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若尾裕『サステナブル・ミュージック これからの持続可能な音楽のあり方』(アルテス・パブリッシング、2017)

サステナブル・ミュージック これからの持続可能な音楽のあり方

サステナブル・ミュージック これからの持続可能な音楽のあり方

  • 作者: 若尾裕,桑原紗織
  • 出版社/メーカー: アルテスパブリッシング
  • 発売日: 2017/06/26
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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 今年の6月に公開された、元KORGの高橋達也氏へのAphex TwinことRichard D Jamesによるインタヴュー(そう、インタヴュアーがAphex Twinなのだ)で熱心に語られた話題のひとつが、KORGシンセサイザーmonologueに搭載されたマイクロ・チューニングのことだった。かんたんに説明すると、マイクロ・チューニングとは、微分音――半音よりも小さな音程――を含む音律をユーザー自ら設定できる機能のことだ。いま僕たちの身の回りにある音楽のほとんどすべては、1オクターヴを12等分した平均律という音律に基いて作曲されている。では、なぜAphex Twinはそこからの逸脱を望むのだろうか。

 若尾裕『サステナブル・ミュージック これからの持続可能な音楽のあり方』(アルテス・パブリッシング、2017)に収められたエッセイを紐解くと、それが単なるアーティストの気まぐれや妄執にとどまらない問題の射程をもつことがよくわかると思う。18世紀後半に平均律とほぼ並行して確立した(というか平均律の誕生によってはじめて本格的に可能性が花開いた)、調性の概念や和声法といった技法は、私たちをとりまく音楽をいまだ形式の面から規定し続けている。そればかりではない。調性や和声法の発展を支えたイデオロギーは、むしろより俗化し、強固なものになっているとも言える。本書で用いられていることばで表現するなら、そのイデオロギーとは、《音楽による情動の管理》ということになるだろう。すなわち、メジャー・キーの音楽では楽しくなって、マイナー・キーの音楽では哀しくなる、あるいは、特定のコード進行を聴くとヤバいくらいエモくなる、等々。それは単なるポップ・ミュージックのテイストの問題ではない。このイデオロギーは、現代を生きる私たちにとって、深く身体化されてしまっているのだ。実際、ミューザックの例を出すまでもなく、音楽を通した情動の管理は、日々の暮らしに介入し、私たちの身体や精神のあり方に深く影響を及ぼしている。

 本書において一貫しているのは、前述したようなイデオロギーへの違和感の表明であり、「その後」の音楽のあり方を模索するための思索だ。本書は、近代音楽史からポップ・ミュージック、あるいはサウンド・スケープ論をはじめとする聴覚文化論から音楽療法、そして音楽をめぐるエコ(ロジー/ノミー)システムに至るまで、幅広いテーマを扱う。そのバラエティの豊富さは、臨床音楽学というわりあいに学際的な領域を専門とする若尾ならではの視点によるものだろう。書名にもなっている“サステナブル・ミュージック”とは近年になって応用民族音楽学という新興の分野から提唱され始めた概念だという。そこで問題にされるのは地球環境をめぐる持続性であり、経済的な持続性でもあるのだけれど、それだけにとどまらず、既存のイデオロギーを乗り越えた後に広がる風景を考えるためのキーワードとして、本書の問題意識とよくマッチしている。

 どのエッセイも印象深く、出て来る固有名詞を列挙するだけでも(たとえばThe Shaggsに割かれた一節もある!)その内容の豊かさは保証できるのだが、いかんせんそのすべてを紹介するわけにはいかない。なかでもとりわけ印象的なのは、デレク・ベイリーに捧げられた追悼文だった。全体から見ればささやかな小文かもしれないが、著者のアティチュードがよくあらわれたエッセイであるように思う。

 第3章の4節に収録された「デレク・ベイリー」追悼で取り上げられるのは、フリー・インプロヴィゼーションの追究者としてのストイックな姿勢と、運動ニューロン疾患を発症して以降の彼の足跡だ。デレク・ベイリーは、既存のあらゆるイディオム(音楽的なボキャブラリー)に依存することのない、純粋な即興演奏を目指したギタリストだった。しかし彼は病に侵され、次第に身体の自由が効かなくなる運動ニューロン疾患を発症し、2005年に亡くなった。若尾が注目し、そして賛辞を送るのは、ピックを持つこともままならなくなったベイリーが、ギタリストとして選んだ方法だった。若尾が述べるように、病や障害によって身体の自由を奪われた演奏家が、それを克服してみせるという逸話はけっして少なくない。しかしベイリーは、病を克服して演奏生活に復帰することではなく、病に侵されたその身体にあわせて、新たな奏法を編み出し、実験し、探求し続けることを選んだ。音楽に対して身体をアジャストするのではなく、身体にあわせて新しい音楽をつくりだす。そこには、病を喪失として捉え、芸術を通してその喪ったものを取り戻すといったかたちのナラティヴは存在しない。むしろ、新たな可能性を開くものとして病があるかのようでさえある。

 ベイリーのエピソードは、外部から押し付けられた近代的な音楽のボキャブラリーから自分自身を解放することの意義を、考えさせてくれる。そのストイックさは、病との付き合い方さえも変えてしまう。本書で若尾はしばしばフーコーの中後期の著作から借りた「生政治」(大雑把にいえば、人間の生や身体の領域にまで及ぶ権力形態)という概念を用いるが、演奏家としてのベイリーの選択は、生政治的な権力を乗り越えた個のあり方を示そうとした、後期フーコーの問題意識に通底するようにも思える。病に侵されたベイリーにおいては、新たな生の様式を発明することと、新たな音楽を産み出すことがほとんどイコールで結ばれるのだ。

 翻ってAphex Twinとマイクロ・チューニングに目を向けなおしてみると、平均律から脱して自分の音律をつくりだすことも、《音楽による情動の管理》というイデオロギーに対する抵抗のひとつのかたちと言えなくもない。とりわけ、Aphex Twinのように、ダンスミュージックという身体性の強い音楽においてそれを実践することは、単なるギミック以上のものを意味するように思える。とりわけSyro以降の諸作の、過剰なセンチメンタリズムから離れて、音と自在に戯れてみせるかのような音色やメロディラインに特にそれを感じる(あるいはAFX名義だともともとそんな感じではあったのだけれど)。

 ちなみに、ごく個人的な意味でこの本から得た最大の収穫は、アンフォルメルのキーパーソンであり、アール・ブリュットの名付け親であるJean Dubuffetがテープ音楽を手がけていたことを知れたという点にある。実際にその作品を聴いてみると、アンフォルメル期のDubuffetの絵画をそのまま音楽化したみたいな曲もあって、非常に面白かった。その音楽は徹底的にローファイで、緻密にプロセスされたミュジック・コンクレートやケージなんかのコラージュ的なテープ作品なんかとは違う、愛らしさがある。自身の展覧会にあわせて発表されたテープ作品《Music pour Coucou Bazar》はApple Music / iTunes StoreSpotify上でも聴くことができる。

ちなみに先日monologue買っちゃったんですが、めっちゃ良いシンセです。ステップシーケンサーがよくできてて、さくさくっとかなりアシッドっぽい音が出せます。まだ使いこなせてないけど! また今度記事書きます。

Carpal Tunnel

Carpal Tunnel

Coucou Bazar

Coucou Bazar

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リリック・ヴィデオ、音と記号のあわい――環ROY“ことの次第”MVを見る

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なぎ

なぎ

 先月、4年ぶりのニューアルバム《なぎ》をリリースした環ROYの“ことの次第”のミュージック・ヴィデオが公開されていた。ざらざらとした手触りの画面のなかに、糸くずやあるいは微生物のような細長い物体が漂い、ふと言葉を結んでは解けていく非常にミニマルな作品だ。言ってみればこれは昨今すっかりありふれたリリック・ヴィデオの類とも受け取れるかもしれない。しかしこの作品はふつうリリック・ヴィデオが果たすべき機能とは違うなにかを見せている。

リリック・ヴィデオの機能

 世界で初めてのミュージック・ヴィデオ、と称される映像作品は多くあるが、そのひとつにBob Dylanによる“Subterranean Homesick Blues”(1965)がある。見てわかるとおり、この作品はリリック・ヴィデオの原型と言って良い。

 2000年代以降のリリック・ヴィデオとは制作背景も流通過程も異なるとは言え1、このヴィデオはリリック・ヴィデオが果たす役割を端的に示している。めくり捨てられる一枚一枚のカードは、立て板に水のように流れていくDylanの歌に打ち込まれた韻という楔を、視覚的に強調する。つまり、音声として流れ過ぎ去っていく歌を書かれた言葉として画面に定着させることで、その作用を露わにしようとするのだ。

 あるいはJusticeの“D.A.N.C.E.”(2007)では、歌が言葉となり、言葉がイメージとなることによって、ともすれば聞き流されてしまう歌詞の内容をヴィヴィッドに見る者に伝えようとする。ここでは、歌詞の持つ意味作用を定着させ、増幅させることがリリック・ヴィデオの果たすべき役割となっている。

 リリック・ヴィデオの普及が本格化する2010年以降の諸作品においては、より単純に歌詞を画面に表示することに終始するものも少なくないとはいえ、基本的な役割は、歌という音声を書き言葉に翻訳することにあるといっていいだろう。それによって、視聴者は歌の意味についてより正確な理解を得る、というところだろうか。

歌の力と言葉の力

 しかし、問題はそこにある。僕たちは極めて安易にも、歌の力と言葉の力を混同してしまうのだ。

 歌詞として書き下された文章は、あくまで歌の骨格でしかない。Corneliusの“あなたがいるなら”レビューで書いたように、たとえテクストとしての歌詞を丸暗記していたとしても、歌のマジックはつねにそれらの言葉を驚きとともに聴く者に提示する。テクストとして書き下された歌詞の支えがない場合はなおさらだ。ちょっとしたノイズのように思えた掠れた声が歌の一部であったり、あるいはたんなるハミングかと思われるような声の流れがメロディによって引き伸ばされたひとつの言葉であったり、途切れたと思った言葉が再び線をなし意味を結び始めたり、そういった運動を歌詞は記録していない。

 環ROYが“ことの次第”で描き出すのは、歌と言葉のあいだに結ばれるこの微妙な距離と、そこに生まれる運動にほかならない。

鳴き声は整理され声に変わる/意味は時と場を僕らに与え/時と場は物語を紡いでる

 あるいは、

二つの拍 繋がりを持った/言葉は音楽へ変わった/そして音に戻り 時と場に融け/時と場は 物語を紡いでる

 これらのラインが物語る通り、音/声/言葉/意味/物語は、互いに融通無碍に絶え間なくその姿を変えていく。注意したいのは、この詞においては、音を最も低次として物語を頂点とするヒエラルキーが想定されているわけではない、という点だ。たとえば音はひととびに意味を成しうるし、物語は一瞬で音へと還ってゆく。フックに現れる五つの母音はそれを象徴しているかのようだ。この五つの母音は、音響的な処理をほどこされることによって、トラックを構成する音のようにも、遠くから響く物言わぬ声のようにも、あるいは「あいうえお」という現代の日本語話者には極めて馴染み深いひとつのシーケンスのようにも響く。

 そして、“ことの次第”のミュージック・ヴィデオがいわゆるリリック・ヴィデオと一線を画しているのは、歌詞を言葉として定着させるのではなく、まさにこの抽象的で曖昧な運動を視覚化している点にある。

幻視される言葉とその残像

 荒いかすれたノイズを含んだ8mmフィルムのようでもあり、それでいてブロックノイズの残る低解像度のMPGのようでもある映像の中に漂う、生命のようにも単なるブラウン運動のようにも見える白い粒子。ヴィデオ全体を通底するこのトーン自体が、グリッチ的かつ有機的な響きを持つ“ことの次第”のトラックに呼応している。画面じゅうを動き回るこれらの粒子はひものように伸び縮みしながら環ROYの発する言葉をトレースし、あるいは先回りして視覚化する。言葉をすべておいかけるでもなく、粒子の奔放な動きそのものが視覚的な快楽を満たしてくれる。

 粒子の微細な振動が像を結び、記号となり、散っていく。それは歌を視覚的な文字記号に還元してしまう通常のリリック・ヴィデオの機能とは反対に、ひとことひとことが明瞭に発せられる環ROYのラップを、トラックという音の渦のなかに融解させるかのように機能する。また、僕たちは、飛び交う粒子たちのなかに、言葉になる寸前の図像を幻視しもする。耳が捉えた音声イメージが画面に投影され、そこに存在したかどうかも定かではない言葉の姿を、不意に捉えてしまうのだ。

 このヴィデオを見、そして聴くという経験はきわめて錯綜した感覚を産む。あるときには、聞き取りそこなった言葉がイメージによって補完され、またあるときには、耳の中に飛び込んでくる言葉がイメージに投影され、目に焼き付いてしまった残像は、あたかもその言葉=イメージをしかと目にしたかのような錯覚を生じさせる。音/声/言葉/意味/物語という様々な状態を自在に横断するイメージ/音響。それはミュージック・ヴィデオがしばしば目指す共感覚的ヴィジョンの提示というよりも、音と記号とのあいだにたゆたい、ときに引き裂かれる「歌」の視覚化と言った方がいい。

ミュージック・ヴィデオの「共感覚的」な側面を進歩させた立役者は数多くあげられるだろうけれど、その筆頭は間違いなくミシェル・ゴンドリーだろう。

 こんなこと僕が言うまでもないことかもしれないが、“ことの次第”のミュージック・ヴィデオの、一見地味でミニマルな装いのなかに秘められた豊かな経験を、じっくりと味わって欲しいと思う。


  1. ありていにいえば、00年代以降、もっとわかりやすく言えばYouTube以降に普及したリリック・ヴィデオは、通常のミュージック・ヴィデオを撮影するよりも低コストに制作できる、便利なプロモーション手段という側面を持つ。しばしばリリック・ヴィデオは正式なミュージック・ヴィデオの公開に先駆けて披露される「つなぎ」の役割を担っていて、ソーシャルメディア上のバズを維持するために重宝されているのだ。

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ミレニアル世代は優れた(ネット・)サーファーなのか?:うんざりするような若者論へ、『蒸気波要点ガイド』を添えて

gqjapan.jp

 ほんの数百字の短い記事だが、もう、なにもかも、まるっきりうんざりする記事だ。「過去が縦軸から横軸になった時代」だの、「どんな音楽にも分け隔てなくアクセス」だの、「広大なアーカイブの海を巧みに泳げる」だの……そしてとどめにはこうだ。

そしてもしかしたら、マンチェスターの中学生がフジロックのサチモスの動画で音楽に目覚めるかもしれない。エキサイティングな時代になった!

 このライターはどこまで本気でこれを書いているのだろうか。言っておくけど僕は「そんなことはありえない」と言いたいわけじゃない。「そんなことはあまりにもありふれている」からこそ、このライターの正気を疑うのだ。90年代にインターネットの夜明けを目撃した人々が抱いた過剰なオプティミズムがいま突然冷凍睡眠から目覚めたみたいな、そんなアナクロニズムにまみれた文章だ。これとそっくりそのまま同じ文章が00年前後のカルチャー誌に載っていても僕はまったく不思議に思わない(当時はYouTubeのようなインターネット上の動画インフラはまだ成立していない、という客観的事実を除けば)。

 あらゆるものごとがフラット化していくらでも自由にアクセス可能となり、既存のヒエラルキーを打ち破る。このような「革命的」で「斬新な」スローガンは、実のところ掃いて集めたらもうひとつお月さまができるくらい吐き散らかされてきた。「ジャンルを横断する」? おお結構。「No Walls Between Music」? まさに真理だ(というかこれは信仰のようなもので、僕は死んでも否定したくはない)。けれどもそれはこのライターが讃えるような「ミレニアル世代」――ざっくりと言えば、日本でいうゆとり世代以降――の持つ独自の精神などではない。このスローガンの起源はお望みならグーテンベルクの時代に、あるいは百科全書派の時代に、または産業革命の時代に、さらには電気の時代、電子の時代、ネットワークの時代に、それぞれ求めることができるだろう。しかしそんな大風呂敷を拡げなくとも、少なくともインターネット以降の感覚で言っても、「エキサイティングな時代」などとうの昔にベッドルームにやってきていたはずだ。

メディアはマッサージである: 影響の目録 (河出文庫)

メディアはマッサージである: 影響の目録 (河出文庫)

 ライター曰く「広大なアーカイブの海を巧みに泳げるのがミレニアル世代の特徴」だそうだ。しかし、ミレニアル世代はそんな全能感からは程遠いところにいると思う。むしろ彼/彼女らの大部分は、狭く喧しいSNSのエコー・チェンバーに閉じ込められ、かろうじてSNS上のフィードにサムズ・アップすることによってのみ安息を得ているのではないか。僕の言うことがあまりにもペシミスティックでディストピア的だと感じられるなら、「アーカイヴの海」を自由に泳ぎ回る若者たちなんていう表現も、それと同じくらいオプティミスティックでユートピア的なおとぎ話にすぎない。

 インターネットに伝わるいにしえの言い回しに、「ネット・サーフィン」というのがある。インターネット上のウェブサイトをリンクからリンクへ気ままに辿ってゆく優雅な時間つぶしのことだ。もはやこの言葉が使われなくなって十年は経つだろう。インターネットに触れるインターフェイスは、コンピューターのスクリーンからスマートフォンのタッチパネルに変化した。また、ブログの隆盛以来、そうしたインターフェイスを通して覗くウェブサイトも、静的に構築されたコンテンツから、絶え間なく更新されるSNSのフィードへと変化した。もはや僕たちはどこへ導かれるかもわからないネットワーク上をサーフするスリルを忘れ、終わることのないタイムラインをぼんやりと眺めることに慣れてしまっているのかもしれない。

 果たしてミレニアル世代に広大なネットワークの海をサーフする筋力は残っているのだろうか? あるいは、そのネットワークはサーフするに値する「いい波」を僕たちに提供してくれるのだろうか? たしかに、TwitterInstagram、Snapchatを操りながらタイムライン上の情報を華麗に編集し、我が物とするたくましさを人々はまだ失ってはいないし、この技巧はまさに情報をブリコラージュし生活を構築する「日常的実践 Art de Faire(ミシェル・ド・セルトー)」の現代版だと言える。しかしそれはSNS以前の人々がインターネットの向こう側に幻視した、あらゆるヒエラルキーの消失した「アーカイヴの海」を舞台とはしていない。わざわざ古めかしい海の上へと漕ぎ出す人々なんて、今更いるのだろうか?

日常的実践のポイエティーク (ポリロゴス叢書)

日常的実践のポイエティーク (ポリロゴス叢書)

 Suchmosがそれだ、と言いたいひとはたくさんいるだろう。それをわざわざ否定したいとも思わない。しかし運良くきょう届いたばかりの佐藤秀彦・編(?)『蒸気波要点ガイド』をめくっていると、「ジャズとロックのクロスオーバー」ごときが霞んで消えてしまうほどの広大な「海」がこのZINEのなかに封じ込められているように思えてならない。いつ途絶えるともしれないVaporwaveというジャンルの命脈は、ミレニアル世代が喪失した「すべてがフラットな情報の海」という輝かしいユートピアへの羨望と、そのユートピアの不可能性を笑い飛ばすようなシニシズムとによって支えられている。僕を含めたミレニアル世代は「波」を、そしてその母たる「海」を再発明しなければならない。Vaporwaveはその名が奇しくも示している通り、インターネット上にふたたびもたらされたひとつの「波」であって、その母はまさにインターネット上に漂う情報の断片たちの織りなす「海」だ――ただし、その海は豊穣とは無縁の空虚とほとんど変わらない。

 ともあれ、Vaporwaveに限らず、SNS時代以降に真面目に文化をつくることを考えるのならば、失われた海に思い切ってダイヴする勇気か、海そのものを再発明する大胆さか、そのいずれかが必要なのではないかと思う。まあ、そのどちらを選ばずとも、気がつけば文化は自然に育まれるものではあるのだけれど。

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レコーディング・エンジニアが詩人になるとき――『Re/P』1971年11・12月号から

www.americanradiohistory.com

 上に掲げたリンクは、Recording Engineer / Producer(略称・Re/P)といって、1970年から92年にかけて発行されたレコーディング技術に関するアメリカの雑誌をアーカイヴしたものだ。ほんの数冊をのぞいてほぼ全てがPDF化されており、歴史的資料として非常に興味深い。めぼしい記事はないかと目次を眺めていると、奇妙なコンテンツを見つけた。1971年11・12月号の目次にはこうある。

Poem: “THE ENGINEER” 14 Claude Hill

 詩って…… 詩が載るの? レコーディングエンジニアが読む雑誌に? Re/Pの提供する記事はきわめて専門的で、しばしば電気工学の知識が必要な記事もある。実際、以下のように、「エンジニア・オブ・ジ・イヤー」とか「位相と単独のマイクロフォンについて」とか「ソリッド・ステイト・スウィッチングについて」みたいなコンテンツが並ぶ中、唐突に現れる「ポエム」はちょっと異様だ。

https://gyazo.com/150672e879f30a3627a46d246c8f2e0b
目次ページ(部分)。上から二番目の項目に「ポエム」が見える。

 果たしてこの「ポエム」はどのようなものなのか。ポエムという名の技術的ノウハウがなにかあるのか、それともエンジニアという職業をめぐる考察を主としたエッセイだったりして。と思って誌面をめくってみたところ、

f:id:tortoisetaughtus:20170630001257j:plain

 ガチのやつやんか。ページのおおよそ半分を占める、ABABで韻を踏んだ四行連詩。ちょっと拡大してみよう。

https://gyazo.com/6dc613b443680350d21d3ab36a2aae33

 全体が伝えようとする「エンジニア像」は明快だ――すなわち、クリエイターとしてのエンジニア。エンジニアは巧みにコンソールを操り、音の連なりのなかからベストなテイクやフレーズを取り出す。彼の手にかかれば、「ふつうの人々」だって「スター」になれる。それも後世の人々にあなたの類まれな才能を伝えるという使命を背負ってのこと。しかし最後はちょっとしたオチがつく。あまりにエンジニアの手腕が行き届いているせいで、「これ、どうやってライヴでやんの?」とバンドから質問されるハメになるのだ。

 1940年代後半に第2次大戦が終わると、軍用に開発されていた磁気テープへの録音技術はただちに民生化されることになる。しかし、その主な活躍の場ははじめラジオ業界で、とりわけテープならば音質の劣化も最小限に編集が可能であることが強みになった。その後音楽録音にももちろん活用されるようになるが、1960年代に入ると、いわゆる多重録音の急速な進歩1にともなって、たとえばビートルズジョージ・マーティンのようなアーティスト+エンジニア兼アレンジャーがその可能性を広げていくことになる。しかるに、1971年という年はちょうど、ロックも含めたポピュラー・ミュージックにおけるエンジニアの存在感が増していくただなかにあった。楽器としてのスタジオ、そしてアーティストとしてのエンジニアが切り開く可能性はまだまだ未知ではあったかもしれないが、その変化に思わず筆を執ってしまったのだろうと思う。

 最後に、拙訳ながらこの作品、《エンジニア》を味わってもらいたい。そこには確かな腕の職人としてのプライドが、クリエイターとしての自負へと変わりつつあるさまがありありと映し出されている。

エンジニア

クロード・ヒル
ナッシュヴィル、グレイザーサウンドスタジオ、チーフ・エンジニア
 
エンジニア、顕れしその姿は
    過去も未来も誤ることがあってはならぬ
「テイク」を、あるいはたった一小節を
    絶え間ない唸りから得ることにかけては
 
光り輝く灯りやノブを操り
    彼は奇跡を起こす
彼の機知によって、スターたちへと
    この「ふつうのひとびと」は変身するのだ
 
私はあなたのすべての声に共鳴し2
    そしてのこりを「オーバーダブ」する
記録するのだ、あらゆる未来の人々のため
    あなたに恵まれたその才能を
 
私は瑕どもを「EQ」で始末してやる
    ぜんぶのジャイヴがかたづくと、
私は座ってあなたにこう尋ねられるはめになる
    「これどうやってライヴでやりゃいいのさ?」

レコーディング・スタジオとその設備、空間に着目しながら、1970年代を中心とした名盤に秘められたマジックを紐解いていく名著。音源とともに読み進めると、まさしくレコードの向こうに「スタジオの音」が鳴り響いていることに気づかされる。本記事で取り上げたような、スタジオ・ワークによるクリエイションの可能性が模索されていた時期の記録としても。


  1. 4トラックのレコーダーが普及したのは1950年代末、そこからトラック数は8トラック、16トラックと増え、1970年代には24トラックが標準となった。

  2. ここはもちろん「エコーをかける」と原文にはある。が、詩だもんなあ。と思ってやめた。

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“post-truth”に反対する唯一の手段は。――tofubeats《FANTASY CLUB》をめぐって(B面)

以下の文は、特に何を言われたわけでもなく、先のレヴューに加えてもう一本レヴューを書いてみようかという思いつきから書いてみたものだ(なのでB面)。したがってよりはっちゃけているというか、僕のファンタジーが炸裂しているように思う。そのあたり、ご容赦いただきたい。

何がリアル/何がリアルじゃないか/そんなこと誰にわかるというか
(Tr.2 SHOPPING MALL)

2016年を覆った絶望にも似た状況にこの一曲は良かれ悪しかれ深く響いた。翌年には、この絶望さえ“post-truth”と名付けられるや否やそれ自体消費の対象となり陳腐化してしまい、挙句の果てには恥も外聞もなく嘘をつき、隙きあらば論敵をフェイク呼ばわりすることが政治そのものであるかのような世界が訪れることになる。たとえば一世紀後の作家たちはこのスラップスティックをもとにどんな荒唐無稽な物語を紡いでくれるだろうか。そんなことを想像するくらいしか救いはない。

そんなとき、tofubeatsがリリースしたのは、いわば「祈り」*1のアルバムだ。それはおそらくは宗教的献身を欠く故に、微妙な陰影をたたえてもいる。しかし2曲のチャント――この構成自体が原初的な「祈り」を思わせる――に導かれ、背中をぽんと押されるように終わるこのアルバムは、不思議にポジティヴな力を聴く者に与えてくれる。《First Album》や《POSITIVE》のようなサーヴィス精神旺盛なキャッチーさはなく、むしろ内省的とさえ言えるこのアルバムだけれど、一枚を聴き通したあとにもたらされるふとした身軽さは、もしかするとこれまでで一番明るく、暖かい印象を人に与えるかもしれない。

まるでそれは、tofubeatsの「祈り」が、僕たちにある種の「救い」*2を与えているかのようだ。

しかしtofubeatsの「祈り」は僕たちリスナーに向けられたものではない。ましてや理解を求めてすらいないのかもしれない。たしかに彼は表現者である以上ある程度の理解を求めてはいるだろう。しかしいまそのプライオリティは格段に低いのではないか。そう思える。たとえばそれは、彼の「祈り」のそのささやかさに見て取れる。彼は誰ともしれない「君」やあるいは自分自身に対しての、小さな、しかしかけがえようのない望みを歌詞のなかに織り込んでゆく。身近な人に喜んで欲しい(Tr.2 SHOPPINGMALL)、だとか、君とうまくいきたい(Tr.8 What You Got)、だとか、ラヴ・ソングにも満たないようなささやかな望み。しかし彼はそれを、僕のこの耳で聞く限りにおいて、心から願い、祈っている。

なに、たったそれだけのこと――そういいきってしまえばそうしてしまえるようなこのささやかな心の動きこそが彼にとっていま表現するに足る切実さを持っているのだろう。このアルバムが僕たちに「救い」にも似た軽みを与えてくれるのは、むしろそうしたささやかさに心を研ぎ澄ますことそのものの大切さを、身を挺して提示してくれているからなのではないだろうか。

単純な動きさえ/きっと何かの感情
(Tr.11 YUUKI)

ふとした単純な動きにさえ、なにかの感情を見出すこと。すなわち――ささいなことをささいなことと片付けずに、真摯に向き合うこと。「祈り」とか「救い」といった言葉のうさんくささにうんざりしてしまった人は、そう読みかえてもらってもさしつかえない。tofubeatsがこのアルバムで「祈り」の身振りを通じて伝えようとしていることとは、まさしく、この「祈り」の質、すなわち些細なものへの真摯さそのものであると僕は思う。

それはまた、“post-truth”と名付けられたいまを生きる僕たちに個人として残されたほとんど唯一とも思えるサヴァイヴの方法だ。factの積み重ねと、そこからtruthを生起させる諸々の手続きがなし崩しになって、なにものも信じがたくなったあとに残されるのは、ただ自分の身の回り、手の届く範囲に起こるさまざまなよしなしごとに対して、真摯であろうとすることくらいだ。それはときに内省となり、虚無感とごっちゃになった激情をも生み出すかもしれない(What You Gotの暴れまわるような“夜から朝までparty/窓開けたらめちゃsunny/何を得たのかわからない/取り出して並べてみたい”というラインのように)。しかしそれであれ、フェイクに身を投じてわけがわからなくなってしまうよりもずいぶんマシだと僕は思う。

つまり、tofubeatsがこのアルバムを通じて僕たちに与える「救い」は――そんなものが本当にあるとすれば、だが――その「祈り」から透けて見えるアティチュード、スタイルそのものなのである。たしかに彼はちょっと不安定で、知りたいことや知りたくないことに囲まれ、ショッピングモールを彷徨するひとりの人間にすぎないかもしれない。しかし彼の、些末な事象へ見せる真摯さ、それこそが数少ない今まさに信じうる正しさなのではないか。

「戰争に反對する唯一の手段は」と吉田健一は書く。「各自の生活を美しくして、それに執着することである。」と。実を言うと、この有名な文句に僕はどうも納得がいかなかった。エッセイをまるごと読んでみても腑に落ちなかった。美しさなどという怪しげな概念を平和への賭け金にしてしまうとは。しかし、tofubeatsのこのアルバムを聞いた僕は思わずこうひとりごちてしまった。――“post-truth”に反対する唯一の手段は。その手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである、と。大胆にパラフレーズさせてもらえば、ここでいう「美しくする」とは「ささいな細部まで気を配る」ことの謂であり、「それに執着する」ことだけが、あわよくばフェイクの世界へ足を掬おうと待ち構える世界へ抵抗する手段なのだ。

《FANTASY CLUB》でのtofubeatsの「祈り」は、その実践である。

*1:あくまでカッコつきの、特殊な意味での(あるいはなんの含みもない)「祈り」だ。後述

*2:これもまた大仰に思えるかもしれないが、後述する

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青春を脱ぎ捨てて、イノセンスから遠く離れて――tofubeats《FANTASY CLUB》をめぐって(A面)

以下の文は、tofubeatsからちょっとした小文を依頼されて書いた、《FANTASY CLUB》のレビューである*1。諸々のインタヴューやレヴューが出回る前に書いたものであること(奇遇にも脱稿はWIRED日本版編集長・若林恵氏によるライナーノーツと同日――4月19日である)、本文中に登場する音源等はオリジナルの原稿には存在せず、当ブログに投稿するにあたり挿入したものであることをおことわりしておく。(なお、B面はこちら

はじめに:掛け値なしの最高傑作

少し思い入れの入った変則的なレビューになりそうだから、最初に通り一遍のことは書いてしまおう。

tofubeatsのキャリア4作目、メジャー3作目のアルバムにして、最高傑作が届けられた。これまでになく内省的ではあるが、それゆえtofubeatsというアーティストのあらゆる意味で信頼に足るパーソナリティがむき出しになっている。また、内省的でいながら、バラエティに富んだビートの数々。

YouTube上で発表されて以来、2016年のベスト・ソングに挙げられることも多かった“SHOPPINGMALL”(Tr.2)に対して、KANDYTOWNからYOUNG JUJUをフィーチャーした切なくスロウな“LONELY NIGHTS”(Tr.3)はそのナイトライフ・ヴァージョンとも言える仕上がりだ。もともとは神戸市のU30 CITY KOBEに提供されていた“THIS CITY”(Tr.10)のド直球なメロディアス・テクノも、アルバムいちの長尺をまったく感じさせない。“YUUKI”(Tr.11)や先行シングルの“BABY”(Tr.12)といったバラードも、ポップ・ソングとして普遍的な輝きを放っていると言っていいだろう。アルバムとしてのトーンはジャケットが見せるようにやわらかな水彩画のようにふわりと統一されていて、一曲一曲の粒の揃い方にソングライターとしての成熟をたしかに感じる一枚だ。

しかし、僕にとってなにより印象的なのは、tofubeats自身のヴォーカルだ。アルバムごとに多彩なゲストを迎えてきたtofubeatsが、本作に限ってはとにかく自ら歌っている。その歌声を聴きながら僕はいくらか思うことがあった。少し長くなるが、思うところを書いてみようと思う。

神の不在に歌われる歌は

tofubeatsの歌はいつもどこか不器用だと思う。上手いとか下手という話ではなくて、なにか奇妙なためらいを湛えた歌声だ。もはやトレードマークとなった照れ隠しのオートチューンがそれに拍車をかけている。

中学生の時分から野山をかきわけるようにキャリアを積み重ねてくるなかで、いちプロデューサーとして人前に出ないことを選んだってよかったはずだったが、おそらくどこかのタイミングで彼は自分で歌うことを引き受けた。自分が歌わなければ誰も歌ってくれない歌があること、自分があげなければ誰にも聞かれない声があることに気付いたから、だろう。そこのところをあえて背負って立っている重みがtofubeatsの歌声にはある。そして実際、《Fantasy Club》はそうした歌や声に満ちていて、このために彼は歌っていたのかと深く得心するのだ。

たとえばカニエ・ウェストが内省の果てに宗教的啓示に打たれたかのようにゴスペルに回帰したように、僕たち日本人にも神がいればよかったのに、と思うことがある。神なき世界で歌われるべき歌とは。とりわけ、なんにもたしかに信じられないようなこのご時世に歌われるべき歌とは。

FANTASY CLUB/入れたら良いな/信じたいことは/信じにくいから
でも反対には/行けないしなって/音鳴らしたりした/FANTASY CLUB
(Tr.13 “CHANT #2”)

そんな歌とは、こんな歌だ。そう思わずつぶやいてしまうような、秀逸な詞だ。なにかを「信じる」ということに誠実であろうとすればするほど「信じたいこと」はどんどん「信じにく」くなる。しかし「信じない」を選ぶわけにもいかない。そんなときなかば無造作に鳴らされる音が積み重なって、積み重なって、そこからこのアルバムは編み上げられた。そんな想像をする。

また、「入れたら良いな」と歌われる“FANTASY CLUB”(Tr.6)の正体はどうだろう。夢のような、しかしどこか不安定で儚いパッドの音色は。信じたいはずの夢の世界さえ不確かで――あるいはこのように茫漠とした危うさを抱えてこそファンタジーであり、夢であるということだろうか。どうやらFANTASY CLUBに入ることが叶ったところで、同じような彷徨を繰り返す羽目になりそうだ。なにかを信じることさえ躊躇われるこの世界と、さして変わらない。

tofubeatsの歌声に宿っているためらいの音色は、そのまま彼の見せようとする世界のありさまでもある。なんと身も蓋もなく、誠実な歌声だろうか。

青春を脱ぎ捨てて、イノセンスから遠く離れて

歌声。そういえば、アルバム中屈指のダンス・チューンである“WHAT YOU GOT”(Tr.8)は、tofubeatsらしい多幸感を覚えさせてくれる一方で、曲中盤で聞かれる「ちょっと不安定」な感情が暴れだすかのような荒々しいヴォーカルはまるで初期衝動丸出しのパンクだ。

新しい音たくさん浴びたいまだまだ 不完全/君と踊りたいしうまくいきたい/他のこととか別にいいよ
(Tr.8 “WHAT YOU GOT”)

クラブ・ミュージックの美学のひとつがその匿名性にあるとすれば、誰であれ分け隔てなく注がれる普遍的な愛ではなく個人的なラヴ・ソングが感情もむき出しに歌われるのは、ある種の反則的な「青臭さ」にカウントできるかもしれない。これもtofubeatsの「らしさ」のひとつだろうし、彼が醸し出すポップネスの源泉でもある。

けれども、もはやtofubeatsにとってかつてのようなハイスクールはその面影さえない。かわりにあるのはショッピングモールだ。そんな彼がこのアルバムで描く生活は、どこかごつごつ、ざらざらとしている。かつてそれを人はリアルと言ったろうが、いまや適切な言葉はどこかに消えてしまった。

これ以上もう気づかないでいい/君は
君は いい/君は 気づかないでいい
(Tr.1 “CHANT #1”)

イントロとアウトロを飾るチャントは一種の祈りの歌であると同時に、呪いの言葉でもある。もう「君」は余計なことに気づかないでいい! しかし恐らくtofubeatsはその言葉が「君」に届かないことにもう気づいている。逆に「君」は律儀にもtofubeatsの言葉を反復し、ひとつひとつの気づきをスティグマとして背負っていくだろう。あるいは、笑顔の裏に涙を隠す「君」(Tr.12 “BABY”)はとっくにいろんなことに気づいてしまっているだろう。

tofubeatsというかつてのアンファンテリブルはすっかり大人になり、イノセンスをみずからふたたび手にすることはかなわなくなった。彼にとって、それを喪失と成長の物語として語り直すには――我が子を得たチャンス・ザ・ラッパーが“Same Drugs”でしたようには――まだ迷いが多すぎるのかもしれないし、そもそも彼は自分の人生をそのように物語としてアウトプットすることそのものに関心がないのかもしれない。イノセンスから遠く離れて彼は、ただ逡巡すること、それを彼なりの誠実さとしてアウトプットすることを選ぶ。

踏み込んだ道の途中/きっと何かの感情/歩き出すその勇気/持っているだけできっと/大丈夫
(Tr.11 “YUUKI”)

美しい喪失の物語など必要ではない。ただ歩き出す勇気さえ持っていれば大丈夫。内省的なトーンのなかでぽかりと開けた明るみのようなこの一節を強調するかのように、このアルバムはドアを開けて歩き出して終わるのだ(というのは我田引水にすぎるだろうか?)。あっけないほど平穏な鐘の音や汽笛の音は、聞き手の僕らにもまた歩き出すことを促す。「きっと大丈夫」と囁きながら。

*1:なんでお前が、という質問には、僕は答えようがない。ただ古い友人だということ以外には。

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Corneliusの新曲、“あなたがいるなら”は現時点で彼の最高傑作だと思う

 いいからいっぺん聴いて。とひとこと言って終わらせてしまいたい。が、思ったことがいくらかあるので書く。ちなみに坂本慎太郎の詞についても触れるべきかと思ったけれど、ちょっとそこまで手を広げるのは手に余るために、詞そのものの良さというか凄さには本稿では触れない。坂本慎太郎の詞の凄さを言わずしてなにを言う、というような批判は甘んじてお受けします。

リズム→グルーヴ

 一聴してこれまでのCorneliusとちょっと違うな、と思わされるのは、持続の感覚だ。BPMはおおよそ64前後(アプリで手計測)。極端に遅く、キックとスネアが刻むビートも最初はきわめてシンプルだ。第一にはこの遅さとシンプルさが持続の感覚の根源だ。それが次第にハイハットやシェイカーによって体感速度を加速させ、そして減速させる。イーヴンな8ビートを示唆する拍裏のハイハットが二番目のAメロの後半からスウィングしはじめたかと思うと、ギターソロの入るブリッジ部分以降は16ビートに変貌していく。しかしそれでもキックとスネアは維持されているために、明確な持続感がもたらされる。この持続のなかに生まれる緩急が、うねりの感覚をつくりだす。

 持続、といえば、最初から最後まで鳴り続けるエレピの音色もそうだ。基本の4小節のパターンを繰り返し続けるこのエレピはほとんどドローンだ。そしてまた、このエレピにかけられたパンニングもその持続の上で速度を変えながらうねり続ける。

 Corneliusはこれまでポリリズミックなアプローチを(とりわけ《Point》以降)好んで用いてきた印象がある。たとえば《Point》に収録された“Point of View Point”ではギターとドラムのパターンが複雑に絡み合うことで小節の頭や拍裏、拍表の感覚がめまぐるしく変化していく。

 《Sensuous》ではそうした傾向がよりやわらかいテクスチャのなかで展開されている。

 パートごとに小節がまわりこみ、あるいは同じグリッド上で異なるリズムパターンが重なりあい、めまいを起こすようなサウンドスケープが繰り広げられる。リズム構造に関して言えばそれがこれまでのCorneliusだったと思う。

 それに対して今作は、あからさまなポリリズムではなく、むしろ先述した持続の感覚の上に積み重なる繊細なグルーヴを提示する。そのグルーヴが繰り出すうねりはこのうえなくエモーショナルだ。

解体→再構築

 持続の感覚はCorneliusならぬ小山田圭吾自身*1の歌にも感じられる。それはいわば、これまで解体の対象だった言葉たちが、あらたにひとつらなりの詞へと再構築されているかのようだ。《Point》以降、彼の歌はしばしば音節ごとに解体され、ひとつの声としてあたかもギターやドラムやシンセサイザといった数ある素材と並列に存在しているかのようだった。たとえば《Sensuous》からのシングル“Music”のサビでは「We Need Music」というフレーズが「うぃー」という音と「にー(ど)」という音に解体され、ハーモニーを奏でている。平歌も節単位で細切れとなり、絡み合うリズムのなかに溶け込んでいる。

 あるいは同アルバムからの“Gum”はその実験が顕著で、ここでは言葉が音節単位にまで分解され過剰なエディットを施されている。

 こうしたアプローチは彼がプロデュースを手掛けたsalyu × salyuでもフィーチャーされている。同プロジェクトは“あなたがいるなら”でも組んだ坂本慎太郎との仕事で、間違いなく“あなたがいるなら”へと繋がるものがあるのだろうけれど、言葉の解体の極みといった趣がある。

 そしてまた、こうしたアプローチに対して今作で小山田圭吾はあきらかに声ではなく歌をうたっている。たしかに日本語の自然なリズムから逸脱する奇妙な符割りは、一見なんということのない愛慕の歌にひとことひとこと驚きをもたらしている。けれども、Corneliussalyu × salyuでおなじみだった、エディットされた歌声がハーモニーを奏でるようなことはない*2。たったひとり、小山田圭吾がマイクの前で歌っているのだ。そこに断絶はない。ゆえに、このヴォーカルにも持続の感覚が宿っているのだ。

エディット→エモーション

 歌だけではない。《Point》以降のCorneliusの諸作品に特徴的な大胆なエディット*3感覚が後景に退いているのだ。ここで僕の言うエディット感覚というのはつまり、カットアップに近い切れ味の鋭い音の抜き差しや、デジタル性の強い静寂のことだ。その欠如もまた、持続の感覚を強調しているように思う。もちろん、ところどころ効果的に用いられている。イントロでのドラムの抜き差しや、時折かけられるリヴァーブなどにその片鱗はみられる。しかし、先述したようにヴォーカルにはあからさまなエディットは施されていない。多少補正されている可能性はあるが、以前のようにエディットすることそのものを強調するかのような素振りは見せない。

 その結果生まれているのはなにか? このうえなくエモーショナルで、聴くものの感情をゆさぶる効果だ。ポリリズミックな音の快楽に身を委ねるかわりに、繊細なグルーヴの変化によって詞の持つエモーションを倍加させてゆく。言葉を解体する実験に没頭するのではなく、その言葉のひとつひとつを驚きとともに提示する。そしてブリッジに挿入される小山田のギターソロの、なんという素晴らしさだろう。それはまるで歌のように雄弁で、これもまたエモーショナルな感動を呼び起こす。

 Corneliusの新曲、“あなたがいるなら”は現時点で彼の最高傑作だと思う。なぜならそれは、これまでに述べてきたように、小山田圭吾がこれまでに繰り返してきたアプローチが転回/展開し、「実験的」な装いをはなれて普遍的なポップ・ソングを生み出すに至った、その成果だからだ。

*1:あくまでCorneliusバンド名で小山田圭吾はそのメンバー、というニュアンスです。混乱してるわけではありません。あしからず。

*2:若干追記しましたが、ハモりがないのではなく、分解された言葉がハモったり追い掛け合ったりしないってことです。

*3:そもそもこのエディット感覚はサンプリングを多用していた《Fantasma》以前のアプローチを換骨奪胎したものだとも言えるのだけれど。

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細馬宏通『うたのしくみ』ぴあ株式会社、2014年

うたのしくみ

うたのしくみ

 読みたくて読みたくて、読みた過ぎて読めなかった本を、ようやく読んだ。細馬宏通さんの文章によく触れていたわけでは決してないけれども、たとえばドナルド・フェイゲンのナイトフライを扱ったこのコラムや雑誌掲載の論考など、よく目にしていた。そこから直観的にこの本はとても良い本だろうと感じていたから、いつか読もうと思いつつ、なぜか敬遠してもいたのだった。もはや読み終えた今、その理由はさだかでないけれど、音楽のみならずアニメーションや視覚文化論までを扱った細馬さんの本をもっと読んでみたくなった。

 そうした思い入れはともかくとして、いかにこの本が素晴らしいかといえば、ミクロな、きわめてミクロな「うた」*1の呼吸に寄り添いながら、歌い手の、あるいは歌そのものの持つ奥行きを垣間見せてくれるという点に尽きると思う。その奥行きもまた、ときに「うた」という営みの持つ根源的な性格であったり、あるいは「うた」を支える文化的な枠組であったり、さらにはその「うた」を産んだ(例えば)アメリカ文化という広大な歴史的深みであったり、多様な姿をとって目の前にあらわれてくるかのようだ。

 「語りと歌のあいだ」と題された章では、文部省唱歌の「お正月」が取り上げられる。とるにたらないこどもの歌じゃないか。と思うなかれ、その「うた」をていねいにひらいていくと、ふと次のような洞察が舞い降りてくる。

こんな風に、わずか四行の「お正月」を歌うとき、わたしたちは歌と語りのあいだを往復する。沿いの結果、ここから遠く離れたお正月へ連れて行かれ、またここに戻ってくる。そして不思議なことに、歌い終わると、この場所は、さっきより少し居心地の良い場所、はやくこいこいとお正月を待つことのできる場所になっている。*2

 文字にすれば四行にすぎない「お正月」の「うた」としての生理をひもとくことで、いつのまにか読者は「語り」と「うた」のあわいがこの「うた」にひそんでいること、そして、そのあわいは「夢」と「いま、ここ」のあわいとひそかに重なり合っていることに気付かされる。短いコラムだけれど、見事だと思う。

 そしてまた、「うた」のミクロな分析を通じて蓄積された納得が、たとえばミュージカル・ナンバーの分析に援用されるとき、どうも馴染みの薄い世界だったミュージカルという表現にも独自のルールがあり、それはまさしく「うた」の生理に基いていることが明かされる。これには驚嘆した。

[…]ミュージカルの舞台や映画では、歌は長い物語の一部であり、語りが歌になる理由、そしてその理由を語る方法がある。それが、オープニング・ヴァースや語りという形をとる。「虹の彼方に」は、そのように物語に埋め込まれた歌であり、わたしたちがしばしば耳にする「虹の彼方に」は、そうした物語から取り出された、コーラスなのです。*3

 ほか、メインとなった連載「うたのしくみ」に加えて収録されたライナーノーツほかの文章も、とりわけ松本隆のドラミングと歌詞の関係を考察した「金属の肺、のびあがる体―松本隆の詞とドラマーの生理―」や、大瀧詠一が自身の活動のいたるところに仕掛けた「聞くこと」そのものを挑発する試みを辿った「「聞くこと」を揺らすテクノロジー―大瀧詠一の諸活動にみる「どこにもナイアガラ」現象―」は白眉といえる。

 ひとつ気になったことといえば、装丁が少し独特で、やわらかい明朝体がかえって目に障るところがあった。濁点を見間違えることもあって、これはちょっと困った。星ひとつ引くにもあたわない程度のことだけれど。

*1:ここでは細馬さんにならって、意味のある言葉ともたんなる声とも違う歌に特有の声の意で、かっこつきの「うた」という表記を使う。

*2:『うたのしくみ』43頁

*3:『うたのしくみ』71頁

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Cybotron ”Clear”とヴェトナム戦争

エレクトロ・ヴォイス 変声楽器ヴォコーダー/トークボックスの文化史 (P-Vine Books)

エレクトロ・ヴォイス 変声楽器ヴォコーダー/トークボックスの文化史 (P-Vine Books)

 デイヴ・トンプキンズの大著『エレクトロ・ヴォイス 変声楽器ヴォコーダートークボックスの文化史』を読んだ。通史的な書き方でも物語ちっくな書き方でもなく割と散漫な印象を拭えない(最後のRAMMELLZEEを扱った章なんかは端的にカオスだ)し、何年にヴォコーダーが生まれて~みたいなさっくりとした記述を求めると特にフラストレーションが貯まるだろうな。そういうわけでちょっと評価に困る本なのだが、面白いエピソードは満載だ。いちばん興味深かったのはじつはヴォコーダーと軍事技術の関係などではなくて、むしろデトロイト・テクノヴェトナム戦争の意外な関係だ。

 デトロイト・テクノの始祖といえばCybotronであり、テクノのゴッドファーザーはそのメンバー、ホアン・アトキンスであるというのは広く知られた事実だ。しかし、このClearという代表曲には、アトキンスの相棒であるリック・デイヴィスのヴェトナム戦争への従軍経験が影を落としているのだという。

「クリアー」はクラブから最も遠いところにある。同曲はあくまで、現実に対処しようと、混乱する頭をどうにかクリアーにしようとしている男の歌だ。ワシントンからサイゴンへ、ヴォコーダーを介して何が伝えられたにしろ、リック・デイヴィスはそれを遠い密林の中、自らの手で行った。キッシンジャーの言う「徹底的な」無数の爆撃によってできた空き地の中、文字通り死にもの狂いで。「“クリアー”は軍事用語だ」とデイヴィスは言う。軍事行動に必要とされる場の確保は、村人全員の虐殺も意味する。「我々の視界をクリアーに」し、やつらの動きを一掃[クリアー]しろ。*1

 曲のなかで執拗に反復される「Clear ××(~をクリアーせよ)」は、アトキンスによる来るべき未来へ備えた自己変革を促す啓示であると同時に、デイヴィスを襲うヴェトナム戦争のトラウマでもあるのだ。デイヴィスのトラウマは相当深刻なものだったようだ。

R-9”をレコーディング中のある晩、ホアン・アトキンスミシガン州イブシランティの[ティー・ティーズ・スピークイージー]の階上にあったサイボトロンのスタジオに向かった。中に入ると、パジャマ姿のデイヴィスがアサルトライフルを抱えて立っていた。「あいつはよく夜警をしていた。ライフルを構えて、ひとりで機動演習を。いや、頭がおかしいとか、そういうふうには思わなかったよ。親友だったし。まあ、ちょっとびっくりしたのは確かだけど」。アトキンスが大丈夫かたずねると、デイヴィスは言った。「ああ……たまにこういう夢を見るんだ」。*2

 Cybotronの不気味な黙示録的音像はヴェトナム戦争というトラウマから立ち直るためのセラプティックな効果を持っていたわけだ。アルバムの最後を飾るEl Salvadorのアウトロは、シンセサイザーで再現されたヘリコプターの飛行音と、乾いた銃声を模したパーカッシヴなSEに彩られている。 

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*1:『エレクトロ・ヴォイス』、168頁。強調は筆者が加えた

*2:同上、171-172頁

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オリヴィエ・アラン著、永富正之・二宮正之訳『和声の歴史』(と、菊地成孔+大谷能生『M/D』を少し)

文庫クセジュ448 和声の歴史 (文庫クセジュ 448)

文庫クセジュ448 和声の歴史 (文庫クセジュ 448)

 この本、原著の出版が1965年、邦訳が1969年に出ているのだが、手元にあるのは2007年の第十七刷。けっこうなロングセラーだ。ギリシア時代の音楽理論(旋法だとかいわゆるピタゴラス音律だとか)から20世紀中葉の当時最先端の現代音楽に至るまでを通覧し、和声ないし調性というシステムがいかにして確立し、そして飽和・崩壊することになったかをコンパクトにまとめた一冊になっている。豊富な譜例がひかれているのがかえって譜面に慣れていない初学者には敷居が高く思えるけれど、記述は端的でわかりやすい。この手の通史を読んで思うのは、調性というものが18世紀に確立するまでには少なくとも数世紀ものゆるやかな発展があったにもかかわらず、一度調性がひとつのシステムとして確立した途端に、ほんの2世紀足らずでその限界にまで達してしまう、近代特有のダイナミズムだ。もちろんこれは現在検討することができる資料の絶対的な量が中世以前はとても限られていて、その発展の様相が断片的にしか捉えられないという時代的な制限によるところも大きいのだが。

 本書はトータル・セリエリズムや電子音楽、具体音楽といった同時代の試みにも一瞥を向け、クラシック以前においては旋法が、クラシック音楽においては和声が担ってきた音楽の「牽引力」は、これまでとはまた別の場所に見いだされることになるのではないか、と論じて終わる。そこで少し感動してしまったのは、いささか些細な点ではあるのだが、音響物理学の同時代の成果に言及したくだりで、次のように述べるところだ。

われわれの感覚のなかで、もっとも分析的でもっとも具体的な耳の能力を、過小評価してはならない。真摯な態度で聞きもせず、くりかえして聞きもしないで、ある集合音または集合音の連結を、倍音列との関係がただちに認められないからまったく意味がない、と決めつけることはできないだろう。*1

 理論の檻の中に自ら閉じこもってしまえば自ずとそこは袋小路になってしまう。むしろ耳を開き、耳を頼りにすること。その重要性を説くこの一節は、本書を通読したときには存外に重く響いてくるものだ。

すこし雑記

 さて、和声ないし調性というシステムが飽和し、もはやそこに発展を見出すことはできない(そこに閉じこもるべきではない)という前提にたてば、前述のトータル・セリエリズム等の試みのように、音高と持続以外のパラメーターのなかにも「牽引力」(音楽をつくりだし、進めていく力)を見出していくことになるだろう。これは実際、無調から十二音技法を経由してトータル・セリエリズムに至る道程の教科書的な図式化にしかないかもしれないが、本書がその末尾で控えめに、しかし力強くそう示唆するとき、ふと思い出した文章があった。

[…]モーダリティという概念を最広義に拡大するとき、たとえば、あらゆるロックに偏在するブルース・ペンタトニックは旋律上のモーダリティですし、 編曲一般からエレクトリック・ノイズのイコライジング/フィルタリングまで、すべての音色/音質の変化もモーダリティと言えますし、これはのちにやりますが、ポリリズムを前提とした「リズム・チェンジ」もモード概念で説明が可能であり、前項でお話しした通り、音楽につねに付帯する「モード」、つまり服装や流行の変化も、これは言うまでもなくモード・チェンジです。*2

 菊地成孔大谷能生の『M/D』からの一節だ。この本は毀誉褒貶激しく、とりわけある一人の攻撃者に対して菊地が反撃に打ってでたことによってその印象は増してしまったわけだが、一見そうした怪しげな著者らのフカシとも思えるこの「モード」解釈と同じことを本書は言ってんじゃん。と思ったのだった。調性の崩壊に伴うオルタナティヴなシステムの探求は、まさしく「音色とか強弱の効果などという音の高さ以外の《特性のなかにあるいは見いだしうる》」*3にあるわけだ。なーんだそういうことか。というあれがあれしたのです。

*1:『和声の歴史』146頁

*2:菊地成孔大谷能生『M/D マイルス・デューイ・デイヴィスⅢ世研究(上)』河出文庫、433頁、強調は筆者による

*3:『和声の歴史』142頁

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