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カテゴリー: Japanese

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【動画】宇多田ヒカル「誓い」のリズム解釈とフロウ

 自作動画です。しこしこつくってました。以前とりあげた宇多田ヒカル「誓い」の譜割りについて、基本的なリズムの(おれの)解釈とおもしろいと思ったポイントに絞って解説しています。コンテントIDにひっかかってないけど、こういう使い方ならいいのかな?

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「芸能」の復興――星野源はなぜ三浦大知に共感するか

 この夏に最も話題を呼んだJ-POPのリリースといえば、三浦大知『球体』(及びその次作「Be Myself」)、そして星野源「アイデア」だった、とひとまず言ってよいだろう。これらのリリースでお茶の間から音楽ファンまで広いリスナー層に訴えかけたこのふたりは、互いにリスペクトを捧げあい、とりわけラジオ番組やTV番組をホストしている星野は、自らの番組で『球体』について語り、あるいは三浦を出演者として招くほどだった。

アイデア

アイデア

 なぜこのふたりがこれほど共感しあっているのか、ということを考える際に重要な点がある。それは、「芸能」というあいまいで周縁的な――それでいて私たちの生活に最も馴染みのある――領域への愛着だ。

 芸能とはなにか。それは、語りとか演奏とかダンスといった表現領域の純粋性とか専門性から離れて、多様な芸(=アート)が混じり合う、境界上の世界だ。芸能というくくりののなかにはそれぞれのプロフェッショナリズムが存在し、はっきりとした分業制が敷かれている一方で、それが劇場であるとか街頭であるとかテレビであるとか、いわゆるメディアを通じてひとたび私たちの前に姿をあらわす場合には、雑多な芸事がからまりあった総合的な娯楽としてたち顕れることになる。

 その傾向がより顕著になったのはおそらく戦後、テレビが芸能の主要なメディアとなり、また芸能界そのものとなったことに起因するだろうから、ここからの議論はもっぱらそうした「テレビ以降の芸能」の問題と考えてもらったほうがいいかもしれない。

 さて、芸能のこの不純さは私たちを常に引きつける一方で、ことそれが表現としての価値付けの問題になると、ほとんど忌むべき対象となる。いわゆるファイン・アートとかシリアス・ミュージックと呼ばれるハイ・アートの世界のみならず、ポップ・ミュージックの世界においても、芸能的な不純さには両義的な態度がしばしば見られる。

 というのもこの不純さは表現者にある程度の制約や妥協を強いるものであり、かつ表現者の神秘性を損なうものだからだ(あるいはそれとは矛盾するように、「親密さを疎外する」という理由で芸能を忌避する流れもあると思うけれど、ここでは取り上げない)。あえてテレビ出演を避けたり、メディアとのタイアップを避けたりといった戦略によって、表現者は芸能の世界とうまく距離をとり、自身のイメージが過剰に捻じ曲げられることのないよう注意深く動くことになる。

 また、そうした不純さに対する微妙な態度は受け手の側にも見られる。これもよく言及されることだけれど、日本を代表するR&Bの名プロデューサー松尾潔いわく、「歌って踊るパフォーマーと、歌だけ歌うパフォーマーがいる場合、たとえ両方とも同じくらい歌が上手くても、売れるのはたいてい後者」だという。「歌もダンスも」よりも「歌だけ」の方がより高尚に思えてしまう、という先入観は、「二兎を追う者は一兎をも得ず」にも似た、パフォーマンスの純粋さに対する信仰によるものではないだろうか。

 あるいは、バラエティでよく見かける「芸能人」がコアな音楽好きだったりすると、途端に評価が一変したり、などというのもよく聞く話だ。そこにはどこか、猥雑な芸能の世界に対する、純粋な音楽の世界(などというものは――クラシックの世界にさえ――ないのだけれど)の優位が感じられる。

 他方、星野源は一貫して、あいまいで境界的な領域のうえで活動を展開してきたと言える。SAKEROCK時代からすでに演劇の世界に足を踏み入れていたことをここで過大評価するつもりはないけれども、いまから振り返ってみればそのように解釈もできる。あんまりこういう言葉を使うのも好きじゃないのだがあえて言えば、「マニア受け」するようなインスト・エキゾ・バンドみたいなことをやりつつもメインストリームの世界に単身乗り込んでいき、ほとんど国民的と言える歌手になったその足跡は、単なるセルアウトとかそういうものではなく、あらかじめ志向していたものだ、と考えたほうがすんなり納得できるし、彼が売れたのも、そもそもそういった素養が彼に備わっていたためだ、という予感もさせる。

 その極地が、ひとつにはNHKの生バラエティ番組「おげんさんといっしょ」であり、次には冒頭で言及した「アイデア」だ。

 「おげんさんといっしょ」は、放送時間のまるまるほとんどが生演奏の音楽とコントで構成され、また高畑充希藤井隆といった女優とか芸人の音楽的なポテンシャルを開花させる場としても極上のプログラムである。嬉々として主婦のかっこうをしてカメラに向かう星野自身の姿は、芸能という領域が持つ猥雑な力とポップな魅力を体現するかのようだ。もはや時代錯誤といっていいスタジオ内のセットも、ミュージシャンに着せられるコスプレまがいの衣装も、単なる気まぐれやサーヴィスではなく、星野源が思い描く芸能のあり方なのだ。

 また「アイデア」は一見するとOK GOとかいったミュージックビデオの名手と並べて語りたくなるビデオだけれども、細かなカメラ割りと「撮って出し」の生々しさ、そして繰り返し画面にあらわれるスタジオの「裏側」から垣間見える現場の空気感などは、むしろ日本のバラエティショーの脈絡に位置づけるべきものではないかと思う。菊地成孔はかつて星野源のパフォーマンスを「ひとりシャボン玉ホリデー」と呼び、じっさい星野自身もクレージーキャッツへの愛慕を隠さない著名人のひとりなのだけれども、「アイデア」のビデオほど星野のクレージーキャッツや「シャボン玉ホリデー」的なバラエティショーへの愛着を形式の点からして表現しているものはないだろう(もちろん、これまでのビデオやパフォーマンスにおいてもそのオマージュとおぼしき要素はたくさんみられるわけだけれども、詳しく論じるほどの知識が私にはない)。

miyearnzzlabo.com

 アルバム『YELLOW DANCER』以来星野が掲げているイエロー・ミュージックなる概念については、本人から、あるいは評論家やライターからいろいろに言及されてきたけれども、そうした語りに微妙に欠けているのは、こうした芸能的な視座ではないかと思う(もう言われてたらごめんなさい。っていうか本人がもう言ってそうだけど)。イエロー・ミュージックは、洋の東西を問わないさまざまなジャンルの日本的なごった煮であるだけではなく、芸能という雑多な領域へ足を踏み入れることを恐れず、むしろ芸能というものの価値を再び認めなおそうという彼の活動そのものを指しているようにも思える。

 途切れることなく続くタイアップ、J-POP的な構成に対する執着、嬉々として歌番組に出演するスタンス、どれもいわゆる「音楽好き」――とりわけロックのイデオロギーに強く影響を受けているタイプの――からすれば、彼の足かせのように見えるかもしれない。しかしむしろ、外から見ればクリエイティビティを制限するように見えるその不純さこそが、星野源が復興しようとしている価値観そのものなのではないか。

 ひるがえって、三浦大知に目を向けてみよう。三浦は、「歌って踊る」ポップアクトとして近年稀に見る洗練を遂げ、日本のエンターテインメントに改めてパフォーマーとしてのプロフェッショナリズムをプレゼンしなおしているかのようなところがある。そのスタンスは、表現者としての自意識から離れて、さまざまなプロフェッショナリズムが交錯する芸能という領域に、まさにど直球を投げ込んでいると言えよう。『球体』は、芸能の領域に特有の高度な分業制を極めたところにどのような表現が可能かという取り組みであり、「Be Myself」はそのテレビ映えする展開や振付の妙からして、その成果をメディアの場へとうつしなおす一曲だ、と思う。

 そのように考えると、星野源三浦大知に共感する理由は自ずとはっきりするだろう。ふたりとも、少しずつ文脈は違う――前者はテレビの育んだ戦後の芸能文化を、後者は高度なエンタメの制度としての芸能を自らの系譜として選ぶだろう――とはいえ、ロック的なイデオロギーから抜け出した、あいまいな芸能という領域に、改めて光を当てる表現者だからだ。

 ただし、彼らが復興しようとする芸能とは、旧態依然とした企画で徐々に視聴者から見捨てられつつあるテレビ業界のなかにあるのでもないし、まして時代の変化に遅々として対応できない音楽業界にあるのでもない。むしろそれは、文化の共通言語を失った時代の私たちが再び互いに語り合う言葉を作り出すための、新しい芸能、オルタナティヴなポップである。それは星野源がこれまでにドラマの主題歌のなかに忍ばせてきた多様性への讃歌に伏線を読み取ることができるし、三浦大知のエンターテインメントに対する圧倒的な信頼と献身にその可能性を感じることができる。

 メディア環境が急激に変化を遂げるなかで、彼らは少なくとも切りうるカードを切りながら、自分たちなりの芸能のあり方を考えている。それがいったい5年後、10年後にどんなかたちをとるのかなんてわかりやしないのだけれど、少なくとも私は、彼らの進まんとする方向に――人びとの共通言語をつくりだす、雑多でポップな芸能という領域の復興に――共感を惜しまない。

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Future Bassのサウンドと星野源「アイデア」――あるいは、現代ポップスとダイナミクス

 お前いつまで「アイデア」の話してんの? と思われるかもしれませんが、以前から書こうと思っていたこととまさに関連している発見があったので書く。

 星野源「アイデア」の2番にあたる部分にFuture Bass的なアレンジが施されていることは既に多くの話題を呼んでいる。若きMPCの名手であるSTUTSをフィーチャーしたそのビートは、アタックの強いパーカッシヴなドラムや対照的にフィルターがゆるやかなアタックを描くリードシンセ、ストリングスのグリッサンドをピッチベンドのように用いるオーケストレーション(耳での判断だけれどおそらくオーディオをプロセスしているわけではなさそう)など、メインストリームのJ-POPとしては意欲的なサウンドとなっている。

 一方で自身の解説によれば、サウンドとしてはいつもどおりの星野源のようにも思える1番――つまり朝ドラ「半分、青い。」のOPに用いられた部分のアレンジの着想もFuture Bassから得ている、としている。

で、もう1個テーマとしては、僕がすごい好きで2017年……まあ、その前からもちょこちょこ聞いていて、2017年は特に聞いていたビートミュージック。フューチャーベースだったり、そういう、通常はエレクトリックな機材を使って作るような楽曲。特に「チキチキチキチキ……」ってすごくハイハットがもう早く鳴っているビート。そういう音楽のジャンルをですね、生演奏でできないかな?っていうのもいちばん最初の発想のひとつでした。

でも、そういう風にして……だから名残りで「チキチキチキチキ……」っていうのは残っているんですけど、それはタンバリンですごく早くカースケさんがやってくれていて。

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 つまり現状では16分で刻まれるタンバリンがFuture Bassっぽさの痕跡だということなのだけれど、もうひとつ(本人がそう意図したかどうかはさておき)Future Bassっぽさを1番に見出すとすれば、それはAメロからBメロまでの休符の置き方とリズムのアレンジにある。

 「おはよう 世の中」という最初の1行から「すべてはモノラルのメロディ」までのAメロ部分は、「お/はよう/よの/なか」というように、要所要所で歌のなかに休符をたっぷりとあてた、緩急のついた譜割りになっている。また、バンド全体の演奏も、その歌と同期するように休符でタメを作っていて、結果として大胆な余白が強い印象を残す。

 また、「涙零れる音は」以下のBメロ部分ではテンポの解釈がハーフになり、元々速めのテンポであるこの楽曲に対するアクセントとして機能している。そこからサビになだれ込む構成はまあまあオーソドックスだ。

 ここで取り上げた、バンド全体が同期してつくりだす余白、そしてテンポの解釈を変えることによるアクセントといった要素は、Future Bassのサウンドにもしばしば見られるものだ。とりわけ前者は、以前ブログで取り上げた「ビルドアップ‐ドロップ構成」(分水嶺としての「ドロップ」――Perfume『Future Pop』レビュー記事補遺 – ただの風邪。参照)と並んで、Future Bassを含むEDM以降のダンス・ミュージックのプロダクションに最も特徴的な要素と言ってよい。

 その典型的な例として、Wave Racer「Flash Drive (feat. B▲by)」を挙げる。1:32ごろのドロップ以降の展開に見られるように、強拍をヒットするようにリードシンセやドラムサウンドが配置され、ほぼ無音になる箇所も存在する。こうしたキメとタメの対比が、ハイハットの「チキチキ」と並ぶFuture Bass独特のグルーヴを生み出している。

 「Flash Drive」のドロップ以降の展開と「アイデア」Aメロとの比較は明白だろう。「アイデア」Aメロで強拍におかれた全パート同時のキメと、大胆な休符によるタメは、まさにFuture Bass的だ。また、「Flash Drive」でスラップベースが変わらずソロを鳴らしつつも他のパートが同様のキメとタメをキープしている点は、「アイデア」の「鶏の歌声も」から「すべてはモノラルのメロディ」までの部分でギターと他のパートが繰り広げるかけあいを彷彿とさせる。

 「アイデア」の1番から2番への展開はとても急に思えるものの、聴き心地に極端な違和感はない。それは、サウンドこそバンドからエレクトロニクスに変化してはいても、基本的なアレンジの方向性が一貫しているからにほかならない。

 音量の飽和状態(全パート同時のヒット)からゼロ地点までのギャップ――すなわちサウンドダイナミクスを巧みにコントロールすることでキメとタメをつくるという手法は、EDMの常套手段でもある。制作環境が完全にデジタルに移行し、0から1までのダイナミクスのコントロールDAW上で容易に行えるようになったために普及した手法と言える。

 「ビルドアップ‐ドロップ構成」の多くも、ビルドアップを通じて達した音量の飽和状態から、誇張されたベース音やパーカッションによるドロップに移行するダイナミクスの変化にその多くを負っているように思う(厳密には、帯域ごとの音の抜き差しなど、より細かいテクニックが積み重ねられているんだと思うけれど、詳述はしない)。

 そのバリエーションとしては、これもまたFuture Bassでよく使われるFlume型のドロップも同様だ。強烈なサイドチェイン(ある音が鳴らされたときに、他の音が引っ込む効果)や、リズムのすき間を縫うようなリードシンセの配置によって強調されるダイナミクスの変化が、EDM独特のケレン味を生み出している。

 もちろん多様化をきわめるEDMにおいてはこれらの手法も絶対的なものではないし、「ビルドアップ‐ドロップ構成」について書いた際にも触れたように、いまやメインストリームはこうした手法から距離をとりはじめているとも言える。

 とはいえ、DAW環境以降可能になったダイナミクスの大胆なコントロールはEDM以外にもその例が見られ、ポップスの語法として定着する可能性も予感させる。

 たとえば今夏の来日や宇多田ヒカルのリワークでも話題になったSuperorganismは、サンプルの途中に無音を挿入してちょっとした違和感を残すアレンジをしばしば用いる。驚くのは、そうしたダイナミクスのコントロールを応用したアレンジを、小規模なスタジオ・ライヴの場なんかでも実演しているところで、ほかにもスポークンワードとかりんごをかじる音の挿入の仕方なんか、DAW的な環境を身体化して見せてるようなところがある。

 そういうわけで、星野源「アイデア」を端緒に、EDM以降(というか厳密にはDAW以降?)のダイナミクスのコントロールに注目してみた。っつーか最近EDMばっか聴いてたけどこういうのでかいハコででかい音で聴くとマジでいいんだろうな~ 野外のEDMフェスとか行きたいわ~ いま一番行きたいもの、それはUltra Japan。以上です。

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分水嶺としての「ドロップ」――Perfume『Future Pop』レビュー記事補遺

realsound.jp

 オリコン週間アルバムランキングで1位をとった、Perfumeの新作『Future Pop』について書きました。EDMとPerfumeの距離感の微妙さ、そして本作で迎えた堂々たる融合、という感じの内容です。ただ本文中で言及しきれないことがあったので若干補遺。

 まず、EDMにおけるビルドアップ‐ドロップ構成について。本文中でも書いたとおりEDMバブルも落ち着いたいまではドロップに対してどうアプローチするのかというのが多様化しています。第一に、これみよがしのビルドアップ‐ドロップ構成から距離をとった、ポストEDM的なスタンス。今年のFUJI ROCK FESTIVALでも来日を果たしたいま人気のデュオODESZAは、壮大なスケールのサウンドを展開しつつも構成はいわゆるEDMではないです。

 あと、「あのトップDJが脱EDM?!」と話題になったCalvin Harrisの『Funk Wav Bounces Vol. 1』も、ドロップのもたらすクライマックスから離れて、ファンクのグルーヴで適度にレイドバックさせつつじわじわ上げるアプローチという意味でわかりやすい例。

 他方、ドロップをいかに過激に先鋭化させるかというアプローチもあり、トラップとかダブステップとかあるいはハードスタイルといったブチ上げてなんぼのジャンルがそんな感じという印象です。そもそもトラップもダブステップもハードスタイルもEDM化する前はビルドアップ‐ドロップ構成とは特に関係なかったわけで、特にハードスタイルはこの構成を取り入れることでEDMの文脈に乗り、改めて流行しているという感じでしょうか。

 過激すぎてヤバいドロップの例はたくさんありますがこないだ出たCarnage「El Diablo」はもはやビルドアップとドロップ以外のパートが存在せず、ビートレスで始まって延々ビルドアップが続いた後に耳をつんざくようなドロップに入って、ひとしきり暴れたあとはまたビートレスになって再度ビルドアップ、以上を2セット、みたいなエクストリームさです。『Funk Wav~』がアンチクライマックスだとしたら、こっちはクライマックス以外存在してない。

 あと、Iimori Masayoshiさんのツイートで知ったYOOKiE「BASSQUAKE (feat. Jeff Kush)」は、ドロップでほぼサブベースしか鳴ってないので普通のスピーカーで聴いてもほぼ無音、ヘッドフォンで聴いても体感できるか微妙。うちのスピーカーはぎり鳴ったかな~ いや鳴ってない気がするな~ くらいのあれです。

 同じ系統でいうとHEKLER「Basic Bass Tune」もドロップはほとんどサブベース(歪んだ倍音がたくさん入ってるのでこっちは普通のスピーカーでもなにが起こってるかはわかる)。現場で聴きてぇ~。

 最後に変わり種中の変わり種。ゼロ年代に世界的に流行したファンキ・カリオカ(バイレ・ファンキ)が現在世界的に見ても最もクレイジーサウンドに謎進化を遂げていることはご存知の方はご存知のことと思いますが、そんななか、MC Hollywood「Tipo Rave Balança O Popo」はEDMのビルドアップ‐ドロップ構成を取り入れてパロディ。脈絡なく入ってくるビルドアップから、いつものすっかすかなファンキサウンドに突然戻るドロップは絶妙なユーモアを醸してます。

 といった例を挙げてみていくと、『Future Pop』はなんだかんだ言うて構成としてはEDMに寄りつつも、エキセントリックな音使いや過激なドロップは避けて、ポップスとしても成立するバランスをうまくとっているように思います。ある種の「中庸さ」を保つことで、EDMのダイナミズムとJ-POPの親しみやすさを両立させている、というふうに言えるかと。中田ヤスタカのソロを聴いても割と「中庸さ」は感じるので、そういうゲームには乗らないという意志があるんじゃないかな。どうだろう。

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「和声」という枷

 鈴木惣一朗が聞き手をつとめた細野晴臣のインタビュー集『細野晴臣 とまっていた時計がまたうごきはじめた』(平凡社、2014年)を読んでいたら、興味深いくだりがあった。細野の1989年作『オムニ・サイト・シーイング』に収録された「Esashi」についての発言だ。江差追分に伴奏をつけくわえたこの曲で同作は始まる。

民謡にコードを付けるっていうあのスタイルは、やってみたかったからやったんだけど、あとで後悔したんだ。コードを付けちゃいけなかったなと思ったの。特定の色を付けちゃうことになってしまったからね。そのあとに、そんな傾向が流行ったこともあって、余計に落ち込んだね。

 続けて聞き手の鈴木は、論を補うようにこう語る。

――コードを付けるってことは、ボイシングによって、歌の心情を説明しちゃうことになるわけですよね。

 そしてまた、

――ブルーズなんかもそうですけど、本当は単旋律のままで、聴き手が感じるべき音楽の世界がある。それを、西洋的なハーモニーで説明してはいけないということですね。

 つまり、和声の概念がないモノフォニックな民謡に対して和声をつけくわえることが、果たしてその曲が本来持っている可能性を閉ざしているのではないか、という問いだ。

 しばしば現在のポップスでは、主旋律に対して別の和声進行をあてるリハーモナイズという手法が制作過程のなかで用いられることがある。同じ旋律でも異なる進行が添えられることでそのニュアンスが変わる様はクレショフ効果さながらであって、音楽がかきたてる私たちの情動は、メロディそのものというよりも和声の時間的な進行と旋律との関係性によって規定されていると言ってよい。

 とはいえ、よく指摘されることだけれどもこういう旋律に対する和声の優位が確立されたのはせいぜい18世紀とかそのくらいであって、たまたまそれが西洋音楽のスタンダードになって、現在のポップ・ミュージックまで地続きになったにすぎない。

 人類史とかそういうスパンで見れば西洋音楽においてさえ和声が音楽の主要な要素に数えられるようになった期間はほんのわずかでしかない。和声を伴う合唱みたいなものは洋の東西を問わず広くみられる(むしろ単旋律の厳密なモノフォニーのほうが少ないという)ものだけれど、それにしたって近代的な和声の体系とはまったく異なる、身体化された対位法のような原理で働くものだ。

人間はなぜ歌うのか? 人類の進化における「うた」の起源

人間はなぜ歌うのか? 人類の進化における「うた」の起源

アフリカ音楽の正体

アフリカ音楽の正体

 そのように考えたとき、「和声が旋律の意味を規定する」ことにあまりにも慣れた自分は旋律そのものの力に対してどれほど敏感たりえているかと思ってしまう。はたして江差追分をそのものとして鑑賞しつくすことが自分にはできるのか、と。いくら無調以後の現代音楽に触れたり、あるいは和声の体系から逸脱する構造を持つブルースやジャズ、あるいはこれが一番自分にとって馴染み深いところのダンス・ミュージックに触れたところで、もしかしたら身体から剥ぎおとされた旋律への感受性があるのではないか。

 まあそんなことは杞憂でしかないんだけれど、改めてさまざまな音楽に対して耳をオープンにしていくことを心にきめるきっかけになった対話だった。それは例えば歌やそのメロディへの意識を変えていく必要の予感をもたらしたりもしたのだった。


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信仰の不在と祈りについて――星野源「アイデア」

 星野源の新曲「アイデア」が配信リリースされた。0時の解禁とほとんど同時に耳にした「アイデア」は、そのタイトル通り、予想外のアイデアがつぎからつぎへと繰り出される名曲だった。

 星野源らしいエキゾティックな旋律と折衷的なバンドサウンドが印象的なワンコーラス目から一転、フットワーク/フューチャーベースのニュアンスを巧みに取り入れたダンスサウンドへと展開し、素朴な弾き語りを経由してふたたび星野源印のサウンドへと回帰する構成。大胆に表情を変えるサウンドは、一枚のEPを一曲に凝縮したかのような印象を与える。

 この展開は、まさしくこの曲が伝えようとすることばたちのためにあつらえられたものだ。光と影のように対照的に配置された1番と2番の歌詞はサウンドの変化と呼応し、アコギの音色と歌声が響くブリッジもまた、親密さに満ちたことばに寄り添っている。そこから浮かび上がってくるのは、人びとの生活そのもの、日々のあゆみそのものを音楽や響きにまつわる隠喩によって描き出しながら、それらをまさに音楽によってそして前進させようという意志だ。

 オーガニックなバンドサウンドから、ベース・ミュージックを経由して大団円に至る楽曲構成は、Donnie Trumpet & the Social Experiment「Sunday Candy」を思わせる。Chance the RapperとJamila Woodsをフィーチャーしたこの曲は、the Social Experimentを中心とするシカゴのミュージシャンたちの折衷的なセンスを存分に発揮したもので、ChanceやJamilaをはじめとした界隈のラッパーやシンガーの仕事に通底するポップさを凝縮した、象徴的な一曲だ。

 しかし、「Sunday Candy」の根底にあるのがゴスペルと信仰だとすれば、「アイデア」の根底にあるのはかわりに星野源自身のキャリア(いつも以上に象徴的に鳴らされるマリンバの音色は彼の原点、SAKEROCKを思わせる)と、いかにしていまの世の中に希望を立て直すかという問いなのではないかと思う。

 以前tofubeats『FANTASY CLUB』についてのレビューを書いたとき、まさにChance the Rapperを引き合いに出して、「信仰による救済」を持たない日本人はどのように「祈り」を捧げるのか、という問題に対する答えがあのアルバムにはある、と評したことがある。それと地続きに、「アイデア」もまた、信仰なき世界でどのように祈るか、どのように希望を語るかに対するひとつの答えだと言えないだろうか(そういえば、同様のことを、James Blake「Don’t Miss It」をめぐる文章でも「信仰の不在」における「救い」について書いたな)。

caughtacold.hatenablog.com

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 まあそういった解釈については僕などよりも星野源の曲にもっと親しんだ人たちのほうがよほど的を射た案を提示してくれるに違いない。この文章はあくまで楽曲の構成上思い浮かんだ「Sunday Candy」と「アイデア」の比較を単に試みてみただけだ。ただこの曲がささやかな希望を人びとに届けることだけはたしかだろう。尻切れトンボですが、また。

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「保守」が「maintenance」でなにが悪いのか、あるいはなぜ彼らは無知を悪びれないか

 最近Twitterで「保守」を「maintenance」のことだと言った反リベラル派の某氏が話題になっている。Twitter上のリベラル勢は、いわく、こうした例こそ安倍政権支持者の知的レベルの低さを示しているのだといってはばからない。まあ実際、反リベラルの、いわゆる「ネトウヨ」がとんちきな英語を使ってリベラルから失笑を買うという風景はわりとよく見かけて、最近だと「アダルトマン将軍」という名フレーズが生まれたのも記憶に新しい。

 とはいえ、こうした嘲笑はけっして、当の反リベラルの人びとには届かない。第一にそれは知をふりかざして相手を見下す、断絶の所作であるから。そして第二には、これがきょう書いておきたいことなのだが、反リベラルの人びとは「正しい知識」などというものの存在を信じていないからだ。

 これは一見奇妙な意見に思えるかも知れない。世の中にあふれる「ふつうの日本人」たちは、彼らの思う「真実」を世界に広めることを自らの使命として任じ、「真実」を歪めるリベラルや左派を苛烈に攻撃してきた。自分たちこそが「真実」の擁護者であるかのように振る舞っているにもかかわらず、正しさなる概念を信じていないとは、どういうことか。

 答えは、反リベラルの保守論客がしばしば持ち出す「歴史戦」なることばのなかに見出すことができる。彼らが「歴史戦」というときに前提としているのは、歴史的真実とはアカデミズムやジャーナリズムの手続きによって慎重に究明されるものではなく、言説上のヘゲモニー争いに勝利した者が一方的に決定できるものだ、という考え方だ。彼らにとっては、自分たちが「真実」の側に立てていないのは、史学的な根拠の欠如のためにではなく、ひとえに左派やリベラルといった反日勢力が言説のうえでヘゲモニーを握っており、自分たちの言い分が握りつぶされているためだ、というわけだ。

 歴史的な事実をいかに確定するかという問題を単なるヘゲモニー争いと見なすこうした反リベラルや保守のものの見方は、「歴史戦」の範疇を超えてあらゆる分野に一般化されているとぼくは思う。なぜ彼らが学ぶことを放棄するかといえば、自分たちがヘゲモニーを握りさえすれば、彼らの言うこと、思うことをすべて「真実」として位置づけることが可能だと信じているからだ。そして、いま現在アカデミズムやジャーナリズムにおいて事実とみなされていることがらは、自分たちに反対する勢力が自らの権威を通じて構築したものであると考え、その土俵に上がること自体を拒否するのだ。

 したがって、いくら彼らの無知を嘲笑しようが、彼らはなんともない。彼らが覇権をにぎったあかつきに、「保守」は「maintenance」を指すと、「ふつうの日本人」は「General Adult Man」と訳すと、閣議決定すればいいだけなのだ。――彼らが安倍政権を支持してやまないのは、(経済政策というひとまずの理由をさしおくとしたら)まさに彼らの信じる世界のあり様をデモンストレーションしているからだろう。

 こうした理屈に対抗するためには、抽象的な言い方になるけれど、知を「権威」としてふりかざすのではなく、知を知たらしめる「制度」のあり方に気を配り、それを正しく運用することが必要だと思う。これは、リベラル/反リベラルという対立に限った話ではない。たとえば科学/疑似科学の対立においても同様ではないだろうか。史料やデータを提示して「論破」するのではなく、そもそも彼らの世界認識が歪んでいること、自分たちがよってたつ世界=制度のあり様を適切にプレゼンテーションすること、それくらいしか僕には思いつかない。しかしこうした世界認識そのものの断絶をどのように乗り越えうるのか、心もとないことは確かだ。

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「ミュージシャンの取り分は12%」、これって少ない?――あるいはミュージシャンの起業家化について

nme-jp.com

NME JAPANによれば、アメリカで行われた調査で、「音楽産業全体の収益に対するミュージシャンの取り分が12%にすぎない」とする結果が明らかになったそうだ。このデータに対して調査に携わった研究者のひとりは「この数字は「極めて低く」、「信じがたい量が流出している」ことを示している」と指摘しているそうだ。

とはいえ、12%という数字がこの記事が強調するほどに少ないものかどうかについては即断しかねる。

もちろん報告書が提唱するような産業構造の転換――メジャーレコードレーベルから配信プラットフォームやプロモーターへの重心の移動――とテクノロジーによる業界全体の効率化によって今後ミュージシャンの取り分が増加していくことはありうるし、まだまだ改善の余地はある。実際、2000年の調査ではアーティストの取り分は7%で、この20年弱で5%ほど増加している。この変化に寄与しているのは、報告書によればコンテンツ主体からライヴなどの経験主体の消費行動への移行だそうだ。

しかし、SpotifyApple MusicといったプラットフォームやLive Nationのようなプロモーターが疑似レーベル的な役割を担うようになり、お金の流れが効率化され、相対的にミュージシャンが得られる収入の割合がより大きくなったとしても、単に人件費の担い手がミュージシャンへと移行するだけなのではないか? という疑問もある。

あえて議論を単純化するけれど、現状においてもBandcampであったり、あるいはPatreonのような購読型ファンディングサービスを使って制作活動を続け、完全にDIYに活動するミュージシャンのほうが入るお金が大きくなる可能性は充分にある。Chance the Rapperのようなスターは実際、Soundcloudやミックステープ共有サイトといったインターネット上のサービスを有効活用して現在の地位を築いた。そのうえ、クリエイティヴに対するコントロールはミュージシャンに委ねられるわけで、悪い話はないようにも思える。

しかし、DIYで活動するということは、アルバムの制作費も、ライヴの制作費も、広報費用も全部自分で管理するということにほかならない。そのためにミュージシャンは自分が信頼できる人材を選り抜いてチームを組み、なかば起業家、あるいは経営者として活動をすることになる。つまりは、いままでレーベルが負担していた金銭的・人的・時間的コストをミュージシャンが負担するようになるわけだ。

ミュージシャンのクリエイティヴを制限しつつ管理するレーベルの機能が弱体化し、プラットフォームやプロモーターのいち部門に縮小されることになれば、一般的なミュージシャンのおかれる状況は、よりDIYな起業家・経営者としてのミュージシャンへ近づいていくことになるだろう。

caughtacold.hatenablog.com

そうなれば、これまで以上に信頼できるマネージャーやスタッフを抱えることが重要になってくる。日本でいえば、メジャーレーベルに所属しつつ、個人事務所を立ち上げて信頼できるチームで活動を行っているtofubeatsの例は参考になるかもしれない。(参考:tofubeatsが神戸大学で仕事やキャリアについて講義 – FNMNL (フェノメナル))あるいは、ヒップホップにしばしばみられる、ゆるやかなコレクティヴの内部でのコラボレーション(OFWGKTAやYENTOWNみたいな)が、他ジャンルにも広がっていく可能性もある。

ミュージシャンの取り分を増やしていくことは、すなわちミュージシャンという職業のあり方を変えていくことにほかならない。それは表現者のみならず、起業家としてのミュージシャン、経営者としてのミュージシャンという側面をより強めていくことになるだろう。もちろんそれが良いとか悪いとかいう問題ではない。それでも、単純に「仲介業者を減らしてもっとミュージシャンに儲けさせよう!」という論調に陥ることには疑問を覚える。

ほかにも、コンテンツ流通やマーチャンダイジングの方法論の変化や、ヴァイラル・マーケティングに見え始めた限界、大規模なスペクタクル化=制作費の増加を伴うライヴ演出の普及など、音楽産業の「支出」をめぐっての変化には大きなものがあって、単純に中間業者を減らしてスリム化すればミュージシャンが豊かになるとは言い難い。ミュージシャンがどのようなスタンスを選ぶか――信頼できるチームを組むのか、業務をアウトソースしていくのか――こそが、検討すべき問題であるように思う。

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Iglooghostとポケモン、ポストポップ・アート

www.thefader.com

 The FADER magに2つの新作EPのリリースを控えたIglooghostのインタビューが掲載されていた。彼は昨年リリースしたBRAINFEEDERからのアルバム『Neo Wax Bloom』も好評の弱冠20歳(今年で21だろうか?)。いわゆるビーツものともトラップとかダブステップ系のベース・ミュージックともなんか違う、プラスティックな質感の音色がころころと変わっていく風景のなかで跳ね回ってるみたいな、謎のエレクトロニック・ミュージック。

プロモーション映像もなんか妙だし、いかにも一筋縄ではいかないキャラクターも印象的だ。

 インタビューで興味深かったのは、「なんでフルレングスじゃなくて2枚のEPをリリースするの?」という質問に対する答え。以下、引用してみよう。

たぶん正直に言うとポケモンで育ったからだと思う。それが僕の頭の中に居座ってるコンセプトなんだ。(ポケモンには)ダイアモンド・パールがあって、もともとは赤と青があった。たんなる詐欺なんだけどね――だってゲームはおんなじなんだから――でもだからこそ、僕は2つのEPを出すというアイデアが気に入ってる。僕はモノを集めるのが好きで、(2つのEPを出すというのも)自分が好きな行為を模してるんだ。いろんな意味で、子どものときに持ってた商品にはインスパイアされている。そんなのぜんぶ資本主義的なものなんだけれど、あなたもそういうものから美しさを得られるはずだよ。(そういう美こそ)子供だった僕を刺激していたものだ。僕が抽出しようとしているのはそれ。たぶん商品を売るっていうよりは、モノを手に入れたときに覚える感覚のほうが近い。

 自分のプロジェクトの参照元ポケモン(しかもダイアモンド・パール)だというのもおもしろいけど、なにより、自分が資本主義社会のなかで消費行為から得ている快楽や美とはなにかを、創作を通じて抽出しようという試みはとてもおもしろい。消費そのものを罪悪とみるよりは、それを換骨奪胎して、異なる美へと結晶化させてみよう、という意志。僕はVaporwave的なシニシズムにシンパシーを覚える世代なので、こうしたIglooghostのスタンスは新鮮に思えた。

 ある意味でそれは、消費を記号の生産と流通の問題に還元したポップ・アート以降の感覚から離れて、消費という行為そのものの正体に迫ろうというちょっとした試みのようだ。そのときに考慮されるのは、抽象化、ないしはゲーム化された消費という行為のモデルであって、ポップ・アートのように「記号の生産様式・生産手段」ではない。再生速度の変化やカットアップ、ループなど、制作に用いられる諸操作を露悪的に誇示してみせるVaporwaveはこの意味でポップ・アートの領域にとどまっているけれど、Iglooghostのナンセンスと寓意ってそのネクストステージなのかもなあ、と大風呂敷を広げたくなった。

ポケットモンスター ダイヤモンド(特典なし)

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Neo Wax Bloom

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「メッセージはメディアである」

YOKO ONO―オノ・ヨーコ 人と作品 (講談社文庫)

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オノ・ヨーコはかつて、たしか飯村隆彦によるインタビューのなかで、マーシャル・マクルーハンの有名なテーゼ「メディアはメッセージである」を批判し、それを転倒させて「メッセージはメディアである」と言ったことがある。これはいかにもアーティストの気ままなことば遊びにすぎないかもしれない。しかし、つきつめて考えてみれば、これもまたひとつの真実を言い当てているように思える。

はじめに示したマクルーハンのテーゼは、彼の思想の技術決定論的な側面を端的にあらわしたものだ。すなわち、私たちがメディアを通じてなんらかのコンテンツを享受するとき、私たちにより強い影響を与えているのはコンテンツの内実よりも、メディアの技術的な条件の方である、ということだ。コンテンツそのものよりも、どのようなメディアを通じてそれを受け取るかのほうが、私たちの世界に対する認識のあり様を決定づける――どのようなメディアが支配的となるかに応じて、私たちの世界の捉え方も変わってくる、それゆえ具体的な中身よりもメディアの様式をこそ検討しなくてはならない、ということだ。

メディアはマッサージである: 影響の目録 (河出文庫)

メディアはマッサージである: 影響の目録 (河出文庫)

しかし、オノはそうしたマクルーハンの思想を権威主義的、制度的にすぎるとしてしりぞける。この批判をぼくなりに補足すれば、技術はときに私たちの世界認識のあり様を決定的に、不可逆的に変化させるが、しかし、技術が私たちの世界認識を隅から隅まで規定してしまうわけではない、少なくともそのように信じたい、ということだ。仮にそうした技術決定論を(きわめて素朴に、だが)ひとつの原理として採用してしまうと、市井に生きる人びとの側から世界を変革する余地が残されなくなってしまうだろう。技術の領域は高度化するにつれてブラックボックス化してしまうのだから。

それを踏まえて、オノがなかばたわむれに発した「メッセージはメディアである」という2つ目のテーゼは、メッセージを発すること、声をあげることそのものが媒介(メディア)となり、社会を変革しうる、と言い換えることができる。

メッセージはメディアを横断する。それが聴覚的であれ視覚的であれ、平面的であれ空間的であれ、あるメッセージはあらゆるメディアに憑依して私たちのもとに届けられ、しばしば私たち自身の奥深くまで浸透する。そのとき、メッセージはメディアという入れ物によって運ばれてくるひとつの言明であるというよりも、メディアに寄生してさまざまな宿り主のあいだを渡り歩くウィルスのようなものである、とも考えられる。

こうした主客を反転させた捉え方は、SNS時代以降、ヴァイラルな(ウィルス様の)コミュニケーションの危険なまでの効力を目の当たりにしたわれわれにとって、むしろ馴染み深いものではないだろうか。音声、画像、映像、あるいはテクスト、などのかたちをとってインターネット上を流通する多種多様なメッセージは、じっさい、(その影響力の大きさには諸説あるとはいえ)よかれあしかれ人びとに感染し、社会の方向性をひそかに決定づけている。

メッセージは物理的な支持体(メディウム)に従うものではなく、むしろそれ自体が人びとにイメージをもたらし、思考を促し、行動を動機づける、ひとそろいの環境そのものなのであって、それゆえに、メッセージを発することそのものが世界のあり方を変革する契機ともなりうるのだ。街角のビルボードやポスターに記された「WAR IS OVER IF YOU WANT IT」というセンテンスはそれ自体、「あなたが求めさえすれば戦争は終わる」というメッセージであると同時に、「世界を変えるために必要なのは、メッセージを発することだ」ということのデモンストレーションなのである。

個々のメッセージの力は、テクノロジーが私たちの世界認識を規定する力と比べれば、圧倒的に小さい。オノ・ヨーコジョン・レノンというよかれあしかれ世界で最も著名な夫婦が発したメッセージでさえ、テレビやラジオ、あるいはSNSといったメディアそのものの持つ力に及ばないだろう。しかし、そうしたテクノロジーの内側に、そして人びとの心に憑依し、感染したメッセージは静かに変革の灯火を燃やし続けるのである。実際、「WAR IS OVER」というメッセージはいまだに私たちの心の中に存在し続け、ふとしたところに掲示され、根強く増殖を続けている。

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