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思弁的メロドラマ(けなしているわけではない)――テッド・チャン『あなたの人生の物語』について

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

 映画の日本公開はまだ少し先だけれど、アカデミー賞ノミニーにも選ばれていたし、そもそもそのタイトルからいろいろと気になっていたので読んでみた。長編を読むのはなかなかしんどい体調が続いており、あわせて買った『虐殺器官』はそれゆえまったく読み進められる気配がないが、こちらはわりとすんなり読めた。

 世間でこれらの作品がどういった評価を受けているのかについては寡聞にして知らないけれど、表題作「あなたの人生の物語」に関して言えば、あらかじめ期待したほどには感心しなかった。なるほど、基本的なアイデアは面白い。とくに、ある物理現象は因果論的(AのせいでBが起こる)にも目的論的(Bが起こるためにAが用意される)にも記述できる、という点に着目してみせるあのくだりには興奮した。また、強いサピア=ウォーフ仮説にのっとったような、言語習得に伴って主人公に起こるある決定的変容、というプロットも(その変容の描写も)上手いな、と思う。しかし、ネタバレ全開になるけど、異星人との接触によって地球人とは違う時空間構造のなかを生きるようになる、というアイデアについていえば、カート・ヴォネガットの諸作品におけるトラルファマドール星人のそれを思い起こさずにはいられない。しかも話の落とし所もちょっとそういうところがある。So it goes.というやつだ。あらかじめ未来がすべてわかっていたとしても、もしかしたら異なる未来を歩きうるとしても、世界がそうなっているからには、そうすることをためらわずに選ぼう。それが悲壮なものであれ幸福なものであれわたしはそれを選ぶのだ、と。ニーチェ流の永劫回帰に対する絶対的な肯定というか。ただヴォネガットスラップスティックなユーモアの奔流のなかにこのメッセージを忍ばせるのに対して、チャンはいささかメロドラマめいた叙情性を通じて、露骨に語り手に吐露させてしまう。というとけなしているように聞こえるかもしれない。しかしドラマとしてはかなりよくできている。あらゆる要素が最後のイェスに集約されるために組み立てられていて、その緻密さには舌を巻く。うーん、しかし、ウェルメイドなメロドラマ(というかホームドラマ)のパーツパーツがSF的なギミックに置き換えられている感じがしてなにか食い合わせが悪いように感じる。これを食べづらい材料をおいしく料理した逸品、と思う人もいるかもしれないが、しかし。

 このメロドラマ性とSF的(というか「理系的」)なギミックの組み合わせが持つやな感じが最も押し出されているのは「ゼロで割る」だと思う。19世紀末~20世紀初頭にかけての数学のいち大転換(いわゆる不完全性定理ヒルベルト・プログラムの挫折)の歴史的記述に導かれるように、とある夫婦の終わりが語られる。妻である数学者は、この学問の正当性を根底からゆるがすある証明を発見してしまったのだが、数学にほとんどすべてを献身してきたがゆえに、日常生活を支障をきたすほどに衰弱してしまう。妻の失望があまりにも本質的であるために、夫が妻を支える術はもはやない。それで離婚に至るだろう会話がはじまるところでこの物語は終わるのだが、正直なにを言いたいのかわからない。たしかに自分の信念を支えてきたものを自ら否定してしまうというのは親殺しのようにむごく絶望的なプロットなのだが、彼女はそのような発見をするような天才であるにもかかわらず、その発見を乗り越えるほどの知的好奇心を持ちあわせていないという点でなにかその人物像はいびつであるように思える。それほどまでに彼女の発見が決定的だったということだろうが……。ひとつの学問を殺してしまうような直観を持ちながら、ひとつの学問を自ら殺してしまったことを受け入れきれない、という意味では主人公の苦悩はきわめて人間的ではあるのだが、そうするとこの作品が描いているのは人間の責任能力の限界であって、数学という学問に象徴される知性や理性の限界ではない。そう考えてしまうと、理系的な要素として挿入されるエピソードも通俗的なメロドラマの一種にしか見えなくなるし、結果として物語としてはあまりにもくどすぎるものになる。SF的ギミックがメロドラマに新鮮な息吹を吹き込んでいた(あるいはSF的アイデアにメロドラマとしてのストーリーテリングの完成度を接続した)という点で表題作のほうがずいぶんと完成されている。というか、不完全性定理以後の数学には美が消えてしまったとでも言いたげな作者の覚書にはちょっと辟易させられた。数学は不完全なので全部幻で妄想にすぎない、というのはあまりにもナイーヴなのでは?

 と、これら2作品をこんなふうに評してしまうとテッド・チャンが嫌いであるかのように思われそうだが、ものすごく好きな作品もある。たとえば「理解」は、脳のリミッターを外した中二病患者がぐんぐん能力を拡大していって、「全盛期のイチロー」も真っ青なスーパーマン化してゆく、ほとんどスラップスティックな描写が炸裂している。“Understand”という原題が使われるタイミングも見事。しかしこれを説明的に訳してしまうとインパクトが薄れそうだから、訳者の人は困ったろうなあ、と思う*1。20分くらいのショートフィルムにして撮ってほしい。また、「七十二文字」の遺伝子工学錬金術をかけあわせたような科学の世界はぞわぞわ、わくわくする。なにがなにのアナロジーで、どういう意図がこめられていて… などということを考え始めると止まらないのだが、現実世界に変に結び付けず、主人公は彼の世界のなかで選ぶべき独創的な技術を生み出そうと歩み出して終わるのがまたいい。「バビロンの塔」のファンタジー描写もたまらない。オチはとってつけたようなところがあり、「ゼロで割る」と相通ずるやだみが感じられるけれど、描写は圧倒的だ。「地獄とは神の不在なり」も天使の降臨が日常茶飯事となった世界で繰り広げられるひとつの群像劇という設定がすごく面白かった。神学的にどうこうはわからないが、聖書で描かれるような奇跡がほんとにしょっちゅう起こってたらどんなことが起こるのか、という思考実験が、よく物語に生かされている。「顔の美醜について」も、かわいらしいじゃないですか。こんな作品ばっかりだったらアレだけど。NHKでドラマ化してほしいね。

 とまあ作品集のなかでも「これはいい!」というのと「これはどうなの?」というのが入り混じっている、というのが率直な感想だ。本人もある程度意識しているだろうが、文学ではなく科学を手にしたボルヘスとでもいうべき想像力とファンタジックな情景描写は、これは凄いものだ。スーパーマン描写というのも、ある意味「記憶の人、フネス」を彷彿とさせるところもなきにしもあらず。しかしボルヘスがするような後味の悪い、薄気味悪い読後感を残すようなことがあまりないのが不満で、それは上で述べたようにこの人にはウェルメイドなドラマを書く才能があまりにも大きすぎるということに尽きるのではなかろうか。知らんけど。

*1:主人公に対峙するライバルは、主人公とのバトルで一言“Understand”と発する。すると主人公は、ライバルが巧みに自分の記憶のなかに埋め込んでいった伏線の意味をすべて「理解」し、そのために敗北してしまう。ここの一言は命令形で訳するのがもっとも文脈にそっているのではないかと思うのだが、原文にきちんとあたったわけではないので寝言です。

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ヴェイパーウェイヴのアイロニー、その裂け目――猫 シ Corp《NEWS AT 11》(2016)からひもとく

 ヴェイパーウェイヴが2017年現在いまだ死なず、むしろ根強い人気を誇っているという事実は、実のところなかなか信じがたいところがある。メディアがつくりあげるハイプを露悪的にパロディ化した、よくあるインターネット・ミームだと思っていたのに。僕はけして熱心なウォッチャーというわけではないが、ふと思い立ってチェックしてみると、いまだにコンスタントに新譜が登場していて、あろうことかある種の洗練さえ感じさせる出来の作品にしばしば出くわしてしまう。方法論的に言って、ヴェイパーウェイヴは出現した段階ですでに完成されていたと思う。だからこそ長続きする音楽ジャンルになるとは思えなかったわけだけれど、意外にもその美学(しばしば全角英数字ないしスペース入りの半角英数字で“Aestetic”と綴られる)は広く拡散・浸透し、多彩なサブジャンルを生み出すことにもなった。とはいえ、この記事ではその歴史とか全貌とか現在をどうこう言いたいわけではない。ひとつの作品を出発点に、少し考えてみたいことがあるのだ。

もくじ

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「誰でもミュージシャンになれる」

 身体のジェスチャを通じて音楽を演奏できる、KAGURAというシステムが発売になるらしい。自分は使ってみたいとは思わないにせよ、おもしろい試みではある。使い方次第ではステージ上のパフォーマンスがよりいっそう派手になるだろうし、こうやってパッケージングされることで、オーディオ・ヴィジュアルなパフォーマンスに対する敷居を下げることにもなるだろう。

 しかし、公式サイトなどに掲げられている、「PCとカメラさえあれば、アプリをインストールするだけで誰でもミュージシャンになれます」というウリ文句には、若干閉口してしまう。

https://gyazo.com/707ab4e90c663d0c21a590c176d2e6eb

 ミュージシャンになるだけだったらPCだけで十分だ。KAGURAを使うとなったら、PCとウェブカムを用意して、ソフトをインストールして、設定をこなし、そしてわざわざ身体を動かさなければならない。なんでそんなめんどくさいことをしなくてはならないのだろう? 細かい揚げ足とりかと思われるかもしれないが、これは真剣な話だ。それで提供される「演奏体験」は、「ミュージシャンになりたい」という人にとって満足いくものなのだろうか。いや、こればかりは実際に体験してみないとわからないけれど。

 それでも僕は、パーカッションのひとつでも買ったほうがいいんじゃないかと思う。PCを立ち上げる必要も、カメラのキャリブレーションも必要なく、ふと思ったときに手にとって、鳴らすことができる。マラカスひとつあるだけで、カウベルひとつあるだけで、じゅうぶんミュージシャンシップを楽しむことができる。そしてなにより、僕らにはこの身体があり、声がある。KAGURAを買ってまだるっこしい「演奏」をするくらいなら、マイクを買って歌声を録音したほうがいいだろう。

 これは極論であるとしても、たとえばテノリオンであったり、オタマトーンであったり、カオシレーターであったり、斬新なUIを通じて簡単でなおかつ優れた演奏体験を提供してくれるガジェットはたくさんある。電池駆動のカオシレーターを前にして、「PCとカメラさえあれば、アプリをインストールするだけで誰でもミュージシャンになれます」なんて胸を張って言えるだろうか?

 とはいえ、このソフトを単にくさしたいわけではない。マーケティングの方向として、それは違うんじゃない? と思うのだ。

 最初にも書いたように、可能性もたくさんある。複雑なプログラミングなしでモーションコントロールを導入できるということは、オーディオ・ヴィジュアルなパフォーマンスに興味はあるがプログラミングはどうもな、という人にひとつの選択肢を与えることになる。あるいは、教育の現場などではこういった身体を動かして演奏ができる仕組みというのはとても活用しがいがあると思う。しかしやはり、なにか楽器をやってみたいと漠然と思ってるけど、練習が大変で、といった人に対しては、このソフトはなかなかリーチしないと思う。なんでそんなウリ文句を選んだのかよくわからない。ただでさえPCなんてめんどくさいトラブルのかたまりなのに。

 個人的に、こういう「誰でもミュージシャン」系のガジェットやソフトでとても感心したのはPropellerheadsの出しているFigureというiPhone/iPadアプリだ。値段も無料らしい(以前数百円だった気がするけど)。

 細かい打ち込みはできない代わりに、ちょっといじって馴れてくると、とたんに多彩なビートパターンを直感的な操作でつくりだすことができるようになるし、カオシレーターふうにメロディも演奏できる。録音機能も充実しており、簡易的なミックスもできる。なにより、「演奏」と「プリセット」の配分具合が絶妙なのだ。デフォルトのまま鳴らしっぱなしにしてあちこちいじっているうちに、自然とそれっぽい音楽が出来上がってくる。これは他のどのアプリとも違う触感があって、楽しい。

 とりとめのない文章になってしまったけれども、やはりどうしても言いたいのは、PCとウェブカムなんか用意しなくても誰でもミュージシャンになれるだろ、ということだ。ソフトを売らんがためのそういうお為ごかしはひとのためにならないと思う。なんていうことを思うのは、DIY精神に神経をやられてしまっている人間の性なのだろうか。でも、音楽に親しむための第一の条件は、なんにもないところからでも音楽は生まれるし、音楽を楽しむことができる、という確信を抱くことにあると思う。

 ノンミュージシャンによるポップ・ミュージックの金字塔、フライング・リザーズ。あらゆるファンクネスを捨て去った果てに謎のポップネスだけが残ったSex Machineのカヴァーも秀逸だ。

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ノーバート・ウィーナー『人間機械論 第二版 人間の人間的な利用』鎮目恭夫・池原止戈夫

人間機械論 ――人間の人間的な利用 第2版 【新装版】

人間機械論 ――人間の人間的な利用 第2版 【新装版】

 ノーバート・ウィーナーが1950年にサイバネティクスの概要について一般向けに書いた本で、技術的な話題よりもその思想的意義を説くものになっている。この邦訳は第二版、1954年に執筆されたものが底本だ。19世紀末から20世紀にかけて物理学に起こった大きな方向転換を端緒として、エントロピーという概念を鍵として情報工学や通信理論の発展を論じ、そこから人間の本性までをも考察するに至る。とはいえウィーナーが取り上げているのは比較的素朴な、20世紀なかばに既に充分実現していた技術にとどまっていて、極端な大風呂敷を広げているわけではない。たとえば、通信理論に基いて信号の伝送経路を最適化するように、社会制度もまた情報をどのように流通させるか、すなわちコミュニケーションの通路を良好に保つためにはどうすればよいかという観点から再設計可能である、といった発想には、むしろゼロ年代アーキテクチャ論にも通じる見通しの良さがある。

 興味深いのは、「コミュニケーション・機密・社会政策」と題された第七章で、機密主義に陥りがちな軍事研究が長期的に見て人類全体に有害であると論じている部分だ。要するに、開発した技術はどんどん公開するべきであって、利用を妨げてはならないのだという。本書が書かれたのが第二次大戦後冷戦体制が強化されつつあった1950年であったことを考えると、この主張はいま想像するよりもずっと大胆なものだったのではないだろうか。

繰り返すが、生きているということは、外界からの影響と外界に対する働きかけとの絶えざる流れの中に参加しているということであって、この流れの中でわれわれは過渡的段階にあるにすぎない。いわば世界の有為転変に対して生きているということは、知識とその自由な交換の絶えざる発展の中に参加していることを意味する。多少とも正常な状況の下では、われわれにとっては、そのような適切な知識を確保してゆくことは、ある仮想敵国にそれを持たせないようにすることよりも、はるかに困難であるがはるかに重要なことである。軍事研究所というものの仕組み全体は情報をわれわれ自身が最も有効に使用し発展させることに相反する線に沿っている。(p.128)

 ある研究に軍事研究というレッテルがつけられると、とたんにその成果は部外者から閉ざされてしまう。それだけならまだしも、機密主義が徹底された結果として、別の部門で得られた成果を他の部門で応用するということもできなくなって、いわば「車輪の再発明」をせざるを得なくなることさえある。最近日本でも軍事研究予算が拡大され、大学がその獲得に躍起になるやら抵抗するやらと騒々しいけれど、根本的な問題として、軍事研究という制度がアカデミズムと相反するものである点に留意する必要があるだろう。暗号解読に関するアラン・チューリングの業績が、その内容の機密性ゆえにしばらく一般には知られていなかったことを思い起こすと、看過できない問題ではないだろうか。

 もう一点興味深かったのが、芸術に対する言及だ。第八章は「知識人と科学者との役割」という題が付されていて、その内容はというと、アカデミズムの世界が若い科学者に対して適切なキャリアパスを描けていないことに対する批判になっている。知的好奇心に突き動かされて然るべき若い科学者が、形式的な業績を積むためにルーチンワークのように論文を書いているのは嘆かわしいことだ、と。ただこれは科学にかぎったことではなく、芸術においても同様だとウィーナーは言う。ウィーナーは、なにか新しいことを言うためにではなく、既存の権威を強化したり、あるいは当面の需要をとりあえず満たすためだけに行われるような、おざなりなコミュニケーションには価値を認めない。なぜかといえば、芸術であれ科学であれ、それはエントロピーの増大という自然の傾向に抗って、新しいものを生み出すことを使命としているからだ。

何派であろうと美を独占することはできない。美は、秩序と同様に、現実世界の多くの場所に現れるが、エントロピーの増大の巨大な流れに抗する局地的で一時的な戦いとしてしか現れない。(p.142)

 この一節はどこか、ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリの最後の著作『哲学とは何か』を思い起こさせる。

思考の定義、あるいは思考の三つの大きな形態、すなわち芸術、科学、哲学の定義とは、つねに、カオスに立ち向かうこと、カオスのうえに或る平面を描くこと、或る平面を描くことである。(『哲学とは何か』財津理訳、河出文庫、p.332)

 もちろんウィーナーが秩序から無秩序へと至るエントロピーの増大という時間的な枠組みに準拠していて、それに対してドゥルーズガタリが相手どるカオスはそうした漸次的な変化も受け入れない絶対的なカオスなのだとは思うけれど、ドゥルーズガタリがウィーナーを知らなかったとは思わないし、なにかアイデアのきっかけにはなったのかもしれない(あるいはルーツが同じか。e.g.熱力学とか)。

哲学とは何か (河出文庫)

哲学とは何か (河出文庫)

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