Skip to content →

カテゴリー: Japanese

entries written in Japanese

「芸能」の復興――星野源はなぜ三浦大知に共感するか

 この夏に最も話題を呼んだJ-POPのリリースといえば、三浦大知『球体』(及びその次作「Be Myself」)、そして星野源「アイデア」だった、とひとまず言ってよいだろう。これらのリリースでお茶の間から音楽ファンまで広いリスナー層に訴えかけたこのふたりは、互いにリスペクトを捧げあい、とりわけラジオ番組やTV番組をホストしている星野は、自らの番組で『球体』について語り、あるいは三浦を出演者として招くほどだった。

アイデア

アイデア

 なぜこのふたりがこれほど共感しあっているのか、ということを考える際に重要な点がある。それは、「芸能」というあいまいで周縁的な――それでいて私たちの生活に最も馴染みのある――領域への愛着だ。

 芸能とはなにか。それは、語りとか演奏とかダンスといった表現領域の純粋性とか専門性から離れて、多様な芸(=アート)が混じり合う、境界上の世界だ。芸能というくくりののなかにはそれぞれのプロフェッショナリズムが存在し、はっきりとした分業制が敷かれている一方で、それが劇場であるとか街頭であるとかテレビであるとか、いわゆるメディアを通じてひとたび私たちの前に姿をあらわす場合には、雑多な芸事がからまりあった総合的な娯楽としてたち顕れることになる。

 その傾向がより顕著になったのはおそらく戦後、テレビが芸能の主要なメディアとなり、また芸能界そのものとなったことに起因するだろうから、ここからの議論はもっぱらそうした「テレビ以降の芸能」の問題と考えてもらったほうがいいかもしれない。

 さて、芸能のこの不純さは私たちを常に引きつける一方で、ことそれが表現としての価値付けの問題になると、ほとんど忌むべき対象となる。いわゆるファイン・アートとかシリアス・ミュージックと呼ばれるハイ・アートの世界のみならず、ポップ・ミュージックの世界においても、芸能的な不純さには両義的な態度がしばしば見られる。

 というのもこの不純さは表現者にある程度の制約や妥協を強いるものであり、かつ表現者の神秘性を損なうものだからだ(あるいはそれとは矛盾するように、「親密さを疎外する」という理由で芸能を忌避する流れもあると思うけれど、ここでは取り上げない)。あえてテレビ出演を避けたり、メディアとのタイアップを避けたりといった戦略によって、表現者は芸能の世界とうまく距離をとり、自身のイメージが過剰に捻じ曲げられることのないよう注意深く動くことになる。

 また、そうした不純さに対する微妙な態度は受け手の側にも見られる。これもよく言及されることだけれど、日本を代表するR&Bの名プロデューサー松尾潔いわく、「歌って踊るパフォーマーと、歌だけ歌うパフォーマーがいる場合、たとえ両方とも同じくらい歌が上手くても、売れるのはたいてい後者」だという。「歌もダンスも」よりも「歌だけ」の方がより高尚に思えてしまう、という先入観は、「二兎を追う者は一兎をも得ず」にも似た、パフォーマンスの純粋さに対する信仰によるものではないだろうか。

 あるいは、バラエティでよく見かける「芸能人」がコアな音楽好きだったりすると、途端に評価が一変したり、などというのもよく聞く話だ。そこにはどこか、猥雑な芸能の世界に対する、純粋な音楽の世界(などというものは――クラシックの世界にさえ――ないのだけれど)の優位が感じられる。

 他方、星野源は一貫して、あいまいで境界的な領域のうえで活動を展開してきたと言える。SAKEROCK時代からすでに演劇の世界に足を踏み入れていたことをここで過大評価するつもりはないけれども、いまから振り返ってみればそのように解釈もできる。あんまりこういう言葉を使うのも好きじゃないのだがあえて言えば、「マニア受け」するようなインスト・エキゾ・バンドみたいなことをやりつつもメインストリームの世界に単身乗り込んでいき、ほとんど国民的と言える歌手になったその足跡は、単なるセルアウトとかそういうものではなく、あらかじめ志向していたものだ、と考えたほうがすんなり納得できるし、彼が売れたのも、そもそもそういった素養が彼に備わっていたためだ、という予感もさせる。

 その極地が、ひとつにはNHKの生バラエティ番組「おげんさんといっしょ」であり、次には冒頭で言及した「アイデア」だ。

 「おげんさんといっしょ」は、放送時間のまるまるほとんどが生演奏の音楽とコントで構成され、また高畑充希藤井隆といった女優とか芸人の音楽的なポテンシャルを開花させる場としても極上のプログラムである。嬉々として主婦のかっこうをしてカメラに向かう星野自身の姿は、芸能という領域が持つ猥雑な力とポップな魅力を体現するかのようだ。もはや時代錯誤といっていいスタジオ内のセットも、ミュージシャンに着せられるコスプレまがいの衣装も、単なる気まぐれやサーヴィスではなく、星野源が思い描く芸能のあり方なのだ。

 また「アイデア」は一見するとOK GOとかいったミュージックビデオの名手と並べて語りたくなるビデオだけれども、細かなカメラ割りと「撮って出し」の生々しさ、そして繰り返し画面にあらわれるスタジオの「裏側」から垣間見える現場の空気感などは、むしろ日本のバラエティショーの脈絡に位置づけるべきものではないかと思う。菊地成孔はかつて星野源のパフォーマンスを「ひとりシャボン玉ホリデー」と呼び、じっさい星野自身もクレージーキャッツへの愛慕を隠さない著名人のひとりなのだけれども、「アイデア」のビデオほど星野のクレージーキャッツや「シャボン玉ホリデー」的なバラエティショーへの愛着を形式の点からして表現しているものはないだろう(もちろん、これまでのビデオやパフォーマンスにおいてもそのオマージュとおぼしき要素はたくさんみられるわけだけれども、詳しく論じるほどの知識が私にはない)。

miyearnzzlabo.com

 アルバム『YELLOW DANCER』以来星野が掲げているイエロー・ミュージックなる概念については、本人から、あるいは評論家やライターからいろいろに言及されてきたけれども、そうした語りに微妙に欠けているのは、こうした芸能的な視座ではないかと思う(もう言われてたらごめんなさい。っていうか本人がもう言ってそうだけど)。イエロー・ミュージックは、洋の東西を問わないさまざまなジャンルの日本的なごった煮であるだけではなく、芸能という雑多な領域へ足を踏み入れることを恐れず、むしろ芸能というものの価値を再び認めなおそうという彼の活動そのものを指しているようにも思える。

 途切れることなく続くタイアップ、J-POP的な構成に対する執着、嬉々として歌番組に出演するスタンス、どれもいわゆる「音楽好き」――とりわけロックのイデオロギーに強く影響を受けているタイプの――からすれば、彼の足かせのように見えるかもしれない。しかしむしろ、外から見ればクリエイティビティを制限するように見えるその不純さこそが、星野源が復興しようとしている価値観そのものなのではないか。

 ひるがえって、三浦大知に目を向けてみよう。三浦は、「歌って踊る」ポップアクトとして近年稀に見る洗練を遂げ、日本のエンターテインメントに改めてパフォーマーとしてのプロフェッショナリズムをプレゼンしなおしているかのようなところがある。そのスタンスは、表現者としての自意識から離れて、さまざまなプロフェッショナリズムが交錯する芸能という領域に、まさにど直球を投げ込んでいると言えよう。『球体』は、芸能の領域に特有の高度な分業制を極めたところにどのような表現が可能かという取り組みであり、「Be Myself」はそのテレビ映えする展開や振付の妙からして、その成果をメディアの場へとうつしなおす一曲だ、と思う。

 そのように考えると、星野源三浦大知に共感する理由は自ずとはっきりするだろう。ふたりとも、少しずつ文脈は違う――前者はテレビの育んだ戦後の芸能文化を、後者は高度なエンタメの制度としての芸能を自らの系譜として選ぶだろう――とはいえ、ロック的なイデオロギーから抜け出した、あいまいな芸能という領域に、改めて光を当てる表現者だからだ。

 ただし、彼らが復興しようとする芸能とは、旧態依然とした企画で徐々に視聴者から見捨てられつつあるテレビ業界のなかにあるのでもないし、まして時代の変化に遅々として対応できない音楽業界にあるのでもない。むしろそれは、文化の共通言語を失った時代の私たちが再び互いに語り合う言葉を作り出すための、新しい芸能、オルタナティヴなポップである。それは星野源がこれまでにドラマの主題歌のなかに忍ばせてきた多様性への讃歌に伏線を読み取ることができるし、三浦大知のエンターテインメントに対する圧倒的な信頼と献身にその可能性を感じることができる。

 メディア環境が急激に変化を遂げるなかで、彼らは少なくとも切りうるカードを切りながら、自分たちなりの芸能のあり方を考えている。それがいったい5年後、10年後にどんなかたちをとるのかなんてわかりやしないのだけれど、少なくとも私は、彼らの進まんとする方向に――人びとの共通言語をつくりだす、雑多でポップな芸能という領域の復興に――共感を惜しまない。

4 Comments

Future Bassのサウンドと星野源「アイデア」――あるいは、現代ポップスとダイナミクス

 お前いつまで「アイデア」の話してんの? と思われるかもしれませんが、以前から書こうと思っていたこととまさに関連している発見があったので書く。

 星野源「アイデア」の2番にあたる部分にFuture Bass的なアレンジが施されていることは既に多くの話題を呼んでいる。若きMPCの名手であるSTUTSをフィーチャーしたそのビートは、アタックの強いパーカッシヴなドラムや対照的にフィルターがゆるやかなアタックを描くリードシンセ、ストリングスのグリッサンドをピッチベンドのように用いるオーケストレーション(耳での判断だけれどおそらくオーディオをプロセスしているわけではなさそう)など、メインストリームのJ-POPとしては意欲的なサウンドとなっている。

 一方で自身の解説によれば、サウンドとしてはいつもどおりの星野源のようにも思える1番――つまり朝ドラ「半分、青い。」のOPに用いられた部分のアレンジの着想もFuture Bassから得ている、としている。

で、もう1個テーマとしては、僕がすごい好きで2017年……まあ、その前からもちょこちょこ聞いていて、2017年は特に聞いていたビートミュージック。フューチャーベースだったり、そういう、通常はエレクトリックな機材を使って作るような楽曲。特に「チキチキチキチキ……」ってすごくハイハットがもう早く鳴っているビート。そういう音楽のジャンルをですね、生演奏でできないかな?っていうのもいちばん最初の発想のひとつでした。

でも、そういう風にして……だから名残りで「チキチキチキチキ……」っていうのは残っているんですけど、それはタンバリンですごく早くカースケさんがやってくれていて。

miyearnzzlabo.com

 つまり現状では16分で刻まれるタンバリンがFuture Bassっぽさの痕跡だということなのだけれど、もうひとつ(本人がそう意図したかどうかはさておき)Future Bassっぽさを1番に見出すとすれば、それはAメロからBメロまでの休符の置き方とリズムのアレンジにある。

 「おはよう 世の中」という最初の1行から「すべてはモノラルのメロディ」までのAメロ部分は、「お/はよう/よの/なか」というように、要所要所で歌のなかに休符をたっぷりとあてた、緩急のついた譜割りになっている。また、バンド全体の演奏も、その歌と同期するように休符でタメを作っていて、結果として大胆な余白が強い印象を残す。

 また、「涙零れる音は」以下のBメロ部分ではテンポの解釈がハーフになり、元々速めのテンポであるこの楽曲に対するアクセントとして機能している。そこからサビになだれ込む構成はまあまあオーソドックスだ。

 ここで取り上げた、バンド全体が同期してつくりだす余白、そしてテンポの解釈を変えることによるアクセントといった要素は、Future Bassのサウンドにもしばしば見られるものだ。とりわけ前者は、以前ブログで取り上げた「ビルドアップ‐ドロップ構成」(分水嶺としての「ドロップ」――Perfume『Future Pop』レビュー記事補遺 – ただの風邪。参照)と並んで、Future Bassを含むEDM以降のダンス・ミュージックのプロダクションに最も特徴的な要素と言ってよい。

 その典型的な例として、Wave Racer「Flash Drive (feat. B▲by)」を挙げる。1:32ごろのドロップ以降の展開に見られるように、強拍をヒットするようにリードシンセやドラムサウンドが配置され、ほぼ無音になる箇所も存在する。こうしたキメとタメの対比が、ハイハットの「チキチキ」と並ぶFuture Bass独特のグルーヴを生み出している。

 「Flash Drive」のドロップ以降の展開と「アイデア」Aメロとの比較は明白だろう。「アイデア」Aメロで強拍におかれた全パート同時のキメと、大胆な休符によるタメは、まさにFuture Bass的だ。また、「Flash Drive」でスラップベースが変わらずソロを鳴らしつつも他のパートが同様のキメとタメをキープしている点は、「アイデア」の「鶏の歌声も」から「すべてはモノラルのメロディ」までの部分でギターと他のパートが繰り広げるかけあいを彷彿とさせる。

 「アイデア」の1番から2番への展開はとても急に思えるものの、聴き心地に極端な違和感はない。それは、サウンドこそバンドからエレクトロニクスに変化してはいても、基本的なアレンジの方向性が一貫しているからにほかならない。

 音量の飽和状態(全パート同時のヒット)からゼロ地点までのギャップ――すなわちサウンドダイナミクスを巧みにコントロールすることでキメとタメをつくるという手法は、EDMの常套手段でもある。制作環境が完全にデジタルに移行し、0から1までのダイナミクスのコントロールDAW上で容易に行えるようになったために普及した手法と言える。

 「ビルドアップ‐ドロップ構成」の多くも、ビルドアップを通じて達した音量の飽和状態から、誇張されたベース音やパーカッションによるドロップに移行するダイナミクスの変化にその多くを負っているように思う(厳密には、帯域ごとの音の抜き差しなど、より細かいテクニックが積み重ねられているんだと思うけれど、詳述はしない)。

 そのバリエーションとしては、これもまたFuture Bassでよく使われるFlume型のドロップも同様だ。強烈なサイドチェイン(ある音が鳴らされたときに、他の音が引っ込む効果)や、リズムのすき間を縫うようなリードシンセの配置によって強調されるダイナミクスの変化が、EDM独特のケレン味を生み出している。

 もちろん多様化をきわめるEDMにおいてはこれらの手法も絶対的なものではないし、「ビルドアップ‐ドロップ構成」について書いた際にも触れたように、いまやメインストリームはこうした手法から距離をとりはじめているとも言える。

 とはいえ、DAW環境以降可能になったダイナミクスの大胆なコントロールはEDM以外にもその例が見られ、ポップスの語法として定着する可能性も予感させる。

 たとえば今夏の来日や宇多田ヒカルのリワークでも話題になったSuperorganismは、サンプルの途中に無音を挿入してちょっとした違和感を残すアレンジをしばしば用いる。驚くのは、そうしたダイナミクスのコントロールを応用したアレンジを、小規模なスタジオ・ライヴの場なんかでも実演しているところで、ほかにもスポークンワードとかりんごをかじる音の挿入の仕方なんか、DAW的な環境を身体化して見せてるようなところがある。

 そういうわけで、星野源「アイデア」を端緒に、EDM以降(というか厳密にはDAW以降?)のダイナミクスのコントロールに注目してみた。っつーか最近EDMばっか聴いてたけどこういうのでかいハコででかい音で聴くとマジでいいんだろうな~ 野外のEDMフェスとか行きたいわ~ いま一番行きたいもの、それはUltra Japan。以上です。

One Comment

分水嶺としての「ドロップ」――Perfume『Future Pop』レビュー記事補遺

realsound.jp

 オリコン週間アルバムランキングで1位をとった、Perfumeの新作『Future Pop』について書きました。EDMとPerfumeの距離感の微妙さ、そして本作で迎えた堂々たる融合、という感じの内容です。ただ本文中で言及しきれないことがあったので若干補遺。

 まず、EDMにおけるビルドアップ‐ドロップ構成について。本文中でも書いたとおりEDMバブルも落ち着いたいまではドロップに対してどうアプローチするのかというのが多様化しています。第一に、これみよがしのビルドアップ‐ドロップ構成から距離をとった、ポストEDM的なスタンス。今年のFUJI ROCK FESTIVALでも来日を果たしたいま人気のデュオODESZAは、壮大なスケールのサウンドを展開しつつも構成はいわゆるEDMではないです。

 あと、「あのトップDJが脱EDM?!」と話題になったCalvin Harrisの『Funk Wav Bounces Vol. 1』も、ドロップのもたらすクライマックスから離れて、ファンクのグルーヴで適度にレイドバックさせつつじわじわ上げるアプローチという意味でわかりやすい例。

 他方、ドロップをいかに過激に先鋭化させるかというアプローチもあり、トラップとかダブステップとかあるいはハードスタイルといったブチ上げてなんぼのジャンルがそんな感じという印象です。そもそもトラップもダブステップもハードスタイルもEDM化する前はビルドアップ‐ドロップ構成とは特に関係なかったわけで、特にハードスタイルはこの構成を取り入れることでEDMの文脈に乗り、改めて流行しているという感じでしょうか。

 過激すぎてヤバいドロップの例はたくさんありますがこないだ出たCarnage「El Diablo」はもはやビルドアップとドロップ以外のパートが存在せず、ビートレスで始まって延々ビルドアップが続いた後に耳をつんざくようなドロップに入って、ひとしきり暴れたあとはまたビートレスになって再度ビルドアップ、以上を2セット、みたいなエクストリームさです。『Funk Wav~』がアンチクライマックスだとしたら、こっちはクライマックス以外存在してない。

 あと、Iimori Masayoshiさんのツイートで知ったYOOKiE「BASSQUAKE (feat. Jeff Kush)」は、ドロップでほぼサブベースしか鳴ってないので普通のスピーカーで聴いてもほぼ無音、ヘッドフォンで聴いても体感できるか微妙。うちのスピーカーはぎり鳴ったかな~ いや鳴ってない気がするな~ くらいのあれです。

 同じ系統でいうとHEKLER「Basic Bass Tune」もドロップはほとんどサブベース(歪んだ倍音がたくさん入ってるのでこっちは普通のスピーカーでもなにが起こってるかはわかる)。現場で聴きてぇ~。

 最後に変わり種中の変わり種。ゼロ年代に世界的に流行したファンキ・カリオカ(バイレ・ファンキ)が現在世界的に見ても最もクレイジーサウンドに謎進化を遂げていることはご存知の方はご存知のことと思いますが、そんななか、MC Hollywood「Tipo Rave Balança O Popo」はEDMのビルドアップ‐ドロップ構成を取り入れてパロディ。脈絡なく入ってくるビルドアップから、いつものすっかすかなファンキサウンドに突然戻るドロップは絶妙なユーモアを醸してます。

 といった例を挙げてみていくと、『Future Pop』はなんだかんだ言うて構成としてはEDMに寄りつつも、エキセントリックな音使いや過激なドロップは避けて、ポップスとしても成立するバランスをうまくとっているように思います。ある種の「中庸さ」を保つことで、EDMのダイナミズムとJ-POPの親しみやすさを両立させている、というふうに言えるかと。中田ヤスタカのソロを聴いても割と「中庸さ」は感じるので、そういうゲームには乗らないという意志があるんじゃないかな。どうだろう。

Comments closed

「和声」という枷

 鈴木惣一朗が聞き手をつとめた細野晴臣のインタビュー集『細野晴臣 とまっていた時計がまたうごきはじめた』(平凡社、2014年)を読んでいたら、興味深いくだりがあった。細野の1989年作『オムニ・サイト・シーイング』に収録された「Esashi」についての発言だ。江差追分に伴奏をつけくわえたこの曲で同作は始まる。

民謡にコードを付けるっていうあのスタイルは、やってみたかったからやったんだけど、あとで後悔したんだ。コードを付けちゃいけなかったなと思ったの。特定の色を付けちゃうことになってしまったからね。そのあとに、そんな傾向が流行ったこともあって、余計に落ち込んだね。

 続けて聞き手の鈴木は、論を補うようにこう語る。

――コードを付けるってことは、ボイシングによって、歌の心情を説明しちゃうことになるわけですよね。

 そしてまた、

――ブルーズなんかもそうですけど、本当は単旋律のままで、聴き手が感じるべき音楽の世界がある。それを、西洋的なハーモニーで説明してはいけないということですね。

 つまり、和声の概念がないモノフォニックな民謡に対して和声をつけくわえることが、果たしてその曲が本来持っている可能性を閉ざしているのではないか、という問いだ。

 しばしば現在のポップスでは、主旋律に対して別の和声進行をあてるリハーモナイズという手法が制作過程のなかで用いられることがある。同じ旋律でも異なる進行が添えられることでそのニュアンスが変わる様はクレショフ効果さながらであって、音楽がかきたてる私たちの情動は、メロディそのものというよりも和声の時間的な進行と旋律との関係性によって規定されていると言ってよい。

 とはいえ、よく指摘されることだけれどもこういう旋律に対する和声の優位が確立されたのはせいぜい18世紀とかそのくらいであって、たまたまそれが西洋音楽のスタンダードになって、現在のポップ・ミュージックまで地続きになったにすぎない。

 人類史とかそういうスパンで見れば西洋音楽においてさえ和声が音楽の主要な要素に数えられるようになった期間はほんのわずかでしかない。和声を伴う合唱みたいなものは洋の東西を問わず広くみられる(むしろ単旋律の厳密なモノフォニーのほうが少ないという)ものだけれど、それにしたって近代的な和声の体系とはまったく異なる、身体化された対位法のような原理で働くものだ。

人間はなぜ歌うのか? 人類の進化における「うた」の起源

人間はなぜ歌うのか? 人類の進化における「うた」の起源

アフリカ音楽の正体

アフリカ音楽の正体

 そのように考えたとき、「和声が旋律の意味を規定する」ことにあまりにも慣れた自分は旋律そのものの力に対してどれほど敏感たりえているかと思ってしまう。はたして江差追分をそのものとして鑑賞しつくすことが自分にはできるのか、と。いくら無調以後の現代音楽に触れたり、あるいは和声の体系から逸脱する構造を持つブルースやジャズ、あるいはこれが一番自分にとって馴染み深いところのダンス・ミュージックに触れたところで、もしかしたら身体から剥ぎおとされた旋律への感受性があるのではないか。

 まあそんなことは杞憂でしかないんだけれど、改めてさまざまな音楽に対して耳をオープンにしていくことを心にきめるきっかけになった対話だった。それは例えば歌やそのメロディへの意識を変えていく必要の予感をもたらしたりもしたのだった。


Comments closed

信仰の不在と祈りについて――星野源「アイデア」

 星野源の新曲「アイデア」が配信リリースされた。0時の解禁とほとんど同時に耳にした「アイデア」は、そのタイトル通り、予想外のアイデアがつぎからつぎへと繰り出される名曲だった。

 星野源らしいエキゾティックな旋律と折衷的なバンドサウンドが印象的なワンコーラス目から一転、フットワーク/フューチャーベースのニュアンスを巧みに取り入れたダンスサウンドへと展開し、素朴な弾き語りを経由してふたたび星野源印のサウンドへと回帰する構成。大胆に表情を変えるサウンドは、一枚のEPを一曲に凝縮したかのような印象を与える。

 この展開は、まさしくこの曲が伝えようとすることばたちのためにあつらえられたものだ。光と影のように対照的に配置された1番と2番の歌詞はサウンドの変化と呼応し、アコギの音色と歌声が響くブリッジもまた、親密さに満ちたことばに寄り添っている。そこから浮かび上がってくるのは、人びとの生活そのもの、日々のあゆみそのものを音楽や響きにまつわる隠喩によって描き出しながら、それらをまさに音楽によってそして前進させようという意志だ。

 オーガニックなバンドサウンドから、ベース・ミュージックを経由して大団円に至る楽曲構成は、Donnie Trumpet & the Social Experiment「Sunday Candy」を思わせる。Chance the RapperとJamila Woodsをフィーチャーしたこの曲は、the Social Experimentを中心とするシカゴのミュージシャンたちの折衷的なセンスを存分に発揮したもので、ChanceやJamilaをはじめとした界隈のラッパーやシンガーの仕事に通底するポップさを凝縮した、象徴的な一曲だ。

 しかし、「Sunday Candy」の根底にあるのがゴスペルと信仰だとすれば、「アイデア」の根底にあるのはかわりに星野源自身のキャリア(いつも以上に象徴的に鳴らされるマリンバの音色は彼の原点、SAKEROCKを思わせる)と、いかにしていまの世の中に希望を立て直すかという問いなのではないかと思う。

 以前tofubeats『FANTASY CLUB』についてのレビューを書いたとき、まさにChance the Rapperを引き合いに出して、「信仰による救済」を持たない日本人はどのように「祈り」を捧げるのか、という問題に対する答えがあのアルバムにはある、と評したことがある。それと地続きに、「アイデア」もまた、信仰なき世界でどのように祈るか、どのように希望を語るかに対するひとつの答えだと言えないだろうか(そういえば、同様のことを、James Blake「Don’t Miss It」をめぐる文章でも「信仰の不在」における「救い」について書いたな)。

caughtacold.hatenablog.com

caughtacold.hatenablog.com

 まあそういった解釈については僕などよりも星野源の曲にもっと親しんだ人たちのほうがよほど的を射た案を提示してくれるに違いない。この文章はあくまで楽曲の構成上思い浮かんだ「Sunday Candy」と「アイデア」の比較を単に試みてみただけだ。ただこの曲がささやかな希望を人びとに届けることだけはたしかだろう。尻切れトンボですが、また。

Comments closed

J-POPにおける「譜割り」の問題、補遺+寄稿まとめ

 まず、なんぼか寄稿が溜まっていたので報告。『アニエラフェスタ』などに見る、脱・都市化したアニメシーン – コラム : CINRA.NETは長野県のアニソンフェス「アニエラフェスタ」のPR記事ですが、アニメ文化の地方への拡散という話をしました。ぬるヲタなので恐縮ですが……。韓国大衆歌謡からBTSまで……K-POPの誕生と発展にJ-POPが与えた影響 – Real Sound|リアルサウンドは金成玟『K-POP 新感覚のメディア』(岩波新書)の書評。音楽性に関する考察にはちょっと僕の持論も加えています。この本はコンパクトな新書ながら、K-POPをめぐって論じうる主要なテーマはざっとカバーしていて、そのうえ「ポップカルチャー」というものの本質に迫る議論を展開していて胸熱。フェミニズムやキャンドルデモとK-POPの関係に言及されていたり、「音楽と政治」を論じるにあたっても参考になるかと。戦後の日韓間における文化交流をまとめた、著者の過去の研究書(『戦後韓国と日本文化――「倭色」禁止から「韓流」まで』岩波現代全書、2014年)も読んでみたいと思います。

K-POP 新感覚のメディア (岩波新書)

K-POP 新感覚のメディア (岩波新書)

戦後韓国と日本文化――「倭色」禁止から「韓流」まで (岩波現代全書)

戦後韓国と日本文化――「倭色」禁止から「韓流」まで (岩波現代全書)

J-POPにおける「譜割り」の問題、補遺(1)「点描的」な譜割り

realsound.jp

 本日(8月19日)公開、RealSoundにこちらの記事を寄稿。最近J-POPを聴くときは、なんだか譜割りが気になってしょうがなかったんですよね。特にそれを自覚したのは、宇多田ヒカル『初恋』を聴いたり、三浦大知『球体』のレビューをFNMNLに寄稿したりしてからだろうか。そういうわけで、「譜割り目線」で聴いて面白かった例をぎゅっと紹介する記事を書かせていただきました。ちなみに、上掲の記事では譜割りとフロウってざっくり使い分けてるんですが、譜割り=あらかじめ譜面化された分節、フロウ=譜面には記述しきれない訛り・ゆらぎ、程度の意味です。

 三浦大知w-inds.宇多田ヒカル小袋成彬cero、KID FRESINO、DCPRGイヤホンズ、とこれでもかと詰め込んじゃって、散漫に思われるかもしれませんが… でも、EDM以降のポップス(三浦・w-inds.)、最新R&B(宇多田・小袋)、ポリリズムcero、KID FRESINO、DCPRG)、広義のアイドルポップス(イヤホンズ)、と要点を抑えたつもりです。

 それでもなお漏らしてしまった! と思っているのが、「点描的」とでも言うべき譜割りへのアプローチです。特定のジャンルに当てはまるものではないのでまとめづらかったってのもあるんですが。たとえばCorneliusの「あなたがいるなら」。

 単語を音節単位まで分解して、言葉として、メロディとしての輪郭がおぼろげになるくらいの間隔をあけながら配置する。このアプローチ自体はEDM以降のポップスとしてまとめた動向と近いかもしれませんが、極度にゆったりしたBPMR&B的なフロウ感覚を呼び起こすし、各楽器と結ぶ関係性のありかたとしてはceroなんかに近い。かつ、この譜割りに至るまでのCorneliusの道筋を考えると、三浦康嗣の仕事にも通じる、DAW以降のリズム上の実験やサンプリング/エディット感覚とも地続き、ということも言える。いま思えば、これが出た当時僕が書いたレビューでも譜割りのあり方に言及してて(Corneliusの新曲、“あなたがいるなら”は現時点で彼の最高傑作だと思う – ただの風邪。)、これがいまの聴き方の原点だったのかも。

 じゃあ、類例はあるのか? というと、ちょうどまさしく出たんですよ、「点描的」譜割りの名作が…… 話題のビートメイカー・Sweet Williamsと青葉市子のコラボレーション作、「からかひ」です。

 青葉市子さんにあんまりこういう印象なかったんですが、端正でメロウなビートにきれぎれの歌声がのることで、リズムへのアプローチから見ても興味深い「点描的」なヴォーカルになってると思います。これは今年ベスト級。

J-POPにおける「譜割り」の問題、補遺(2)宇多田ヒカル「誓い」ブリッジ部の譜割り

 これ、記事では「四分三連の4拍子のうえに8ビートのリズムで言葉を乗せる「誓い」」ってあっさり書いたんですが、わけわかんないかもしれないですね。具体的に言うと「たまに堪えられなくなる涙に/これと言って深い意味はない~」という特定の箇所のことです。なんか変な譜割りだけど聴いてるだけじゃいまいち構造がわからなくて、DAWで調べてみました。

f:id:tortoisetaughtus:20180819113506j:plain

 基本の譜割りはこれです。12/8(=四分三連の4拍子)でとってます。わかりやすい部分を例にとりますが、冒頭に1拍ぶん休符をとって、「こ・れ・と・い・っ・て」が2拍にぴったり6音節として収まります。その次の3拍は、本来9音節ならばきっちり収まるところを、「ふ・か・い・い・み・は・な・い」の8音節を均等に割り振っています。これがすなわち、「四分三連のうえに8ビート」です。特定の部分だけなんとなく8ビートっぽく割ってる(=フロウ)ではなくて、実際に上でこのパターンを鳴らすとわかりますが、「たまに堪えられなくなる涙に~選択肢なんてもうとっくにない」の部分に関しては、あきらかに意図的に8ビートに割る譜割りを使ってます。異なるグリッドが併走してる状態になってるわけですね。ピアノの伴奏がモタってるように感じられるし、ドラムの打ち方もちょっと変わってるので、ちゃんと分析すると実はなんらかのクロスリズムになってるのかもしれません。

 っていうか、なんでこれがあんなにきっちり歌えんの? 8ビートのうえにアクセントとして三連の譜割りをのせるのって結構ありますけど、逆ってあんまり聴いたことなくてびっくりしました。ご存知の方は類例あったら教えてください。

J-POPにおける「譜割り」の問題、補遺(3)なぜ譜割りが問題か

 最後に、ちょっとややこしい話になるんですが、譜割りを問題化するのはなぜか、ということについて。

 歌詞について批評するときに、韻について言及されることって多いですよね。特に、日本語ラップの普及、もっと言えば「フリースタイルダンジョン」以降、「こことここが踏まれてて凄い」みたいな聴き方ってかなり一般的になったと思います。一方で、譜割りであるとかフロウとかっていうのは、わりと漠然と語られがちな印象があった。韻はどうしてもその性質上、構造的=無時間的に考えざるをえないところがある。にもかかわらず韻を時間の経過のなかで受け取る、というプロセス自体面白いなと思うんですが、ならその前に、時間と言葉の関係を考えるにあたって、時間を言葉によって文節する、譜割りやフロウの力についても注目しないと片手落ちだ、と感じました。

 加えて、Jazz the New Chapterが取り上げたようなジャズにおけるリズムの実験とか、あるいはceroみたいなアフロ/ラテンの折衷的なポリリズムとか、ここのところの音楽で注目すべきはリズムだよな、という思いもあった。あるいはトラップにせよ、レゲトンにせよ、アフロビーツ/アフロスウィングにせよ、ポップ・ミュージック全般のリズム構造も変わってきてるし、するといきおい歌にも影響が出てくる。それに焦点をあてるなら、(フロウもいいけど)譜割りもね、という発想です。

 まあ、これについてはまたなんか書くかもしれません。

Comments closed

「保守」が「maintenance」でなにが悪いのか、あるいはなぜ彼らは無知を悪びれないか

 最近Twitterで「保守」を「maintenance」のことだと言った反リベラル派の某氏が話題になっている。Twitter上のリベラル勢は、いわく、こうした例こそ安倍政権支持者の知的レベルの低さを示しているのだといってはばからない。まあ実際、反リベラルの、いわゆる「ネトウヨ」がとんちきな英語を使ってリベラルから失笑を買うという風景はわりとよく見かけて、最近だと「アダルトマン将軍」という名フレーズが生まれたのも記憶に新しい。

 とはいえ、こうした嘲笑はけっして、当の反リベラルの人びとには届かない。第一にそれは知をふりかざして相手を見下す、断絶の所作であるから。そして第二には、これがきょう書いておきたいことなのだが、反リベラルの人びとは「正しい知識」などというものの存在を信じていないからだ。

 これは一見奇妙な意見に思えるかも知れない。世の中にあふれる「ふつうの日本人」たちは、彼らの思う「真実」を世界に広めることを自らの使命として任じ、「真実」を歪めるリベラルや左派を苛烈に攻撃してきた。自分たちこそが「真実」の擁護者であるかのように振る舞っているにもかかわらず、正しさなる概念を信じていないとは、どういうことか。

 答えは、反リベラルの保守論客がしばしば持ち出す「歴史戦」なることばのなかに見出すことができる。彼らが「歴史戦」というときに前提としているのは、歴史的真実とはアカデミズムやジャーナリズムの手続きによって慎重に究明されるものではなく、言説上のヘゲモニー争いに勝利した者が一方的に決定できるものだ、という考え方だ。彼らにとっては、自分たちが「真実」の側に立てていないのは、史学的な根拠の欠如のためにではなく、ひとえに左派やリベラルといった反日勢力が言説のうえでヘゲモニーを握っており、自分たちの言い分が握りつぶされているためだ、というわけだ。

 歴史的な事実をいかに確定するかという問題を単なるヘゲモニー争いと見なすこうした反リベラルや保守のものの見方は、「歴史戦」の範疇を超えてあらゆる分野に一般化されているとぼくは思う。なぜ彼らが学ぶことを放棄するかといえば、自分たちがヘゲモニーを握りさえすれば、彼らの言うこと、思うことをすべて「真実」として位置づけることが可能だと信じているからだ。そして、いま現在アカデミズムやジャーナリズムにおいて事実とみなされていることがらは、自分たちに反対する勢力が自らの権威を通じて構築したものであると考え、その土俵に上がること自体を拒否するのだ。

 したがって、いくら彼らの無知を嘲笑しようが、彼らはなんともない。彼らが覇権をにぎったあかつきに、「保守」は「maintenance」を指すと、「ふつうの日本人」は「General Adult Man」と訳すと、閣議決定すればいいだけなのだ。――彼らが安倍政権を支持してやまないのは、(経済政策というひとまずの理由をさしおくとしたら)まさに彼らの信じる世界のあり様をデモンストレーションしているからだろう。

 こうした理屈に対抗するためには、抽象的な言い方になるけれど、知を「権威」としてふりかざすのではなく、知を知たらしめる「制度」のあり方に気を配り、それを正しく運用することが必要だと思う。これは、リベラル/反リベラルという対立に限った話ではない。たとえば科学/疑似科学の対立においても同様ではないだろうか。史料やデータを提示して「論破」するのではなく、そもそも彼らの世界認識が歪んでいること、自分たちがよってたつ世界=制度のあり様を適切にプレゼンテーションすること、それくらいしか僕には思いつかない。しかしこうした世界認識そのものの断絶をどのように乗り越えうるのか、心もとないことは確かだ。

Comments closed

Iglooghostとポケモン、ポストポップ・アート

www.thefader.com

 The FADER magに2つの新作EPのリリースを控えたIglooghostのインタビューが掲載されていた。彼は昨年リリースしたBRAINFEEDERからのアルバム『Neo Wax Bloom』も好評の弱冠20歳(今年で21だろうか?)。いわゆるビーツものともトラップとかダブステップ系のベース・ミュージックともなんか違う、プラスティックな質感の音色がころころと変わっていく風景のなかで跳ね回ってるみたいな、謎のエレクトロニック・ミュージック。

プロモーション映像もなんか妙だし、いかにも一筋縄ではいかないキャラクターも印象的だ。

 インタビューで興味深かったのは、「なんでフルレングスじゃなくて2枚のEPをリリースするの?」という質問に対する答え。以下、引用してみよう。

たぶん正直に言うとポケモンで育ったからだと思う。それが僕の頭の中に居座ってるコンセプトなんだ。(ポケモンには)ダイアモンド・パールがあって、もともとは赤と青があった。たんなる詐欺なんだけどね――だってゲームはおんなじなんだから――でもだからこそ、僕は2つのEPを出すというアイデアが気に入ってる。僕はモノを集めるのが好きで、(2つのEPを出すというのも)自分が好きな行為を模してるんだ。いろんな意味で、子どものときに持ってた商品にはインスパイアされている。そんなのぜんぶ資本主義的なものなんだけれど、あなたもそういうものから美しさを得られるはずだよ。(そういう美こそ)子供だった僕を刺激していたものだ。僕が抽出しようとしているのはそれ。たぶん商品を売るっていうよりは、モノを手に入れたときに覚える感覚のほうが近い。

 自分のプロジェクトの参照元ポケモン(しかもダイアモンド・パール)だというのもおもしろいけど、なにより、自分が資本主義社会のなかで消費行為から得ている快楽や美とはなにかを、創作を通じて抽出しようという試みはとてもおもしろい。消費そのものを罪悪とみるよりは、それを換骨奪胎して、異なる美へと結晶化させてみよう、という意志。僕はVaporwave的なシニシズムにシンパシーを覚える世代なので、こうしたIglooghostのスタンスは新鮮に思えた。

 ある意味でそれは、消費を記号の生産と流通の問題に還元したポップ・アート以降の感覚から離れて、消費という行為そのものの正体に迫ろうというちょっとした試みのようだ。そのときに考慮されるのは、抽象化、ないしはゲーム化された消費という行為のモデルであって、ポップ・アートのように「記号の生産様式・生産手段」ではない。再生速度の変化やカットアップ、ループなど、制作に用いられる諸操作を露悪的に誇示してみせるVaporwaveはこの意味でポップ・アートの領域にとどまっているけれど、Iglooghostのナンセンスと寓意ってそのネクストステージなのかもなあ、と大風呂敷を広げたくなった。

ポケットモンスター ダイヤモンド(特典なし)

ポケットモンスター ダイヤモンド(特典なし)

Neo Wax Bloom

Neo Wax Bloom

Comments closed

「メッセージはメディアである」

YOKO ONO―オノ・ヨーコ 人と作品 (講談社文庫)

YOKO ONO―オノ・ヨーコ 人と作品 (講談社文庫)

オノ・ヨーコはかつて、たしか飯村隆彦によるインタビューのなかで、マーシャル・マクルーハンの有名なテーゼ「メディアはメッセージである」を批判し、それを転倒させて「メッセージはメディアである」と言ったことがある。これはいかにもアーティストの気ままなことば遊びにすぎないかもしれない。しかし、つきつめて考えてみれば、これもまたひとつの真実を言い当てているように思える。

はじめに示したマクルーハンのテーゼは、彼の思想の技術決定論的な側面を端的にあらわしたものだ。すなわち、私たちがメディアを通じてなんらかのコンテンツを享受するとき、私たちにより強い影響を与えているのはコンテンツの内実よりも、メディアの技術的な条件の方である、ということだ。コンテンツそのものよりも、どのようなメディアを通じてそれを受け取るかのほうが、私たちの世界に対する認識のあり様を決定づける――どのようなメディアが支配的となるかに応じて、私たちの世界の捉え方も変わってくる、それゆえ具体的な中身よりもメディアの様式をこそ検討しなくてはならない、ということだ。

メディアはマッサージである: 影響の目録 (河出文庫)

メディアはマッサージである: 影響の目録 (河出文庫)

しかし、オノはそうしたマクルーハンの思想を権威主義的、制度的にすぎるとしてしりぞける。この批判をぼくなりに補足すれば、技術はときに私たちの世界認識のあり様を決定的に、不可逆的に変化させるが、しかし、技術が私たちの世界認識を隅から隅まで規定してしまうわけではない、少なくともそのように信じたい、ということだ。仮にそうした技術決定論を(きわめて素朴に、だが)ひとつの原理として採用してしまうと、市井に生きる人びとの側から世界を変革する余地が残されなくなってしまうだろう。技術の領域は高度化するにつれてブラックボックス化してしまうのだから。

それを踏まえて、オノがなかばたわむれに発した「メッセージはメディアである」という2つ目のテーゼは、メッセージを発すること、声をあげることそのものが媒介(メディア)となり、社会を変革しうる、と言い換えることができる。

メッセージはメディアを横断する。それが聴覚的であれ視覚的であれ、平面的であれ空間的であれ、あるメッセージはあらゆるメディアに憑依して私たちのもとに届けられ、しばしば私たち自身の奥深くまで浸透する。そのとき、メッセージはメディアという入れ物によって運ばれてくるひとつの言明であるというよりも、メディアに寄生してさまざまな宿り主のあいだを渡り歩くウィルスのようなものである、とも考えられる。

こうした主客を反転させた捉え方は、SNS時代以降、ヴァイラルな(ウィルス様の)コミュニケーションの危険なまでの効力を目の当たりにしたわれわれにとって、むしろ馴染み深いものではないだろうか。音声、画像、映像、あるいはテクスト、などのかたちをとってインターネット上を流通する多種多様なメッセージは、じっさい、(その影響力の大きさには諸説あるとはいえ)よかれあしかれ人びとに感染し、社会の方向性をひそかに決定づけている。

メッセージは物理的な支持体(メディウム)に従うものではなく、むしろそれ自体が人びとにイメージをもたらし、思考を促し、行動を動機づける、ひとそろいの環境そのものなのであって、それゆえに、メッセージを発することそのものが世界のあり方を変革する契機ともなりうるのだ。街角のビルボードやポスターに記された「WAR IS OVER IF YOU WANT IT」というセンテンスはそれ自体、「あなたが求めさえすれば戦争は終わる」というメッセージであると同時に、「世界を変えるために必要なのは、メッセージを発することだ」ということのデモンストレーションなのである。

個々のメッセージの力は、テクノロジーが私たちの世界認識を規定する力と比べれば、圧倒的に小さい。オノ・ヨーコジョン・レノンというよかれあしかれ世界で最も著名な夫婦が発したメッセージでさえ、テレビやラジオ、あるいはSNSといったメディアそのものの持つ力に及ばないだろう。しかし、そうしたテクノロジーの内側に、そして人びとの心に憑依し、感染したメッセージは静かに変革の灯火を燃やし続けるのである。実際、「WAR IS OVER」というメッセージはいまだに私たちの心の中に存在し続け、ふとしたところに掲示され、根強く増殖を続けている。

Comments closed

世界を背負わないこと――James Blake – Don't Miss It

先月末にYouTubeで公開されたJames Blakeの新曲、”Don’t Miss It”が各種ストリーミング・サービスでも配信されている。1月に公開された”If the Car Beside You Moves Ahead“に続いて、アコースティックなサウンドとエレクトロニックなビートが融合したトラックに、印象的なエディットやエフェクトが施されたヴォーカルが乗る、まさにJames Blakeといった楽曲だ。

どこか抽象的かつ隠喩的でドラッグへの参照も見られた”If the Car…”の歌詞と比べると、”Don’t Miss It”の歌詞は率直で、胸を打つ切実さがある。ひとことでまとめるならば、利己的な想念にとりつかれることで見失ってしまった、かけがえのない人生の歓びに対する、後悔にあふれた讃歌だと言えるだろう。

genius.com

世界がぼくを締め出した/すべてを与えてしまえば、ぼくはすべてを失ってしまう/あらゆることがぼくに関わっている/自分こそが一番重要なことだ/きみはこういう堂々巡りな考えを持ったことがないのかい?

冒頭のヴァースで示されているとおり、この曲で「ぼく」は、世界から疎外されるとともに、「あらゆることが自分のためにあり、自分こそがもっとも重要なのだ」という視野狭窄に陥っている。そして、つづく2つ目のヴァースで歌われているように、この状態のままでいるかぎり、「なににも巻き込まれなくて済む、リアルタイムで世界を見なくて済む、煩わしいことを忘れられる、外に出なくても済む、列に割り込むことだってできる、好き放題言うこともできる、好きなときに眠ることもできる…」のだ。

しかし、このヴァースの最後には、その代償がつきつけられる。

でもそうするとぼくは、それを見逃してしまうんだ/それを見逃してはいけない/僕のように見逃してほしくないんだ

それの正体は、最後のヴァースできわめて具体的に、しかし具体的であるがゆえに正確に名指すことができない、繊細なモーメントとして列挙される。

完璧なイメージを求める必要がなくて/なんの問題も見当たらないようなとき/それを見逃してはいけない

あるいは、

気の合う仲間とつるんでいて/鈍い痛みがどこかに消えてしまう、そんなとき/それを見失ってはいけない

そしてまた、

抜け殻みたいな感覚が抜けて/まわりのみんなが「調子よさそうじゃん」と話しかけてくる、そんなとき/それを見失ってはいけない

抑うつ状態にあると、孤独に苛まれ、世界をたったひとりで背負っているような感覚に陥ることがある。苦しみを背負い、自暴自棄になり、結果としてあたかも「自分の好きなように」生きているかのような利己的な行動をとるようになってしまう。しかし、それによって苦しみが根っこから解消されたわけではない。苦しみから目をそらし、苦しみをやわらげるための行き当たりばったりな行動でしかないのだから。

James Blakeはこの曲で、そうした隘路に迷い込まないための忠告をあなたに与える。弱さに押し流されそうになるのに耐えて、生活のふとした瞬間にあらわれる満ち足りたモーメントに注意を払うこと。同じ苦しみをわかつ人びとにこの声が届くかどうかはわからないけれど、「ぼく」と同じ側に落ちてきそうな人びとへ、精神を振り絞ってメッセージを届けようとしている。

絶望に染まることばに反して、ピアノとバックコーラスは救いのように響く。ただしそれは、無用な多幸感をもたらしはしない。なぜなら、この曲が伝えようとするものは、宗教的恍惚や啓示ではなく、なにげない生活そのものが救いでありうることだからだ。

Comments closed