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カテゴリー: Japanese

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ヴェイパーウェイヴのアイロニー、その裂け目――猫 シ Corp《NEWS AT 11》(2016)からひもとく

 ヴェイパーウェイヴが2017年現在いまだ死なず、むしろ根強い人気を誇っているという事実は、実のところなかなか信じがたいところがある。メディアがつくりあげるハイプを露悪的にパロディ化した、よくあるインターネット・ミームだと思っていたのに。僕はけして熱心なウォッチャーというわけではないが、ふと思い立ってチェックしてみると、いまだにコンスタントに新譜が登場していて、あろうことかある種の洗練さえ感じさせる出来の作品にしばしば出くわしてしまう。方法論的に言って、ヴェイパーウェイヴは出現した段階ですでに完成されていたと思う。だからこそ長続きする音楽ジャンルになるとは思えなかったわけだけれど、意外にもその美学(しばしば全角英数字ないしスペース入りの半角英数字で“Aestetic”と綴られる)は広く拡散・浸透し、多彩なサブジャンルを生み出すことにもなった。とはいえ、この記事ではその歴史とか全貌とか現在をどうこう言いたいわけではない。ひとつの作品を出発点に、少し考えてみたいことがあるのだ。

もくじ

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「誰でもミュージシャンになれる」

 身体のジェスチャを通じて音楽を演奏できる、KAGURAというシステムが発売になるらしい。自分は使ってみたいとは思わないにせよ、おもしろい試みではある。使い方次第ではステージ上のパフォーマンスがよりいっそう派手になるだろうし、こうやってパッケージングされることで、オーディオ・ヴィジュアルなパフォーマンスに対する敷居を下げることにもなるだろう。

 しかし、公式サイトなどに掲げられている、「PCとカメラさえあれば、アプリをインストールするだけで誰でもミュージシャンになれます」というウリ文句には、若干閉口してしまう。

https://gyazo.com/707ab4e90c663d0c21a590c176d2e6eb

 ミュージシャンになるだけだったらPCだけで十分だ。KAGURAを使うとなったら、PCとウェブカムを用意して、ソフトをインストールして、設定をこなし、そしてわざわざ身体を動かさなければならない。なんでそんなめんどくさいことをしなくてはならないのだろう? 細かい揚げ足とりかと思われるかもしれないが、これは真剣な話だ。それで提供される「演奏体験」は、「ミュージシャンになりたい」という人にとって満足いくものなのだろうか。いや、こればかりは実際に体験してみないとわからないけれど。

 それでも僕は、パーカッションのひとつでも買ったほうがいいんじゃないかと思う。PCを立ち上げる必要も、カメラのキャリブレーションも必要なく、ふと思ったときに手にとって、鳴らすことができる。マラカスひとつあるだけで、カウベルひとつあるだけで、じゅうぶんミュージシャンシップを楽しむことができる。そしてなにより、僕らにはこの身体があり、声がある。KAGURAを買ってまだるっこしい「演奏」をするくらいなら、マイクを買って歌声を録音したほうがいいだろう。

 これは極論であるとしても、たとえばテノリオンであったり、オタマトーンであったり、カオシレーターであったり、斬新なUIを通じて簡単でなおかつ優れた演奏体験を提供してくれるガジェットはたくさんある。電池駆動のカオシレーターを前にして、「PCとカメラさえあれば、アプリをインストールするだけで誰でもミュージシャンになれます」なんて胸を張って言えるだろうか?

 とはいえ、このソフトを単にくさしたいわけではない。マーケティングの方向として、それは違うんじゃない? と思うのだ。

 最初にも書いたように、可能性もたくさんある。複雑なプログラミングなしでモーションコントロールを導入できるということは、オーディオ・ヴィジュアルなパフォーマンスに興味はあるがプログラミングはどうもな、という人にひとつの選択肢を与えることになる。あるいは、教育の現場などではこういった身体を動かして演奏ができる仕組みというのはとても活用しがいがあると思う。しかしやはり、なにか楽器をやってみたいと漠然と思ってるけど、練習が大変で、といった人に対しては、このソフトはなかなかリーチしないと思う。なんでそんなウリ文句を選んだのかよくわからない。ただでさえPCなんてめんどくさいトラブルのかたまりなのに。

 個人的に、こういう「誰でもミュージシャン」系のガジェットやソフトでとても感心したのはPropellerheadsの出しているFigureというiPhone/iPadアプリだ。値段も無料らしい(以前数百円だった気がするけど)。

 細かい打ち込みはできない代わりに、ちょっといじって馴れてくると、とたんに多彩なビートパターンを直感的な操作でつくりだすことができるようになるし、カオシレーターふうにメロディも演奏できる。録音機能も充実しており、簡易的なミックスもできる。なにより、「演奏」と「プリセット」の配分具合が絶妙なのだ。デフォルトのまま鳴らしっぱなしにしてあちこちいじっているうちに、自然とそれっぽい音楽が出来上がってくる。これは他のどのアプリとも違う触感があって、楽しい。

 とりとめのない文章になってしまったけれども、やはりどうしても言いたいのは、PCとウェブカムなんか用意しなくても誰でもミュージシャンになれるだろ、ということだ。ソフトを売らんがためのそういうお為ごかしはひとのためにならないと思う。なんていうことを思うのは、DIY精神に神経をやられてしまっている人間の性なのだろうか。でも、音楽に親しむための第一の条件は、なんにもないところからでも音楽は生まれるし、音楽を楽しむことができる、という確信を抱くことにあると思う。

 ノンミュージシャンによるポップ・ミュージックの金字塔、フライング・リザーズ。あらゆるファンクネスを捨て去った果てに謎のポップネスだけが残ったSex Machineのカヴァーも秀逸だ。

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ノーバート・ウィーナー『人間機械論 第二版 人間の人間的な利用』鎮目恭夫・池原止戈夫

人間機械論 ――人間の人間的な利用 第2版 【新装版】

人間機械論 ――人間の人間的な利用 第2版 【新装版】

 ノーバート・ウィーナーが1950年にサイバネティクスの概要について一般向けに書いた本で、技術的な話題よりもその思想的意義を説くものになっている。この邦訳は第二版、1954年に執筆されたものが底本だ。19世紀末から20世紀にかけて物理学に起こった大きな方向転換を端緒として、エントロピーという概念を鍵として情報工学や通信理論の発展を論じ、そこから人間の本性までをも考察するに至る。とはいえウィーナーが取り上げているのは比較的素朴な、20世紀なかばに既に充分実現していた技術にとどまっていて、極端な大風呂敷を広げているわけではない。たとえば、通信理論に基いて信号の伝送経路を最適化するように、社会制度もまた情報をどのように流通させるか、すなわちコミュニケーションの通路を良好に保つためにはどうすればよいかという観点から再設計可能である、といった発想には、むしろゼロ年代アーキテクチャ論にも通じる見通しの良さがある。

 興味深いのは、「コミュニケーション・機密・社会政策」と題された第七章で、機密主義に陥りがちな軍事研究が長期的に見て人類全体に有害であると論じている部分だ。要するに、開発した技術はどんどん公開するべきであって、利用を妨げてはならないのだという。本書が書かれたのが第二次大戦後冷戦体制が強化されつつあった1950年であったことを考えると、この主張はいま想像するよりもずっと大胆なものだったのではないだろうか。

繰り返すが、生きているということは、外界からの影響と外界に対する働きかけとの絶えざる流れの中に参加しているということであって、この流れの中でわれわれは過渡的段階にあるにすぎない。いわば世界の有為転変に対して生きているということは、知識とその自由な交換の絶えざる発展の中に参加していることを意味する。多少とも正常な状況の下では、われわれにとっては、そのような適切な知識を確保してゆくことは、ある仮想敵国にそれを持たせないようにすることよりも、はるかに困難であるがはるかに重要なことである。軍事研究所というものの仕組み全体は情報をわれわれ自身が最も有効に使用し発展させることに相反する線に沿っている。(p.128)

 ある研究に軍事研究というレッテルがつけられると、とたんにその成果は部外者から閉ざされてしまう。それだけならまだしも、機密主義が徹底された結果として、別の部門で得られた成果を他の部門で応用するということもできなくなって、いわば「車輪の再発明」をせざるを得なくなることさえある。最近日本でも軍事研究予算が拡大され、大学がその獲得に躍起になるやら抵抗するやらと騒々しいけれど、根本的な問題として、軍事研究という制度がアカデミズムと相反するものである点に留意する必要があるだろう。暗号解読に関するアラン・チューリングの業績が、その内容の機密性ゆえにしばらく一般には知られていなかったことを思い起こすと、看過できない問題ではないだろうか。

 もう一点興味深かったのが、芸術に対する言及だ。第八章は「知識人と科学者との役割」という題が付されていて、その内容はというと、アカデミズムの世界が若い科学者に対して適切なキャリアパスを描けていないことに対する批判になっている。知的好奇心に突き動かされて然るべき若い科学者が、形式的な業績を積むためにルーチンワークのように論文を書いているのは嘆かわしいことだ、と。ただこれは科学にかぎったことではなく、芸術においても同様だとウィーナーは言う。ウィーナーは、なにか新しいことを言うためにではなく、既存の権威を強化したり、あるいは当面の需要をとりあえず満たすためだけに行われるような、おざなりなコミュニケーションには価値を認めない。なぜかといえば、芸術であれ科学であれ、それはエントロピーの増大という自然の傾向に抗って、新しいものを生み出すことを使命としているからだ。

何派であろうと美を独占することはできない。美は、秩序と同様に、現実世界の多くの場所に現れるが、エントロピーの増大の巨大な流れに抗する局地的で一時的な戦いとしてしか現れない。(p.142)

 この一節はどこか、ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリの最後の著作『哲学とは何か』を思い起こさせる。

思考の定義、あるいは思考の三つの大きな形態、すなわち芸術、科学、哲学の定義とは、つねに、カオスに立ち向かうこと、カオスのうえに或る平面を描くこと、或る平面を描くことである。(『哲学とは何か』財津理訳、河出文庫、p.332)

 もちろんウィーナーが秩序から無秩序へと至るエントロピーの増大という時間的な枠組みに準拠していて、それに対してドゥルーズガタリが相手どるカオスはそうした漸次的な変化も受け入れない絶対的なカオスなのだとは思うけれど、ドゥルーズガタリがウィーナーを知らなかったとは思わないし、なにかアイデアのきっかけにはなったのかもしれない(あるいはルーツが同じか。e.g.熱力学とか)。

哲学とは何か (河出文庫)

哲学とは何か (河出文庫)

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