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imdkm.com 投稿

最近気になったCMソングの選曲

テレビ見てたらとくにCMで「いまそんな曲かかんの?」みたいなときがいくつかあった。2000年代初頭のビッグビートとか。いま90’s~Y2K文化がリバイバルしてるって話ちょい前からあるけど、そこはなんか、どうなんすかね? みたいな。

キリン スプスプリングバレー豊潤<496>
Elvis vs. JXL – A Little Less Conversation (2002)

https://youtu.be/OZw2oB2urqU

サントリー THE STRONG 天然水スパークリング
Fatboy Slim – Ya Mama (2000)

DIESEL FALL/WINTER 21
Vitalic – La Rock 01 (2001)

こう書くと反応する曲がおじさんっぽい。あというほどたくさんもない。3例って。

ついでに書くがクラフトボスの「ド名曲をなんのひねりもなく使う」シリーズはぱっと見しゅっとしているだけにダサさを感じてしまう。そりゃいい曲使ったらつかまれるでしょ。替え歌と同じくらいいやだ。それに対してElvis vs. JXLとかはマジなのかウケ狙ってんのか判断しづらくて気になる。そういえばAppleがCMにDelta 5使ってるのが使い方ダサくて嫌だった。好きな曲が「ちょっと気の利いた洒落た宣伝」の部品にされてるのはいい気がしない。Delta 5のシンガーでギタリストだったJulz Saleはつい先月(9月)がんで亡くなった。追悼。

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健康と能率(2)

フィジェットトイ(手元がさみしくてなにかをいじいじしてしまうときに手頃なおもちゃ)が欲しいがネットで何度か買ったのがどれもサイズやクオリティに不満が多くて同じ値段かけるなら自作したほうがいいんじゃないかと思っていた。それでいろいろ調べてたら、とあるツイートで100均で売ってるスマホゲー用のボタンがいいみたいなことを見かけて実際にそれに近いものを探してみた。入手できたものはスマホ本体をクリップではさむようにしていわゆるL・Rボタンを実装するような仕組みになっているのだけれど、おなじく100均で売ってる6mm厚のMDF材をいいサイズに切ってはめこんでみると、たしかに悪くない。面取りしてにぎりやすくして、いつでもサワれるようにデスクの上にぽいっと放ってある。

ある日、昼過ぎから打ち合わせがあり、ほぼ雑談の愉快な内容でこころは晴れ晴れしたのだが、なんでかその日はたまたま、最近気をつけていた食いしばりの癖がぶり返してきていたようで、Zoomの画面を閉じて一息ついた途端に奥歯の違和感と頭痛が襲ってきた。ロキソニンを飲んだらすっと痛みはひいたが、いや多分話をしているときはアドレナリンでも出てたんだろうな。っていうか、もしかしてポッドキャスト収録後やリモートのインタビュー収録後に疲労困憊になるのって喋って頭使ったからじゃなくて噛み締め癖のせいなのかも? 今度から人と話すときは気をつけよう……

もうかれこれ8年くらい履いていたKEENのサンダルが、ソールがまるごと剥がれるというショッキングな壊れ方をしてしまって、どうしたものかと思ったんだけど、まあこの機会にいろいろボロボロになってたのを接着したり縫い直したりして、もうしばらく頑張ってもらうことにした。「裁ほう上手」という手芸用接着剤(アフィリンク注意)で破れていた布地をなおして、ソールはスポーツグー(同前)でがっつりつける。まだソールの接着はかたまりきっていないのでどうなるのかわからないけど、ちょっとはもってくれたらうれしい。見た感じいけそう。まあスポーツグーまだあまってるから剥がれちゃってもまたトライしよう。

最近TVerでTVバラエティをよく見ていて、「キョコロヒー」とか「あちこちオードリー」が結構好きなんだけど、こないだ「あちこち」にアンミカがホストになって四千頭身後藤・森三中黒沢・神田愛花をゲストに人生相談やるみたいな回がすごかった。一番すごいなって思ったのは神田愛花がした相談をアンミカがいったん受け止めて噛み砕いてその場全体で「問い」として共有したうえで、具体的なアドバイスそのものを若林にふったところだった。若林もウケを狙いつつも自分に嘘をつかなくてもいい一言をちゃんと出していて、パス回しがそんなうまくハマることあんの? ってびっくりした。回全体を考えると、やり取りの内容そのものや出されるアドバイスにねじ伏せ感はやっぱあって嫌な人もいんだろうなと思うけど(別におれも好きではない)、パス回しのあたりは「なんでもアンミカフィルターでものの見方を変えれば解決」みたいな話じゃぜんぜんなくて、メインの喋りをしつつもファシリテーションが成立しているという感じだった。自分の手に負える範囲じゃないなと思ったら若林に振るって判断も、そもそもそれまでの会話を通じて、アンミカ自身だけじゃなくて、相談に対して適切な答えを考えるための材料がその場にいる人たちに的確にシェアされていることも、まあ鮮やかだなーとなった。その分危うさもあるんだけど。でも「宗教みたい」とか雰囲気で済ませて敬遠するよりは、その場の(少なくとも表面上受け取れる)納得感がどのようにうまれているかをほぐしたほうが、まあ応用も、悪用に対する対策もできるじゃんね。なんでこんな話してんだ。

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健康と能率(1)

9月の頭からさんざんな体調で、もともとしんどくなっていた読書や音楽鑑賞がいっそうしんどくなってかなりまいっていた。腰痛、頭痛といった自分の健康の問題もさることながら、2度にわたるワクチン接種では発熱こそそこまでではなかった(高くても38度をすこし超えるくらい)ものの、猛烈なだるさと頭痛が3日ほど続いてじわじわと体力が削られたのがきつかった。しかしもっとばきばきに熱出た話とかも耳にするのでまだマシだったのだろうとは思う。

ひとつずつ症状が落ち着いて、メンタルはともかくからだはひとまず不調を脱したくらいのタイミングで、ステッパーで有酸素運動をはじめた。いちにち15分~20分は続けるようにしている(ほんとうは20分以上やらないとだめなんだけど、それはそれとして……)。汗をかくのはよい。そもそも起き上がってなにかできるというのにちょっと回復を感じて安心する。自分のからだが動く、その再確認みたいな。ほんとうは泳ぎに行きたい。でも水着なんか、どこやったっけな。探したらあるはずなんだけど。

Instagramで手書き日記? 手書きのなにものか? をやっていて、いつまで続くかな~とか思ってたらまあまあ続いている。それが証拠に、手元にあった使い所のない大量の無地のルーズリーフがどんどん消費されていく。もしかしたら手書き日記用にあたらしく買ってくる必要があるかもしれない。なんてことだ。書き損じたら次のページに、というのを繰り返しているし、書いたけどこれはあんまりだな、というのは撮影すらしていなかったりするので、Instagramのアカウントで見れる分量とはけっこう差があると思うけど。

さいきんよくチャイをいれている。もともとカレーをつくるためにチューブのしょうが、ホールのクローヴとカルダモン、黒胡椒あたりが揃っていたから、あとは茶葉とミルクとシナモンスティックがあればいつでもチャイをいれられる状態にはあったのだけれど、いかんせん、めんどくさかった。しかし最近カレーもめったにつくらなくなったし、スパイスの消費期限もあるから使わないと無駄になる。しょうがねーなと思って久しぶりに材料を揃えてつくってみたら、はまってしまった。小さめの鍋に湯をわかしてスパイスと茶葉を目分量で入れ、いい具合に煮出せたらミルクをいれてひと煮立ちさせる。味付けは砂糖たっぷりにするのがよいのだろうけどここはパルスイートで。最近、納豆ご飯みたいなのばっか食べていて、たまに思い立って常備菜をまとめてつくるとき以外は自炊らしい自炊はぜんぜんしなくなってしまったので、このくらいのめんどくささならまあ、日に一度あってもいいかな……みたいな感じ。

不調からだろう、おそらくひどく認知能力が落ちていて、日本語の文章を読むのも難儀で、英語の文章なんかもってのほかみたいな状態になっており、DeepLの助けを借りてなんとかやっている。DeepLをめぐる評価についてはいろいろ思うところがあって、もちろんDeepLは人びとが思っているほどは翻訳が適切ではないという前提があったうえで、原文と訳文の対照だけをもって「ここがおかしい、使い物にならない」みたいな評価はちょっと不可解だと思う。DeepLがいいのは、カーソルをおいた文について、訳文が原文のどこに対応しているかをハイライトでちゃんと表示してくれるところで、これはGoogle翻訳とかだとやってくれないと思う(方法はあるのかもしれない……)。よく指摘されるごっそり原文がなかったことにされる問題もこうした機能を援用しつつ並べて見ればわかるだろう。DeepLでもGoogle翻訳でもPapagoでもなんでもいいが、入力に対する出力の精度だけじゃなくて、機能やインターフェースを含めたサービス全体を考えないと「機械翻訳の使い方、機械翻訳との付き合い方」をめぐるノウハウが置き去りにされてしまうのではないか。それってすごく不健全だと思う。

もとより集中力が低く認知能力がまだらなたちなところに調子悪くて頭が働かなくなってきて、Kindleなどのありがたみを感じている。Kindleさまさま、PDFさまさま、ウェブページさまさまという感じ。元気なときは紙の本をごりごり読めていたし、そっちのほうが読みやすいじゃんと思っていたのだけれども、調子のわるい最近はKindle(PCも、Paperwhiteも)のほうが、文字の大きさや「読みかけ」状態の維持とかで軍配があがる。あるページまで読んで一瞬だけ調べ物したいみたいなときに「しおりはどこだ~」とかやらんでいいし。これは多動あるあるだろうか。ウェブサイトも読みやすさがデザインでかなり変わるので、ブックマークレットや拡張機能、あるいはリーダーモードを使ってなんとかやっている。文字を読むのがすっかりむずかしくなった。しかし見え方を自分向けにカスタマイズできれば人並みにはもっていける。ちなみにこのブログはまあまあ自分が読みやすいようなテンプレを使っている。ワンカラムでサイドバーがないのは、そこに情報があると気が散って集中できないから。とかね。文字の大きさとかフォントも、もっとこだわりたいものだけども。

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ミニキーボードスタンドをスタンディングデスクがわりにしている

絶不調である。9月の頭からいきなり腰痛を発症し、腰痛がひいたと思ったらワクチンの第一回接種で地味に長引く副反応に悩まされ、並行して頭痛もひどくなり、もんどりうっていたら9月終わっていた、みたいな記憶がある。なにやってたっけ。部屋の掃除や整頓をえんえんやっていた記憶がある。あと資料を淡々とスキャンして整理したり……。ろくに本も読んでなければ音楽も聴いてないじゃないか。気づいたら10月。もう5日だよ。はかなむよねぇ、自分の生活と人生を。穀潰しじゃん。でも死なない限りマイペースでやっていこうと思う。だめな人はだめな人なりにずるずると……。まあ「死なない限り」がくせものなんだけど。死ぬときは死ぬから。

で、腰痛が怖くなったのでいろいろと作業の環境を調整していて、特にデスクまわりをどうするか試行錯誤していた。デスクにラップトップスタンド(ちなみにHARCULESの折りたたみスタンド(Amazonアフィリンク注意)です。折りたたみだけど丈夫でよい。値段は張るけど……)を置き、そこに小さな天板を置いてスタンディングデスクもどきを一度つくってみたら思いの外調子がよかったのだけれど、四六時中立ってるのもさすがに嫌だし、使うときにいちいち机上を片付けて準備して……ってめっちゃだるい。

いろいろ考えた結果、ミニキーボードスタンドを使うのが準備も後片付けも楽だということになった。Amazonで3,000円しないくらいで買える(アフィリンク注意)し、サウンドハウスで他のちょっとしたお買い物と一緒に買ったらもっと安い。ちなみになぜか自分は2台持っている。

最初はキーボードスタンドにキーボード(文字入力のほう)とトラックボールをのせて「これじゃん」って思ってたんだけど、作業自体はサブマシン(6年くらい使ってるLenovo Thinkpad X250)でも別に十分できるな~と思ってサブマシンをスタンドにのっけるミニマムなセッティングに落ち着いた。デスクに向かっているときはいろんな誘惑があるので集中する作業のときはいっそ背を向けたほうがいいくらいだ。それにThinkpadのキーボードは打鍵感も慣れているしトラックポイントが最強なのでなにも問題ない。むしろ強いまである。

↑これが……

↑こうじゃ。

ミニキーボードスタンドのいいところは奥に向かって傾斜がつけられるところで、これで手首がかなり楽になる。たまにキーボードを手前に向かって傾斜をつけるのが手首にいいと言っているところを見るけど、当然ながら手首を変に反らせるよりは脱力できたほうがいい(なんとこないだ広告で見かけた。負担かかる使い方を推奨して商品を売りつけるのやめて~)。ただディスプレイの位置が嫌というほど下がるので首の負担になる可能性はある。

問題はそれなりに設置場所をとることで、三脚式になっているから天板の見かけ以上に足元のスペースがいる。でもいいっすよ。クラフトワークみたいで。

しばらくリハビリ的に身辺雑記を書きます。あと最近Instagramで手書き日記やってます

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最近ステムの公開みたいなのが多い気がする

Courtney Barnettがオフィシャルサイトでステムプレイヤーを公開したという話をみた(ステムプレイヤーはこちら)。すこしレトロなミキシングコンソールを模したインターフェイスで、各パートの音量調節とミュート&ソロ、さらに自由に範囲を設定してループさせる機能もついている。タイムラインには楽曲の構成も記されていて、なんというかかなり「教育的」な印象を受ける。これだけでもじっさいいろんなことができる。ミックスを変えるのも楽しいし、各パートだけをソロで聴いてみるというのもいい。

最近、ステムを配布したり公開しているアーティストって割といて、Kanye Westが『Donda』のステムプレイヤーを販売するとかしないとか、black midiが『Schlagenheim』のときにステムデータを配布してたりとか、100 gecsもステム配布やってたと思う。日本だとOfficial髭男dismがステムプレイヤーをウェブ上で公開(こちら)している。なんかほかにもあったかも。多いってほどでもないか。

そもそもステムというのは、納品されるステレオミックスと制作過程のマルチトラックの中間みたいな状態のことで、録りためた素材をミキシング作業のためにある程度整理してまとめたものだ。ステムにする前の状態はパラという(はず)。ポップ・ミュージックのみならず多くの音楽が録音芸術として鑑賞される現在、ミキシングそのものも作品を構成する要素のひとつと考えられるようになっているから、ステムを公開するということは、完成前の作品をいじらせるみたいなところがある。

まあそれ自体は一見興味深そうではあれ実はどうでもよくて、ステムプレイヤーみたいなことがなんで可能になっているのか? なんでちょくちょく見るのか? っていうのが気になる。

まずステムの配布についていえば、大容量のデータをやりとりすることが当たり前になってきたことが大前提にあるだろう。加えることがあるとすれば、DAWが普及して、ユーザーコミュニティとリスナー層がいいかたちで重なっているのが追い風になっているのでないか。さらに、分析的に聴きたいとか、パートごとに聴いてコピーしたいみたいなニーズも考えられる。リスナーであると同時に(プロ・アマ問わず)ちょっと作ったり弾いたりしますよ、という人にとってステムはクリエイティヴィティを刺激する素材であり教材みたいなものだ。ミュージシャン自身がそうした恩恵にあずかってきた世代になってきているのも大きそう。つまりプロモーションに限らず、そのようにサウンドに埋め込められた知識をシェアしたい、というモチベーションがありうるということだ。

一方、ステムプレイヤーの場合。Courtney Barnettやヒゲダンの例がそうだけれど、それなりの音質のオーディオファイルをブラウザ上で読み込んで同期再生し、リアルタイムで操作できる、それだけの技術が普及していることが大前提となる。一昔前ならAdobe Flashなんかでやってたんだろうけれど、外部プラグインなしにブラウザネイティブでそれができるようになったのって結構大きいのかな。これはデータ自体の配布よりもステムに触れるハードルを下げうるので、必ずしもプロダクションに通じていないリスナーにとっても興味深い体験を提供することができる。

いずれにせよ、ある種の「教育」的側面、あるいは言い方がよくないなら土壌をつくって耕すみたいな側面をもった試みであって、必ずしもそれがセールスに結びつくということはないかもしれないが、いろんな意義が考えられる。なかでもテクノロジーを通じた独習(AbletonのLearning Musicみたいな)は大きなひとつだと思う。

ついでにふと気になるのは、ステムとかマルチトラックの権利ってどういうふうになってんだろ? というところ。たとえばプロジェクトファイルに原盤権って及ぶの? ステムって権利関係どう処理してんだろうね。

どうでもいいメモでした。

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100均のスマホ用シャッターにフットペダルをつなげる

Bluetoothで接続する100均のスマホ用シャッターがある。自撮りとか遠隔撮影で使うものだけれど三脚に固定した上で手ブレを防止したいときにも便利だ。

ダイソーかどっかで買ったスマホシャッター。買ってきたあとでリングライトにもまったく同じものがついてきてたのを発見し、無駄にダブっている。
ダイソーかどっかで買ったスマホシャッター。買ってきたあとでリングライトにもまったく同じものがついてきてたのを発見し、無駄にダブっている。

たとえばAdobe Scanなどのアプリでスマホを簡易オーバーヘッドスキャナとして使っているときなど(以下の画像を参照)、このシャッターがあると変に画角がズレたり文字や図版がブレたりしなくて済む。

しかし、上のような資料だといいんだけど厚みのある雑誌の見開きを撮影する時なんかは、なるべくたいらに撮影したいから、両手で撮影対象を押さえつけたくなることがある。ふつうの撮影でも、両手があいているほうが都合のいいときがあるだろう。100均のスマホ用シャッターはほんとに親指サイズみたいなもんで、やろうとおもえば足の指で操作できるけれども(実際にやっていた)なかなかめんどくさい。

そこで、スイッチ部分からケーブルを出して6.3mmのフォンジャックを追加、楽器なんかで使うフットペダルを接続できるようにした。スマホ用シャッターの内部をみてみると、単にタクトスイッチをかちかちやってるだけのシンプルな設計なので、はんだづけが細かくてめんどくさい以外に大変そうなことはない。パーツも以前に楽器の自作をしていたときのあまりがたくさんあった。

ものはためし、とつくってみた。

小さいタクトスイッチにがんばって細いケーブルをつなげた様子。ケーブルが切れると嫌なのでグルーガンで固定した。
小さいタクトスイッチにがんばって細いケーブルをつなげた様子。ケーブルが切れると嫌なのでグルーガンで固定した。

からの

完成品。ジャックが野暮ったいけどこれすごく安くて昔買いだめしていたの。
完成品。ジャックが野暮ったいけどこれすごく安くて昔買いだめしていたの。

こうじゃ。

KORGのペダルと共に。
KORGのペダルと共に。

これ(KORGのペダル)をつないで使います。鍵盤ひかないけどMIDIコンのトリガーとして一時期つかっていて、2つくらい持っている。

特になにがあるわけでもなく無事に動作し、足で踏むシャッターが完成したのであった……。

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困難

腰痛らしきものに悩まされている。痛い! とはっきり言えるものではなく、鈍く限界を感じるような、なんともいえない違和感。つらい。知らないふりをして日常生活もできそうなぼんやりさがかえって怖い。それで、とにかく腰に負担をかけないように行動をとっており、特にあまり沈みすぎるベッドはよくないと思って布団をしいて床で寝ている。床で寝るとどんどん先行きが不安になっていく。ベッドで寝ていても不安なのに、腰も痛いし体調もメンタルにひきずられてかどんどん悪くなっていく。

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話す練習

2021年8月27日(金)にEP「話す練習」をリリースした。1曲あたりだいたい50秒くらいで、5曲あわせて5分半に満たない短い作品。ボーカルシンセサイザー・NEUTRINOの「めろう」というライブラリをつかった歌モノにした。5曲中2曲がTwitterに残したツイートをふくらませているので、ある意味Twitter音楽なのかもしれない。

春に出した「退屈な革命」で、ブレイクのところだけ数小節の歌が入る、という構成をやってなんか気に入って、もはやそこだけでいい、と思うようになった。的確な言葉が数行あったらそれで十分じゃないか。とか考えていたら、イントロもなく、ほぼビルドアップとドロップだけで成立する50秒の歌モノが何個かできた。「いやなおもいで」だけは短くする決心がつくかつかないかのタイミングでつくっていたので2分くらいになってしまって、それでも十分短いんだけど、これを短く切り詰めるのも違う(わざわざ短くすること自体が目的ではない!)なと思ってそのままにした。

このEPがおもしろいかどうか全然わからないし人が聴いてどう思うかはまったくわからないのだけれども、できたあともこんなに自分にフィットしているように感じられる作品ってこれまでなかったかもな、と思う。

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データでちょっとだけ眺めるミュージック・マガジンの2010年代

ミュージック・マガジン2021年3月号の特集は「[決定版]2010年代の邦楽アルバム・ベスト100」だった。その内容(なにがランクインしているか?)自体にはそこまで関心がないのだが、ふとよぎるのは「ミューマガって毎年ベストアルバム発表してるよな」ということだ。2010年代のベスト・アルバム企画を集めて眺めてみたらどうなるんだろう、と思ってしばらくバックナンバーを集めていた。そのかんたんなメモ。

ちなみに該当号の購入リンクはこちら(アフィリエイトリンクになっています)。

[決定版]2010年代の邦楽アルバム・ベスト100を撫ぜる

まずは、件の「[決定版]2010年代の邦楽アルバム・ベスト100」を見ていくことにする。

年ごとの集計結果(作品数、誌面面積)

以下は、100作品をそれぞれの発表年に着目してカウントし、グラフ化したものだ。1つ目は単純に「作品数」を合計したもので、2つ目は「誌面面積」を合計したもの。

「誌面面積」というのはかなり妙な指標だと思われるかもしれない。単純に言うと、誌面に対してその作品がどのくらいの面積を割いて紹介されているかをかんたんに数値化したものだ。最大で6、最小で1となる。これは一作ごとに添えられるレビューの文字数とも相関する。したがって、この数値を用いることで、どの程度のプライオリティでもってその作品が紹介され、位置づけられているかを、あまり細かすぎない程度に、かつ誌面の印象と乖離しないかたちで指標化することができる。「トップ10」というように10刻みにしたり、なんとなく恣意的に「トップ30」みたいな切り取りをするよりは、ランキングの性質に即しているのではないか。

というのをふまえてグラフを見ていく。単純に作品数で言えば最多は2019年(15作)であり、以下2017年(14作)、2018年(13作)と2010年代末の3年間が連なる。一方で誌面面積を見ていくと、2017年が逆転して最大になり、ついで2018年(34)、2019年(30)と続く。いずれにしてもこの3年間に評価された作品が集中していることは間違いなく、見方によっては2017年が(ミューマガ的には)もっとも豊作だった、のかもしれない。

他方、2010年代の初頭はいささか作品数も少なければ誌面面積も小さい。「最近の作品のほうが記憶に残っているからこうなるのでは?」と言いたくなるところだが、2014年は2017~2019年に次いでいる。あるいは2016年が思いのほか後ろの方にいるのも面白い。2011年は2010年代初頭のなかでは頭一つ抜けている。そう考えると、「過去になればなるほど振り返られる作品数が少ない」と単純化できるわけでもなさそうだ。このあたりは「具体的にその年のどんな作品がランクインしているか?」とか見ていくと楽しそうだけれど、際限なくなるのでやめておく。

複数作ランクインしたアーティスト

続いて、100作品中、複数の作品がランクインしたアーティストを見ていく。

坂本慎太郎=3作品:6位『ナマで踊ろう』(2014年、ゼローン)誌面面積:4、11位『できれば愛を』(2016年、ゼローン)誌面面積:4、60位『幻とのつきあい方』(2011年、ゼローン)誌面面積:2

大森靖子=2作品:25位『TOKYO BLACK HOLE』(2016年、エイベックス・トラックス)誌面面積:3、59位『絶対少女』(2013年、ピンク)誌面面積:2

サニーデイ・サービス=2作品:4位『DANCE TO YOU』(2016年、ローズ)誌面面積:5、55位『Popcorn Ballads』(2017年、ローズ)誌面面積:2

tofubeats=2作品:35位『FANTASY CLUB』(2017年、アンボルデ)誌面面積:3、58位『lost decade』(2013年、ワーナー)誌面面積:2

PIZZICATO ONE=2作品:29位『11のとても悲しい歌』(2011年、ユニバーサル)誌面面積:3、38位『わたくしの二十世紀』(2015年、ヴァーヴ)誌面面積:3

cero=2作品:5位『Obscure Ride』(2015年、カクバリズム)誌面面積:5、14位『POLY LIFE MULTI SOUL』(2018年、カクバリズム):誌面面積:4

坂本慎太郎が3作品選出されているほかは、大森靖子、サニーデイ・サービス、tofubeats、PIZZICATO ONE、ceroが2作品選出されている。ここでも誌面面積の指標を持ち出すと、坂本慎太郎の総誌面面積が10であるのに対してceroが9と迫っているのが面白い。誌面面積で順番をつけるならば、坂本(10)・cero(9)・サニーデイ・サービス(7)・PIZZICATO ONE(6)・大森靖子(5)・tofubeats(5)となる。

年次ベスト企画も撫ぜる

さらに、「2010年代の邦楽アルバム・ベスト100」を頭の片隅に置きつつミューマガが毎年行っているベストアルバム企画も見ていく。

2010年代ベストには入ったのに年次ベストには入っていない作品

全100作品中、ミュージック・マガジンが毎年行っているジャンル別ベストに掲載されなかったアルバムは52作品。

すべてを列挙するのは難しいが、たとえば9位にランクインした中村佳穂『AINOU』(2018年、アイノウ)は当時のランキングに入っていない。これはけっこう意外だった。ほか、16位一十三十一『CITY DIVE』(2012年、ビルボード)や19位森は生きている『グッド・ナイト』(2014年、Pヴァイン)も同様。以上はトップ20、誌面面積4に相当するものだ。

ほか、気まぐれにピックアップすると、24位星野源『YELLOW DANCER』(2015年、スピードスター)、27位三浦大知『球体』(2018年、ソニック・グルーヴ)あたりが当時のランキングに入っていないのはちょっと意外かもしれない。

年次ベストとディケイドベストでは選盤の方法も基準もまったく違うので比較すること自体がナンセンスだろうけれども、これを出発点に「じゃあ、当時はどういう評価だったのか?」をバックナンバーを拾い読みしてみるのも面白いかもしれない。

ジャンル分けの変遷

年次ベストとディケイドベストでは方法も基準も違う……と言ったけれど、そもそも年次ベストも結構10年で変化している。唯一さまざまなジャンルごとに識者があつまって選盤・順位付けをするというのは変わらないけれども、そのジャンル分けの変遷が結構面白い。

2010年代で大きな変動があったのはまず2012年1月号の「ベスト・アルバム2011」で、ここで新たに「東アジア」の項目が登場している。また、2011年1月号の「ベスト・アルバム2010」では15ジャンル中14番目に位置していた「ラップ/ヒップホップ[日本]」が、「~2011」では16ジャンル中12番目に移動。

続いて2016年1月号の「ベスト・アルバム2015」では「音楽DVD」と「東アジア」の項目がなくなっている。以降、14ジャンルとなる。

2018年1月号の「ベスト・アルバム2017」では「ラップ/ヒップホップ[日本]」が見開き2ページに増量(これまでは1ページ)し、したがって選盤も5枚から10枚に増え、特集中の位置も14ジャンル中7番目に移動。それ以前から同ジャンルを担当していた二木信は「今回からこのジャンルの年間ベストが10枚になった。嬉しい。」(p.35)と率直な感想を述べている。また、「ジャズ」も1ページから見開き2ページに増量したうえ、前年までは全ジャンル中11番目だった位置が8番目に移動している。松尾史朗は「2001年以来、実に久しぶりに10枚選出の復活である。」と選評を書き出し、「来年も5枚に逆戻りしない活況を期待したい。」と締めくくる(p.37)。

2019年1月号の「ベスト・アルバム2018」では、それまで「ハウス/テクノ/ブレイクビーツ」と呼ばれていたジャンルが「エレクトロニック・ミュージック」に改称。その経緯は「~2017」の「ハウス/テクノ/ブレイクビーツ」の選評において言及されている。ムードマンは「世界の潮流を眺めると実はハウスやテクノというくくり自体がもはやポピュラーではなくなりつつある。」と指摘(p.38)。渡辺健吾も「「ハウス/テクノ」がほとんどない! という話になったが、「エレクトロニック」という括りにするのはどうか?」(p.39)と書いている。

だからなんだという話

だからなんだという話ではある。しかしたかだか10年くらいでも並べてみると結構おもしろいもので、もっと時代の範囲を広げてみるとなお面白いだろうし、単なる思いつき以上の意義も見いだせそうだ。以前夏フェスでやってみたジェンダー比率の調査も選盤・選者双方でやろうと思えばできなくもないけれどもちょっと故あって保留としている。あと、ジャンルごとの分類をかませるとか。

ここまでやるとミューマガになんか思い入れがあるのかと思われそうだけれども(何度か書いてもいるし)、「定期的にベスト企画をやっている」「入手が(自分の環境では)容易である」という物理的な条件、そしてなにより「今年に入ったタイミングで2010年代ベストみたいな企画が行われた」というモチベーションがそろっただけのことで、同じような条件が揃うのであれば他の雑誌でもよい。たとえばMUSICAも年ごとの振り返りを毎年やっている(こっちも揃えてあるので、そちらをデータに起こすのもやりたい)。rockin’ onもやってたような。

雑誌というのは(ウェブメディアでもそうだけど)蓄積されるアーカイヴであって、アーカイヴとしての雑誌に目を向けると「この企画はいい、悪い」みたいな判断とはまた別の価値が見いだせる。これをきちんとデータの読み書きできる人がやったら面白いんだろうなと思う。なんかふんわりした終わり方になってしまった。もし関心がある方いたらinfo@imdkm.comまで問い合わせください。

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こないだデヴィッド・バーンの『アメリカン・ユートピア』を観たぼんやりした話

(スマホの音声入力を編集したものです)

こないだデヴィッドバーンの『アメリカン・ユートピア』見てすごく良くて。その評はいろんなところで語られてますけど 個人的に一番気になったのは編成で。あの、ブラスが一人もいないよねっていうことをちょっと思って。 楽曲の中にはサックスの音色が必要なものなかにはあって、その時にどうしてるかって言うと、キーボードの人がサックスの音出してんですよね。 そこだけなんか「あれっ」と思って。もちろん演奏する楽曲のレパートリーの中に元々ブラスの役割が少なくて、一人ブラスを入れるよりはキーボードの人に代理で弾いてもらった方がいいんじゃないかって言う、そういう判断は分かる。 ただ、そうすると、パーカッションこそいろんなところから持ってきてるけど、いわゆるメロディ楽器っていうのは、実はそんなに多様じゃないんじゃないかみたいなことをちょっと思っちゃって。あれ、インスピレーションの一つって確実にブラスバンドですよね。デヴィッド・バーンは『アメリカン・ユートピア』と同じかたちでコーチェラのステージに立っていて、その年って、いわゆるビーチェラの年でもあるんですよね。ビヨンセがブラスバンドをヘヴィにフィーチャーしたパフォーマンスをしてた、その対比として『アメリカン・ユートピア』を見るのも可能なのかなぁって。 ビヨンセが率いる一大スペクタクルでは、もちろんブラスバンドが出てくるから、様々な管楽器が鳴らされていた。一方でデヴィッド・バーンは基本的にはロックの編成のバンドをひとりひとりの自律したパフォーマーたちのなかに解体して、ああいうパフォーマンスをしていた。だからなんだってわけじゃないんですけど。ブラスの不在で思い出したっていう。

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