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カテゴリー: Japanese

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初の単著『リズムから考えるJ-POP史』(blueprint刊)のお知らせ

 わたくしimdkm(イミヂクモ)の単著『リズムから考えるJ-POP史』が10月に発売になります。3日には書店に並ぶようです。

imdkm『リズムから考えるJ-POP史』
blueprintより2019年10月3日(木)発売
四六判・二百六十四頁、1,800円+税
全国書店、もしくはAmazonにて予約受付中

 この本はRealSoundで連載していた同名の企画「リズムから考えるJ-POP史」をもとにしたもので、1989年を起点とするJ-POPの歩みを「リズム」という観点から考察する内容になっています。

 重要なポイントで登場してくるミュージシャンをざっと挙げてみると、折坂悠太、cero、星野源、宇多田ヒカル、trf(小室哲哉)、MISIA、m-flo、capsule(中田ヤスタカ)、ASIAN KUNG-FU GENERATION、Base Ball Bear、DOPING PANDA、KOHH、BES、S.L.A.C.K.(現5lack)、DA PUMP、RADIOFISH、サカナクション、UNISON SQUARE GARDEN、宇多田ヒカル、三浦大知…… とまあ、他にもいろいろ出てくるんですが、いわゆる「J-POPの30年がまるわかり!」みたいな本ではぜんぜんないです。あくまで、「このリズムヤバいよね」とか「このリズムってなんだったんだろうね」みたいな発想ありきなので。とはいえ、内容を読むとある程度クロノロジカルにトピックが並んでいるのもわかっていただけると思います。

 どんな話してんの? って言われたらまあ連載をチェックしてみて欲しいところ、しかしよい動画を以前アップロードしていたのを思い出しました。

 まあこういう話を延々一冊やってるようなもんだと思ってください。そうとも限らないですがまあ……。

 とはいえ、一点注意しておきたいところに、リズムといってもいろんなリズムがある、ということ。ドラムやパーカッションが奏でるリズム(ここにベースも加えていわゆる「リズム隊」というのがいわゆる音楽におけるリズム像の定番でしょう)、メロディがつくりだすリズム、あるいは各パートのアンサンブルのなかに浮かび上がってくるリズム、ジャンルに固有のパターン(4つ打ちとか2stepとかね)、時代に固有のパターン……等々、リズムという概念が指すところはさまざまです。この本はある意味で音楽におけるリズムが持つこのあいまいさに思いっきりよっかかっています。でもそれでいいんだ、と思って書きました。なんですかね、時間の感覚を司るものは全部リズムです。極論。

 そのあたりの思いは「あとがき」にも書いたので、まあ、読んでくれッて感じです。

 いつか理論的に整理して…みたいな仕事もできたらいいんでしょうが、そんなん一生モンですよね。本書でも度々参照している佐藤利明『ニッポンのうたはどう変わったか 増補改訂 J-POP進化論』(平凡社ライブラリー、2019年)や、同書で理論的枠組として採用されているピーター・ファン=デル・マーヴェ著・中村とうよう訳 『ポピュラー音楽の基礎理論』(ミュージック・マガジン、1999年)みたいな偉大な仕事であったり、あるいは小泉文夫の歌謡曲論とか、膨大な蓄積を前にして呆然とするばかりですな……。

 そういえば、なんかtofubeatsに解説文を書いてもらってるんですが、これが結構よくて、あの人もっとこういうこと書きゃいいのにと思いました。頼んでみるもんですね。トーフファンの人も必読です。こないだ彼の事務所にお邪魔したときも面白い意見がけっこう飛び出してきました。9月25日に予定されているトークイベントではそんな話もできたらいいなーと思ってます。

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2019年上半期ベストアルバム&トラックまとめ

2019年上半期ベストアルバム

1. Faye Webster – Atlanta Millionaire Club

 これはほんとうによく聴いた。フォークロックの皮を被ったトラップ、R&B。女性SSWの良作が目立つ昨今でもナイスなバランス。Fatherをフィーチャーした「Flowers」は傑作。Spotify

2. 柴田聡子 – がんばれ!メロディー

 日本では柴田聡子が素晴らしいアルバムをリリース。前作がフォーキーだったのに比べると今作はよりグルーヴが強調され、ファンキーに。「涙」の演奏、間の表現が素晴らしい。歌詞もなにもかも。Spotify

3. 100 gecs – 1000 gecs

 エモラップ? フューチャーベース? バブルガムポップ? PC Music勢を思わせる諧謔精神に、パンク&ジャンク&スカムな暴力性が加わった凄まじい一枚。全曲必聴。Spotify

4. 姫乃たま – パノラマ街道まっしぐら

 地下アイドル活動をやめた姫乃たまが盟友の町あかりとのコラボのほか頭角を現しつつあるSSWを起用しつつ紡いだタイムレスなポップアルバム。長谷川白紙による「いつくしい日々」で泣く。Spotify

5. Léonore Boulanger – Practice chanter

 前作『Feigen Feigen』で北アフリカ~アラブの民族音楽とチェンバーポップを融合させたような特異な楽曲を展開したつぎは、ミュジック・コンクレート的なアプローチを全開に。Spotify

6. Carly Rae Jepsen – Dedicated

 全曲よくできたエレポップで時代の空気感にぴったり、のみならず、サウンドのディテイルが異様に心地よい。ノスタルジーでは済まされない高解像度のスマートなポップス集。Spotify

7. 杏沙子 – フェルマータ

 上半期、ことあるごとに口ずさんでいた「恋の予防接種」。予防接種が効かな~い♪ 気の利いた比喩がぽんぽんと繰り出される洒脱な言葉選びはSSWのなかでも群を抜いている。Spotify

8. dodo – importance

 いびつであるゆえに切実、異形であるゆえに直球。「ナード」とかそんな話じゃないのだ。「swagin like that」以来コンスタントに続くリリースがうれしい。このEPも通過点だろうか。Spotify

9. あいみょん – 瞬間的シックスセンス

 四畳半的、生活感のある語彙にも関わらず、不思議と泥臭さや湿っぽさのない良い意味でのキザっぽさが個人的にはすごく好きなんです。アレンジ陣の仕事も見事。Spotify

10. Mom – Detox

 『PLAYGROUND』から一気にドープさを増して、さながらフォーク少年 meets Frank Ocean的な? 音数の少ないビートにほどよいJみが残るメロ、このバランス感覚は凄い。Spotify

11. けもの – 美しい傷

 けものについては出るものだいたい諸手を挙げて愛してしまうので、入れざるを得なかった、EP。都市をふわふわ散歩するかのような前作と比べてレイドバックした楽曲が並び、エンドレスに聴ける。Spotify

12. Flume – Hi This Is Flume

 カラフルな音色やメロディが生み出す華やかさと相反するかのようなインダストリアルなエッジが効いたビートの組み合わせが素晴らしい。SOPHIEなど客演陣も良い!Spotify

13. Shlohmo – The End

 なにげに今年の空気感がいちばん詰まってるのこれかも、と思う。EDM的なカタルシスともトラップの陶酔感とも違う、じわじわと知らぬ間に高揚させていく展開がユニーク。Spotify

14. never young beach – STORY

 Vulfpeckが細野晴臣を演ったら、という形容が思い浮かぶ。つまりサウンドやメロディに対するある種のフェティシズムがつまってるんだけれど、たとえばスーパーの有線でふと流れてきても耳を奪われる普遍性もある。Spotify

15. Inna – YO

 ルーマニアのシンガー、Innaのアルバムは全曲ややオリエンタル(東欧ですし。あるいはロマ文化か)なメロディが印象的で、かつスカスカなプロダクションが現代的。ROSALIAと並べてもよし!Spotify

2019年上半期ベストトラック(31曲)

 Spotifyにプレイリストつくったので、よかったらチェックしてみてください。上記のアルバムから選んだトラックのほか、シングルでしか出てない曲でもこれは必聴やろ、というのをまとめてます。altopalo、江沼郁弥、KEITA、ササノマリイ、浦上・ケビン・ファミリー(現浦上・想起)、折坂悠太、三浦大知等々、いろいろ。

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「父殺し」のない「新しさ」はありうるのか

「父殺し」は「父‐母‐息子」という三者の関係が「いつか息子も父になる」ことによって無限に反復されていくもので、言ってみれば「テーゼ‐アンチテーゼ→ジンテーゼ」という弁証法的なプロセスを家父長制のアナロジーに落とし込んでいる。

新しさこそが絶対的な価値である近代の諸芸術においては、父殺し=弁証法的プロセスが規範となり、先行世代を殺すことこそが新しさを生み出し、歴史を推進する原動力とされた。それは結局「新しさなんてものはもうない」という諦念と倦怠に行き着くしかないのだが。

こうした弁証法的プロセスを前提として歴史を語ることは20世紀も後半になるとだいぶん相対化されたように思うが、より大衆的なレベルでは直観的に把握しやすいこともあって広く使われ続けてきた。その代表例はおそらくロックをめぐる批評的言説である。

まあ、もはやいまどき「カウンターカルチャー」の名を素朴に掲げて文化としてエスタブリッシュされた「父」に対する若き「子」の反発を露骨に語るような人もほとんどいない。しかし言説の端々にその残り香は残り続けている感はある。

それは「新しさ」を絶対的な商品価値としてプロモートすることが使命だったいっときの音楽産業がもたらした後遺症といったところだろう。しかし今や最大の商品は「新しさ」ではなく「ノスタルジー」だ。もはや「新しさ」の可能性のみならず、それを称揚する動機まで失われて久しい。

こうした「新しさ」をめぐる袋小路以外にもこの規範が孕む問題はあり、たとえばそれは単線的な歴史認識や起源の隠蔽だ。不動の「母」に対して「ワタシ=男」だけが入れ替わっていく構図。このことはよく考えることがあって、いわば起源をめぐるパラドックスのようなものがある。

ふつう「起源」というと、一つの点、歴史的・空間的に特定される点を想起するだろう(アフリカにいたとされる人類の「イヴ」のように)。しかしビッグバンという究極的な点を除けば、むしろ「起源」とは複数的なものである。

このことは、「私に父と母がいて、父にも父と母がいるように、母にもまた父と母がいる」という単純な前提を改めて思い出すとあっさり明らかになる。歴史の突端である現在=「私」は、「父」の系譜のみならず「母」の系譜も受け継いでいる。

そのように考えると、次々と代替わりしては殺される「父」をめぐる単線的な歴史は実のところ一世代遡るごとに2のn乗ずつ次々増え発散していく「父」と「母」の逆ツリーであって、この逆ツリーは実際にはいろんな場所で循環したり短絡したりもしている。

さらには起点としての「私」すらも絶対的ではない(いまを生きる「私」は数多く各々異なりながら存在する)とすれば、もはやこれはツリーでも逆ツリーでもない、複雑に絡み合うネットワークである。

生物学的に不可逆なプロセスである世代交代のアナロジーを離れて「文化」の話に移ればそれはなおのこと複雑になる。影響は必ずしも過去から現在へ向かって走るばかりではなく、常にアナクロニズムのうちにあるから。ここではもはや生物学のアナロジーは適用しえない。

単一の起源から多様性が生まれるのではなく、すでに複数の起源が複数の「私=現在」を構築し、相互作用しつづける。そこには「父」も「母」も存在しない。「血統」とか「世代」といった概念すらどこまで信頼できるかわからない。

表現するということはある意味で「にもかかわらずあえて系譜を描く」ことに近いが、それは自ら=現在のうちに宿っているほとんど無限に等しい潜在的な多様性の交錯を意識することからしか始まらないのではないか。「父殺し」を欠いた「新しさ」とは。

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埼玉県小川町のカレー屋「CURRY & NOBLE 強い女」は名前に違わずヤバかった

 えー、本日の日記は特別編ということで、埼玉県比企郡小川町にできたばかりのカレー屋さん「CURRY & NOBLE 強い女」訪問記です。パキスタン風の無水カレーを出すこのお店、店主はおれの学部時代の同期で、卒業後はライヴハウスのブッキング担当などをしていた。そんな彼女がカレー屋をはじめる、しかもすげぇ名前で、というのは寝耳に水の話だった。たまたまいい時期に東京に滞在する予定だったので、「強い女」という強烈な名前に好奇心を抑えきれなかったフォロワーなどと共に埼玉まで脚を伸ばしたのだった。

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 具体的にお店についてレポートするその前に、小川町についてわかる範囲で説明を。小川町は東武東上線の終点。池袋から1時間ちょいくらいで行ける適度な田舎。「郊外」というには「山」すぎるけど、マジの「田舎」と言うほどでもなく、きっちりと開発されている印象だ。2011年の震災をきっかけに移住者が増え、都心への交通の便がよいこともあって家庭を持ちはじめるくらいの世代が結構チェックしている町らしい。また、小川町を含む比企郡一帯は野外アクティヴィティ向けのレジャースポットを多く抱えているらしく、同行者のひとり(レトリカ松本氏)は小川町にパラグライダーを体験しにきたことがあるらしい。

 というとなかなか賑わっているようにも思えるが、実際にはシャッター街化が進んでいる。商店街らしい商店街があるわけではないのだけれど、駅から「強い女」に向かう道中は空きテナントや空きビルが目立った。逆に言うと、それだけなにかを起こす「すき間」が街のなかにあるわけで、同行者たちはかなり興味深く物件を物色していた。単純に住もうと思うと人気の上昇に伴っていい物件が見つかりにくくなっている、と「強い女」の店主は言っていたけれど、それでも家賃相場はかなり安いし、あるいはリノベーションを前提に物件探しをすると掘り出しモノ――具体的には「強い女」が入居した物件――が見つかるらしい。

 ようやく本題。「強い女」は、通りを歩いていると前触れなくいきなり登場する。淡い青のファサードと店名を告げる窓のカッティングシートが洒落ていて、「すき間」だらけの街のなかにすっぽりと収まりつつも強烈な存在感を放っていた。

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 空き家を完全DIYでリノベーションした店内は、無塗装のコンパネをところどころ残した手作り感と、肝心なポイントはスマートにキメるバランス感覚が心地よい。

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 店内はカウンターのある土間と、板張りのスペースにわかれている。それがまるでステージのようなので、小さなライヴやトークイベントなんかにはうってつけだろう。話によると、近い内にアップライトピアノを店内に置く予定とのことで、アコースティック中心のライヴイベントはもちろん行っていくつもりらしい。(二枚目で微笑んでいるのが店主である)

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 肝心のカレーは鶏肉がたっぷりはいった、トマトベースの無水カレー。カレーには詳しくないけれど、辛さを推すというよりはトマトの酸味と肉のうま味をスパイスで引き立てるやさしい味だった。さらに、ちょっと変わった風味のする岩塩を「ちょい足し」することで味のインパクトががらっと変わる。酸味のニュアンスを楽しむカレーから、シャープなうま味が食欲をそそるカレーになって、結構面白い。ある種スポーツのように汗をかいて味わうというよりも、親しみやすい入り口とじっくり味わう繊細さで惹きつける感じか。

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 頼んだのはサラダバーと食後のお茶、そしてデザートがついたセットだったので、京番茶とチョコレートケーキをカレーのあとにいただいた。カレーに番茶って意外と合うのね……とよくわからない感慨に包まれた昼下がりであった。

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 ちなみに「強い女」のとなりは、ファミリースナックの「つよいみかた」。ここは子供連れでも入れるカラオケスナックをめざしてつくられたそうで、新宿ゴールデン街を渡り歩いた経歴を持つママが賑やかに出迎えてくれる。もはやここでは酒を飲んで楽しかったなあみたいな感じになっていたのでレポートにはならない。すみません。でもカレー食ったあとに流れで一杯酒のんでわっはっは、みたいなの、どんな平和な午後だよ、と思った。

 いろいろとおもしろいし気になるところが多かったから、「強い女」って名前の由来についても訊いてみたんだけれど、直接的な由来は秘密、とのことなのでここには書きません。でも、「強い女」という名前が時代の風を読んだ結果ってわけじゃなくて、店主が仲間と店の構想をふくらませるうちにたどりついたフレーズだったのは面白かった。店内ではずっと女性のフォークシンガーの楽曲が流れていて、それも「こういう人たちの曲が流れているようなお店っていいよね」という彼女たちなりの理想を求めた結果だという。

 まあ、要はどれもこれも、やりたいことを好き勝手やってるだけなんだけど、それが絶妙に「強い女」っていう店名に説得力を与えていた。店主はちょっと童顔で、京都育ちゆえか言葉遣いもぱっと聴いただけだと柔らかい。でも凄く芯があって野心があって、「こういう強さっていいよな」と思える。冗談めかして「『強い女』って言って出てくるのが私みたいなのだと、『どこが強い女なん?』ってなると思う」と言っていたけれども、とんでもない。こういう強さを胸張って強さと言える世の中にしてくんだよ君らとかおれらがさ、と思った。

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私的2018年のベストアルバム・EP、25枚(25位~11位まで)

 2018年はいい音楽がたくさんありましたね。そのなかから25枚ほど選んでみました。順位は一応つけてありますが、まあもうだいたい甲乙つけがたいっすよ。トップ10枚はゆるがないかもしれないけど。25位から11位まで。トップ10だけ見たい人は↓の記事をどうぞ~。

caughtacold.hatenablog.com

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The mask of masculinity is a mask that's wearing me

 音楽好きおじさんによるマウンティングがどうの問題が断続的にバズる昨今、思うのだけれど、そもそも世の男性の多くは自分も含めて実はマウンティング以外のコミュニケーションの切り出し方を知らないのではないか。というのはマスキュリンでホモソーシャルなコミュニティにおいては通過儀礼のように他人にマウンティング的な問答をしがちだからだ。それを通過するとコミュニティの内部における位置が定まり、かつそのコミュニケーションの様式を守る限りコミュニティの内部においてはある種の免状を手に入れたも同然、ということになる。マウンティングを乗り越えるということは男性にとって「盃をかわす」ことにている。

 問題はそのコミュニティには外部があるのに、そうしたコミュニケーションの様式をどこにでも通用する印籠がごとく誇示してしまうことだろう。でもって事実それは(男性の側から見える景色のなかでは)通用してしまっていたのだ。傷つけ、抑圧し、あるいは敬遠され、当人には気づかない。

 似たような事例に「下ネタ」がある。しばしばミソジニック、ホモフォビックな下ネタに、いかに「上手に」のっかるか。男性中心のコミュニティにはそんな規則みたいなものがある。そうしたコミュニケーションの様式にうまくアジャストできれば地位は上がるし、外れれば場から排除されてしまうので、初めはそれに抵抗を抱いていたとしても、そのコミュニティのなかに居場所を求める限りそうした表現に慣らされ、いつしか内面化してしまう。でもって最悪なことに、コミュニティの外側(直接的には女性や同性愛者、あるいはそうしたコミュニティに属してこなかった男性など)にもまた、「友愛のしるし」かのように下ネタをふるわけだ。よかれと思ってミソジニー、よかれと思ってホモフォビア。世のセクハラってそういうことだと思う。だから男性からしたら「女性とコミュニケーションをとるなってことか?!」みたいに感じられる。

 男性が社会生活を通して学ぶコミュニケーションの類型はあまりにも貧しい。そしてまた、自分の苦しみを語るボキャブラリーも。「非モテ」とか「弱者男性」、そうだな、これもまたTwitterでバズってた話を持ち出してしまうけど、加藤智大の手記や、それに対するリアクションとか、ああいうのを見ていると、世で語られる男性の「生きづらさ」はあまりにも類型化されていてなんだかたしかな手応えがない。いかにして「生きづらさ」を語り、乗り越え、あるいは変えていくかということに対する解像度がめちゃくちゃ粗いんじゃなかろうか。この「貧しさ」あるいは「粗さ」こそが男性性の最大の敵という気がする。

 話は変わるけど、ヒプノシスマイクの脚本家が過去にしたツイートが女性蔑視的であるとして韓国で波紋を呼び、脚本家を交代させようという運動が起こっている。その規模が実際のファンベースに対してどのくらいのものか、いまいち把握しきれていないのだけれど、指摘を受けているツイートを見ると、いかにも日本の男性――とは実は限らないのだが、それはそれとして――がよくやる、軽いユーモアのつもりでセクハラ丸出しの、中学生とか高校生に対するノスタルジーロリコン精神が混じり合ったきわどいジョークで、しかしこう指摘されでもしなければさらっと受け流してしまうほどには自分のなかで自然化されているジョークでもあった。

 実際に脚本家がロリコンであるかどうかはさておくとして、ロリコンをネタにした冗談を悪びれずにちょっと気の利いたネタツイくらいの感覚でツイートできてしまう、ということ自体が、日本の倫理水準のおかしさの指標になっている。「いやいや、ただの冗談だよ」というほうが実はまずい。なぜなら、「このくらいの冗談はアリ」というコンセンサスが世間にあるということを証明してしまうからだ。特にいまや覇権レベルの人気を博す女性向けコンテンツに関わっている人がこういうこと言っちゃうの、と、日本のコンテンツ業界特有の妙な「寛容さ」(もちろんアイロニーとして)に慣れない人はドン引きだろう。

 果たしてヒプマイの脚本家に対する抗議運動がどういう展開を見せるかはわからない。だって結構属人的なプロジェクトじゃない? 脚本家の肝いりで始まったというか。そこをすげ替えて運営できるほどのシステムができているのか。あるいは百歩譲って交代はないとして、こうした指摘に対して誠実に対応することができるのか。「日本じゃこれくらいの冗談は当たり前だし、そんなこと言われてもしょうがないっすよ」みたいに済ませるのだろうか。そういうのの積み重ねで後戻りできないレベルで日本の倫理観はだめんなってると思うのだけれど。

 ヒプマイは作品世界内での(「女尊男卑」設定のセンセーショナルな印象とは裏腹な)マッチョイズムやホモフォビア的発言、あるいは世界の描写に含まれるジェンダーバイアスなどで議論を呼んでもいるが、そこには常に「実は○○という設定があってこういう言動や描写になっている」という解釈の余地が残っている。しかしコンテンツを作る側、とりわけこのコンテンツの要となる脚本家が、極めて日本的な「寛容さ」にどっぷり浸かっている様を見ると、そうした「解釈」も単なる忖度なんじゃないかと思えてしまう。ついでに、せっかくユニークな設定をつくりだしたのに、ヒップホップのマッチョイズムもベタに取り入れてしまってるんじゃないか、とか。

 そういうわけで、ホモソーシャルな共同体におけるコミュニケーションのプロトコルミソジニーホモフォビアとシスヘテロ男性目線での「下ネタ」、そしてマウンティング)がいかに男性の「生きづらさ」を貧しくしているか、ということと、こうしたプロトコルがいかにポップカルチャーを通じて日本に浸透しているか、を最近しばしば考えた。2018年はそういう年だったと思う。自分もいち男性として配慮のない失態を繰り返した一年でもあったし、そんななかで物書きとして徐々に仕事が増えていったことで、結構葛藤が続いた。しかしここで言葉を、自分が使える語りの方法を増やしていかなかったら、ずっと自分は非モテとかそんな話をし続けないといけなくなるんだと思うとその方が怖い。その点、励みになったのは、やはりIDLESだったのかもなあ。2018年のベストアルバムはまた別に発表するし、恐らくそこにIDLESはあえて入れないかもしれないけれど、自分の立ち位置を振り返ろう、というときに戻っていく作品はIDLESだった、その意味でベストアルバムは『Joy as an Act of Resistance』だろう。

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Ariana Grande「imagine」

 Ariana Grandeの新曲。もはや『Sweetener』よりも話題をかっさらっていると言える「thank u, next」に続く「imagine」も過去の恋人たちへのメッセージで、こちらは甘美な恋人同士の日常を描いたかと思いきや、コーラスでは「そんな世界を想像して」とか「そういう世界を想像できないの?」とちゃぶ台を返すようなフレーズが出てくる。失われた関係を責めるようでもあるけれど、「想像して」と繰り返すアウトロは元彼たちに「いい思い出にしよう」とお願いするようでもあり、自分自身に「そう想像しておこう」と言い聞かせているようでもある。

genius.com

 リリックビデオもさりげなく凄い。なんでデータモッシング、と思いつつ、データが欠如してサイケデリックでカラフルなイメージになっていく様子が、かつての関係を理想化しようとする曲の内容とあっているのが面白い。最後の「Imagine it」のリフレインでブラックアウトするところもいい。歌詞のなかにも「Click, click, click and post」とinstagramを彷彿とさせるラインがプリ・コーラスにあったりして、SNS時代の人間関係を背景としたこの曲にはさりげなくフィットしたビデオだ。ちゅーか、単純に、めっちゃエモーショナルじゃない?! 崩れ行く氷河がさらにモッシュされて二重に崩れていって美しいパターンが生まれていくの素晴らしい。こいつら(Ariana Grandeとそのチーム)マジで凄い。このSNSへの適応とクリエイティヴィティの発露にもはや言葉もない。

 サウンドも結構変で、低域はあんまり使わずに、かわりにステレオ感を思いっきり強調して残響成分とかハモりの配置に趣向を凝らしている。2分20秒のあたりから出てくるピアノの音が最初アタック削れていたり、音数が少ないバラードでこのスケール感を出せるサウンドデザインとアリアナの声のオーラが凄い。細かい話をすると、基本的には3連の三拍子(正確にはすごくゆったりした6/8か)にのせたメロディなのに、「Click, click click, and post~」のプリ・コーラスのところだけ付点八分っぽい譜割りなんだよね。するとそこだけスピード感が上がるの。そのラインに続いて「Quick quick quick, let’s go」ってくるあたりなんか、デート中にインスタ映えするところ見つけて急いでセルフィを二人で撮って、アップして、「じゃ、早く行こう」って去っていくみたいな情景が浮かんでくる。おもしろい。

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「マーケティング志向」という新たなカリスマ像とその虚妄

news.yahoo.co.jp

AmPmは、巧みな戦略でストリーミングプラットフォームを「ハック」して、異例の成功を達成した音楽ユニットとしてしばしば紹介される。上掲の記事もまあ、そんな感じの紹介をしていて、別に間違っちゃいない。実際数字が出てるんだから。そして、AmPmのアティチュードはまったく正しいと思う。しかし僕が不満なのは、この記事がAmPmのマーケター的な側面をあまりにも強調して、あたかも旧態依然とした日本の音楽業界にはマーケティングが存在しないかのように書いてしまっていることだ。

だが、ビジネスライクに映るマーケティングという言葉自体、日本の音楽シーンでは避けられがちだった。J-POPシーンでは、市場の攻略よりも自己表現が価値を持つという「信仰」があるからだ。そんなJ-POPシーンから見れば、AmPmは「仏作って魂入れず」に見えるのかもしれない。

これを読むと、ある人はAmPmを慣習にとらわれないイノベーターと捉え、またある人は音楽の「魂」を踏みにじる悪人に思ってしまうかもしれない。あるいは次の箇所。

J-POPシーンには別の「信仰」もある。音楽を制作するなかで自分のパーソナルな部分を出すことに価値があるという考え方だ。「右」はそれを真っ向から否定する。[……]自分自身の感情もエゴも殺す――。すべてはマーケットを分析して得た答えだ。

エゴを排して「冷静」な「分析」に従って音楽を制作し、配信する。それで実際に成功を収めている。「良かれ悪しかれこれが新時代の音楽のあり方だ」と問題提起をしている、かのように見える。

しかしちょっと考えればわかることだが、ここで取り上げられているふたつの「信仰」――マーケティングよりも自己表現、作り手はエゴイスティックであれ――が実際のJ-POPシーンにどれだけ根付いているかは疑問だ。たしかに音楽ジャーナリズムはミュージシャンのパーソナリティを重視して、テクニカルな話題やビジネスの話題を避ける傾向にある。作品にこめた思いとか産みの苦しみとか作り手としての信念をミュージシャン自身に語らせるインタヴュー記事はうんざりするほど世の中に溢れかえっている。けれどもそれはあくまで音楽ジャーナリズムの問題でしかない。レコード会社がまさか、マーケティングをしていないとでも思っているのだろうか。バンドやミュージシャンがまさか、自分の作品をどう売るべきかつゆほども考えていないとでも思っているのだろうか。

そもそも、自分たちで曲を書き、自分たちで演奏する、というかたちのミュージシャン自体そこまで多いわけじゃないだろう。バンドブームやSSWブームのころならともかく、とりわけプロデューサーを戴いたヴォーカルグループやアイドルユニットがこれほどチャートを席巻している時代に、だ。ごく一部のロックバンドやシンガーソングライターにしか、その「信仰」は通用しない。

「信仰」にマーケティングを対置する書き手は重要な部分を見落としている。ちょっと誇張した表現になるが、そうした「信仰」を広めること自体が一種のマーケティング戦略なのだ。ミュージシャンとしてのオーセンティシティを保証して、彼こそは金を払う価値のある人間だと思わせること、それこそが重要な市場戦略だったのだ。ロックバンドであれシンガーソングライターであれアイドルであれ、「ホンモノ」のストーリーを背負っていることが、売るための必要条件だとされてきた。それが、マーケティングの詳細な方法論や技術上の条件が大きく変化したことによって通用しなくなった、というだけの話だ。「信仰」からマーケティングへ、ではなく、ある種のマーケティングからまた別種のマーケティングへと時代が移り変わったにすぎない。

実際、「2017年3月に「Best Part of Us」が配信されたのも、曲調と季節の関係性を意識して春を選んだからだ」というくだりが前掲の記事には登場するけれど、「春に春っぽい曲をリリースする」なんて、数ある「さくら」ソングがやってきたこととどれだけ違いがあるというのだろうか? TUBEが夏らしいイメージで売り、広瀬香美が冬の女王であった時代となにが違うのか? 季節感にあった曲を適切なタイミングでリリースするくらいのことを見事なマーケティングって呼んでいいのか?

「信仰」とはマーケティングのヴァリエーションでしかない。さらに言えば、マーケティングもまた「信仰」のヴァリエーションでしかない、のかもしれない。マーケティング的である、というプレゼンをされたら、「春には春っぽい曲を出す」程度のことさえ「新しい!」と勘違いしてしまうほどなのだから。

もうマーケター的な振る舞いがもてはやされるのなんか見飽きている。「自己表現という古臭い観念から自由である」というアピールは、「ありのままの自分を率直に表現している」というアピールと同じくらい、「スター」や「カリスマ」の条件だと言っていいだろう。ゴールデンボンバーの鬼龍院翔によるヴィジュアル系の流儀を汲んだ毎度毎度の趣向を凝らした仕掛けや、ポルカドットスティングレイの雫の「リスナーのニーズにあわせたマーケティング的な作曲」というアティチュード、あるいは西野カナ「トリセツ」をめぐる「マーケティングをして書いた実は戦略的な曲」なる評価、などなど……。こういう話題を聞くと人は現実には誰も信じていないような「信仰」とやらを突然信じだし、あるいは批判しだす。でも気づいて欲しいのだが、「ナイーヴな音楽業界」なんてそもそも存在しない(ナイーヴさ故に業界に押しつぶされるミュージシャンは山程いるだろうが)。

それゆえAmPmの革新性は見誤られる。凡百のマーケター的振る舞いの一部に回収されてしまう。問題なのは音楽業界が旧来のマーケティングの方法を捨てて新しいプラットフォームへとモデルを転換できないことであって、「信仰」などではないのだ。「信仰」のガワをはがせばそこにあるのは保身と既得権益と怠惰。それを批判して乗り越えることこそAmPmがやってみせていることであって、彼らはもはや弱者などではない。むしろ、既存のしがらみがないからこそ新しいマーケティングの方法を実践でき、トライアンドエラーができる逆説的な強者なのだ。

「信仰」とマーケティングという二項対立で物語をつくろうとして結局上掲の記事が陥っているのは、それこそ冷静で切実な現状認識に従って行動しているにすぎないだろうAmPmを、ゼロ年代的なネオリベのハッタリみたいに描いてしまうという事態だ。記事タイトルに使われている「想定内」という言葉に既視感のある人は、一定世代より上には多いだろう。堀江貴文がフジテレビ買収騒動のときに繰り返し口にしていた言葉だ。彼が慣習にとらわれない資本と市場の論理を武器に新しい世代としてゼロ年代のアイコンになった時代から、一歩も進んでいない。まったくくだらないと思う。

「信仰」とやらにとらわれているのは果たして誰なのか。その「信仰」をかたちを変え延命させてしまっているのは誰なのか。賢しらな顔をし、あるいはしかつめらしい顔をしているくせに、大した批判精神を持ち合わせていないのはどこのどいつだ?

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Jeff Tweedy『WARM』

 Wilcoのフロントマンによるソロ作。曲自体はわりかしWilco節なのだが、よりプライヴェート感あふれる手触り。デッドながら温かいサウンドが70年代の名盤みたいな風格を漂わせててほんと素晴らしい。「How Hard It Is For A Desert To Die」や「How Will I Found You?」みたいに無茶苦茶スローで言ってしまえばスカスカな曲も、アンビエンスを強調したりリバーブで空間を埋め尽くしてしまわず、弦の豊かな鳴りを活かしつつ、カウンターメロディやささいなフレーズを積み重ねて空間を満たしていくアプローチがシンプルながらめちゃ効果的。特にボリューム奏法の使い方が素晴らしくて、「Let’s Go Rain」で左右チャンネルに満遍なく重ねられたボリューム奏法の音色が空間の奥行きをぐーっと演出するところとか、もうほとんどオーケストラっつーか。ギターを丁寧に重ねて配置していくことで表現できることってまだこんなにあるんだ?! っていう驚きがそこかしこにある。年間ベストアルバムにランクインしているのも見かけたけど納得。ただ豊かなソングとサウンドに身を委ねてもいいし、じーっくり聴いて研究するのもいい、素晴らしい仕事だ。

WARM

WARM

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