものかを糸口にしつつ、昨今盛んな人工知能による作曲や演奏について、考えてみたい。

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Jace Clayton, Pitch Perfect, 2009, frieze.com 和訳

以下は、2009年にFrieze.comに掲載されたJace Claytonによるエッセイ、“Pitch Perfect”の日本語訳です[さらに注、この訳は2016年に以前のブログに掲載したものの再掲です、訳の見直しはしていないのでおそらく問題はおおありです]。勝手訳なので、そう長い間公開しないかもしれないけれど、ご容赦ください。2000年代以降に隆盛を誇り、いまだに広く用いられているオートチューンというエフェクトをめぐるこのエッセイを知る切っ掛けになった、Jace Claytonのプレゼンテーションはこちら。本文中に挿入しているYouTubeの動画は訳者が付け足したものです。

ピッチ・パーフェクト

今日ほとんどすべてのポップ・ソングに使われているソフトウェア、「オートチューン」の功罪

Jace Clayton

この10年で最も重要な音楽機材は、楽器でもなければ物理的なオブジェクトでもない。それはオートチューンと呼ばれ、おおざっぱに言ってすべてのポップ・ソングのうち90%で用いられている。オートチューンはいわゆる「プラグイン」の一種で、他のより大きなオーディオ・ソフトウェアにインサートして使うために特別に設計されたソフトウェアだ。オートチューンは、キーから外れた音をぴったりの音程に直してくれる。当初オートチューンは間違った音をならすためにさりげなく使われていた。(修正というよりも)装飾的なオートチューンの使い方を最初に広く知らしめたのは、Cherの1998年のシングル《Believe》だといってよいだろう。繰り返された整形手術によって突っ張った肌とかその他の副作用が整形それ自体の美学をかたちづくるとしたら、オートチューンについても同じことを考えることができるだろう。《Believe》のいくらかのフレーズがロボティックに変化するのを聞き取れる箇所がある――オートチューンの仕事はまさにそれだ。数年ほどでこの制作秘話(そしてこの高価なソフトウェアの違法コピー)は世界中のスタジオに浸透した。その過程で、声と身体のあいだのつながりが問題化されることとなった。

ヴォーカル至上主義者はオートチューンをひどく嫌う。彼らはオートチューンのロボティックな変調のなかにこんなものを聞き取る。砂糖まみれの物珍しさ、ゴリ押しされたニュアンス、貧相な合成品、「魂(ソウル)」の欠如、天性の歌の才能というものに対する軽蔑、ティーン向けの芝居じみた演技、感情の貧血症、そして/あるいは広範に及ぶ音楽的な衰退といった諸々の複合体を。醜いものだ。アメリカのR&Bシンガー、T-Painのオートチューンの助けを借りた2007年のヒットについて論じた折、音楽評論家のJody Rosenはこんなふうに主張した。「T-Painは、アフリカン・アメリカンによる音楽の、その伝統的な感情主義からの象徴的な切断を代表している。[…]何十年もの間にわたって黒人の大衆による歌を力づけてきた熱烈なメリスマは、合成されたあえぎ声へと均されている」

Lil Wayneのようなパフォーマーたちは、オートチューンを通じて非-音楽的な声の音――あえぎ、ラップ、笑い声――さえも送り届けるが、広く模倣されているT-Painのスタイルは、注意深く歌われたコーラスをくどく飾り立てるところに特徴がある。それによって、まさにサイバネティックな光沢のためにコーラスはより目立つようになるのだ。Rosenはそこに断絶と喪失を聴き、そして真実、オートチューンはソウルフルに歌うとはどういうことかを再定義し、私たちが明白な達人技(ヴァーチュオシティ)を使うことをできなくしてしまう。そのうえこのプラグインは、魂(ソウル)や技術の場としての声を脱自然化しながら、才能というものを別の場所へとおしやる。オートチューンを効果的に使うためには、そのデジタル・アルゴリズムと協力しなくてはいけない。「ロボットっぽい声にしてほしい」と頼んでくるヴォーカリストたちについて冗談を言ったあと、モロッコ人プロデューサーのWaryはこんなことを言った。「ときどき、凄い歌手だけどオートチューンの使い方をわかっていない人というのがいてね、その音といったらひどいものだよ」伝統的な歌の才能はオートチューンの世界ではそう使い物にならない。重要なのはテクノロジーとの戦いでもなければ、テクノロジーへの愛好とも違う、愛想の良い共存みたいなもの、すなわちギブ・アンド・テイクの奇妙で新しいダンスなのだ。

Rosenが言う、オートチューンがすべてを台無しにする前に「黒人の大衆による歌を力づけてきた」ような「熱烈なメリスマ」に光を当てる例は、T-PainのR&Bだけに限らない。メリスマは、マグレブの音楽にも、より広くとは言わないまでも、同じくらい広くみられるものだ。オートチューンが北アフリカで信じられないほどの成功を収めている理由はこれだ。現代のライー(raï)やベルベル人の音楽はオートチューンを心から受け入れている。という理由はまさしく、グリッサンドがヴォーカル・パフォーマンスの中心部分だからだ(音のまわりを飛び交うような声を持っていないと、良いシンガーだとは言えないのだ)。オートチューンを通すと、スライドしていく音程ははっとさせる響きを持つ。奇妙な電気的な歌声が、喉を震わせるグリッサンドのなかにはまりこむ。人間らしいニュアンスとデジタルな修正との拮抗が聞き取られるようになり、劇的なものになる。まったく字義通りに、これこそ声と機械が互いに変調しあっているサウンドなのだ――これは、T-Painがこの技術を「コンピューターを真似る」ために使っているという、Rosenの結論からはかけはなれたものだ。

リヴァーブやエコーといった伝統的なエフェクトと違って、オートチューンはヒューマン・エラーや音程の機微に能動的に反応する。それは平坦化したり均したりするのではない。まして普遍化するものでもないのだ。マンハッタンのハイエンドなレコーディングスタジオであるチャン・キングでチーフ・エンジニアを務めるAli Ruskinはこう説明する。「本当に(キーに)ぴったりに歌うなら、エフェクトの強烈さは薄まるんだ」このソフトウェアは間違った音を正しくするためによく働くのだから、正しい音程の音は相対的に自然に聴こえるのだ。けれども、優れた歌い手が音をスライドさせると、ソフトウェアは混乱してしまう。相互作用は複雑になる。

オートチューンなしでは風変わりに聴こえるようなヴォーカル・ラインが、いまやお馴染みの効果を生み出すのに必要になってきた。オートチューンは人間と機械によるデュエットに似たなにかを促進している。Ruskinは数えきれないほどのメジャーなヴォーカリストたちとレコーディングしてきたが、そこには最も売れているラッパー、Lil Wayneも含まれている。Ruskinによれば、「すべてのポップミュージックのうち99%は、オートチューンで修正されている」という。けれども、アーティストたちが大胆にこのプラグインの使用を前景化する際には、彼らは歌うと同時に加工されている自分の声も同時に聴くことになる。Lil Wayneはオートチューンを通したままでレコーディングする――処理されていないヴァージョンのヴォーカルは存在しないのだ。パワフルなコンピューターのおかげで、レコーディング・セッションのあとであらゆる種類のエフェクトをヴォーカルに試してみることができるような時代に、直接オートチューンをとおしてレコーディングするということは、オートチューンに完全に身を捧げるということだ。もはや、「裸の(naked)」オリジナル・ヴァージョンは存在しない。これは、サイボーグ的な受容だ。『サイボーグ・マニフェスト』(1991年)に、Donna Harawayは、「器官と機械との関係は国境紛争と化した」と記している。オートチューンの創造的な援用は、彼女の「境界を曖昧にする快楽と、境界を構築する責任のための議論」と完全に一致するものだ。

数カ月前、私はコート・ジボワールからの曲を耳にした。12分間にわたるChampion DJの《Baako》は、オートチューンを通した赤ちゃんの泣き声を中心としてつくられている。オートチューンは赤ちゃんの苦悶をうす気味の悪い音楽へと屈折させる。耳ではいいなと思う。けれどもこころではそう確信できないのだ。

https://youtu.be/i20acgIPcoU

《Baako》はこころをかきみだす。美学化された泣き声はもはやどんなふつうの感情にも対応しない。オートチューン以前には、メロディアスな叫びというものを私たちは知らなかった。《Baako》は、オートチューンの多様な使用法――そして多様な歴史――を際立たせるものだ。パリ郊外のホーム・スタジオでウェイリーはこう説明してくれた。2000年にアルジェリアのChaba Djenetがリリースしたシングルによって、オートチューンはアラブ世界のなかで大流行した。2000年代の初頭以来、北アフリカのベルベル人によるポップス・アルバムのなかで、タマージク語のヴォーカルに完全にシンセ化したオートチューンがかかっていないようなものを見つけるほうが難しいのだ、と(こうした録音物において女性の声がヴァイオリンのように響いているのには驚かされる)。再びマンハッタンに戻ると、Ruskinは「2001年ごろから、男性アイドルグループの仕事にともなって、オートチューンを定番のエフェクトとして捉えるようになった」。Kanye Westは最新作の《808s and Heardbreak》(2008年)で、自らの声をオートチューン(とディストーション)に浸しきった。その特異な使用法において、ウェストのオートチューンは彼の肥大したエゴを鎮めて、自らの悲嘆の物語をより共感できるものへと変えている。

アメリカからメキシコ、ジャマイカ、アフリカ、さらに向こうへ――オートチューンの使用法は、シーンごとに、またアーティストごとに異なるアプローチをともなって、ばらばらに散らばっていった(ただし、最もサウンド的に過激なのはモロッコのベルベル人によるもののままだ)。オートチューンはこれまでとは違う声の機械に対する関係を作り出す。コンピューターに対する新奇な、あるいはいくらかふざけた模倣的な反応というよりは、オートチューンはデジタルとの親密な関係のための現代的な戦略なのだ。正確に言えば、オートチューンはとても人間味を帯びてきている。オートチューンは、電子機器と個人とのあいだのデュエットとして作用する。つまり、テクノロジーとの調和だ。この発展は、齢60代のポップ・スターをきっかけに爆発し、まるで野火のようにジャンルを、言語を、そして地域を越えて広がった。私たちは電子機器で飽和した世界に生きていて、そしてこうした状況に歌声を与える方法を見つけつつあるのだ。T-Painとオートチューンの制作会社アンタレスは、現在オートチューンを携帯電話で使えるようにしようとしている。この親密さ――いや、これは侵略なのだろうか?――は深まっていく。

Jace Claytonは、ブルックリン在住の著作家でミュージシャン。彼のオンライン上の著作はwww.negrophonic.comで読むことができる。

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