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書評:松本直美『ミュージック・ヒストリオグラフィー どうしてこうなった?音楽の歴史』(ヤマハミュージックエンタテイメントホールディングス、2023)

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西洋音楽史の本は硬軟さまざま出版されているけれども、本書『ミュージック・ヒストリオグラフィー どうしてこうなった?音楽の歴史』は「そもそも音楽の歴史はどのように編まれ、書かれてきたのか?」にフォーカスすることで、音楽史という分野のおもしろさと奇妙さを紹介するちょっと捻った一冊。なにを取り上げ、なにを割愛するか? といった出来事や人物、作品の取捨選択にとどまらず、音楽史においてさまざまな方法論が試みられ、乗り越えられ、更新され、いまなおダイナミックに変化をしつづけていることが伝わってくる。

扱われるトピックは多彩で、第一部では「肖像画」「伝記」「年表」というキーワードを軸に「どのような動機で、いかにして音楽史は書かれはじめたか」を解説。第二部では音楽史そのものが迎えた変遷や、いわゆる「名曲」群がどのように形成されてきたかを批判的に検証。第三部では音楽史が現代にはいってどのように変化してきたか、そしてどのような変化を目指しているかが語られる。

それぞれ興味深い話が多いけれど、第11・12章でのこれまでの音楽史の批判的乗り越え(音楽史が抱える西洋/東洋、ジェンダー、人種問題に関する課題にどのように向き合っていくか、グローバリゼーション以降の音楽史とは、等々)をめぐる話はやはり興味深いし、クラシックに興味ありません~みたいな人でも示唆を受ける記述は多いだろう。

とりわけ音楽について書く人にとって、「なんのために、どのように」歴史を書くのか、つまり音楽を語る方法をめぐる西洋音楽史の蓄積を知ることは非常に重要だろう。結局、ロック以降の音楽ジャーナリズムと根本的な課題はそこまで変わらんやん。と思ったり。「肖像」や「伝記的逸話」を専門的な記述の代替として音楽を勝ち付ける道具とするとか、まあポップ・ミュージックのジャーナリズムとさほど変わらんな、とか。

一方で、ポップ・ミュージックにおいてしばしば影響関係を示す「ファミリーツリー」が描かれるのを踏まえると、「はじめに」ほかで指摘される、西洋音楽史は「「鎖」として繋がっているかどうかもわからない事例を取り上げつつ、そこから「一貫した一つの物語」を編み出さなければならないという二律背反」を抱えているという点は、地味に重要な気がする。1

そうした共通点と差異を踏まえながら読むのが一番おもしろくて身になるんでなかろうか。と思うけれど、単純に読み物としても面白い。ただ、「親しみやすさ」をつくるためのささいなレトリックがちょっとノイズに感じられたりもして、内容の面白さで押し切ってもぜんぜんいいのに……と少し残念な気持ちにも。

  1. こうした「アーティストや作品を誰々の系譜に位置づける」という発想は、歴史意識を内面化した近代以降の芸術によくあるところがあり、ポップ・ミュージックに固有というよりは、そうした近代的な芸術観の転用みたいな側面が強いのではないかと思っている。ポップはいまだ生き延びる「モダン」なのではないか。 ↩︎
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ポプミ会アドバンス(Simon ReynoldsのRetromania読書会)、一区切り

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2023年4月から、大体月イチペースでSimon ReynoldsのRetromania: Pop Culture’s Addiction to its Own Pastの読書会をオンラインで開いていた。以前開いていた読書会の延長ということで、「ポプミ会アドバンス」とした。日本語のてごろな文献ではなく、未邦訳の文献を読むからちょっとモチベが高めのひとじゃないと大変そうだな、という思いもあり、「アドバンス」。

原書を翻訳して訳文を読み上げコメントする、シンプルなスタイルでこつこつやっていった結果、イントロダクション、プロローグ、第二章(TOTAL RECALL)を読むことができた。なんだかんだ、みんなDeepLとかGoogle翻訳とかを駆使して読んでいたので、バキバキの英語力がなくても翻訳ツールを使えばまあここまでは読めます。みたいな感じの実感が得られた。

年内はとりあえず一区切り。年が開けて2024年からはもう一章ぶん追加で読むつもり。半分仕切り直しみたいなかたちになるので、新たに参加するならこのタイミングかも。参加希望の方はDiscordのポプミ会サーバーまでどうぞ。

本書は、以前書評も書いた柴崎祐二『ポップミュージックはリバイバルをくりかえす 「再文脈化」の音楽受容史』(イースト・プレス、2023年)の執筆のきっかけになった一冊であり、イギリスの音楽評論家であるSimon Reynoldsが、2000年代に顕在化したというポップ・ミュージックの近過去への執着について、それを享受しながらもどうしても抱いてしまうもやもやを吐き出すように書いている本だ。

レトロ志向に対してReynoldsが抱く不安と不満じたいは、2023年に日本に住む人が読んでもある程度共有できるものだろう。過去の名盤を何度も蘇らせるn周年記念のデラックス盤、過去のサウンドを参照してノスタルジーとたわむれる「新しい」バンドたち、コンピレーションやリイシューを通じて行われる過去の再評価等々。むしろ、ぱっと読むと2010年代の動向をある程度予見しているかのようにも見える。

とはいえ、繰り広げられるインターネット観はさすがに時代がかって見えるし、議事堂襲撃事件への参加ですっかり引いた目で見られるようになってしまったAriel Pinkがキーパーソンとして出てくるし、ここまで読んだ範囲でもさすがに10年のギャップというのを感じざるをえない。本書で根本的になされている問題提起にはいまだ検討に値するものがけっこうあると思うけれど、2010年代にいかにインターネットが、音楽が変わってしまったか? ということを注意深く思い起こしつつ読むべきだろう。その意味で読書会というかたちで、みんなでコメントしながら読むのにちょうどよかったかもしれない。

もうしばらくはRetromaniaに付き合っていくけれども、Reynoldsは来年その名もFuturomaniaなる書籍を出版する予定だ。こちらも横目に見ていきたいと思う。

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[Soundmain Archive] TOMCインタビュー プレイリスト制作や文筆活動へも越境する、哲学としてのビートメイキング(2022.02.16)

初出:2022.02.16 Soundmain blogにて。
可能な限りリンクや埋め込みは保持していますが、オリジナルの記事に挿入されていた画像は割愛しています。
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アブストラクトなサウンドコラージュやチルなローファイ・ヒップホップ、ときにはヴォーカリストとコラボレーションした歌モノまで多彩かつユニークなディスコグラフィを持つ音楽家/ビートメイカー、TOMC。その作品はもちろんのこと、意表をつくようなテーマで編まれた批評精神に富むプレイリストや文筆活動も注目を集めている。東京という都市を主題に、ユングの性格類型を骨格としたコンセプチュアルなアンビエント作品『Music for the Ninth Silence』をリリースしたばかりのタイミングで、多方面にわたる活動の原動力について話を聞いた。一部にはフリーの波形編集ソフト・Audacityを駆使した特異な制作スタイルでも知られるTOMCの音楽への姿勢は、想像以上にラディカルで、まっすぐなものだった。

TOMC – Music for the Ninth Silence

コンピを聴き漁る少年がビートメイカーになるまで

音楽の原体験についてまずお聞きかせください。

幼少期に、親が買ったけどあまり聴かれていないままのコンピとかレコード会社単位のボックスセットが家にいっぱいあったんです。それを好奇心からいろいろつまみ聴きする中で、音楽が好きになっていきました。日本の音楽だと、例えば日本コロムビア10枚組とか、カシオペア辺りのフュージョン方面を海・夜などシチュエーション別にまとめた7枚組とか。いまメディアに寄稿していたり、プレイリストを作っているようなポップス全般への関心の原体験だったと思います。そのなかにはシティポップに通ずる70年代後半のクロスオーバーっぽいテイストを持ったものもたくさんありました。他にも、アメリカのオールディーズものや、10ccの「I’m Not In Love」が入っているようなUKポップスのヒット曲集であったり。「コンピっていろんな曲が知れて便利だな」と思って、「NOW」とか「MAX」みたいな、お小遣いの範囲内で安価に手に入るシリーズを中古CD屋で漁るようにもなりました。

10cc – I’m Not In Love

中学生の頃は同時代のメインストリームなJ-POPも格好いいとは思いつつ、そこまで興味を持てなかったんです。当時人気だったバンドよりも先に、コンピに入っていた古いソウルとか、中古屋で100円で売ってたアシッドジャズやシャーデーにハマってしまって、そこで嗜好が形作られてしまったんですね。

自分で音楽を始めようと思ったのはいつごろでしたか。

大学の時にバンドマンをやっている友達がいて、「そんなに音楽に詳しいならつくってみれば?」と言われて。とりあえず、よくわからないままフリーソフトを調べて、そのなかに今でも使っているAudacityがあったんです。当時、World’s End GirlfriendさんのレーベルVirgin Babylonなどからリリースされているcanooooopyさんというビートメイカーの方がGaragebandだけで音楽をつくっていて、当時「フリーソフトだけで音楽をつくる人」とプッシュされていて。「こういう人もいるなら自分もAudacityでやっていけるかもな」と思ったんです。

canooooopy – 混合物のオラトリオ [mono montaged oratorio]

私がTOMCとして最初に作品を出したのは2015年なんですが、canooooopyさんもリリースしていたメキシコのPIR▲.MD Recordsからたまたま出せて。その後、青山・蜂にcanooooopyさんが出演されたときに遊びにいって直接お会いできるということもあったりして、ビートメイカーの道を進んでいこうという気持ちが固まりました。

TOMCさんは、特に最近、作品のリリースペースが早いですよね。Twitterでも次々作まで完成しているとおっしゃっていて。制作のペースは最初からずっと早かったんでしょうか。

最近になって、Spliceを使い出したのが大きいと思いますね。「ああ、サンプルパックを使うとこんなに曲って簡単に作れるんだな」と実感しています(笑)。これまでサンプルの扱いに試行錯誤してきた経験も手伝って、爆発的にスピードが早くなりました。もちろん、そのままサンプルを使っているところはあまりないんですけど、最初の「このパーツを使うぞ!」と見つけるまでのフェーズが短縮されたんです。

Abletonを音源に、Audacityで編む音の世界

一方、今年のはじめにリリースされた『Music for the Ninth Silence』(以下、『Ninth Silence』)は、そうしたサンプル主体のビートものではなく、アンビエントな作品になっていますよね。こちらはどのようなきっかけで制作されたんでしょうか。

「アンビエントをやりたい」というのが先にあったんです。そのときに、一緒にアルバムをつくったこともあるヨシカワミノリさんにキーボードを借りる機会があって。当時行き詰まりを感じていたこともあって、作品の幅を広げるためにも導入して弾いてみようと。

実はAbleton Liveも一応持ってはいて。すごく素朴な話で恐縮なんですけど、Abletonのなかで音色を選ぶと音色がそのキーボードに入って、その音色が出る。「これはいいな」といろいろ試していくうちに、ひとつ琴線に触れる音色があって、それを弾いていったんです。とはいえ、演奏ができるわけではないので、「ここを押さえるとこんな音が出る」というのをウェブで調べては見よう見まねで、おそるおそる指を動かして。録りためたその演奏をつかって、曲を作ろうと。

Abletonで曲をつくろうと思ったことは一度あったんです。でも、MIDIで録ったピアノロールがあって、音がぽつぽつと表示されているのを、どういじっていいかわからなかった。きっとコツをつかめばすぐにできるはずなんですけど(笑)。だから全部WAVで書き出して、Audacityに入れて。慣れているから早いし、こっちがいいや、と。

はあ……!

ミスタッチを切ったり同じコード感の部分をテイクの中からまとめたり、Audacityでこれまで使ってきた手法を自分で録りためた音源に適用してつくりました。

じゃあ、Abletonは完全に音源として使った、ということですね。

はい。

僕もAudacityはよく使うんですが、ループの処理やサウンドのバランスをつきつめようとするとなかなか難しく感じます。AbletonなどのいわゆるDAWだと、ループベースで、再生しながらいろいろ試しに積み重ねていく、みたいな作り方もできますけど、Audacityは素材ありき。テープの切り貼りに近いですよね。

そうですね。そう思います。流しながらいじれないですから。

Audacityを使いこもう、と思った原動力ってなんだったんでしょう。

音楽制作を始めたのが人より遅かったこともあり、人となるべく違うことをやりたい欲求が強かったんです。加えて、それまでの人生でレフトフィールドな美術や文学の作品に惹かれてきたこともあってか、はじめから、よくあるタイプの音楽をつくろうという発想自体なかった。途中でBPMがいくら変わってもいいし、拍子の概念すらもどうでもいいというか。Audacityにはリズムのグリッドもないし、BPMの概念もない。サブスクにあげていないような昔の音源はもっとフリーキーで、一曲のなかで曲が5回くらい変わったりしていました。あと実は、即興演奏のバンドをやっていたこともあって。

ああ、そうなんですか!

スカムっぽいものなんですけど。私を含め素人に近い人、演奏が普通にできる人、めっちゃうまい人がそれぞれ1,2人いて、メンバーは日ごと流動的……みたいな。スタジオでのセッションを全部録音して、それを切り出して作品にしていました。そのときの体験がベースにあるのかな。

Audacityを使い始めた頃はめちゃくちゃでした。コード感とかも、いまだによくわかっていない部分があります。当時は素材のキーもわからない。重ねていって形になったらOK! みたいなことをずっとやっていて。

そこからAudacityにどうやって習熟していったんでしょうか。

習熟できているかといわれると、いまだにできていない気がするんですよね(笑)。つくったものの質はあがっているけれど、操作に習熟しているかというと怪しい。むしろ昔のほうが高度な作業をやっていた気もします。最大限の自由さを目指して、拍子の概念も越えていくような……ただ、いずれにせよずっと基本的にやっていることは同じで、素材の切り貼りです。リバーブも最近ようやく外部プラグインを使い始めたんですが、パラメーターもよくわかっていません。あとは、ピッチや速度を変える、タイムストレッチくらいですね。

「地に足のついた」音楽としてのビート/アンビエント

今作のリリース時に、「『サンプリング』という手法に特別な愛着があるのですが、今作は全て手弾きで制作しています」とツイートされていましたよね。その動機も気になります。

今回を機に変えていこうというわけではなくて、私のなかでは自然な動きなんです。人と音楽の関係みたいなものを考えたときに、アンビエントとビートって、実は近いと前から思っていて。たとえば、『ニューエイジ・ミュージック・ディスクガイド』(門脇綱生 編・著、DU BOOKS、2020年)への寄稿では、ローファイ・ヒップホップとアンビエントの近しさについて書いています。生活空間と自分自身のあいだに入ってくる音楽というか……簡潔には言いづらいんですけど。私のなかでは陸続きなものではあると思っていますし、これまでのサンプリングミュージック的な姿勢を捨てたとも思っていないですね。事実上、自分の演奏をサンプリングしてつくっているようなものなので。

確かに、そうですね。

いかにも編集でつくったような、たとえば短いループをロールさせて「ガーッ」と鳴らすエレクトロニカみたいなパートを入れていないので、クラシカル方面に近い印象を受ける方もいると思います。でも全然、「これからは作風を変えて手弾きをメインにやっていく」という気持ちはないんです。

私はあんまり、自分のキャリアを踏まえて聴いてもらうということへの意識がなかったんですよ。かわりに、自分のその時々のダイレクトな心情を作品にのせて、ウェブ上に放つつもりでいつもつくってきた。たとえば、私はInstagramだと比較的日常生活に近い情報を発信しているんですけど、そこで出会う人たちって、私のことはおそらく好いてくれていても、私の音楽や作品のことはあまり知らなかったりするんです。前はそれを寂しいと思っていましたけど、今となっては良くも悪くも気にしなくなりました。むしろ、そういう人たちとふつうに生活している自分の感じを、そのまま素直に作品に出すようになった。前は自分がつくる作品というものと実生活、つまり自分自身との距離が遠かったのが、地に足ついてきた感じです。

そうした変化は、アンビエントやローファイ・ヒップホップへの関心とリンクしているんでしょうか。

はい。自分の生活を見つめ直す機会がここ最近自分のなかで増えていて。食べ物に気を使うようになったな、陽のよくあたる家に引っ越したな、とか。そういう、自分の人生と音楽がはじめてリンクしはじめているかもしれないですね。2019年にジャジーなビートものの連作EPを出していたんですけど、あのときは服でいうところの”着せられている”感があった。『Liberty』(2021)から地に足がついてきたというか、なんとなくわかってきたと思います。

TOMC – Liberty

『Ninth Silence』は、ユングの性格類型を参照した曲名に東京の地名が添えられている、具体的な生活の空間、都市としての東京を主題としたコンセプチュアルな側面もあります。そうしたコンセプトはどのように発想したんでしょうか。

大学進学を期に上京して以来ずっと東京に住んでいて、この作品の素材を録りためていた当時は中央区に住んでいました。福島の片田舎で育ったので、都市や都会というものに無邪気なあこがれがあって、日本橋エリアのあたりに住んでみて、「これが田舎のころ夢見ていた生活か」と。ただ、自分はやはりストレンジャーなのかなと感じることも多くて。自分は家で焦燥感を抱えながらこつこつ制作しているタイプなので、楽しい都市生活を味わいきれない。制作が終わりかけの頃に少し郊外に引っ越したんですが、そのタイミングで、私が送ってきた都心での暮らしと、そのなかで感じたアンビバレントな気持ちを見つめ直したくなったんです。

都市論では、都市が持つ人と人のランダムな出会いの可能性は完全にウェブにのみこまれていて、現実の都市の機能が変わってきていると少しずつ言われ始めていて。コロナ禍になってウェブ上での絡みが増えているのもそれに拍車をかけていて。「私が惹かれていた”都市”とはなんだったのか」と考えるうちに、好きだった場所、私がよく行っていた街のことをタイトルに冠したくなったんです。

音楽としての手触り自体は匿名的で、アンビエントなものである一方、ある種の人間臭さというか、生活が埋め込まれているような印象があります。制作するなかで、そうした要素を意識したことはありますか。

たとえば「Extraverted Thinking (Shinjuku)」の、BPMもなにもないフレーズを不協和にならないぎりぎりまでひたすら重ねていくあの感じは、いま改めて考えてみると、入り組んだ駅の構内とか、混み合った東南口で人とよく待ち合わせた記憶、日曜のホコ天などのイメージが無意識に自分のなかにあったのかなと思います。

「Extraverted Sensing (Akasaka)」は、赤坂のいろんな側面を取り入れようと考えてつくったものです。赤坂って、猥雑な区画もありますが、弁慶橋をこえると一気に閑静になるんですよ。

「Introverted Intuition (Tsukiji)」も、川に面した築地市場の跡地は、夜になるとよくわからない空洞みたいになっていて。築地大橋のうえから眺めると、川と空洞の境界がなくなった、だだっぴろい真っ暗ななにかがあるだけ。そこから振り返ると勝どきの高層マンションが建っている……そんな雰囲気を込めました。こんなふうに、設定したテーマに、自分が街で歩いた感覚を入れ込んでいるんです。

ツールよりも「つくりたいもの」を――Audacityの可能性を広げるもの

Audacityについてもうちょっと突っ込んだお話をお聞きしたいと思います。個人的に、TOMCさんの作品のなかではヨシカワミノリさんとの『Reality』(2020)が印象的なんですが、あれも基本的にはAudacityで制作されているんですよね。ボーカルの入ったポップ・アルバムとして素晴らしい作品で、Audacityでつくったというのがにわかに信じがたいくらいです。

前提として、『Reality』はヨシカワミノリさんの貢献が非常に大きな作品です。曲作りも歌もとても才能がある方で、世に出るチャンスをいっぱい持っていらっしゃるんですが、そのきっかけを掴みつつあるなかで、たまたま一緒につくる機会があったんです。2曲くらいつくって、最初のものは世に出ていないんですけど、次にできたのが『Reality』の最後に入っている「I See You」という曲です。

ヨシカワミノリ & TOMC – I See You (Official Video)

それが私たちにとって手応えがあったので、もっとやっていこう、と。ちょうどそのタイミングで「夢の話をしよう」という曲が、ネットレーベルLocal Visionsを主宰する捨てアカウントさん(@sute_aca_)に取り上げていただいて話題になりました。そうした流れを受けて、せっかくだしアルバムをつくろう、と。

ヨシカワミノリさんとの作業は、具体的にどのように進められたのでしょうか。

基本的には、ミノリさんのデモを私がAudacityに取り込んで編集していく形ですね。ほとんどの曲でドラムは差し替えたりしましたが、「夢の話をしよう」については私がいじる前の時点で現在の完成形に近い状態でした(ネット上にはこちらのバージョンも上がっています)。そういう具合に、音楽的な根幹はミノリさんが担っていて、エディットやミックス、全体的なディレクションが私、という分担です。当時は外部プラグインもゼロで、マスタリングだけ、iZotope Ozoneを使っていました。Audacityで開くと落ちてしまうので、スタンドアロンで使っていたんですが。

シャケボッサ – 夢の話をしよう
ヨシカワミノリ&TOMC – 夢の話をしよう(TOMC Edit)

ヨシカワさんだけではなく、『Liberty』でのバイオリニストのarcomoonさんなど、シンガーや演奏者の方とのコラボレーションも何度かされていますよね。どういったプロセスで進められているんでしょうか。

基本的には、WAVでやり取りしています。曲をつくるときも、マルチトラックをWAVで一本ずつ出して送ってもらい、こちらからもWAVで書き出して送ります。ミノリさんのデモも、トラックをばらしたものをいただいてそれを組み直したり、arcomoonさんの場合は録音したバイオリンの演奏を送ってもらったり。

これまで、コラボレーションは自分の足りない部分を補ってもらうみたいな面が強いものでした。ほんとうにキーとかコードもわからずにつくっていて、『Liberty』のあたりからようやくつかめてきたんですけど、そこでも、私が加工して正確なピッチから外れた上モノへ、arcomoonさんにバイオリンをあわせてもらったりしていて。

でも、最近はそれが変わってきました。カクバリズム所属の「片想い」というバンドで活動されているMC.sirafu(a.k.a mantaschool)さんと、「れいふんれいびょう」というアンビエントのユニットを始めたんですが、そこではお互いにデモをやり取りしていて、私が送ったものに向こうからさらにパスをもらう、という作り方をしています。Local VisionsからリリースしているGimgigamさんともいま一緒に曲をつくっていて、私がパラでデモを渡し、それをいじってもらっています。

自分はミュージシャンシップがあるわけではないんですけど、やっと人とキャッチボールをするような音楽制作ができるようになってきた。これも生活の変化とか、自分の人生の変化とつながっている部分を感じます。

現在、他になにか挑戦してみようと思うツールや楽器はありますか?

ツールや楽器への意欲は基本的にないですね(笑)。つくりたいものはいっぱいあるんです。目的ははっきりしているので、手段はなんでもいいかなと。

Audacityという自分なりに使い込んできたツールを通じて、他の人とコラボレーションして、力を借りるなり、キャッチボールするなりしてできることっていうのはまだまだあると感じられているんですね。

はい。最近、『サウンド・アンド・レコーディングマガジン』さんから新製品のプラグインのレビューを依頼されて、使ってみたんです。そうしたら、「ああ、Audacityでできることがこんなに増えちゃった!」って。まだまだ、Audacityという環境に伸びしろを感じるというか。コラボレーションの過程で、プロジェクトファイルのやり取りとかで相手に不便な思いをさせてしまうかもしれませんが、それ以外の観点ではあまりマイナスはないです。

最初に話題にあがったSpliceのサンプルパックも、伸びしろのひとつですね。

正直、「音楽家って、つくりたいものが先にあるんじゃないのか?」、と昔から思っていて。「こういうものをつくりたい」、もしくは極端な話、「こういう人間に自分はなっていきたい」とか、そういう話をあまりみんなしない。それが少し嫌なんです。機材やプラグインの話も楽しいけど、みんなもっと、つくりたいものの話をすればいいのに、と。

もちろん、オリジナルをつくらないコピーバンドであったり、作品にまとめなくても鳴らしている時間が好き、とか、それぞれの価値観は尊重しています。でも、少なくとも私は、最終的に録音芸術としての作品を残し、その作品を好いてくれる人のもとにちゃんと届けるにはどうすればよいかをずっと考えてきました。そのための手段は今のところAudacityで充分で、Audacityでその目的が満たせるなら、他のものは過度に求める必要はない。そういう考え方なんです。

プレイリスター/文筆家としての思い

録音芸術をリスナー、オーディエンスにしっかり届ける、という姿勢が一貫されているのが印象的で。オーディエンスを視野に入れたそうした姿勢は、音楽制作以外の活動ともすごくつながっている感じがしたんです。TOMCさんといえば、サブスク解禁とほぼ同時にそのアーティストのユニークなプレイリストを公開する……というのがおなじみになってきていますよね。

なんでああいったことを熱心にやっているかというと、自分が好きな音楽が過小評価されている、それを覆したいとずっと思っていたからなんです。特にB’zが最たるものですね。他にも、テディ・ライリー、ボビー・ブラウン、ガイみたいなニュー・ジャック・スウィングであったり、いま使うのが適切な言葉ではないかもしれませんが、ブラック・コンテンポラリーと言われる音楽。AORもそうです。いずれも、少なくとも2010年代前半までは冷遇されてきた印象を持っています。さらに言えば、(前述の)日本コロムビアのボックスセットに収められていたようなちょっとスムースな歌謡曲も。それこそ、近年のシティポップリバイバルブームの中心的な1曲である松原みき「真夜中のドア」も、そんなコンピに入っていたんです。自分の中の積もり積もったなにかが、あのプレイリストの活動を通じて爆発しているところがあります。

「Rare Groove~」という言葉をつけてシリーズ化されていますが、プレイリストに入っている曲はすべてストリーミング解禁前に聴かれていたのでしょうか?

いや、そんなことはないです。たとえば郷ひろみにしたって、和モノ的な文脈を通じて人気の盤を知ってはいても、そうした評価が定まっていないアルバムは聴いていなかったりするので。ただもちろんプレイリストをつくるからには、知らないものは解禁されると同時に片っ端から聴いています。

プレイリスト「Rare Groove Hiromi Go (郷ひろみ)」

私は正直、レア・グルーヴという言葉を軽々しく使ってはダメだと思っているんですよ。そういう言葉が成立した経緯――ストリーミングサービスというものが登場する以前の、フィジカルのレコードをひたすらディグする行為――にリスペクトを払うのだったら、安直に使うべきではないんですけど。あくまで「さだまさしも寺内タケシもレアグルーヴ的に楽しめるんですよ!」と人に分かりやすく伝えるために、キャッチーさを考慮してあえて使っています。

とはいえストリーミングサービスを使ってピックアップするというのも、リスナー・ディガーとしての蓄積があってこそだと思います。そういった意味でご自身に影響を与えた経験ってありますか?

即興をやっていたのと同時期、縁あって箱付きのディスコDJをしていたんです。金・土の固定の数時間、お客さんのリクエストを受けながら有名な曲をひたすら1分半とかでつなぎ続けるタイプのDJですね。当時はクラブ文脈とは異なる“ダンス・クラシックス”をまだまだ知らなかったので、いっぱい勉強したんです。そこで、次々とチェックしていくような聴き方が、いろいろな「音楽の聴き方」のうちのひとつとして自然と身につきました。実はこの聴き方は作品への敬意を欠く感じがして、あまり良くないとも思っているんですが……リスニング経験の蓄積と、そうした聴き方のスキルが合わさって、「これはこういう文脈に結びつけてもよかろう、これはそうじゃない」という判断軸が培われたんだと思います。

文筆活動では、作品を聴き込んでその魅力を分析するディープなリスニングも実践されています。サウンドのプロダクションやミュージシャンのプレイの形容が簡潔かつ的確なのが印象的です。

日刊サイゾーでの連載「ALT View」はB’z、DEEN、ZARD、Mr. Children……といったアーティストに新たな光を当てる好企画。
https://www.cyzo.com/tag/tomc

私が行っていた大学に近い高田馬場のTSUTAYAが、レア・グルーヴなどの特集を多く展開していて、その周辺をいろいろ聴きまくっていた時期があるんですね。特にAORは演奏家カルチャーでもあって、「こういう人がこういう演奏をしている」みたいなことがライナーに書いてあったりするんです。「なるほど、こういうプレイのことは世の中ではこう表現されているのだな」というのを、それで知りました。あと、バンドをやっているときに、うまいメンバーの拍のとり方を学んで。「モタる」とか、「あえてジャストよりも先に鳴らす」とか、「重い」とか……リスニング体験やライナーから学んだことはこういうことなのか、というのを自分のなかで血肉化できたんです。

いままでのお話を聴いていたら、制作や文筆などにまたがるTOMCさんの少し謎めいた活動が腑に落ちました……! 最後に、今後の作品のプランや直近でリリースされるものがあれば。

昨年以降カナダのInner Oceanというローファイ・ヒップホップの文脈で知られるレーベルからビートアルバム(『Liberty』)とアンビエント(『Ninth Silence』)を1作ずつリリースしたんですが、そのふたつの要素をあわせもった作品を今年の後半に出そうと思っていて、もうマスタリングまで済ませてあります。いったんここまでの集大成のようなものにしたいと思って、一部の曲では、かつて「アヴァランチーズ・ミーツ・ブレインフィーダー」と評された2018年頃のテイストも入っています。MC.sirafuさんとの「れいふんれいびょう」も、もう少し世の中の状況が変わってきたらライブを多数行いつつ、音源も随時リリースしていきたいと思います。

そしてアンビエントやニューエイジのアルバムが3枚分、それぞれのコンセプトも人に話せるくらいにまとまっているものがあります。ただ、作風がだんだんシリアスになってきたこともあって、明るいレーベルカラーのInner Oceanにそうした作品をリリースしてもらうのも申し訳なくて。どんなレーベルから出せるか検討しているところです。

最近は地に足がついてきた部分もある一方で、まだもっともっといろんな新しい地平を切り開いていきたいとも思っています。そういう望みは捨てないでいきたい。どんどん上へ、上へと向かっていくチャンスは掴んでいきたいです。

取材・文:imdkm

TOMC(トムシー) プロフィール

ビート&アンビエント・プロデューサー / キュレーター。
カナダ〈Inner Ocean Records〉、日本の〈Local Visions〉等から作品をリリース。「アヴァランチーズ meets ブレインフィーダー」と評される先鋭的なサウンドデザインが持ち味で、近年はローファイ・ヒップホップやアンビエントに接近した制作活動を行なっている。
レアグルーヴやポップミュージックへの造詣に根ざしたプレイリスターとしての顔も持ち、『シティ・ソウル ディスクガイド 2』『ニューエイジ・ミュージック ディスクガイド』(DU BOOKS)などの書籍やウェブメディアへの寄稿も行なっている。現在はサイゾーにてビーイングやMr.Childrenなど日本のポップスを多角的に掘り下げる「ALT View」を連載中。

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書評:アンドリュー・シャルトマン著/樋口武志訳『「スーパーマリオブラザーズ」の音楽革命 近藤浩治の音楽的冒険の技法と背景』(DU BOOKS、2023年)

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アンドリュー・シャルトマン著/樋口武志訳『「スーパーマリオブラザーズ」の音楽革命 近藤浩治の音楽的冒険の技法と背景』(DU BOOKS、2023年)

原著はBloomsburyの名物シリーズ《33 1/3》から2015年に刊行されたKoji Kondo’s Super Mario Bros. Soundtrackで、その全訳となる。

数々の「名盤」を一枚ずつ取り上げる《33 1/3》はちょくちょく(その適度な短さとフォーマットのキャッチーさゆえに)翻訳され紹介されてきた。日本への紹介がもっとも成功した例のひとつが、ジム・フジーリによる『ペット・サウンズ』だろう。村上春樹が訳し、新潮文庫入りもしている。ほかにも、近年ではフェイス・A・ペニック著/押野素子訳『ディアンジェロ《ヴードゥー》がかけたグルーヴの呪文』が2021年に出ているし、カニエ・ウェストのMBDTFとかJディラのDonutsの本が出ていたりする。

《33 1/3》のラインナップを眺めると、「こ、ここにスーパーマリオブラザーズが!?」という気持ちになってくる。じっさい、この本は、このシリーズに8bitのゲーム音楽が含まれることに対する疑念への応答から始まっている。シャルトマンいわく、「私の主張はただひとつ。近藤の「スーパーマリオブラザーズ」の楽曲は、名作アルバムの数々と同じように、知的な分析対象として充分に値するということだ」(p.vi)。それを示すためにこの小さな本は書かれているわけだ。

ニック・ドワイヤーのドキュメンタリーシリーズDiggin’ in the Cartsが公開されたのは2014年。だいたい2010年代なかばから、ビデオゲームのサウンドトラック=ゲーム音楽を「ゲーム」や「音楽」の下位概念というよりもそれ自体を豊かな文化として評価していく言説が増えていく。1日本でもゲーム音楽にフォーカスした書籍が増えていくのがこのくらいのタイミングだと思う。『「スーパーマリオブラザーズ」の音楽革命』が書かれたのは、そうした過渡期といえるだろう。

この本が面白いのは、執筆しているのがクラシックを専門とする音楽学者で、ゲームとかエレクトロニクスの専門家というわけではないということだ。

もちろんテクニカルな解説もしっかり抑えてあり、ゲームのサウンドトラックという表現の特性がどのようなユニークさにつながっているかも詳しく解説されている。レコードや楽譜に刻み込まれた静的な「作品」ではなく、プレイヤーとの相互作用によって体験されるサウンドの面白さに着目するゆえに、作中でマリオの動きに添えられる効果音にも分析は及ぶ。そこでジョージ・レイコフの認知言語学の知見を援用していることも、ゲーム音楽の身体性を論じるための道具立ての工夫として興味深い。

しかし、ハードウェア的な制限をふまえたうえで、オーソドックスな楽理分析によって近藤浩治の作家性を浮き彫りにしていくところが本書のおもしろいところのように思う。その点では、ゲーム作曲家のニール・ボールドウィンとの対談が印象的だ。そこでは、「西洋」の技術的トリックを駆使したスタイルと対比されるかたちで、近藤の、クラシカルな対位法やハーモニーの手法に裏付けられた洗練が評価される(pp.50-51)。この対談を通じて、シャルトマンは「スーパーマリオブラザーズ」の音楽に「転用可能性」――特定のハードウェアにとどまらず、さまざまなメディアに転用 transfer されていくポテンシャル――を見出す。

この「転用可能性」は、マリオのBGMがメディアや時代を超えて、視覚的な要素と同じくらいアイコニックに受け入れられていることを考えればかなり重要な指摘に思える。まあ、構造やメロディがしっかりしていると編曲や翻案に対して強いよねっていうくらいの話ではあるのだけれど。

ゲーム音楽は、特に初期のコンピューターゲームやコンシューマーゲームにおいては、使えるチャンネル数や音源の種類が少ない故に「制限の美学」と結び付けられやすいし、またハードウェアの進化がそのまま音楽的な変化と結び付けられやすい。しかし、ゲーム音楽に耳を傾け、それがうまれる現場や、受容される現場をしっかりと検討していくと、そうした「制限」は単にいまの観点から遡及的に押し付けられている限界にすぎないのではないか? という気がしてくる。それは言い過ぎか?

  1. もちろん、それ以前からオーディエンスや作り手はたくさんいたわけだけれど。特に日本のゲーム音楽文化/市場については、OTOTOYで書評を書いた鴫原盛之『ナムコはいかにして世界を変えたのか──ゲーム音楽の誕生』(Pヴァイン、2023年)に詳しいし、田中”hally”治久『チップチューンのすべて All About Chiptune: ゲーム機から生まれた新しい音楽』(誠文堂新光社、2017年)も、ゲーム音楽に密接に関わり、コミュニティ主導で育まれてきた豊かな音楽文化としての「チップチューン」を広い歴史的スコープで語る素晴らしい本。 ↩︎
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書評:ヤマハ音楽振興会とポプコンについて考えちゃった/萩田光雄『ヒット曲の料理人 編曲家・萩田光雄の時代』リットーミュージック、2018年

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Amazon→萩田光雄『ヒット曲の料理人 編曲家・萩田光雄の時代』リットーミュージック、2018年

歌謡曲の時代からJ-POPの時代にいたるまでヒット曲を手掛けてきた編曲家、萩田光雄の自伝+インタビュー&資料等々をまとめた一冊。Kindle Unlimitedにも入っている。名だたるヒット曲の裏側を知ることができるのはもちろん、歌謡曲からJ-POPに至る日本のポップ・ミュージックの姿がどのように形成されてきたかを垣間見ることができる。

おもしろいところはいろいろあるのだけれど、個人的な関心に即していえば、ヤマハ音楽振興会の重要性が萩田光雄や周辺の人びとのキャリア形成のプロセスから見えてくるところだ。日本のポップ・ミュージックをかたちづくった編曲家の多くはヤマハ音楽振興会で学んだり、あるいは仕事をもらったりして腕を磨いてきた。萩田はもちろん、船山基紀や林哲司もヤマハ音楽振興会出身で、ポップスのアレンジのなんたるかはヤマハの仕事で覚えたといっていい。

さまざまなアーティストを輩出してきたポプコン(ヤマハポピュラーソングコンテスト)だが、その開催にあたっては全国のアマチュアから送られてきた自作曲(しばしば歌詞と歌メロだけ、コードが付されていることもある)を編曲する人材が必要で、萩田光雄はそれに携わることでアレンジを実地で覚えていった。

 この審査用の音源作りでは、私は多くのことを学ばせてもらった。誰かから「こうしてほしい」と言われることもないし、商品ではないので売れるかどうかで評価もされない。気ままに、と言っては申し訳ないが、100%自由にアレンジできたのだ。曲の長さは2コーラスとか決められていたが、テンポは自分の解釈である。イントロももちろん、自分で考えてつけた。今もそうだが、アレンジはキー(調性)とサイズ(長さ)が決まればできるのだ。体当たりではあったが、実践の訓練になったのは間違いないだろう。

 ヤマハには全国に支部があるので、地区ごとに応募がある。恵比寿は財団法人ヤマハ音楽振興会の総本山で、東京の支店は銀座や池袋などにあった。全国の支店ごとに審査があり、支店のグランプリや優秀作品が本選に来るシステムで、私はヤマハ音楽振興会の本部に送られてくる作品を扱っていた。 他にもその仕事をやっている人はいた。あの当時、川村栄二君と一緒だったし、船山基紀君もいたし、林哲司君も出入りしていた。信田かずお君もいたはずだ。あの頃、ポピュラー音楽の専門学校はヤマハだけだったし、私も業界へのとっかかりを見つけるために、ヤマハにたどり着いたんだと思う。

pp.24-25

ほかにも、ジーン・ペイジスタイルのストリングス・アレンジを講師の林雅彦から学んだことが大きな糧になった……等々、こうした証言をまとめていくと日本の(ある時期までの)ポップ・ミュージックのかたちがどう形成されてきたかがよくわかるんだろうな~と思った。

ヤマハ音楽振興会はどうも気になる存在で、特にポプコンまわりのことは調べたいなーと思うのだけれど意外と手頃な資料が見つからない(単行本の一冊でも出てんじゃないかと思ったのだが)。ヤマハの出している「音遊人」という会報でポプコン特集があったらしいとか、ムックが昔でていた(ちなみに今マケプレだとすごいプレミア価格)とか、そのくらい? まあ、いろんな本で取り上げられているから、それらの記述を一箇所にまとめるだけでも面白そうだと思うけど。

ところで、ヤマハの公式サイトでは、ポプコンがこのように紹介されている。いわく、

「音楽の歓びは自分で創り、歌い、そして楽しむことにある」という歌ごころ運動の一環として開催された、アマチュアを対象にしたオリジナル曲発表の祭典です。

ポピュラーソングコンテスト – ヤマハ音楽振興会

ポプコンがはじまったのは1969年、うたごえ運動が盛んだった頃だ。そんなタイミングで「歌ごころ運動」と銘打って、「人々の歌」ではなく「アマチュア=個人による創作」を打ち出すことには、どうも政治的(もしくは脱政治的)なコノテーションを読み込みたくなる。

同時に、1960年代は歌謡曲の世界において専属制度が崩壊しフリーの作り手がつぎつぎ登場した時代であり、そこから1970年代に入るとテレビ局と芸能プロダクションが組んでスターを生み出していく体制が確立されていく。フォークやグループサウンズ、さらにはニューミュージックにつながる動向ももちろん並走している。そこに、レコード会社や芸能プロダクションやマスメディアとは違う、楽器メーカーであるヤマハがどのようにコミットしていったんだろう。というのに割と関心がある。ヤマハのピアノ製造業と音楽教室の関係みたいなのはすでに先行研究が結構あるのだが。ちょっとずつ調べていくけど、なんかいい文献あったら教えてください。

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「DXP(デジタル・トランスフォーメーション・プラネット)―次のインターフェースへ」「コレクション展 2:電気-音」「特別展示:池田亮司」@ 金沢21世紀美術館

そんなわけで金沢21世紀美術館に行っていたのだが、目当ては《100 Keyboards》に加えてコレクション展と池田亮司。ついでに特別展も見てきた。

DXP(デジタル・トランスフォーメーション・プラネット)―次のインターフェースへ

「DXP(デジタル・トランスフォーメーション・プラネット)―次のインターフェースへ」はデジタルテクノロジーの現在をアートで見る、みたいなメディアアート寄りの展示だったのだが、これは非常に退屈だった。

DXP展は、アーティスト、建築家、科学者、プログラマーなどが領域横断的にこの変容をとらえ、今おこっていることを理解し、それを感じられるものとして展開するインターフェースとなります。

金沢21世紀美術館 | D X P (デジタル・トランスフォーメーション・プラネット) ―次のインターフェースへ

というけれど、「インターフェース」としての展覧会の限界を感じてしまう側面のほうが多かった。結局、部屋の中にオブジェクトや映像や文字を配置するという展覧会のインターフェースは問われることがなく(ARで参加を促したり(GROUP、河野富広など)、ゲームをプレイできたり(Keiken)といったものはあったけれど)、かといってそのインターフェースがうまく活用されているという印象も抱けず、言葉は壮大だけど実際の体験としては中途半端、みたいなよくなさ。

シュルティ・ベリアッパ&キラン・クマールのインスタレーションには惹かれたのだけれどもっと空間的な余裕を持って展開されるのが見たかったし、AFROSCOPEのデジタル絵画が液晶ディスプレイのスライドショーで見せられるだけというのはもったいなかったのではないか(そのような展示の条件が提示されていたのかもしれないが)。

解説を読んでいても、なんかどうなんだと思うことが多かった。

レフィーク・アナドールの脳波の運動を可視化した映像とオブジェクト(《ニューラル・ペインティング》)について「視覚化されることで直観的に体験できる」みたいに書いてあったのだけれど、視覚化されたからといって体験できるわけじゃないだろ、というか、その体験は少なくとも「追体験」ではないし、ある状態の脳波に対する理解でもない。可視化することでなんとなく「直観的に体験」した気になれてしまうこと自体に対してちょっとどうなの? って言うべきなんじゃないか。これはビッグデータ可視化系の作品だいたいに言えることなんだけど。

メルべ・アクドガンの廃墟の写真を生成AIを使って復元する作品《ゴースト・ストーリーズ》についても、次のような解説(公式サイトより)はちょっと迂闊じゃないかと思う。

様々な社会的しがらみや先入観により行き詰まる建築の再生を、AIを介することで一足飛びに、新鮮なイメージをアウトプットします。建築という容易には変えがたい対象に対して、ビジュアルで訴えかけることの重要性だけでなく、先入観を超えた先に希望を見出そうとする、AIを介在させることで獲得できる新しい可能性を示しています。

同上

アクドガン本人がどう言っているのかはちょっと調べただけではわからないのだけれども、「AIを使えば先入観のない画像が生成できる」という素朴な楽観論をいまどきアーティストや研究者がとるだろうか……。

コレクション展 2:電気-音特別展示:池田亮司

どちらかというと目当てはこっちだった。

出ている作品は割とすきなものが多くてよかったのだけれど、ジョン・ケージや塩見允枝子、田中敦子のインターメディア的な表現であったり、カールステン・ニコライや毛利悠子、涌井智仁などをはじめとするサウンドや電気信号の物質性や現象にフォーカスした作品は、それだけじゃなくなにか見せ方や語り方を変えていかないと難しいのではないかと考え込んでしまった。

気を抜くと「それはフェティッシュじゃん」みたいになっちゃうというか。フェティシズムも大事だし、っていうかそれぞれの作品が単なるフェティシズムだともまったく思っていないのだけれど、そこに感じているワンダーを他の文脈により開かれたものにしていく回路がもっとはっきり必要だよなと。コレクション展ということもあって既存のフレームを打ち破る見せ方というのはハードルが高いのかもしれないけれど。

招聘作家のひとり、小松千倫のサウンドインスタレーションとオブジェ(素材がひかりのラウンジの天井の木材でキャプションを二度見した。あとずんだもんの声しなかった?)は、個人的に覚えたそういう閉塞感に対して別の視座を持ち込もうという意識が感じられておもしろそうだったけれど体力的にあまりじっくり見れなかった。もう一度見に行こうとしたけど断念。無念……。

あとシンプルに田中敦子のベルがクソうるさいのはめちゃくちゃよかったです。

さて池田亮司。案の定あまり好きではなかった。どんなビッグデータを扱おうとも池田亮司色になるやん。っていうのは作家としては長所でもあり、あれだけ明確なシグネチャーと美的なジャッジがあると見てられるんだよな。その強さはすごいと思う。

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[Soundmain Archive] 高橋アフィ(TAMTAM)インタビュー ドラマーとしての経験から紐解く、サウンドメイクにおける“質感”の重要性(2022.01.21)

初出:2022.01.21 Soundmain blogにて。
可能な限りリンクや埋め込みは保持していますが、オリジナルの記事に挿入されていた画像は割愛しています。

東京を拠点とする4人組、TAMTAM。レゲエ/ダブをルーツに、R&B、ジャズ、エレクトロニックなダンス・ミュージックまでを貪欲に取り入れたハイブリッドな音楽性をポップに響かせるまさしく「フィール・グッド」なバンド(公式プロフィール参照)だ。

そのドラマーであり、アレンジやサウンド面のプロダクションの要を担ってきた高橋アフィが、Forever Lucky名義にて初ソロ作『UTAKATA NO HIBI』を2021年11月にリリースした。ビートテープ(ヒップホップなどのビートメイカーが自作のインストをまとめたもので、現在もしばしばカセットテープで流通する)にオマージュを捧げて編まれた本作は、ざらついたドラムのテクスチャが独特の雰囲気を漂わせる快作。軽やかで気取りないサウンドながら、浮遊するようなリズムとコード感に引き込まれる。

今回は、そのユニークな制作プロセスについて深堀りしつつ、ドラマーという経験に根ざした、サウンドに対する高橋ならではのアティチュードを語ってもらった。

「デカい音」を追い求めて出会ったダブ

まず、オーソドックスな質問になりますが、ドラムをはじめたきっかけについて教えて下さい。

もともと高校時代吹奏楽部に入って、そこで打楽器に出会ってドラムを始めたのがきっかけですね。バンドをやりはじめたのも高校からで、はじめは普通のロックバンドが好きで、コピバンをやっていました。高校3年生ぐらいのときにはフリー・ジャズとかノイズにすごいハマって。自分もやってみようとするんですけど、そのライブっていうのが、盛り上がらない……(笑)。自分たちが下手だったこともあって、本当に「なんでやってるんだろう」っていう辛いライブが多かったです。一方その頃、ヒップホップとハードコアにもハマって、Struggle for PrideやTHINK TANKのライブによく行ってました。自分でもやりたいけれど、それならドラムじゃない方がよいかもと悩んでいました。

そんなある時、Struggle for Prideのライブの対バンで、Vermilion Sandsというダブバンドを観て、「あれ、ダブって、どの音楽よりも音量デカいかも」と衝撃を受けたんです。その流れでHeavy Mannersのライブも見に行ったら、信じられないくらいデカい音が鳴っていて、かつドラムやベースが中心の音楽で、お客さんも楽しそうに盛り上がっているしという踊っているライブを初めて観て。そこからレゲエとかダブをやるようになり、紆余曲折あって今、という感じですね。

Heavy Mannersのライブ映像(2012年、長野「OnenessCamp」)

今はTAMTAMとして活動されていて、特に近作ではダンサブルなサウンドを追求している印象だったんですが、もともとはノイズとかフリーキーなカルチャーからダブにハマっていったんですね。

ざっくりいうと、デカい音を鳴らしたかったんです(笑)。ドラムをはじめた当初も、Radioheadとか、ギターがデカい音を鳴らしているバンドが好きで、より激しい音楽をつきつめたらノイズとかインプロに行ったんです。そこからは「大きい音量でいかに受け入れられるか」が目標でしたね。

高橋さんはサウンドのプロダクションに着目した聴き方をよくされていて、そうした観点をふまえて記事の執筆などもされていますよね。そういった分野に関心をもつようになったのはなぜでしょうか。

ドラムを演奏していることからですかね。個人的にドラムって最も録音の影響を受けやすい楽器だと思っていて。ポップスで使う楽器は、ギターもボーカルもアンプやマイクを通した電気的に増幅された音が基本で、演奏者はその増幅された音を聴きながら演奏していますよね。もしくはシンセなどのライン楽器のように生音が無い楽器か。ドラムは楽器自体の音が非常に大きいので、ドラマーは基本的に楽器の生音を直接聞いているんです。ただレコーディングやライブだとマイクを必ず通すので、結果自分の聞いた生音とは多かれ少なかれ音が変わっているんですよ。

TAMTAMのライブ映像(2019年)

世のドラマーがみんなそうかはわからないんですけど、自分の叩いた演奏、自分の耳で聞いた演奏がそのまま録音されているということが感覚的に少ない。いまのポップスだと、スネア・バスドラ・タムなどにそれぞれマイクを立てて、それをドラムというひとつのパートとして擬似的に再構築しているような録音が基本になっている。それにすごく違和感があるというか。

はじめは、自分が演奏しながら体感している音と、録音されてまとまった音に差があるのがすごく気持ち悪くて。プロダクションやミックス含めた音作りを気にしないと自分のやりたいことができないなと思って、録音のことが気になりはじめたんです。自分の演奏したと思っているものと全然ちがうものが聞こえている、というのをいかに同じような音が鳴るようにするか、あるいは録音での変化をどういうふうにポジティブに使うのかを考えるようになったということですね。

高橋さんのnote。デイリー・プレイリストや月ごとのベスト・アルバムなど、充実の記事が並ぶ。

note(ノート)

高橋アフィ|note

『UTAKATA NO HIBI』ができるまで

『UTAKATA NO HIBI』はご自身でドラムを演奏して制作したビートテープです。まず、制作にいたった経緯をお聞きしてもいいですか。

もともと、今年の7月とか8月ごろに個人的にカセットテープブームが再燃して。それをきっかけに自分でもカセットテープを作ってみたいなと思い、ただ自分一人だとなかなか腰が重そうなので、周りを巻き込む形でTAMTAMのメンバーに「カセットテープでソロをつくろうよ」と誘ったんです。中目黒のwaltzやOdd Tape Duplicationという戸田公園にあるカセットテープ専門店でビートテープをよく買っていて、「カセットテープといえばビートテープ」という自分のイメージもあってこういうかたちになりました。

はじめてのソロ作品でもありますが、特にソロとして意識したことはありますか。

「ひとりでつくる」ことを目標にしたのが大きかったです。いつもはバンドなのでそれぞれプレイヤーがいるんですが、僕は鍵盤やギターは全く弾けないんですよね。なので様々なサンプルを使用して、ピッチを変えたり切ったり貼ったりして制作しました。基本的にSpliceのものを使用しています。あと、TAMTAMだったら展開ありきというか、ポップス的な聴かせ方も意識するんですけど、逆にそれをやらないことで、短いビートをどんどん並べるという形式になりました。

収録曲のタイトルが全部日付らしき8桁の数字ですよね。『UTAKATA NO HIBI』というタイトルもあいまって、日記みたいなコンセプトなのかなと。

タイトルは作成日です。“-2”が入っているものはその日2個めのビートという意味ですね。日記的なスピード感もひとつのテーマとしてあって。ビートテープの良さって、つくってからすぐに届くみたいな、産地直送の親密な感じにあると思っていて。毎日録って、一日二日ぐらいで仕上げてすぐにまとめて出す、みたいなやりかたでつくりました。

MacBook Pro内蔵マイク(!)がつくる独特のニュアンス

今回の制作環境についてもお伺いしたいです。ドラムの演奏も含め、ご自宅で制作されたんですよね。

(ジャズ系ライター・評論家の)柳樂光隆さんがハイエイタス・カイヨーテのドラマー、ペリン・モスにインタビューした記事があって(ハイエイタス・カイヨーテの魔法に迫る 音作りのキーパーソンが明かす「進化」の裏側 | Rolling Stone Japan)。そこで「ドラムを小さく叩いてマイクを思い切り近づけることでラウドな感じになる」と言っていたのを読んで、実験として自宅でドラムを叩いてみるようになりました。家に防音設備がないので、話し声ぐらいの音量で……いま話している音量(今回の取材はリモートで実施)と同じぐらいになるように叩いて、そこからマイクの距離とプラグインで音を上げていくんです。録音も、MacBook Proの内蔵マイクを使っています。大きな音を出すと割れちゃうので、ぎりぎり割れないくらいの、囁くような音量で叩いて録音しました。

MacBook Proの内蔵マイクで録音した、というのはTwitterなどでも言及されていましたね。音質はもちろん、物理的に置ける場所が限られるのでマイキングの自由度も狭まるんじゃないかと思うんですが……。

そうなんですよね。モノラルだし、ゲインもないからすぐ割れてしまう。ただざらっとしたローファイな感じを出そうとしたときに、内蔵マイクが一番そのニュアンスを出せたんです。あと、自分で演奏するんだったら、音量調整が効くじゃないですか。他の人にこの小さな音量で叩いてもらうのは大変ですけど、自分で叩くならやれるというか、マイキングに合わせて演奏を変えることで自分で責任をとれる。

実際に録音して手応えはいかがですか。

手作り感のある音が魅力的に、ざらっとしている感じでまとまればいいなと思っていたんですが、期待している以上にちゃんと録れました。iPhoneで録ったドラムよりももっとローファイな、ちょっと割れちゃってるけどそこ含めて“思い出感”のある音で。プレイヤーであると同時にドラムの録音の質感こみで狙ってつくったので、そういう意味で演奏としてもサウンドとしてもおもしろいものになったかなと。

iPhoneで録ったよりも……とおっしゃいましたけど、Macbook Pro以外にもいろいろと試されたんですか。

iPhoneは一度やってみたんですが、うまく音が割れなくてやめちゃったんです。意外にハイファイだったんですよ。普通にマイクを立てたりもしていたんですけど、小さい音量で叩いているニュアンスを入れようとしても、思ったよりちゃんと録れてしまう。

マイキングは本当に難しくて。『UTAKATA NO HIBI』の制作後、TAMTAMで昨年の10月にBADBADNOTGOODのカバーを撮影したんですが、そのときはドラムにちゃんと2本マイキングしました。そのあたりでやっと、マイクでも自分が求めているローファイな感じで録れるようになったんです。

TAMTAM – Signal From The Noise (Rework of BADBADNOTGOOD)

内蔵マイクでの録音はひとりで叩くからこそできるというところもあって。MacBookでの録音が一番欲しいニュアンスを出してくれるということはその時点でわかっていたんですけど、TAMTAMでやってみたら他の人の音をすごく拾っちゃったんです。そういう意味で、ひとりで、静かなときに録るからこそできる方法ですね。猫を飼っているので、猫が鳴いたりするとその声が入っちゃいますが……今回のビートテープも1曲ぐらい鳴き声が遠くに入っちゃってます(笑)。

あと、叩いた演奏としてはよくても、ビートメイカーとしてはミックスがめちゃくちゃ大変ということもあって。そもそもモノラルだし、いい演奏だなと思ったものを次の日聞き返したらバスドラが全部割れていて、それをどうやって解消するかみたいなこともあったりして(笑)。結果ものすごく遠回りしてつくった気もしています。

「ドラマー」と「ビートメイカー」、2つの顔が補い合う制作プロセス

演奏して「録れたな!」と思う感覚と、ビートメイカーとしての困難はまた別というのは面白いですね。小音量で、MacBook Proの内蔵マイクにあわせた演奏をしてみるということのほかに、今回の作品でドラマーとして意識したことはありますか。

いままでソロでなにかつくるときには、ドラムを叩かない音楽をやっていたんです。DAW上で最初から最後まで完結できる、プレイヤー的な自分が出ないものを。だから、ドラムを叩くということ自体がかなり挑戦だったというか。

今回は基本的に「先にビートをつくって最後にドラムを入れる」というつくり方をしているんですが、先につくっておいたビートや展開を、自分の演奏を加えることでどうやって生々しくしていくかを意識して演奏しました。どうしても、打ち込みだけでつくるとシンプルでさらっとしたトラックになりやすいんです。そこにドラムで生々しいニュアンスを入れていく。

トラックをつくってからドラムをかぶせる、という方法をとった理由はあるんですか。

単純に、ドラムだけ先に録ると、自分でもなんだかよくわからない……っていうのもあれですけど(笑)、ドラムから発展させるやり方だとビートが主役にならないと思ったのが一番の理由です。あと、先にトラックで無茶振りをしておいて、それに自分が一番触れている楽器であるドラムをあわせていく……融通がきくパートとしてドラムを使う、このやり方がドラマーである自分を活かせるなと思って。

一方、ドラマーとして演奏する以外にも、ビートメイカーとして作品に向き合う時間も多かったと思います。ビートメイカーとしてはどんなことを意識しましたか。

内蔵マイクの録音だったので、ドラムに全然ローがないところに無理やりローを出すとか、ローファイ感を気持ち良く聞こえさせるのを、ミックスで意識しました。録り音から特徴があるので、その面白さを残しつつ、綺麗にしていくことを目標にしましたね。サンプルをつかうときには、ドラムの質感に合わせるためにかなりプラグインを多用して。ローファイなドラムがメインなのにハイファイな音がうしろで鳴ってるというのは気持ち悪いなと思ったので、距離感とか解像度の調整みたいなものはすごく時間をかけたかな。

あと、Ableton Liveにデフォルトで入っているSamplerというインストゥルメントを使って、できる限りもともとのサンプルから離れるように、加工してから使うようにしました。Samplerはサウンドのエディットがやりやすくて。個人的な好みなんですけど、「面白い箇所をサンプリングしている」というよりは「加工してちょっと変に使っている」っていうのが、すごく好きなんです。それこそスクリューとか。どのサンプルも、元ネタそのままでなく「ああ、こう変えたのね」っていうのがわかる、むしろ元ネタを聴いてもどう変えたかたどり着かないように、というのはすごく意識しました。

Ableton公式による「Sampler」の解説動画

今回の『UTAKATA NO HIBI』はもちろん、TAMTAMのアルバム『We Are The Sun!』(2020)をリアレンジした『~Home edition』でもDIYでミックスをされていますよね。取り組んでみて、いかがでしたか。

「どこかに負担がかかりそう」みたいな手法が試せるのがDIYの最大の良さかなと思います。それこそ、小音量でドラムを叩いてガサガサした音で録音するというのは、ミックスにもプレイヤーにも負担がかかるやり方です。そういうやり方でも、DIYならトライ・アンド・エラーを繰り返しながらできる。

あともうひとつ、個人的に現代の音楽の大きなトレンドのひとつとして「質感」があるかなと思っていて、DIYだとそこにアプローチしやすい。ローファイにしろ、hyperpop的なエッジな音にしろ、昨年話題になったrage beat(参考:【コラム】What is “RAGE Beat”? – FNMNL)なんかも音色ありきの音楽じゃないですか。

質感の追求は演奏のみで完結することが少ない……つまりミックス段階での追求になりますよね。外部にすべてミックスを頼むとどうしても時間も手間も必要だし、新たなことをやろうとすれば、結果的に自分もかなりミックスに関わることになる。そういう意味で、自分の好きな質感をある程度まで追求できるというのも、DIYでやれる良さだと思います。特異な音でなくても、昔の、それこそビートルズにせよソウルの名盤にせよ、かなり特殊で面白い録り方をしているものが多い。DIYなら、そういうヴィンテージ的な気持ち良さにも少しでもアプローチできる可能性がある。

TAMTAM – Worksong! (Home Edition) #StayAtHome #WithMe

noteに「2021年お世話になったプラグイン10選」という記事も上げられていましたけど、DIYでミックスまでやるようになってから、そういった情報も以前より収集するようになりましたか。

そうですね。その過程で、自分のなかで「いいな」と思っていたものが実はひとつのプラグインでだいたい解決している、みたいなことに気づくこともあって。買って使っていくうちに、「ああ、これって結局このプラグインっぽいってだけか」といった話がわかるようになるので、たとえば外部にミックスを頼むときも、ある程度話がしやすくなるというか。

たとえば、自分でやるまではダブラー(エフェクターの一種で、同じ内容の演奏を重ね録りすることで音の厚みや空間の広がりをつくる「ダブリング」の手法を再現するもの)がどういうものかとかも全然わかっていなかったんです。それまでは「ちょっと左右に広がって気持ち悪い感じにしたくて」みたいな話をして、「この音源とかこの音源とかみたいな……」と伝えていたのが、「ダブラーをかけてください」と伝えられるようになった。すごく進みも早くなったし、自分でやったうえでエンジニアの人にわたすというやり方もできるようになって、エンジニアからさらに尖ったアイデアが出る時もある。DIYである程度のレベルまでもっていったうえでエンジニアと一緒にやっていくみたいなやり方が、今後は自分に限らず基本になっていくのかなと思いますね。

ありがとうございます。ちなみに、このサイトの読者にはDAWでのプロダクションに通じた人が多いこともあり、今回制作で重宝したプラグインを挙げていただけるとうれしいです。

特に重宝したのは、次の2つですね。

AudiThing「Speakers」
https://sonicwire.com/product/A9381

wavesfactory「Casette」
https://www.wavesfactory.com/audio-plugins/cassette/

プレイヤーだからこそ磨かれた「音色」へのアンテナ

こういう話も聞きたいなと思っていたことがあって。ドラムにかぎらずベースやキーボードのプレイヤーが演奏動画をSNSやYouTubeにアップして、そこから注目を集める人がでてくる、という動きがありますよね。高橋さんはどういうふうにご覧になっていますか。

そういう動画を僕が知ったタイミングだと、ドラムだとゴスペル・チョップス系のドラマーが、何人かでフィルインやドラムソロを重ねていく“Shed Sessions”系が多くて。テクニックを中心に見せる、あくまでプレイヤーからプレイヤーへのコンテンツというところが強くて、あまりハマれなかったんです。ただ、最近だと、JD Beckなんかがわかりやすいと思うんですけど、SNSでシェアされるくらいの短さに収めるようなタイム感がそのまま音楽性につながっているようなプレイヤーが増えてきたと思います。それはクリエイティブだし新しい価値観の音楽だと思って、ものすごくハマっています。

ドラマーであるJD Beckは、シンセのDOMiとのユニット「DOMi & JD BECK」としてYouTubeチャンネルを持っている

あと、Nate Woodみたいに、ドラマーとしてのパフォーマンスを活かしながら自分ひとりで曲もつくる、という人も。彼のつくるリズムキメキメの曲は、「ドラマーが演奏するための曲」だからそうなっているのかなと思っているんですよ。そういうふうに、プレイヤー的な視点から自分の音楽性を作っていく/活かしていく流れが進んでいくと面白いなと思っていて。演奏をシェアするだけじゃなくて、曲を作って演奏している人たち……限られた短い時間のなかで自作曲をやろうとしているような人たちに、とくに注目していますね。

Nate Woodのパフォーマンス。同時に複数の楽器を操り重ね録りしていく様は驚異的のひと言

やや大きい質問なんですけど、ドラマーであり、ご自身で録音やビートメイクもするという立場から見た、昨今の音楽シーンで注目しているアーティストやシーンがあれば伺いたいです。

録音的な観点でいうと、さっき言ったような産地直送、できたてが届いているみたいな感覚があるものがいいなと思っていて。たとえばdeem spencerは、トラップ的フォーマットを軸としながら、ローファイな宅録っぽさが良いなと思って聴いています。声の処理が私小説みたいなんですよね。あと、昨年ようやくDean Bluntにすごくハマって。「プライベートでつくったものを勝手に聴いている」みたいな感覚があって、すごく面白い。Nick HakimのKEXPでのライブ動画もすごくよかったですね。マイクも少ないし音も割れているんですけど、その生々しさが最大の魅力になっていて素晴らしい。そういったところに注目していますね。

コロナ禍の2020年夏に配信された、Nick Hakimのホームスタジオからのパフォーマンス

最後に、ドラムをやっていて、ドラムを叩くという経験があってよかったな、ということはありますか?

録音の仕方次第で出来が変わったり、制作で一番音色に気をつける必要があるのはドラムだと思うので、そういうところに細かく注目するようになったことですね。それこそ、ダンスミュージック系だと、バスドラの音ってすごく重要じゃないですか。ジャンル性を作るのがリズムの音色で、つまり楽器だとドラムなんですよ。音色が大事だと思える感性、そういうことをビビッドに感じられるようになったのは、ドラムをやっていてよかった一番のところかなと思います。

取材・文:imdkm

高橋アフィ プロフィール

TAMTAMのドラマー/マニュピュレーターであり、Forever Lucky名義でソロ活動中。Homemade cassette tape lebel”ZiKON International”主宰。好きな音楽は新譜、趣味はYouTube巡り。

Twitter : @Tomokuti

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「自治とバケツと、さいかちの実-エピソードでたぐる追廻住宅-」@ せんだいメディアテーク

せんだいメディアテークの正面に掲示された、展覧会「自治とバケツと、さいかちの実」のポスター

仙台経由で金沢に行ったので、帰りがけにせんだいメディアテークに寄った。そこでたまたまやっていた「自治とバケツと、さいかちの実-エピソードでたぐる追廻住宅-」(11月3日(金・祝)~12月24日(日)まで)を見たのだが、思いの外よかった。

戦後に「応急簡易住宅」として住宅が建てられ、戦災にあったひとや海外からの引揚げ者が暮らした、仙台市の追廻住宅。しかし暮らしが成立するとまもなく市の緑地計画の対象となり、立ち退きを迫られ……と国や行政に翻弄されながら団結して営んできた暮らしの記録と記憶を展覧会に構成したもの。アーティストの佐々瞬と伊達伸明が構成・制作を担当している。

追廻の前史や住民たちが編んだ追廻40年史を年表や歴史資料を使って淡々と提示するイントロダクションを抜けると、追廻の歴史と暮らしを再構築したインスタレーションが展開される。公式に書き残される記録からはこぼれ落ちるディテイルを、会場内に散りばめた断片的なエピソードを通じて示すのも良いし、そこにあんまり公に残らなさそうな陰影が落とし込まれてるのも良かったと思う。

2023年現在、追廻住宅があったところは青葉山公園になっている。戦後にふっと誕生し、終戦から70年を経てなくなってしまったコミュニティのことを思うと少しビターな気持ちになる。仙台市民ではないから追廻のことはまったく知らなかったけれど、訪れていたお客さんのなかには、なにか懐かしがっているらしい人もいたので、仙台の人にはまたちがった見え方がしたのかもしれない。

言ってしまえば、日本ではいわゆる「地域アート」にしばしばみられる、地域のリサーチをベースとしたインスタレーションと言ってしまえるのかもだけれど、それが追廻住宅というコミュニティの歴史を再構築して残す試みと、うまくマッチしていた。コンテンポラリーアートの文脈から外れて、地方都市の文化複合施設であるせんだいメディアテークのミッションとちゃんとシナジーを起こしてるというか。

せんだいメディアテークは特に東日本大震災以後こうした記憶の問題に対して継続的にアプローチしていて、震災をアーカイヴする「3がつ11にちをわすれないためにセンター」だったり、開館20周年展「ナラティブの修復 せんだいメディアテーク開館20周年展」もそうした問題意識をもった企画だった(ざんねんながら見に行けなかったんだけど……)。特に、今回展示を構成した佐々と伊達は「ナラティブの修復」の出展作家でもある。

10のナラティブ。「ナラティブの修復」展に寄せて|美術手帖

当然、これを「アート」の土俵で語ろうとすればさまざまな批評が可能ではあるのだろうけれど、しかしこれを「アート」として語ることで見過ごされるものも多そうな気はする。さまざまなメディウムを複合的に空間内に構成し、ナラティヴを喚起するというインスタレーションの手法は、それ自体批判的な検討も行われて久しいが、一方で、そこでつちかわれてきたノウハウじたいはまだ使いようがいくらでもある。というようなことを思ったりした。ある意味「山形ビエンナーレ」もそういう志向があったか。良いか悪いかはぱっとわからないが、自分は好ましいと思う。

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ASUNA《100 Keyboards》 @ 金沢21世紀美術館

金沢21世紀美術館でのASUNA《100 Keyboards》、会場前の様子

2023年12月8日・9日にかけて行われた、サウンドアーティストASUNAのパフォーマンス《100 Keyboards》を見てきた。衝動的に2日ぶんのチケットを取ってしまって、「全通じゃん」と思ったが、じっさい2日間見ることができて大変良かった。良いパフォーマンスだった。

かんたんにパフォーマンスの概要を記すと、おもちゃの電子キーボードを100台以上放射状にならべ、アイスの棒でキーを固定してドローンを鳴らしていく。すると、たとえ同じピッチのキーを鳴らしっぱなしにしていても、キーボードの個体差や電池消費に伴う電圧降下、また空間内の反響などさまざまな要因によって、響きには音波の干渉によるうねるような「モワレ」が生じる。低い音域でのうねりと、より高い音域でのうねりが組み合わさって、ときにそれらのうねりがリズムに聴こえたり、シンプルなメロディに聴こえたりもする。

以上のように、《100 Keyboards》というタイトルやそこで示されているコンセプト、またどのような現象が起こるかは非常に明快で、ある意味ではコンセプチュアルでプロセス的な作品に思える。つまり、実現されるべきコンセプトがあり、それを忠実に遂行することによって、なんらかの現象が生起するプロセスを提示し、見守る、というような。1

パフォーマンス中のASUNA

しかし実際に見た《100 Keyboards》はもっとはっきりと「演奏」であり、ポストパフォーマンストークで畠中実さんがちらっと言っていたように、「世話をする」ような介入が細やかに行われていた。鳴らされるキーボードが徐々に増えてクレッシェンドし、おもちゃのキーボードから鳴っているとは思えないくらいの大音量に会場が包まれて、徐々に音が減らされて、静寂に戻る。90分ほどのパフォーマンスだが、思ったよりもあっという間に終わる。

パフォーマンス中は会場内を歩き回れたので、キーボードをじろじろ眺めながら耳を傾けてうろついていたのだが、コンクリートの床に汗が滴っているのが見えた。観客のものではない。寒さがすこし和らいだタイミングだったとはいえ、12月上旬の金沢、しかも会場の空調は切ってある。演奏者のめちゃくちゃな重労働がうかがえる。地べたに置いたキーボードを少しずつ鳴らし、音を決め、ピッチを決め、ときにはそれもいったんやめて鳴らすべき次のキーボードを探し…… と間断なく動き回る。

《100 Keyboards》をうまく鳴らすには、そのための経験と耳が必要になる。また、キーボードの個体差が大きいので、ひとつひとつの扱いを心得ていなければいけない。どう操作したらどの音が出るか、みたいなすごく具体的なレベルで。すぐに減衰してしまうピアノの音じゃこれできないものね。音響的なおもしろさ・豊かさも含めて、「コンセプトにのっとれば誰でも実現可能」という種類の作品とは性質の違うユニークなパフォーマンスだった。そしてそれは、キーボードひとつひとつが持つ来歴(そもそも中古品だからそのブツには固有の来歴があるし、人から譲り受けたものもたくさんあるという)と向き合う行為としても見、読むことができるだろう。

開演前に会場で誰かがリゲティ・ジェルジュの《ポエム・サンフォニック(100台のメトロノームのための)》(1962年)の話をしているのを小耳に挟んだのだけれど、あれはまさしくコンセプチュアルでプロセス的な作品だ。

一度100台のメトロノームをセッティングしたら、あとは各々のメトロノームが動きを止めるまでその現象を見守るしかすることはない。あるいはスティーヴ・ライヒの《振り子の音楽》(1968年)も同様に、スピーカーを仰向けにおいて、そこにつながったマイクを上から垂らし、振り子のように揺らすことで断続的なハウリングを起こして、しまいには(振動が止まることで)ハウリングの持続音に結末する。

見る前はどっちかというとそういう感じのイメージだったのだが、いい意味で裏切られた。

と同時に、その面白さはわかったうえで、「このパフォーマンスを誰かに委任することはできるのだろうか?」という問いも浮かび上がる。実際二日目のトークに登壇した佐々木敦さんがそんな提案をしていたけれど、「誰でも実践できそうなキャッチーさ」と「実際にパフォーマンスで感じられる面白さ」とのあいだをどう捉えるか? というのは実はこの作品を考えるときに大事なところのように思う。スコアにしたらしたで、まったく違うリアリゼーションが起こってきてそれも楽しい。インスタレーションにすれば観客の鑑賞の仕方も干渉の度合いも大きく変わる。けれどもASUNAさんのやる《100 Keyboards》の持っている面白さにまずはフォーカスするのがよさそうだ。

  1. ここでいう「コンセプチュアル」はおそらく一般的な用法とは異なっているかもしれない。ふつうコンセプチュアル・アートは概念 concept をめぐるアートだとか(コスース的なやつ)、脱物質化したフィジカルな支持体を持たないアートだ(ルーシー・リパード的なやつ)とか言われ、あるいは単純になんらかの伝えたいメッセージが明確に存在するという程度のニュアンスでも使われる(日常的にいわれる「コンセプチュアル」はだいたいこの用法)。どちらかというと自分はもともとフルクサスが好きだったので、スコアの遂行に審美的な判断を含めないジョン・ケージ~フルクサス的なリジッドさにもっとも「コンセプチュアル」なものを感じる。それはどっちかというとプロセスの美学というべきかもしれないが。奥村雄樹の「コンセプチュアル・アート」観にも大きく示唆を受けている。 奥村雄樹|コンセプチュアル・アートの遂行性 ── 芸術物体の脱物質化から芸術家の脱人物化へ (artresearchonline.com) ↩︎
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