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カテゴリー: Japanese

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【お知らせ】10月5日(土)『リズムから考えるJ-POP史』刊行記念イベント ~J-POPのリズムを分析する〜 @ CAVA BOOKS(出町座フリースペース)

関西でも『リズムから考えるJ-POP史』刊行記念イベントの開催が決まりました。その名も「『リズムから考えるJ-POP史』刊行記念イベント ~J-POPのリズムを分析する〜」10月5日(土)19:30~京都出町座フリースペースにて。関西ソーカル主宰の神野龍一(@shen1oong)さんのサポートをいただき、本書の内容について突っ込んだトークができればなーと思います。東京でのtofubeatsトークは本の内容に触れつつ放談という感じになりそうですが、京都でのトークはもうちょい理屈っぽい話になるかもしれません。開催日の時点ですでに発売はされていますが、いくらかこちらで持っていくつもりです。参加費は500円、要予約です(こちらのフォームから申し込みをお願いします。)。

『リズムから考えるJ-POP史』刊行記念イベント ~J-POPのリズムを分析する〜

10月5日(土)
出演:imdkm、神野龍一
会場:出町座フリースペース 京都市上京区三芳町133
開場:19:15/開演19:30(21:30終演予定)
参加費:500円
要予約、Googleフォームよりお申し込みください。

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【お知らせ】9月25日(水)『リズムから考えるJ-POP史』刊行記念トークイベント@渋谷ユーロライブ w/ tofubeats

私の単著『リズムから考えるJ-POP史』(blueprintより10月3日(木)刊、全国書店のほかAmazonで予約可の刊行記念イベントとして、本書に解説文を寄せてくれたtofubeatsとのトークを開催します。9月25日(水)19時~、ところは渋谷ユーロライブ前売1,500円/当日2,000円。と「がっつり金とるんかい!」という感じになってますが、本書の内容を踏まえたうえで、あるいは思いきって逸脱して、まあなんとかお代をいただくぶんは実のある話をできればと思っています。話が達者な(そして解説文もまっとうに書いてくれた)tofubeatsが相手ということで、ダダスベりという事態にだけは陥らないでしょうが……。現在考え中。

ちなみに、当日は書籍の先行販売もします。なんと一週間以上早く! ゲットできる! ちなみにチケット代とは別だぜ!(すまんな)

『リズムから考えるJ-POP史』刊行記念トークイベント

9月25日(水)
出演:tofubeats、imdkm
会場:ユーロライブ 渋谷区円山町1-5 KINOHAUS 2F
開場19:00/開演19:30(21:00終演予定)
チケット(前売)1,500円/チケット(当日)2,000円
前売チケットの購入はPeatix(要会員登録)、もしくはGoogleフォームから予約も可。

これは計画中ですが関西でもイベント打てたらな~と思ってます。割と告知急になる可能性あるので関西圏のかたよろしくです……。

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カーク・ウォーカー・ダグラス『カニエ・ウェスト論 《マイ・ビューティフル・ダーク・ツイステッド・ファンタジー》から読み解く奇才の肖像』池城美奈子訳、DU BOOKS、2019年

 このところJ Dilla Donuts を題材にしたジョーダン・ファーガソンの著作やAphex Twin Selected Ambient Works Vol.2 を題材にしたマーク・ウィーデンバウムの著作など、次々と翻訳紹介が進んでいる英Bloomsburyの人気音楽叢書、33 1/3。ラインナップはすでに膨大なものでなかなか玉石混交という話も聞くが、「一枚のアルバムをピックアップして、アルバムと同時にそのミュージシャンのキャリアまでを一冊かけて評する」というスタイルはキャッチーで興味をひく。

 次訳されるのはなんなんやろか、と思っていたらKanye West My Beautiful Dark Twisted Fantasy (以下、MBDTF)を切り口にカニエ・ウェストを語り尽くした一冊が、池城美奈子訳で出た。それがカーク・ウォーカー・ダグラス著、池城美奈子訳『カニエ・ウェスト論 《マイ・ビューティフル・ダーク・ツイステッド・ファンタジー》から読み解く奇才の肖像』(DU BOOKS、2019年)だ。ちなみにご厚意によりご恵投いただきました。ありがとうございます。

 カニエはいまなおクリエイティヴィティもお騒がせ度も延々と高め続けるアメリカを代表するラッパー/プロデューサーではあるが、その音楽性を微に入り細に入り論じた評論というのを日本語で読む機会は少ない。ともすればゴシップ的な消費をされかねないところに、この訳書が発売された。満を持して、というところだろうか。ちょうど次のアルバムらしき作品の情報がキム・カーダシアンのSNS経由で発表されたところだし。

 本文について率直に言うと、面白いのだが、単純に文章がむちゃくちゃ読みづらい。音楽のみならずアメリカのハイカルチャーからローカルチャー、あるいはヨーロッパの近現代美術の知識までを総動員しながら、もってまわったレトリカルな語り口でMBDTFの音楽性、メッセージ、ヴィジュアルまでを読解して評価していく。訳者があとがきで指摘する通り、「学者肌の音楽好きが、読みやすさを度外視して過剰な知識と語彙力、想像力を駆使した論文のような本」(p.198)である。

 カニエの、そしてアメリカの(SNS時代以前から)抱えるナルシシズム。あまりにも過剰で、それゆえに断絶や矛盾を抱え込んだ音楽性それ自体が持つ現代性。そしてカニエのアーティスティックな妄執が生み出す言葉やイメージの的確な読解。トピックの選び方も分析・解説の手際もおもしろい。読み手に優しく懇切丁寧にこのアルバムの魅力を伝えよう、などとは毛頭思ってなさそうだが、アルバムの面白さをしっかりと論じきっているのはたしかだと思う。Yeezusをめぐる評価は個人的には(池城さんも言ってるが)どーかなと思ってしまうが。

 訳語のチョイスというかニュアンスがわからないところもいくらかあったのでKindleで原書も買って(1000円くらいです)見たんだけれど、「原文だったらわかる(=訳が悪い)」というわけでもない、わかりづらい文章だった。これはしょうがないと思う。おひとりで訳しきったのは結構な仕事だったのではないだろうか。具体的にめんどくさいところはちょっとだけあとで書いておくがここはひとまず。

 やっかいな本ではあるのだが、読み切ったあとにあとがきで池城さんによる本書への評価を読みひといき。そしてゼロ年代を通じたカニエ・ウォッチャーとして彼の仕事を目の当たりにしてきた池城さんによる、当時の記事をひっぱりだしてきて再考することで浮かびあがらせようとする充実したあとがきの内容がよい。これがなかったら相当きつい本かもなあ。と思う。もちろん「本文よりあとがきのほうが~」などというつもりはない。単純に、ぐぇーっと思いながら読み切ったあとに登場する池城さんの文章の安心感。そしてあとがきに盛り込まれたたしかな情報量。両輪あってこそだろう。価格も手頃(2000円弱というところか)だし、おすすめです。

 ところで件の「めんどくさいところ」。だいたいめんどくさいんだけれど、個人的な関心に引き寄せて2点ほど挙げておく。むちゃくちゃ重箱のスミみたいな話なのでそういうの好きな人向けに。

 まず、アルバム各曲毎の議論に移る前、いわば総論に当たる部分で披露されるアートフォームとしてのコラージュが持つ今日性に関する議論は、内容に新規性があるというわけではない(むしろなんか古臭い)にせよ、サンプリングという技法を考察するうえで必要な論点を提示している。しかし重要であればあるほど凝った、もってまわった話し方をするくせがあるのか、訳がいきおい意訳を差し挟むことになるのは致し方ない。ので、仮にある程度厳密な理解を求める人であれば原文もあたったほうがいいと思う。一冊訳しきるような仕事は無理でも(そう思うとやはり池城さんのかけた労力は凄まじいし畏敬の念を抱く)、1パラグラフとか1文くらいの精読だったらシロウトでもあるていど歯がたつ。

From the heyday of Dadaism and Cubism onward, the most effective collagists, with materials as varied as industrial detritus, voicemail messages, and ATM surveillance footage, have used discontinuity to mirror indwelling ideas about art. Through collage, the artist insists on exemption from generic mandates and programmatic techniques, freeing himself to intuit undiscovered possibility.

Graves, Kirk Walker. Kanye West’s My Beautiful Dark Twisted Fantasy (33 1/3) (p.41). Bloomsbury Publishing. Kindle 版.

 いや、まあ、言ってはみたものの、上記のように原文でもいきなりピカソやらダダの話をしだすので大変である。書く方は自分の考えの赴くままに筆を走らせたのだろうが読む方というか訳者は…… いや、ちかぢか単著を出す身としてあまり偉そうなことは言えないのだが。 訳してみるならこうなる。

ダダイズムとキュビズム真っ盛りのころからこのかた、目立ったコラージストたちは、産業廃棄物、ボイスメールのメッセージ、そしてATMに設置された監視カメラの映像まで多様な素材を携え、不連続性を使って、芸術に関する内に秘められた理念を忠実に映し出そうとした。コラージュを通じて、芸術家は〔芸術家に託される〕ふつうの使命とか予め定められた技術から自由であることを求め、いまだ発見されていない可能性を直感するために自らを解放したのだ。

前掲箇所を拙訳

 池城さんの訳は基本的に文意を反映しているものの、ところどころ日本語としての通り方の問題もあってか目的語や補語、主述を入れ替えて意訳している部分が多いと思う。すると「 不連続性を使って、芸術に関する内に秘められた理念を忠実に映し出そうとした have used discontinuity to mirror indwelling ideas about art」が「芸術が内包するアイディアの不連続性を映し出した」(p.72)と各語の統語上の関係がやや崩れている箇所がある。これを日本語の読み物としての体裁と本文で展開される議論への細部まで漏らさぬ厳密さの天秤と思うとやはり難しい。翻訳は難しい……。

Only through the personal act of selective appropriation, the collagist asserts, can we find what we never knew we sought – the elusive pattern inscribed within chaos, the harmony encoded in noise. As a mode that celebrates fragmentation and obscurantism, is there a form of art more commensurate with life in the twenty-first century?

Graves, Kirk Walker. Kanye West’s My Beautiful Dark Twisted Fantasy (33 1/3) (pp.41-42). Bloomsbury Publishing. Kindle 版.

 2,3文飛ばして、ダダイストにシンパシー持つ者として深く共感したのがこのくだりで、まあ共感っていうかダダイズム(偶然性、あるいは後のシュルレアリスムにおける無意識概念とか)をめぐる議論の定番っていう感じの話だから、わざわざ「コラージュこそが21世紀の芸術だ!」みたいなことを言われても「んなもん20世紀から、あるいは19世紀からずっとそうなんですが」と思うのもたしか。しかし、それがカニエ・ウェストというこのうえなく21世紀的でアメリカ的なペルソナや作品と結び付けられるのは単純に面白い。一応訳するとこうなる。

コラージストたちの主張するところでは、選択的な盗用 appropriation という個人的な行為を通じてのみ、私たちは自ら探していたことすら気づいていなかったなにかを見つけることができる――カオスのなかに刻み込まれたつかみどころのないパターン、ノイズとしてエンコードされたハーモニーを。断片化と意図的な蒙昧を言祝ぐ様態として、これほど21世紀の生活にふさわしい芸術の形式というものがあるだろうか?

前掲箇所を拙訳

 池城さんの訳だと、「混沌のなかに刻まれたとらえどころのないパターンや、ノイズに埋められたハーモニーだけを通して、私たちは探していたことさえ気がついていなかったものを見つけるのだ」となっている。これが「誤訳」と断言できるほどの確信はないが、ダダイズムやシュルレアリスムなどの歴史的アヴァンギャルドの思想から考えて、”what we never knew we sought”とダッシュで繋がれた”the elusive pattern inscribed within chaos, the harmony encoded in noise”は同格ととったほうが良いと思う。そんなもの、探していたなんて思ってなかったけど、カオスやノイズのなかに思いがけない美ってあるんだねえ! みたいなのがダダイズムや同時代のアヴァンギャルドたちの発見のひとつだから(とても雑で不正確な説明ですが)。

 多分こういうことが言いたいんだろうなと思いつつも、もうちょっとわかりやすく書いてもいいのに。めんどくせぇな……と思いませんか。ワタシが怠惰なだけかも?

 もう1つ。「Runaway」を分析した章は、カニエのアーティストとしての方法論、とりわけサンプリングという技法に関するカニエの卓越を論じていておもしろく読んだ。特に次の一節は詩的な隠喩も効いてなかなかぐっときたものだが、どう理解して日本語に落とし込むべきかはかなりめんどくさい。ここについては池城さんの訳は順当ではあると思うけれど一応原文もみて、そのまだるっこしさに触れてみる。

Forget Walker’s drum lick. Time is the funky march, the syncopated breakbeat played back to you at odd tempos by your memory. Time samples your life, compresses and extends and loops whole chunks of it. Time can amplify the overtones of a long gone lover’s sigh, rewrite the lyrics to your marriage vows. Manipulating the shape of our experience, time heals our wounds by changing the way we remember them. The site of today’s demoralizing collapse is the groundbreaking for tomorrow’s greatest triumph.

Graves, Kirk Walker. Kanye West’s My Beautiful Dark Twisted Fantasy (33 1/3) (p.95). Bloomsbury Publishing. Kindle 版.

 比喩まみれ、関係詞も大胆に省略してカンマで言いたいことをつないでいく文章だ。しかし、そもそも時間と記憶の関係自体がサンプリングという技法と深く結びついていることを鮮やかに示している。めんどくさい書き方もこういう魅力がたまにある。強いていえば池城さんの訳で「シンコペートするブレイクビートは……再生される」(pp.145-146)となっている部分は、めちゃくちゃ細かいんですが、前後の部分と合わせて、「時の経過はシンコペートしたブレイクビーツであり……」などと主語を揃えてもよかったのではないかと思う(カンマを挟んで2つの句は同格だと思うので)。しかしもはやそれは個人的な好みだろう……。一応拙訳。

「ウォーカーのドラムフレーズはおいておこう。時間こそがファンキーな行進であり、時間こそが、あなたの記憶が奇妙なテンポで再生して聞かせる、シンコペートしたブレイクビーツなのだ。時間はあなたの人生をサンプリングし、そのかたまり全体を圧縮し、引き伸ばし、ループさせる。時間はずっと前に去った恋人のため息が湛える倍音を増幅させることもあれば、歌詞を自分の結婚式での宣誓の言葉に書き換えることもある。私たちの経験のかたちを操作し、私たちの記憶のあり方を変えてしまうことで、時間は私たちの傷を癒やす。こころを挫くような破滅の跡に今日見えるものは、明日の偉大なる勝利への地ならしでもある。」

前掲箇所を拙訳

 サンプリングという技法は過去のサウンドをそのまま引用したり、切り刻んだり、引き伸ばしたり、早回し/遅回しすることで独特のテクスチャをつくりだす。それは音響的な操作であると同時に、人間の築いてきた歴史や個人的な記憶に対する操作でもある。だとしたら、そもそも時間の経過のなかに生きるっていうのはサンプリングのプロセスのなかに生きるみたいなことだ、と。

Kanye understands this principle, experiments with it. His best samples play with the idea of time’s weirdness, its transformative irony, discovering the sonic vernacular of the future in the scattered potsherds of the past.

Graves, Kirk Walker. Kanye West’s My Beautiful Dark Twisted Fantasy (33 1/3) (p.95). Bloomsbury Publishing. Kindle 版.

「散乱する過去の陶片 the scattered potsherds of the past 」に「未来の音響言語 the sonic vernacular of the future」を見出そうとするカニエ、ちょっと違うけどベンヤミンの「歴史の概念について」に出てくる歴史の天使を思い起こさないでもない。過去の残骸を拾い集めながら未来の言葉を紡ぐ、というのは歴史の天使のあまりの無力さに対してややロマンティックではあるものの、歴史の連続性を退けてあえてアナクロニズムの方へ向かうサンプリングという技法を考える上で、著者が考えていてもおかしくはなさそう。

 とまあ部分部分を深入りしてみたが、こうした個々の議論がカニエ・ウェストという人、そしてMBDTFという作品の全体像を描いていく様子はやはり面白い。アルバム聴きながら、できればSpotifyやYouTubeで片っ端から参照しつつ、もっと欲を言えば原書も年のために揃えて、読むとベリーナイスかもしれません。

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初の単著『リズムから考えるJ-POP史』(blueprint刊)のお知らせ

 わたくしimdkm(イミヂクモ)の単著『リズムから考えるJ-POP史』が10月に発売になります。3日には書店に並ぶようです。

imdkm『リズムから考えるJ-POP史』
blueprintより2019年10月3日(木)発売
四六判・二百六十四頁、1,800円+税
全国書店、もしくはAmazonにて予約受付中

 この本はRealSoundで連載していた同名の企画「リズムから考えるJ-POP史」をもとにしたもので、1989年を起点とするJ-POPの歩みを「リズム」という観点から考察する内容になっています。

 重要なポイントで登場してくるミュージシャンをざっと挙げてみると、折坂悠太、cero、星野源、宇多田ヒカル、trf(小室哲哉)、MISIA、m-flo、capsule(中田ヤスタカ)、ASIAN KUNG-FU GENERATION、Base Ball Bear、DOPING PANDA、KOHH、BES、S.L.A.C.K.(現5lack)、DA PUMP、RADIOFISH、サカナクション、UNISON SQUARE GARDEN、宇多田ヒカル、三浦大知…… とまあ、他にもいろいろ出てくるんですが、いわゆる「J-POPの30年がまるわかり!」みたいな本ではぜんぜんないです。あくまで、「このリズムヤバいよね」とか「このリズムってなんだったんだろうね」みたいな発想ありきなので。とはいえ、内容を読むとある程度クロノロジカルにトピックが並んでいるのもわかっていただけると思います。

 どんな話してんの? って言われたらまあ連載をチェックしてみて欲しいところ、しかしよい動画を以前アップロードしていたのを思い出しました。

 まあこういう話を延々一冊やってるようなもんだと思ってください。そうとも限らないですがまあ……。

 とはいえ、一点注意しておきたいところに、リズムといってもいろんなリズムがある、ということ。ドラムやパーカッションが奏でるリズム(ここにベースも加えていわゆる「リズム隊」というのがいわゆる音楽におけるリズム像の定番でしょう)、メロディがつくりだすリズム、あるいは各パートのアンサンブルのなかに浮かび上がってくるリズム、ジャンルに固有のパターン(4つ打ちとか2stepとかね)、時代に固有のパターン……等々、リズムという概念が指すところはさまざまです。この本はある意味で音楽におけるリズムが持つこのあいまいさに思いっきりよっかかっています。でもそれでいいんだ、と思って書きました。なんですかね、時間の感覚を司るものは全部リズムです。極論。

 そのあたりの思いは「あとがき」にも書いたので、まあ、読んでくれッて感じです。

 いつか理論的に整理して…みたいな仕事もできたらいいんでしょうが、そんなん一生モンですよね。本書でも度々参照している佐藤利明『ニッポンのうたはどう変わったか 増補改訂 J-POP進化論』(平凡社ライブラリー、2019年)や、同書で理論的枠組として採用されているピーター・ファン=デル・マーヴェ著・中村とうよう訳 『ポピュラー音楽の基礎理論』(ミュージック・マガジン、1999年)みたいな偉大な仕事であったり、あるいは小泉文夫の歌謡曲論とか、膨大な蓄積を前にして呆然とするばかりですな……。

 そういえば、なんかtofubeatsに解説文を書いてもらってるんですが、これが結構よくて、あの人もっとこういうこと書きゃいいのにと思いました。頼んでみるもんですね。トーフファンの人も必読です。こないだ彼の事務所にお邪魔したときも面白い意見がけっこう飛び出してきました。9月25日に予定されているトークイベントではそんな話もできたらいいなーと思ってます。

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2019年上半期ベストアルバム&トラックまとめ

2019年上半期ベストアルバム

1. Faye Webster – Atlanta Millionaire Club

 これはほんとうによく聴いた。フォークロックの皮を被ったトラップ、R&B。女性SSWの良作が目立つ昨今でもナイスなバランス。Fatherをフィーチャーした「Flowers」は傑作。Spotify

2. 柴田聡子 – がんばれ!メロディー

 日本では柴田聡子が素晴らしいアルバムをリリース。前作がフォーキーだったのに比べると今作はよりグルーヴが強調され、ファンキーに。「涙」の演奏、間の表現が素晴らしい。歌詞もなにもかも。Spotify

3. 100 gecs – 1000 gecs

 エモラップ? フューチャーベース? バブルガムポップ? PC Music勢を思わせる諧謔精神に、パンク&ジャンク&スカムな暴力性が加わった凄まじい一枚。全曲必聴。Spotify

4. 姫乃たま – パノラマ街道まっしぐら

 地下アイドル活動をやめた姫乃たまが盟友の町あかりとのコラボのほか頭角を現しつつあるSSWを起用しつつ紡いだタイムレスなポップアルバム。長谷川白紙による「いつくしい日々」で泣く。Spotify

5. Léonore Boulanger – Practice chanter

 前作『Feigen Feigen』で北アフリカ~アラブの民族音楽とチェンバーポップを融合させたような特異な楽曲を展開したつぎは、ミュジック・コンクレート的なアプローチを全開に。Spotify

6. Carly Rae Jepsen – Dedicated

 全曲よくできたエレポップで時代の空気感にぴったり、のみならず、サウンドのディテイルが異様に心地よい。ノスタルジーでは済まされない高解像度のスマートなポップス集。Spotify

7. 杏沙子 – フェルマータ

 上半期、ことあるごとに口ずさんでいた「恋の予防接種」。予防接種が効かな~い♪ 気の利いた比喩がぽんぽんと繰り出される洒脱な言葉選びはSSWのなかでも群を抜いている。Spotify

8. dodo – importance

 いびつであるゆえに切実、異形であるゆえに直球。「ナード」とかそんな話じゃないのだ。「swagin like that」以来コンスタントに続くリリースがうれしい。このEPも通過点だろうか。Spotify

9. あいみょん – 瞬間的シックスセンス

 四畳半的、生活感のある語彙にも関わらず、不思議と泥臭さや湿っぽさのない良い意味でのキザっぽさが個人的にはすごく好きなんです。アレンジ陣の仕事も見事。Spotify

10. Mom – Detox

 『PLAYGROUND』から一気にドープさを増して、さながらフォーク少年 meets Frank Ocean的な? 音数の少ないビートにほどよいJみが残るメロ、このバランス感覚は凄い。Spotify

11. けもの – 美しい傷

 けものについては出るものだいたい諸手を挙げて愛してしまうので、入れざるを得なかった、EP。都市をふわふわ散歩するかのような前作と比べてレイドバックした楽曲が並び、エンドレスに聴ける。Spotify

12. Flume – Hi This Is Flume

 カラフルな音色やメロディが生み出す華やかさと相反するかのようなインダストリアルなエッジが効いたビートの組み合わせが素晴らしい。SOPHIEなど客演陣も良い!Spotify

13. Shlohmo – The End

 なにげに今年の空気感がいちばん詰まってるのこれかも、と思う。EDM的なカタルシスともトラップの陶酔感とも違う、じわじわと知らぬ間に高揚させていく展開がユニーク。Spotify

14. never young beach – STORY

 Vulfpeckが細野晴臣を演ったら、という形容が思い浮かぶ。つまりサウンドやメロディに対するある種のフェティシズムがつまってるんだけれど、たとえばスーパーの有線でふと流れてきても耳を奪われる普遍性もある。Spotify

15. Inna – YO

 ルーマニアのシンガー、Innaのアルバムは全曲ややオリエンタル(東欧ですし。あるいはロマ文化か)なメロディが印象的で、かつスカスカなプロダクションが現代的。ROSALIAと並べてもよし!Spotify

2019年上半期ベストトラック(31曲)

 Spotifyにプレイリストつくったので、よかったらチェックしてみてください。上記のアルバムから選んだトラックのほか、シングルでしか出てない曲でもこれは必聴やろ、というのをまとめてます。altopalo、江沼郁弥、KEITA、ササノマリイ、浦上・ケビン・ファミリー(現浦上・想起)、折坂悠太、三浦大知等々、いろいろ。

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「父殺し」のない「新しさ」はありうるのか

「父殺し」は「父‐母‐息子」という三者の関係が「いつか息子も父になる」ことによって無限に反復されていくもので、言ってみれば「テーゼ‐アンチテーゼ→ジンテーゼ」という弁証法的なプロセスを家父長制のアナロジーに落とし込んでいる。

新しさこそが絶対的な価値である近代の諸芸術においては、父殺し=弁証法的プロセスが規範となり、先行世代を殺すことこそが新しさを生み出し、歴史を推進する原動力とされた。それは結局「新しさなんてものはもうない」という諦念と倦怠に行き着くしかないのだが。

こうした弁証法的プロセスを前提として歴史を語ることは20世紀も後半になるとだいぶん相対化されたように思うが、より大衆的なレベルでは直観的に把握しやすいこともあって広く使われ続けてきた。その代表例はおそらくロックをめぐる批評的言説である。

まあ、もはやいまどき「カウンターカルチャー」の名を素朴に掲げて文化としてエスタブリッシュされた「父」に対する若き「子」の反発を露骨に語るような人もほとんどいない。しかし言説の端々にその残り香は残り続けている感はある。

それは「新しさ」を絶対的な商品価値としてプロモートすることが使命だったいっときの音楽産業がもたらした後遺症といったところだろう。しかし今や最大の商品は「新しさ」ではなく「ノスタルジー」だ。もはや「新しさ」の可能性のみならず、それを称揚する動機まで失われて久しい。

こうした「新しさ」をめぐる袋小路以外にもこの規範が孕む問題はあり、たとえばそれは単線的な歴史認識や起源の隠蔽だ。不動の「母」に対して「ワタシ=男」だけが入れ替わっていく構図。このことはよく考えることがあって、いわば起源をめぐるパラドックスのようなものがある。

ふつう「起源」というと、一つの点、歴史的・空間的に特定される点を想起するだろう(アフリカにいたとされる人類の「イヴ」のように)。しかしビッグバンという究極的な点を除けば、むしろ「起源」とは複数的なものである。

このことは、「私に父と母がいて、父にも父と母がいるように、母にもまた父と母がいる」という単純な前提を改めて思い出すとあっさり明らかになる。歴史の突端である現在=「私」は、「父」の系譜のみならず「母」の系譜も受け継いでいる。

そのように考えると、次々と代替わりしては殺される「父」をめぐる単線的な歴史は実のところ一世代遡るごとに2のn乗ずつ次々増え発散していく「父」と「母」の逆ツリーであって、この逆ツリーは実際にはいろんな場所で循環したり短絡したりもしている。

さらには起点としての「私」すらも絶対的ではない(いまを生きる「私」は数多く各々異なりながら存在する)とすれば、もはやこれはツリーでも逆ツリーでもない、複雑に絡み合うネットワークである。

生物学的に不可逆なプロセスである世代交代のアナロジーを離れて「文化」の話に移ればそれはなおのこと複雑になる。影響は必ずしも過去から現在へ向かって走るばかりではなく、常にアナクロニズムのうちにあるから。ここではもはや生物学のアナロジーは適用しえない。

単一の起源から多様性が生まれるのではなく、すでに複数の起源が複数の「私=現在」を構築し、相互作用しつづける。そこには「父」も「母」も存在しない。「血統」とか「世代」といった概念すらどこまで信頼できるかわからない。

表現するということはある意味で「にもかかわらずあえて系譜を描く」ことに近いが、それは自ら=現在のうちに宿っているほとんど無限に等しい潜在的な多様性の交錯を意識することからしか始まらないのではないか。「父殺し」を欠いた「新しさ」とは。

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埼玉県小川町のカレー屋「CURRY & NOBLE 強い女」は名前に違わずヤバかった

 えー、本日の日記は特別編ということで、埼玉県比企郡小川町にできたばかりのカレー屋さん「CURRY & NOBLE 強い女」訪問記です。パキスタン風の無水カレーを出すこのお店、店主はおれの学部時代の同期で、卒業後はライヴハウスのブッキング担当などをしていた。そんな彼女がカレー屋をはじめる、しかもすげぇ名前で、というのは寝耳に水の話だった。たまたまいい時期に東京に滞在する予定だったので、「強い女」という強烈な名前に好奇心を抑えきれなかったフォロワーなどと共に埼玉まで脚を伸ばしたのだった。

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 具体的にお店についてレポートするその前に、小川町についてわかる範囲で説明を。小川町は東武東上線の終点。池袋から1時間ちょいくらいで行ける適度な田舎。「郊外」というには「山」すぎるけど、マジの「田舎」と言うほどでもなく、きっちりと開発されている印象だ。2011年の震災をきっかけに移住者が増え、都心への交通の便がよいこともあって家庭を持ちはじめるくらいの世代が結構チェックしている町らしい。また、小川町を含む比企郡一帯は野外アクティヴィティ向けのレジャースポットを多く抱えているらしく、同行者のひとり(レトリカ松本氏)は小川町にパラグライダーを体験しにきたことがあるらしい。

 というとなかなか賑わっているようにも思えるが、実際にはシャッター街化が進んでいる。商店街らしい商店街があるわけではないのだけれど、駅から「強い女」に向かう道中は空きテナントや空きビルが目立った。逆に言うと、それだけなにかを起こす「すき間」が街のなかにあるわけで、同行者たちはかなり興味深く物件を物色していた。単純に住もうと思うと人気の上昇に伴っていい物件が見つかりにくくなっている、と「強い女」の店主は言っていたけれど、それでも家賃相場はかなり安いし、あるいはリノベーションを前提に物件探しをすると掘り出しモノ――具体的には「強い女」が入居した物件――が見つかるらしい。

 ようやく本題。「強い女」は、通りを歩いていると前触れなくいきなり登場する。淡い青のファサードと店名を告げる窓のカッティングシートが洒落ていて、「すき間」だらけの街のなかにすっぽりと収まりつつも強烈な存在感を放っていた。

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 空き家を完全DIYでリノベーションした店内は、無塗装のコンパネをところどころ残した手作り感と、肝心なポイントはスマートにキメるバランス感覚が心地よい。

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 店内はカウンターのある土間と、板張りのスペースにわかれている。それがまるでステージのようなので、小さなライヴやトークイベントなんかにはうってつけだろう。話によると、近い内にアップライトピアノを店内に置く予定とのことで、アコースティック中心のライヴイベントはもちろん行っていくつもりらしい。(二枚目で微笑んでいるのが店主である)

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 肝心のカレーは鶏肉がたっぷりはいった、トマトベースの無水カレー。カレーには詳しくないけれど、辛さを推すというよりはトマトの酸味と肉のうま味をスパイスで引き立てるやさしい味だった。さらに、ちょっと変わった風味のする岩塩を「ちょい足し」することで味のインパクトががらっと変わる。酸味のニュアンスを楽しむカレーから、シャープなうま味が食欲をそそるカレーになって、結構面白い。ある種スポーツのように汗をかいて味わうというよりも、親しみやすい入り口とじっくり味わう繊細さで惹きつける感じか。

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 頼んだのはサラダバーと食後のお茶、そしてデザートがついたセットだったので、京番茶とチョコレートケーキをカレーのあとにいただいた。カレーに番茶って意外と合うのね……とよくわからない感慨に包まれた昼下がりであった。

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 ちなみに「強い女」のとなりは、ファミリースナックの「つよいみかた」。ここは子供連れでも入れるカラオケスナックをめざしてつくられたそうで、新宿ゴールデン街を渡り歩いた経歴を持つママが賑やかに出迎えてくれる。もはやここでは酒を飲んで楽しかったなあみたいな感じになっていたのでレポートにはならない。すみません。でもカレー食ったあとに流れで一杯酒のんでわっはっは、みたいなの、どんな平和な午後だよ、と思った。

 いろいろとおもしろいし気になるところが多かったから、「強い女」って名前の由来についても訊いてみたんだけれど、直接的な由来は秘密、とのことなのでここには書きません。でも、「強い女」という名前が時代の風を読んだ結果ってわけじゃなくて、店主が仲間と店の構想をふくらませるうちにたどりついたフレーズだったのは面白かった。店内ではずっと女性のフォークシンガーの楽曲が流れていて、それも「こういう人たちの曲が流れているようなお店っていいよね」という彼女たちなりの理想を求めた結果だという。

 まあ、要はどれもこれも、やりたいことを好き勝手やってるだけなんだけど、それが絶妙に「強い女」っていう店名に説得力を与えていた。店主はちょっと童顔で、京都育ちゆえか言葉遣いもぱっと聴いただけだと柔らかい。でも凄く芯があって野心があって、「こういう強さっていいよな」と思える。冗談めかして「『強い女』って言って出てくるのが私みたいなのだと、『どこが強い女なん?』ってなると思う」と言っていたけれども、とんでもない。こういう強さを胸張って強さと言える世の中にしてくんだよ君らとかおれらがさ、と思った。

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私的2018年のベストアルバム・EP、25枚(25位~11位まで)

 2018年はいい音楽がたくさんありましたね。そのなかから25枚ほど選んでみました。順位は一応つけてありますが、まあもうだいたい甲乙つけがたいっすよ。トップ10枚はゆるがないかもしれないけど。25位から11位まで。トップ10だけ見たい人は↓の記事をどうぞ~。

caughtacold.hatenablog.com

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The mask of masculinity is a mask that's wearing me

 音楽好きおじさんによるマウンティングがどうの問題が断続的にバズる昨今、思うのだけれど、そもそも世の男性の多くは自分も含めて実はマウンティング以外のコミュニケーションの切り出し方を知らないのではないか。というのはマスキュリンでホモソーシャルなコミュニティにおいては通過儀礼のように他人にマウンティング的な問答をしがちだからだ。それを通過するとコミュニティの内部における位置が定まり、かつそのコミュニケーションの様式を守る限りコミュニティの内部においてはある種の免状を手に入れたも同然、ということになる。マウンティングを乗り越えるということは男性にとって「盃をかわす」ことにている。

 問題はそのコミュニティには外部があるのに、そうしたコミュニケーションの様式をどこにでも通用する印籠がごとく誇示してしまうことだろう。でもって事実それは(男性の側から見える景色のなかでは)通用してしまっていたのだ。傷つけ、抑圧し、あるいは敬遠され、当人には気づかない。

 似たような事例に「下ネタ」がある。しばしばミソジニック、ホモフォビックな下ネタに、いかに「上手に」のっかるか。男性中心のコミュニティにはそんな規則みたいなものがある。そうしたコミュニケーションの様式にうまくアジャストできれば地位は上がるし、外れれば場から排除されてしまうので、初めはそれに抵抗を抱いていたとしても、そのコミュニティのなかに居場所を求める限りそうした表現に慣らされ、いつしか内面化してしまう。でもって最悪なことに、コミュニティの外側(直接的には女性や同性愛者、あるいはそうしたコミュニティに属してこなかった男性など)にもまた、「友愛のしるし」かのように下ネタをふるわけだ。よかれと思ってミソジニー、よかれと思ってホモフォビア。世のセクハラってそういうことだと思う。だから男性からしたら「女性とコミュニケーションをとるなってことか?!」みたいに感じられる。

 男性が社会生活を通して学ぶコミュニケーションの類型はあまりにも貧しい。そしてまた、自分の苦しみを語るボキャブラリーも。「非モテ」とか「弱者男性」、そうだな、これもまたTwitterでバズってた話を持ち出してしまうけど、加藤智大の手記や、それに対するリアクションとか、ああいうのを見ていると、世で語られる男性の「生きづらさ」はあまりにも類型化されていてなんだかたしかな手応えがない。いかにして「生きづらさ」を語り、乗り越え、あるいは変えていくかということに対する解像度がめちゃくちゃ粗いんじゃなかろうか。この「貧しさ」あるいは「粗さ」こそが男性性の最大の敵という気がする。

 話は変わるけど、ヒプノシスマイクの脚本家が過去にしたツイートが女性蔑視的であるとして韓国で波紋を呼び、脚本家を交代させようという運動が起こっている。その規模が実際のファンベースに対してどのくらいのものか、いまいち把握しきれていないのだけれど、指摘を受けているツイートを見ると、いかにも日本の男性――とは実は限らないのだが、それはそれとして――がよくやる、軽いユーモアのつもりでセクハラ丸出しの、中学生とか高校生に対するノスタルジーロリコン精神が混じり合ったきわどいジョークで、しかしこう指摘されでもしなければさらっと受け流してしまうほどには自分のなかで自然化されているジョークでもあった。

 実際に脚本家がロリコンであるかどうかはさておくとして、ロリコンをネタにした冗談を悪びれずにちょっと気の利いたネタツイくらいの感覚でツイートできてしまう、ということ自体が、日本の倫理水準のおかしさの指標になっている。「いやいや、ただの冗談だよ」というほうが実はまずい。なぜなら、「このくらいの冗談はアリ」というコンセンサスが世間にあるということを証明してしまうからだ。特にいまや覇権レベルの人気を博す女性向けコンテンツに関わっている人がこういうこと言っちゃうの、と、日本のコンテンツ業界特有の妙な「寛容さ」(もちろんアイロニーとして)に慣れない人はドン引きだろう。

 果たしてヒプマイの脚本家に対する抗議運動がどういう展開を見せるかはわからない。だって結構属人的なプロジェクトじゃない? 脚本家の肝いりで始まったというか。そこをすげ替えて運営できるほどのシステムができているのか。あるいは百歩譲って交代はないとして、こうした指摘に対して誠実に対応することができるのか。「日本じゃこれくらいの冗談は当たり前だし、そんなこと言われてもしょうがないっすよ」みたいに済ませるのだろうか。そういうのの積み重ねで後戻りできないレベルで日本の倫理観はだめんなってると思うのだけれど。

 ヒプマイは作品世界内での(「女尊男卑」設定のセンセーショナルな印象とは裏腹な)マッチョイズムやホモフォビア的発言、あるいは世界の描写に含まれるジェンダーバイアスなどで議論を呼んでもいるが、そこには常に「実は○○という設定があってこういう言動や描写になっている」という解釈の余地が残っている。しかしコンテンツを作る側、とりわけこのコンテンツの要となる脚本家が、極めて日本的な「寛容さ」にどっぷり浸かっている様を見ると、そうした「解釈」も単なる忖度なんじゃないかと思えてしまう。ついでに、せっかくユニークな設定をつくりだしたのに、ヒップホップのマッチョイズムもベタに取り入れてしまってるんじゃないか、とか。

 そういうわけで、ホモソーシャルな共同体におけるコミュニケーションのプロトコルミソジニーホモフォビアとシスヘテロ男性目線での「下ネタ」、そしてマウンティング)がいかに男性の「生きづらさ」を貧しくしているか、ということと、こうしたプロトコルがいかにポップカルチャーを通じて日本に浸透しているか、を最近しばしば考えた。2018年はそういう年だったと思う。自分もいち男性として配慮のない失態を繰り返した一年でもあったし、そんななかで物書きとして徐々に仕事が増えていったことで、結構葛藤が続いた。しかしここで言葉を、自分が使える語りの方法を増やしていかなかったら、ずっと自分は非モテとかそんな話をし続けないといけなくなるんだと思うとその方が怖い。その点、励みになったのは、やはりIDLESだったのかもなあ。2018年のベストアルバムはまた別に発表するし、恐らくそこにIDLESはあえて入れないかもしれないけれど、自分の立ち位置を振り返ろう、というときに戻っていく作品はIDLESだった、その意味でベストアルバムは『Joy as an Act of Resistance』だろう。

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