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青春を脱ぎ捨てて、イノセンスから遠く離れて――tofubeats《FANTASY CLUB》をめぐって(A面)

以下の文は、tofubeatsからちょっとした小文を依頼されて書いた、《FANTASY CLUB》のレビューである*1。諸々のインタヴューやレヴューが出回る前に書いたものであること(奇遇にも脱稿はWIRED日本版編集長・若林恵氏によるライナーノーツと同日――4月19日である)、本文中に登場する音源等はオリジナルの原稿には存在せず、当ブログに投稿するにあたり挿入したものであることをおことわりしておく。(なお、B面はこちら

はじめに:掛け値なしの最高傑作

少し思い入れの入った変則的なレビューになりそうだから、最初に通り一遍のことは書いてしまおう。

tofubeatsのキャリア4作目、メジャー3作目のアルバムにして、最高傑作が届けられた。これまでになく内省的ではあるが、それゆえtofubeatsというアーティストのあらゆる意味で信頼に足るパーソナリティがむき出しになっている。また、内省的でいながら、バラエティに富んだビートの数々。

YouTube上で発表されて以来、2016年のベスト・ソングに挙げられることも多かった“SHOPPINGMALL”(Tr.2)に対して、KANDYTOWNからYOUNG JUJUをフィーチャーした切なくスロウな“LONELY NIGHTS”(Tr.3)はそのナイトライフ・ヴァージョンとも言える仕上がりだ。もともとは神戸市のU30 CITY KOBEに提供されていた“THIS CITY”(Tr.10)のド直球なメロディアス・テクノも、アルバムいちの長尺をまったく感じさせない。“YUUKI”(Tr.11)や先行シングルの“BABY”(Tr.12)といったバラードも、ポップ・ソングとして普遍的な輝きを放っていると言っていいだろう。アルバムとしてのトーンはジャケットが見せるようにやわらかな水彩画のようにふわりと統一されていて、一曲一曲の粒の揃い方にソングライターとしての成熟をたしかに感じる一枚だ。

しかし、僕にとってなにより印象的なのは、tofubeats自身のヴォーカルだ。アルバムごとに多彩なゲストを迎えてきたtofubeatsが、本作に限ってはとにかく自ら歌っている。その歌声を聴きながら僕はいくらか思うことがあった。少し長くなるが、思うところを書いてみようと思う。

神の不在に歌われる歌は

tofubeatsの歌はいつもどこか不器用だと思う。上手いとか下手という話ではなくて、なにか奇妙なためらいを湛えた歌声だ。もはやトレードマークとなった照れ隠しのオートチューンがそれに拍車をかけている。

中学生の時分から野山をかきわけるようにキャリアを積み重ねてくるなかで、いちプロデューサーとして人前に出ないことを選んだってよかったはずだったが、おそらくどこかのタイミングで彼は自分で歌うことを引き受けた。自分が歌わなければ誰も歌ってくれない歌があること、自分があげなければ誰にも聞かれない声があることに気付いたから、だろう。そこのところをあえて背負って立っている重みがtofubeatsの歌声にはある。そして実際、《Fantasy Club》はそうした歌や声に満ちていて、このために彼は歌っていたのかと深く得心するのだ。

たとえばカニエ・ウェストが内省の果てに宗教的啓示に打たれたかのようにゴスペルに回帰したように、僕たち日本人にも神がいればよかったのに、と思うことがある。神なき世界で歌われるべき歌とは。とりわけ、なんにもたしかに信じられないようなこのご時世に歌われるべき歌とは。

FANTASY CLUB/入れたら良いな/信じたいことは/信じにくいから
でも反対には/行けないしなって/音鳴らしたりした/FANTASY CLUB
(Tr.13 “CHANT #2”)

そんな歌とは、こんな歌だ。そう思わずつぶやいてしまうような、秀逸な詞だ。なにかを「信じる」ということに誠実であろうとすればするほど「信じたいこと」はどんどん「信じにく」くなる。しかし「信じない」を選ぶわけにもいかない。そんなときなかば無造作に鳴らされる音が積み重なって、積み重なって、そこからこのアルバムは編み上げられた。そんな想像をする。

また、「入れたら良いな」と歌われる“FANTASY CLUB”(Tr.6)の正体はどうだろう。夢のような、しかしどこか不安定で儚いパッドの音色は。信じたいはずの夢の世界さえ不確かで――あるいはこのように茫漠とした危うさを抱えてこそファンタジーであり、夢であるということだろうか。どうやらFANTASY CLUBに入ることが叶ったところで、同じような彷徨を繰り返す羽目になりそうだ。なにかを信じることさえ躊躇われるこの世界と、さして変わらない。

tofubeatsの歌声に宿っているためらいの音色は、そのまま彼の見せようとする世界のありさまでもある。なんと身も蓋もなく、誠実な歌声だろうか。

青春を脱ぎ捨てて、イノセンスから遠く離れて

歌声。そういえば、アルバム中屈指のダンス・チューンである“WHAT YOU GOT”(Tr.8)は、tofubeatsらしい多幸感を覚えさせてくれる一方で、曲中盤で聞かれる「ちょっと不安定」な感情が暴れだすかのような荒々しいヴォーカルはまるで初期衝動丸出しのパンクだ。

新しい音たくさん浴びたいまだまだ 不完全/君と踊りたいしうまくいきたい/他のこととか別にいいよ
(Tr.8 “WHAT YOU GOT”)

クラブ・ミュージックの美学のひとつがその匿名性にあるとすれば、誰であれ分け隔てなく注がれる普遍的な愛ではなく個人的なラヴ・ソングが感情もむき出しに歌われるのは、ある種の反則的な「青臭さ」にカウントできるかもしれない。これもtofubeatsの「らしさ」のひとつだろうし、彼が醸し出すポップネスの源泉でもある。

けれども、もはやtofubeatsにとってかつてのようなハイスクールはその面影さえない。かわりにあるのはショッピングモールだ。そんな彼がこのアルバムで描く生活は、どこかごつごつ、ざらざらとしている。かつてそれを人はリアルと言ったろうが、いまや適切な言葉はどこかに消えてしまった。

これ以上もう気づかないでいい/君は
君は いい/君は 気づかないでいい
(Tr.1 “CHANT #1”)

イントロとアウトロを飾るチャントは一種の祈りの歌であると同時に、呪いの言葉でもある。もう「君」は余計なことに気づかないでいい! しかし恐らくtofubeatsはその言葉が「君」に届かないことにもう気づいている。逆に「君」は律儀にもtofubeatsの言葉を反復し、ひとつひとつの気づきをスティグマとして背負っていくだろう。あるいは、笑顔の裏に涙を隠す「君」(Tr.12 “BABY”)はとっくにいろんなことに気づいてしまっているだろう。

tofubeatsというかつてのアンファンテリブルはすっかり大人になり、イノセンスをみずからふたたび手にすることはかなわなくなった。彼にとって、それを喪失と成長の物語として語り直すには――我が子を得たチャンス・ザ・ラッパーが“Same Drugs”でしたようには――まだ迷いが多すぎるのかもしれないし、そもそも彼は自分の人生をそのように物語としてアウトプットすることそのものに関心がないのかもしれない。イノセンスから遠く離れて彼は、ただ逡巡すること、それを彼なりの誠実さとしてアウトプットすることを選ぶ。

踏み込んだ道の途中/きっと何かの感情/歩き出すその勇気/持っているだけできっと/大丈夫
(Tr.11 “YUUKI”)

美しい喪失の物語など必要ではない。ただ歩き出す勇気さえ持っていれば大丈夫。内省的なトーンのなかでぽかりと開けた明るみのようなこの一節を強調するかのように、このアルバムはドアを開けて歩き出して終わるのだ(というのは我田引水にすぎるだろうか?)。あっけないほど平穏な鐘の音や汽笛の音は、聞き手の僕らにもまた歩き出すことを促す。「きっと大丈夫」と囁きながら。

*1:なんでお前が、という質問には、僕は答えようがない。ただ古い友人だということ以外には。

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Corneliusの新曲、“あなたがいるなら”は現時点で彼の最高傑作だと思う

 いいからいっぺん聴いて。とひとこと言って終わらせてしまいたい。が、思ったことがいくらかあるので書く。ちなみに坂本慎太郎の詞についても触れるべきかと思ったけれど、ちょっとそこまで手を広げるのは手に余るために、詞そのものの良さというか凄さには本稿では触れない。坂本慎太郎の詞の凄さを言わずしてなにを言う、というような批判は甘んじてお受けします。

リズム→グルーヴ

 一聴してこれまでのCorneliusとちょっと違うな、と思わされるのは、持続の感覚だ。BPMはおおよそ64前後(アプリで手計測)。極端に遅く、キックとスネアが刻むビートも最初はきわめてシンプルだ。第一にはこの遅さとシンプルさが持続の感覚の根源だ。それが次第にハイハットやシェイカーによって体感速度を加速させ、そして減速させる。イーヴンな8ビートを示唆する拍裏のハイハットが二番目のAメロの後半からスウィングしはじめたかと思うと、ギターソロの入るブリッジ部分以降は16ビートに変貌していく。しかしそれでもキックとスネアは維持されているために、明確な持続感がもたらされる。この持続のなかに生まれる緩急が、うねりの感覚をつくりだす。

 持続、といえば、最初から最後まで鳴り続けるエレピの音色もそうだ。基本の4小節のパターンを繰り返し続けるこのエレピはほとんどドローンだ。そしてまた、このエレピにかけられたパンニングもその持続の上で速度を変えながらうねり続ける。

 Corneliusはこれまでポリリズミックなアプローチを(とりわけ《Point》以降)好んで用いてきた印象がある。たとえば《Point》に収録された“Point of View Point”ではギターとドラムのパターンが複雑に絡み合うことで小節の頭や拍裏、拍表の感覚がめまぐるしく変化していく。

 《Sensuous》ではそうした傾向がよりやわらかいテクスチャのなかで展開されている。

 パートごとに小節がまわりこみ、あるいは同じグリッド上で異なるリズムパターンが重なりあい、めまいを起こすようなサウンドスケープが繰り広げられる。リズム構造に関して言えばそれがこれまでのCorneliusだったと思う。

 それに対して今作は、あからさまなポリリズムではなく、むしろ先述した持続の感覚の上に積み重なる繊細なグルーヴを提示する。そのグルーヴが繰り出すうねりはこのうえなくエモーショナルだ。

解体→再構築

 持続の感覚はCorneliusならぬ小山田圭吾自身*1の歌にも感じられる。それはいわば、これまで解体の対象だった言葉たちが、あらたにひとつらなりの詞へと再構築されているかのようだ。《Point》以降、彼の歌はしばしば音節ごとに解体され、ひとつの声としてあたかもギターやドラムやシンセサイザといった数ある素材と並列に存在しているかのようだった。たとえば《Sensuous》からのシングル“Music”のサビでは「We Need Music」というフレーズが「うぃー」という音と「にー(ど)」という音に解体され、ハーモニーを奏でている。平歌も節単位で細切れとなり、絡み合うリズムのなかに溶け込んでいる。

 あるいは同アルバムからの“Gum”はその実験が顕著で、ここでは言葉が音節単位にまで分解され過剰なエディットを施されている。

 こうしたアプローチは彼がプロデュースを手掛けたsalyu × salyuでもフィーチャーされている。同プロジェクトは“あなたがいるなら”でも組んだ坂本慎太郎との仕事で、間違いなく“あなたがいるなら”へと繋がるものがあるのだろうけれど、言葉の解体の極みといった趣がある。

 そしてまた、こうしたアプローチに対して今作で小山田圭吾はあきらかに声ではなく歌をうたっている。たしかに日本語の自然なリズムから逸脱する奇妙な符割りは、一見なんということのない愛慕の歌にひとことひとこと驚きをもたらしている。けれども、Corneliussalyu × salyuでおなじみだった、エディットされた歌声がハーモニーを奏でるようなことはない*2。たったひとり、小山田圭吾がマイクの前で歌っているのだ。そこに断絶はない。ゆえに、このヴォーカルにも持続の感覚が宿っているのだ。

エディット→エモーション

 歌だけではない。《Point》以降のCorneliusの諸作品に特徴的な大胆なエディット*3感覚が後景に退いているのだ。ここで僕の言うエディット感覚というのはつまり、カットアップに近い切れ味の鋭い音の抜き差しや、デジタル性の強い静寂のことだ。その欠如もまた、持続の感覚を強調しているように思う。もちろん、ところどころ効果的に用いられている。イントロでのドラムの抜き差しや、時折かけられるリヴァーブなどにその片鱗はみられる。しかし、先述したようにヴォーカルにはあからさまなエディットは施されていない。多少補正されている可能性はあるが、以前のようにエディットすることそのものを強調するかのような素振りは見せない。

 その結果生まれているのはなにか? このうえなくエモーショナルで、聴くものの感情をゆさぶる効果だ。ポリリズミックな音の快楽に身を委ねるかわりに、繊細なグルーヴの変化によって詞の持つエモーションを倍加させてゆく。言葉を解体する実験に没頭するのではなく、その言葉のひとつひとつを驚きとともに提示する。そしてブリッジに挿入される小山田のギターソロの、なんという素晴らしさだろう。それはまるで歌のように雄弁で、これもまたエモーショナルな感動を呼び起こす。

 Corneliusの新曲、“あなたがいるなら”は現時点で彼の最高傑作だと思う。なぜならそれは、これまでに述べてきたように、小山田圭吾がこれまでに繰り返してきたアプローチが転回/展開し、「実験的」な装いをはなれて普遍的なポップ・ソングを生み出すに至った、その成果だからだ。

*1:あくまでCorneliusバンド名で小山田圭吾はそのメンバー、というニュアンスです。混乱してるわけではありません。あしからず。

*2:若干追記しましたが、ハモりがないのではなく、分解された言葉がハモったり追い掛け合ったりしないってことです。

*3:そもそもこのエディット感覚はサンプリングを多用していた《Fantasma》以前のアプローチを換骨奪胎したものだとも言えるのだけれど。

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細馬宏通『うたのしくみ』ぴあ株式会社、2014年

うたのしくみ

うたのしくみ

 読みたくて読みたくて、読みた過ぎて読めなかった本を、ようやく読んだ。細馬宏通さんの文章によく触れていたわけでは決してないけれども、たとえばドナルド・フェイゲンのナイトフライを扱ったこのコラムや雑誌掲載の論考など、よく目にしていた。そこから直観的にこの本はとても良い本だろうと感じていたから、いつか読もうと思いつつ、なぜか敬遠してもいたのだった。もはや読み終えた今、その理由はさだかでないけれど、音楽のみならずアニメーションや視覚文化論までを扱った細馬さんの本をもっと読んでみたくなった。

 そうした思い入れはともかくとして、いかにこの本が素晴らしいかといえば、ミクロな、きわめてミクロな「うた」*1の呼吸に寄り添いながら、歌い手の、あるいは歌そのものの持つ奥行きを垣間見せてくれるという点に尽きると思う。その奥行きもまた、ときに「うた」という営みの持つ根源的な性格であったり、あるいは「うた」を支える文化的な枠組であったり、さらにはその「うた」を産んだ(例えば)アメリカ文化という広大な歴史的深みであったり、多様な姿をとって目の前にあらわれてくるかのようだ。

 「語りと歌のあいだ」と題された章では、文部省唱歌の「お正月」が取り上げられる。とるにたらないこどもの歌じゃないか。と思うなかれ、その「うた」をていねいにひらいていくと、ふと次のような洞察が舞い降りてくる。

こんな風に、わずか四行の「お正月」を歌うとき、わたしたちは歌と語りのあいだを往復する。沿いの結果、ここから遠く離れたお正月へ連れて行かれ、またここに戻ってくる。そして不思議なことに、歌い終わると、この場所は、さっきより少し居心地の良い場所、はやくこいこいとお正月を待つことのできる場所になっている。*2

 文字にすれば四行にすぎない「お正月」の「うた」としての生理をひもとくことで、いつのまにか読者は「語り」と「うた」のあわいがこの「うた」にひそんでいること、そして、そのあわいは「夢」と「いま、ここ」のあわいとひそかに重なり合っていることに気付かされる。短いコラムだけれど、見事だと思う。

 そしてまた、「うた」のミクロな分析を通じて蓄積された納得が、たとえばミュージカル・ナンバーの分析に援用されるとき、どうも馴染みの薄い世界だったミュージカルという表現にも独自のルールがあり、それはまさしく「うた」の生理に基いていることが明かされる。これには驚嘆した。

[…]ミュージカルの舞台や映画では、歌は長い物語の一部であり、語りが歌になる理由、そしてその理由を語る方法がある。それが、オープニング・ヴァースや語りという形をとる。「虹の彼方に」は、そのように物語に埋め込まれた歌であり、わたしたちがしばしば耳にする「虹の彼方に」は、そうした物語から取り出された、コーラスなのです。*3

 ほか、メインとなった連載「うたのしくみ」に加えて収録されたライナーノーツほかの文章も、とりわけ松本隆のドラミングと歌詞の関係を考察した「金属の肺、のびあがる体―松本隆の詞とドラマーの生理―」や、大瀧詠一が自身の活動のいたるところに仕掛けた「聞くこと」そのものを挑発する試みを辿った「「聞くこと」を揺らすテクノロジー―大瀧詠一の諸活動にみる「どこにもナイアガラ」現象―」は白眉といえる。

 ひとつ気になったことといえば、装丁が少し独特で、やわらかい明朝体がかえって目に障るところがあった。濁点を見間違えることもあって、これはちょっと困った。星ひとつ引くにもあたわない程度のことだけれど。

*1:ここでは細馬さんにならって、意味のある言葉ともたんなる声とも違う歌に特有の声の意で、かっこつきの「うた」という表記を使う。

*2:『うたのしくみ』43頁

*3:『うたのしくみ』71頁

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Cybotron ”Clear”とヴェトナム戦争

エレクトロ・ヴォイス 変声楽器ヴォコーダー/トークボックスの文化史 (P-Vine Books)

エレクトロ・ヴォイス 変声楽器ヴォコーダー/トークボックスの文化史 (P-Vine Books)

 デイヴ・トンプキンズの大著『エレクトロ・ヴォイス 変声楽器ヴォコーダートークボックスの文化史』を読んだ。通史的な書き方でも物語ちっくな書き方でもなく割と散漫な印象を拭えない(最後のRAMMELLZEEを扱った章なんかは端的にカオスだ)し、何年にヴォコーダーが生まれて~みたいなさっくりとした記述を求めると特にフラストレーションが貯まるだろうな。そういうわけでちょっと評価に困る本なのだが、面白いエピソードは満載だ。いちばん興味深かったのはじつはヴォコーダーと軍事技術の関係などではなくて、むしろデトロイト・テクノヴェトナム戦争の意外な関係だ。

 デトロイト・テクノの始祖といえばCybotronであり、テクノのゴッドファーザーはそのメンバー、ホアン・アトキンスであるというのは広く知られた事実だ。しかし、このClearという代表曲には、アトキンスの相棒であるリック・デイヴィスのヴェトナム戦争への従軍経験が影を落としているのだという。

「クリアー」はクラブから最も遠いところにある。同曲はあくまで、現実に対処しようと、混乱する頭をどうにかクリアーにしようとしている男の歌だ。ワシントンからサイゴンへ、ヴォコーダーを介して何が伝えられたにしろ、リック・デイヴィスはそれを遠い密林の中、自らの手で行った。キッシンジャーの言う「徹底的な」無数の爆撃によってできた空き地の中、文字通り死にもの狂いで。「“クリアー”は軍事用語だ」とデイヴィスは言う。軍事行動に必要とされる場の確保は、村人全員の虐殺も意味する。「我々の視界をクリアーに」し、やつらの動きを一掃[クリアー]しろ。*1

 曲のなかで執拗に反復される「Clear ××(~をクリアーせよ)」は、アトキンスによる来るべき未来へ備えた自己変革を促す啓示であると同時に、デイヴィスを襲うヴェトナム戦争のトラウマでもあるのだ。デイヴィスのトラウマは相当深刻なものだったようだ。

R-9”をレコーディング中のある晩、ホアン・アトキンスミシガン州イブシランティの[ティー・ティーズ・スピークイージー]の階上にあったサイボトロンのスタジオに向かった。中に入ると、パジャマ姿のデイヴィスがアサルトライフルを抱えて立っていた。「あいつはよく夜警をしていた。ライフルを構えて、ひとりで機動演習を。いや、頭がおかしいとか、そういうふうには思わなかったよ。親友だったし。まあ、ちょっとびっくりしたのは確かだけど」。アトキンスが大丈夫かたずねると、デイヴィスは言った。「ああ……たまにこういう夢を見るんだ」。*2

 Cybotronの不気味な黙示録的音像はヴェトナム戦争というトラウマから立ち直るためのセラプティックな効果を持っていたわけだ。アルバムの最後を飾るEl Salvadorのアウトロは、シンセサイザーで再現されたヘリコプターの飛行音と、乾いた銃声を模したパーカッシヴなSEに彩られている。 

Clear

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*1:『エレクトロ・ヴォイス』、168頁。強調は筆者が加えた

*2:同上、171-172頁

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オリヴィエ・アラン著、永富正之・二宮正之訳『和声の歴史』(と、菊地成孔+大谷能生『M/D』を少し)

文庫クセジュ448 和声の歴史 (文庫クセジュ 448)

文庫クセジュ448 和声の歴史 (文庫クセジュ 448)

 この本、原著の出版が1965年、邦訳が1969年に出ているのだが、手元にあるのは2007年の第十七刷。けっこうなロングセラーだ。ギリシア時代の音楽理論(旋法だとかいわゆるピタゴラス音律だとか)から20世紀中葉の当時最先端の現代音楽に至るまでを通覧し、和声ないし調性というシステムがいかにして確立し、そして飽和・崩壊することになったかをコンパクトにまとめた一冊になっている。豊富な譜例がひかれているのがかえって譜面に慣れていない初学者には敷居が高く思えるけれど、記述は端的でわかりやすい。この手の通史を読んで思うのは、調性というものが18世紀に確立するまでには少なくとも数世紀ものゆるやかな発展があったにもかかわらず、一度調性がひとつのシステムとして確立した途端に、ほんの2世紀足らずでその限界にまで達してしまう、近代特有のダイナミズムだ。もちろんこれは現在検討することができる資料の絶対的な量が中世以前はとても限られていて、その発展の様相が断片的にしか捉えられないという時代的な制限によるところも大きいのだが。

 本書はトータル・セリエリズムや電子音楽、具体音楽といった同時代の試みにも一瞥を向け、クラシック以前においては旋法が、クラシック音楽においては和声が担ってきた音楽の「牽引力」は、これまでとはまた別の場所に見いだされることになるのではないか、と論じて終わる。そこで少し感動してしまったのは、いささか些細な点ではあるのだが、音響物理学の同時代の成果に言及したくだりで、次のように述べるところだ。

われわれの感覚のなかで、もっとも分析的でもっとも具体的な耳の能力を、過小評価してはならない。真摯な態度で聞きもせず、くりかえして聞きもしないで、ある集合音または集合音の連結を、倍音列との関係がただちに認められないからまったく意味がない、と決めつけることはできないだろう。*1

 理論の檻の中に自ら閉じこもってしまえば自ずとそこは袋小路になってしまう。むしろ耳を開き、耳を頼りにすること。その重要性を説くこの一節は、本書を通読したときには存外に重く響いてくるものだ。

すこし雑記

 さて、和声ないし調性というシステムが飽和し、もはやそこに発展を見出すことはできない(そこに閉じこもるべきではない)という前提にたてば、前述のトータル・セリエリズム等の試みのように、音高と持続以外のパラメーターのなかにも「牽引力」(音楽をつくりだし、進めていく力)を見出していくことになるだろう。これは実際、無調から十二音技法を経由してトータル・セリエリズムに至る道程の教科書的な図式化にしかないかもしれないが、本書がその末尾で控えめに、しかし力強くそう示唆するとき、ふと思い出した文章があった。

[…]モーダリティという概念を最広義に拡大するとき、たとえば、あらゆるロックに偏在するブルース・ペンタトニックは旋律上のモーダリティですし、 編曲一般からエレクトリック・ノイズのイコライジング/フィルタリングまで、すべての音色/音質の変化もモーダリティと言えますし、これはのちにやりますが、ポリリズムを前提とした「リズム・チェンジ」もモード概念で説明が可能であり、前項でお話しした通り、音楽につねに付帯する「モード」、つまり服装や流行の変化も、これは言うまでもなくモード・チェンジです。*2

 菊地成孔大谷能生の『M/D』からの一節だ。この本は毀誉褒貶激しく、とりわけある一人の攻撃者に対して菊地が反撃に打ってでたことによってその印象は増してしまったわけだが、一見そうした怪しげな著者らのフカシとも思えるこの「モード」解釈と同じことを本書は言ってんじゃん。と思ったのだった。調性の崩壊に伴うオルタナティヴなシステムの探求は、まさしく「音色とか強弱の効果などという音の高さ以外の《特性のなかにあるいは見いだしうる》」*3にあるわけだ。なーんだそういうことか。というあれがあれしたのです。

*1:『和声の歴史』146頁

*2:菊地成孔大谷能生『M/D マイルス・デューイ・デイヴィスⅢ世研究(上)』河出文庫、433頁、強調は筆者による

*3:『和声の歴史』142頁

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最近のファンキ事情がけっこうイカれてる件

 なるほろファンキやばいことなっとんなーと思ってちょっと掘ったら凄いの一杯あった。気になったのだけまとめておきます。

 一瞬ファンキのトラップ化か、とおもったけどむしろグライムだな。鋭角的かつ謎のパーカッション。

 どんどんどんどん…… というだみ声ループにだみ声MCがのっかって中毒性という点では随一。リズムのパターンは割りと昔流行ったバイレファンキを思わせるのだが、なんと唐突にメトリックモジュレーションがかかってテンポが落ちる。ファンコットにもそういうマナーがあったな。シカゴ・ハウスのプリミティヴさに南米らしいリズムの遊びが加わった感じで良い。

 ぼんぼんぼんぼん…… という(以下略)。この曲のボーカルにかかってるデジタルリバーブというかフリーズ音みたいなエフェクトは他のファンキ曲でも頻出していて流行ってんのかこのプロデューサーが多用しているだけなのかちょっとよくわからん。銃声とローディング音というゲットーマナー丸出し感がたまらない。

 すかすか加減ではこれが物凄いことになってる。必聴。 サブベースがぶんぶん鳴るヴァース部が終わってサビっぽいところに入ると、ベースが鳴るのが2小節に一回、小節頭だけ。ほとんどウッドスティックとボーカルしか鳴ってないぞ。そして当然のようにメトリックモジュレーション。「ファ、ファンキってこんな音楽だったか?!」という感じはEquiknoxxを聴いたときに「ダ、ダンスホールって(以下略)」と思った感じに似ている。


 さっきのは別に一曲変なのがあるって感じじゃなくて、単音のパーカッションループ+2小節に一回頭にキック鳴るだけみたいなのは結構ある。それでも最高にポップな耳あたりなのはMCの存在感ありきというところか、それともリズムそものもに潜在的な人懐こさが宿っているのか。

 すかすかなうえにエモい。これがサウダージというやつだろうか。違うかもしれない。でもこの享楽と切なさがないまぜになった独特のエモさはサウダージっぽい。

 能天気なだけがファンキじゃねえぞ、という例としてはこれも耳にとまった。切ねえ! 切な系ファンキ。

 ちなみにここで挙げた曲はだいたい“Funk Putaria”というラベルがついてて、まあビッチからピンプまでセックスをネタにした曲程度の意味っぽいが、もしかしたらこういう音のスタイルまで指すのかな。ようわからん。YouTube上に曲を配信してる専門チャンネルとかファンキに合わせた振り付けを踊ってアップしてるチャンネルがうなるほどあって、それを順繰り聴いてるだけでとくに掘ってるというほどではないのだが、それでもおもしろいのがザクザク出てくる。

乱立しまくってるんであれだけど、Gêmeas. Com
(上動画のチャンネルです)なんかいかにもブラジリアンビューティみたいな美人姉妹が冗談みたいにエッジーなファンキにのせて踊っていて最高だと思います。いちばんオーセンティックなチャンネルってどこなのかな~。LEGENDA FUNK ORIGINALやその姉妹チャンネル?DETONA FUNKなどが変なファンキいっぱい聞けるところって感じ。

 追伸:

 楽曲はファンキでもなんでもない普通のポップスなのだが、ガキが「マインクラフトの世界ではなんでもできる、家建てたりしようぜ!」みたいなラップをしている(Google翻訳に突っ込んでみた)。これはマジで意味がわからねえ。「妖怪ウォッチ面白い」のお歌~、とかないじゃん。なにこれ。

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ロックンロールとトーン・クラスター(ヴェルヴェッツに関する覚書)

Velvet Underground & Nico-45th Anniversary

 いまさら言うことでもないだろうが、Velvet Underground(以下、ヴェルヴェッツ)の音楽性は混乱していると思う。一方にはダウナーで退廃的な1stがあり、もう一方には作りかけの甘ったるい珠玉のポップスが散りばめられた4thがある。一方にはノイジーでヒステリックな2ndがあり、もう一方には静寂さえもその内に畳み込んだ謎めいた3rdがある。プロデューサーであるウォーホールとの軋轢、あるいはメンバー間の音楽性の違い、などといったバンドそのものの紆余曲折が音にも反映されている、というのはあまりに図式的な、ありきたりな話ではある。

 僕がヴェルヴェッツの偉大さを感じるのはとりわけ上に掲げた“I’m Waiting for My Man”を聴いたときだ。ロックンロールという音楽の持つ形式をとことんまで誇張しきった成果がそこにあるように感じられる。

 ロックンロールの核をなすのは、グルーヴを寸断するカッティング・ギターである(と断言してみる)。軽快な循環的コード進行とエイトビートのリズムは水平的、ないしは回転運動的なグルーヴを常に生み出し続ける。そこに楔を打ち込むかのように、ギターのリフが重なる。たとえばチャック・ベリーがさりげなくリフに組み込むシンコペーションは、水平的なグルーヴの力点を垂直の力で常にずらし、断絶を生み出す。*1その瞬間に生まれるスリルこそがロックンロールなのだと思う。

 ひるがえって“I’m Waiting for My Man”では、ギターやヴォーカルをのぞく各楽器がまったく同じ8分音符のフィギュアを絶え間なく刻むことによって、ロックンロールはトーン・クラスターの連なりへと変容してしまっている。ひずみを全面に押し出したローファイな質感も、本来ならば和声的なはずの響きをノイジーなクラスターに近づけている。もはやそれは水平方向と垂直方向の運動のあいだに生まれる緊張関係を越えていて、クラスターの連なりそのものが前進し続けるかのようだ。

White Light White Heat

 ウォーホールのプロデュースを抜け出した2ndは、そのヒステリックなまでにノイジーな録音もあいまって、「クラスターの連なりとしてのロックンロール」というコンセプトを見事なまでに完遂している。同時代、ないし一世代あとのアート/ミニマル志向のロック(たとえばクラウトロック)が概して、ドローンが持つ豊かな倍音構造とか、反復パターンのつくりだすモアレのなかをサイケデリックにトリップする方向に向かいがちなことを考えると、ヴェルヴェッツのミニマリズムは特異だ。

E2-E4 – 2016 – 35TH ANNIVERSARY EDITION

 ヴェルヴェッツのミニマリズムは反復への陶酔であるとか、プロセスへの没入といったものとは無縁である。それはむしろいまここの連続性を断ち切って、クラスターが響くごとにそのプロセスをやり直す。ロックンロールのスリルがそのグルーヴにではなく、グルーヴの切断のほうへと導かれ、最終的には、徹底的な、しびれるほどの退屈さと化す。不思議なことに、その退屈さは聴くものを熱狂させてやまないのだ。

*1:水平/垂直という比喩はメロディ/和声みたいな対立と等価なものとして広く使われている… ように思うが、とくにここではそれを拡大して、時間軸方向を「水平」、ある時点で鳴る音の連なりを「垂直」として用いている。要するに右方向に進行していくピアノロールを思い浮かべて貰えればいい。チャック・ベリーのギターはその垂直方向に分節を刻み込んでいく。

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思弁的メロドラマ(けなしているわけではない)――テッド・チャン『あなたの人生の物語』について

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

 映画の日本公開はまだ少し先だけれど、アカデミー賞ノミニーにも選ばれていたし、そもそもそのタイトルからいろいろと気になっていたので読んでみた。長編を読むのはなかなかしんどい体調が続いており、あわせて買った『虐殺器官』はそれゆえまったく読み進められる気配がないが、こちらはわりとすんなり読めた。

 世間でこれらの作品がどういった評価を受けているのかについては寡聞にして知らないけれど、表題作「あなたの人生の物語」に関して言えば、あらかじめ期待したほどには感心しなかった。なるほど、基本的なアイデアは面白い。とくに、ある物理現象は因果論的(AのせいでBが起こる)にも目的論的(Bが起こるためにAが用意される)にも記述できる、という点に着目してみせるあのくだりには興奮した。また、強いサピア=ウォーフ仮説にのっとったような、言語習得に伴って主人公に起こるある決定的変容、というプロットも(その変容の描写も)上手いな、と思う。しかし、ネタバレ全開になるけど、異星人との接触によって地球人とは違う時空間構造のなかを生きるようになる、というアイデアについていえば、カート・ヴォネガットの諸作品におけるトラルファマドール星人のそれを思い起こさずにはいられない。しかも話の落とし所もちょっとそういうところがある。So it goes.というやつだ。あらかじめ未来がすべてわかっていたとしても、もしかしたら異なる未来を歩きうるとしても、世界がそうなっているからには、そうすることをためらわずに選ぼう。それが悲壮なものであれ幸福なものであれわたしはそれを選ぶのだ、と。ニーチェ流の永劫回帰に対する絶対的な肯定というか。ただヴォネガットスラップスティックなユーモアの奔流のなかにこのメッセージを忍ばせるのに対して、チャンはいささかメロドラマめいた叙情性を通じて、露骨に語り手に吐露させてしまう。というとけなしているように聞こえるかもしれない。しかしドラマとしてはかなりよくできている。あらゆる要素が最後のイェスに集約されるために組み立てられていて、その緻密さには舌を巻く。うーん、しかし、ウェルメイドなメロドラマ(というかホームドラマ)のパーツパーツがSF的なギミックに置き換えられている感じがしてなにか食い合わせが悪いように感じる。これを食べづらい材料をおいしく料理した逸品、と思う人もいるかもしれないが、しかし。

 このメロドラマ性とSF的(というか「理系的」)なギミックの組み合わせが持つやな感じが最も押し出されているのは「ゼロで割る」だと思う。19世紀末~20世紀初頭にかけての数学のいち大転換(いわゆる不完全性定理ヒルベルト・プログラムの挫折)の歴史的記述に導かれるように、とある夫婦の終わりが語られる。妻である数学者は、この学問の正当性を根底からゆるがすある証明を発見してしまったのだが、数学にほとんどすべてを献身してきたがゆえに、日常生活を支障をきたすほどに衰弱してしまう。妻の失望があまりにも本質的であるために、夫が妻を支える術はもはやない。それで離婚に至るだろう会話がはじまるところでこの物語は終わるのだが、正直なにを言いたいのかわからない。たしかに自分の信念を支えてきたものを自ら否定してしまうというのは親殺しのようにむごく絶望的なプロットなのだが、彼女はそのような発見をするような天才であるにもかかわらず、その発見を乗り越えるほどの知的好奇心を持ちあわせていないという点でなにかその人物像はいびつであるように思える。それほどまでに彼女の発見が決定的だったということだろうが……。ひとつの学問を殺してしまうような直観を持ちながら、ひとつの学問を自ら殺してしまったことを受け入れきれない、という意味では主人公の苦悩はきわめて人間的ではあるのだが、そうするとこの作品が描いているのは人間の責任能力の限界であって、数学という学問に象徴される知性や理性の限界ではない。そう考えてしまうと、理系的な要素として挿入されるエピソードも通俗的なメロドラマの一種にしか見えなくなるし、結果として物語としてはあまりにもくどすぎるものになる。SF的ギミックがメロドラマに新鮮な息吹を吹き込んでいた(あるいはSF的アイデアにメロドラマとしてのストーリーテリングの完成度を接続した)という点で表題作のほうがずいぶんと完成されている。というか、不完全性定理以後の数学には美が消えてしまったとでも言いたげな作者の覚書にはちょっと辟易させられた。数学は不完全なので全部幻で妄想にすぎない、というのはあまりにもナイーヴなのでは?

 と、これら2作品をこんなふうに評してしまうとテッド・チャンが嫌いであるかのように思われそうだが、ものすごく好きな作品もある。たとえば「理解」は、脳のリミッターを外した中二病患者がぐんぐん能力を拡大していって、「全盛期のイチロー」も真っ青なスーパーマン化してゆく、ほとんどスラップスティックな描写が炸裂している。“Understand”という原題が使われるタイミングも見事。しかしこれを説明的に訳してしまうとインパクトが薄れそうだから、訳者の人は困ったろうなあ、と思う*1。20分くらいのショートフィルムにして撮ってほしい。また、「七十二文字」の遺伝子工学錬金術をかけあわせたような科学の世界はぞわぞわ、わくわくする。なにがなにのアナロジーで、どういう意図がこめられていて… などということを考え始めると止まらないのだが、現実世界に変に結び付けず、主人公は彼の世界のなかで選ぶべき独創的な技術を生み出そうと歩み出して終わるのがまたいい。「バビロンの塔」のファンタジー描写もたまらない。オチはとってつけたようなところがあり、「ゼロで割る」と相通ずるやだみが感じられるけれど、描写は圧倒的だ。「地獄とは神の不在なり」も天使の降臨が日常茶飯事となった世界で繰り広げられるひとつの群像劇という設定がすごく面白かった。神学的にどうこうはわからないが、聖書で描かれるような奇跡がほんとにしょっちゅう起こってたらどんなことが起こるのか、という思考実験が、よく物語に生かされている。「顔の美醜について」も、かわいらしいじゃないですか。こんな作品ばっかりだったらアレだけど。NHKでドラマ化してほしいね。

 とまあ作品集のなかでも「これはいい!」というのと「これはどうなの?」というのが入り混じっている、というのが率直な感想だ。本人もある程度意識しているだろうが、文学ではなく科学を手にしたボルヘスとでもいうべき想像力とファンタジックな情景描写は、これは凄いものだ。スーパーマン描写というのも、ある意味「記憶の人、フネス」を彷彿とさせるところもなきにしもあらず。しかしボルヘスがするような後味の悪い、薄気味悪い読後感を残すようなことがあまりないのが不満で、それは上で述べたようにこの人にはウェルメイドなドラマを書く才能があまりにも大きすぎるということに尽きるのではなかろうか。知らんけど。

*1:主人公に対峙するライバルは、主人公とのバトルで一言“Understand”と発する。すると主人公は、ライバルが巧みに自分の記憶のなかに埋め込んでいった伏線の意味をすべて「理解」し、そのために敗北してしまう。ここの一言は命令形で訳するのがもっとも文脈にそっているのではないかと思うのだが、原文にきちんとあたったわけではないので寝言です。

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ヴェイパーウェイヴのアイロニー、その裂け目――猫 シ Corp《NEWS AT 11》(2016)からひもとく

 ヴェイパーウェイヴが2017年現在いまだ死なず、むしろ根強い人気を誇っているという事実は、実のところなかなか信じがたいところがある。メディアがつくりあげるハイプを露悪的にパロディ化した、よくあるインターネット・ミームだと思っていたのに。僕はけして熱心なウォッチャーというわけではないが、ふと思い立ってチェックしてみると、いまだにコンスタントに新譜が登場していて、あろうことかある種の洗練さえ感じさせる出来の作品にしばしば出くわしてしまう。方法論的に言って、ヴェイパーウェイヴは出現した段階ですでに完成されていたと思う。だからこそ長続きする音楽ジャンルになるとは思えなかったわけだけれど、意外にもその美学(しばしば全角英数字ないしスペース入りの半角英数字で“Aestetic”と綴られる)は広く拡散・浸透し、多彩なサブジャンルを生み出すことにもなった。とはいえ、この記事ではその歴史とか全貌とか現在をどうこう言いたいわけではない。ひとつの作品を出発点に、少し考えてみたいことがあるのだ。

もくじ

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「誰でもミュージシャンになれる」

 身体のジェスチャを通じて音楽を演奏できる、KAGURAというシステムが発売になるらしい。自分は使ってみたいとは思わないにせよ、おもしろい試みではある。使い方次第ではステージ上のパフォーマンスがよりいっそう派手になるだろうし、こうやってパッケージングされることで、オーディオ・ヴィジュアルなパフォーマンスに対する敷居を下げることにもなるだろう。

 しかし、公式サイトなどに掲げられている、「PCとカメラさえあれば、アプリをインストールするだけで誰でもミュージシャンになれます」というウリ文句には、若干閉口してしまう。

https://gyazo.com/707ab4e90c663d0c21a590c176d2e6eb

 ミュージシャンになるだけだったらPCだけで十分だ。KAGURAを使うとなったら、PCとウェブカムを用意して、ソフトをインストールして、設定をこなし、そしてわざわざ身体を動かさなければならない。なんでそんなめんどくさいことをしなくてはならないのだろう? 細かい揚げ足とりかと思われるかもしれないが、これは真剣な話だ。それで提供される「演奏体験」は、「ミュージシャンになりたい」という人にとって満足いくものなのだろうか。いや、こればかりは実際に体験してみないとわからないけれど。

 それでも僕は、パーカッションのひとつでも買ったほうがいいんじゃないかと思う。PCを立ち上げる必要も、カメラのキャリブレーションも必要なく、ふと思ったときに手にとって、鳴らすことができる。マラカスひとつあるだけで、カウベルひとつあるだけで、じゅうぶんミュージシャンシップを楽しむことができる。そしてなにより、僕らにはこの身体があり、声がある。KAGURAを買ってまだるっこしい「演奏」をするくらいなら、マイクを買って歌声を録音したほうがいいだろう。

 これは極論であるとしても、たとえばテノリオンであったり、オタマトーンであったり、カオシレーターであったり、斬新なUIを通じて簡単でなおかつ優れた演奏体験を提供してくれるガジェットはたくさんある。電池駆動のカオシレーターを前にして、「PCとカメラさえあれば、アプリをインストールするだけで誰でもミュージシャンになれます」なんて胸を張って言えるだろうか?

 とはいえ、このソフトを単にくさしたいわけではない。マーケティングの方向として、それは違うんじゃない? と思うのだ。

 最初にも書いたように、可能性もたくさんある。複雑なプログラミングなしでモーションコントロールを導入できるということは、オーディオ・ヴィジュアルなパフォーマンスに興味はあるがプログラミングはどうもな、という人にひとつの選択肢を与えることになる。あるいは、教育の現場などではこういった身体を動かして演奏ができる仕組みというのはとても活用しがいがあると思う。しかしやはり、なにか楽器をやってみたいと漠然と思ってるけど、練習が大変で、といった人に対しては、このソフトはなかなかリーチしないと思う。なんでそんなウリ文句を選んだのかよくわからない。ただでさえPCなんてめんどくさいトラブルのかたまりなのに。

 個人的に、こういう「誰でもミュージシャン」系のガジェットやソフトでとても感心したのはPropellerheadsの出しているFigureというiPhone/iPadアプリだ。値段も無料らしい(以前数百円だった気がするけど)。

 細かい打ち込みはできない代わりに、ちょっといじって馴れてくると、とたんに多彩なビートパターンを直感的な操作でつくりだすことができるようになるし、カオシレーターふうにメロディも演奏できる。録音機能も充実しており、簡易的なミックスもできる。なにより、「演奏」と「プリセット」の配分具合が絶妙なのだ。デフォルトのまま鳴らしっぱなしにしてあちこちいじっているうちに、自然とそれっぽい音楽が出来上がってくる。これは他のどのアプリとも違う触感があって、楽しい。

 とりとめのない文章になってしまったけれども、やはりどうしても言いたいのは、PCとウェブカムなんか用意しなくても誰でもミュージシャンになれるだろ、ということだ。ソフトを売らんがためのそういうお為ごかしはひとのためにならないと思う。なんていうことを思うのは、DIY精神に神経をやられてしまっている人間の性なのだろうか。でも、音楽に親しむための第一の条件は、なんにもないところからでも音楽は生まれるし、音楽を楽しむことができる、という確信を抱くことにあると思う。

 ノンミュージシャンによるポップ・ミュージックの金字塔、フライング・リザーズ。あらゆるファンクネスを捨て去った果てに謎のポップネスだけが残ったSex Machineのカヴァーも秀逸だ。

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