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カテゴリー: Japanese

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「保守」が「maintenance」でなにが悪いのか、あるいはなぜ彼らは無知を悪びれないか

 最近Twitterで「保守」を「maintenance」のことだと言った反リベラル派の某氏が話題になっている。Twitter上のリベラル勢は、いわく、こうした例こそ安倍政権支持者の知的レベルの低さを示しているのだといってはばからない。まあ実際、反リベラルの、いわゆる「ネトウヨ」がとんちきな英語を使ってリベラルから失笑を買うという風景はわりとよく見かけて、最近だと「アダルトマン将軍」という名フレーズが生まれたのも記憶に新しい。

 とはいえ、こうした嘲笑はけっして、当の反リベラルの人びとには届かない。第一にそれは知をふりかざして相手を見下す、断絶の所作であるから。そして第二には、これがきょう書いておきたいことなのだが、反リベラルの人びとは「正しい知識」などというものの存在を信じていないからだ。

 これは一見奇妙な意見に思えるかも知れない。世の中にあふれる「ふつうの日本人」たちは、彼らの思う「真実」を世界に広めることを自らの使命として任じ、「真実」を歪めるリベラルや左派を苛烈に攻撃してきた。自分たちこそが「真実」の擁護者であるかのように振る舞っているにもかかわらず、正しさなる概念を信じていないとは、どういうことか。

 答えは、反リベラルの保守論客がしばしば持ち出す「歴史戦」なることばのなかに見出すことができる。彼らが「歴史戦」というときに前提としているのは、歴史的真実とはアカデミズムやジャーナリズムの手続きによって慎重に究明されるものではなく、言説上のヘゲモニー争いに勝利した者が一方的に決定できるものだ、という考え方だ。彼らにとっては、自分たちが「真実」の側に立てていないのは、史学的な根拠の欠如のためにではなく、ひとえに左派やリベラルといった反日勢力が言説のうえでヘゲモニーを握っており、自分たちの言い分が握りつぶされているためだ、というわけだ。

 歴史的な事実をいかに確定するかという問題を単なるヘゲモニー争いと見なすこうした反リベラルや保守のものの見方は、「歴史戦」の範疇を超えてあらゆる分野に一般化されているとぼくは思う。なぜ彼らが学ぶことを放棄するかといえば、自分たちがヘゲモニーを握りさえすれば、彼らの言うこと、思うことをすべて「真実」として位置づけることが可能だと信じているからだ。そして、いま現在アカデミズムやジャーナリズムにおいて事実とみなされていることがらは、自分たちに反対する勢力が自らの権威を通じて構築したものであると考え、その土俵に上がること自体を拒否するのだ。

 したがって、いくら彼らの無知を嘲笑しようが、彼らはなんともない。彼らが覇権をにぎったあかつきに、「保守」は「maintenance」を指すと、「ふつうの日本人」は「General Adult Man」と訳すと、閣議決定すればいいだけなのだ。――彼らが安倍政権を支持してやまないのは、(経済政策というひとまずの理由をさしおくとしたら)まさに彼らの信じる世界のあり様をデモンストレーションしているからだろう。

 こうした理屈に対抗するためには、抽象的な言い方になるけれど、知を「権威」としてふりかざすのではなく、知を知たらしめる「制度」のあり方に気を配り、それを正しく運用することが必要だと思う。これは、リベラル/反リベラルという対立に限った話ではない。たとえば科学/疑似科学の対立においても同様ではないだろうか。史料やデータを提示して「論破」するのではなく、そもそも彼らの世界認識が歪んでいること、自分たちがよってたつ世界=制度のあり様を適切にプレゼンテーションすること、それくらいしか僕には思いつかない。しかしこうした世界認識そのものの断絶をどのように乗り越えうるのか、心もとないことは確かだ。

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「ミュージシャンの取り分は12%」、これって少ない?――あるいはミュージシャンの起業家化について

nme-jp.com

NME JAPANによれば、アメリカで行われた調査で、「音楽産業全体の収益に対するミュージシャンの取り分が12%にすぎない」とする結果が明らかになったそうだ。このデータに対して調査に携わった研究者のひとりは「この数字は「極めて低く」、「信じがたい量が流出している」ことを示している」と指摘しているそうだ。

とはいえ、12%という数字がこの記事が強調するほどに少ないものかどうかについては即断しかねる。

もちろん報告書が提唱するような産業構造の転換――メジャーレコードレーベルから配信プラットフォームやプロモーターへの重心の移動――とテクノロジーによる業界全体の効率化によって今後ミュージシャンの取り分が増加していくことはありうるし、まだまだ改善の余地はある。実際、2000年の調査ではアーティストの取り分は7%で、この20年弱で5%ほど増加している。この変化に寄与しているのは、報告書によればコンテンツ主体からライヴなどの経験主体の消費行動への移行だそうだ。

しかし、SpotifyApple MusicといったプラットフォームやLive Nationのようなプロモーターが疑似レーベル的な役割を担うようになり、お金の流れが効率化され、相対的にミュージシャンが得られる収入の割合がより大きくなったとしても、単に人件費の担い手がミュージシャンへと移行するだけなのではないか? という疑問もある。

あえて議論を単純化するけれど、現状においてもBandcampであったり、あるいはPatreonのような購読型ファンディングサービスを使って制作活動を続け、完全にDIYに活動するミュージシャンのほうが入るお金が大きくなる可能性は充分にある。Chance the Rapperのようなスターは実際、Soundcloudやミックステープ共有サイトといったインターネット上のサービスを有効活用して現在の地位を築いた。そのうえ、クリエイティヴに対するコントロールはミュージシャンに委ねられるわけで、悪い話はないようにも思える。

しかし、DIYで活動するということは、アルバムの制作費も、ライヴの制作費も、広報費用も全部自分で管理するということにほかならない。そのためにミュージシャンは自分が信頼できる人材を選り抜いてチームを組み、なかば起業家、あるいは経営者として活動をすることになる。つまりは、いままでレーベルが負担していた金銭的・人的・時間的コストをミュージシャンが負担するようになるわけだ。

ミュージシャンのクリエイティヴを制限しつつ管理するレーベルの機能が弱体化し、プラットフォームやプロモーターのいち部門に縮小されることになれば、一般的なミュージシャンのおかれる状況は、よりDIYな起業家・経営者としてのミュージシャンへ近づいていくことになるだろう。

caughtacold.hatenablog.com

そうなれば、これまで以上に信頼できるマネージャーやスタッフを抱えることが重要になってくる。日本でいえば、メジャーレーベルに所属しつつ、個人事務所を立ち上げて信頼できるチームで活動を行っているtofubeatsの例は参考になるかもしれない。(参考:tofubeatsが神戸大学で仕事やキャリアについて講義 – FNMNL (フェノメナル))あるいは、ヒップホップにしばしばみられる、ゆるやかなコレクティヴの内部でのコラボレーション(OFWGKTAやYENTOWNみたいな)が、他ジャンルにも広がっていく可能性もある。

ミュージシャンの取り分を増やしていくことは、すなわちミュージシャンという職業のあり方を変えていくことにほかならない。それは表現者のみならず、起業家としてのミュージシャン、経営者としてのミュージシャンという側面をより強めていくことになるだろう。もちろんそれが良いとか悪いとかいう問題ではない。それでも、単純に「仲介業者を減らしてもっとミュージシャンに儲けさせよう!」という論調に陥ることには疑問を覚える。

ほかにも、コンテンツ流通やマーチャンダイジングの方法論の変化や、ヴァイラル・マーケティングに見え始めた限界、大規模なスペクタクル化=制作費の増加を伴うライヴ演出の普及など、音楽産業の「支出」をめぐっての変化には大きなものがあって、単純に中間業者を減らしてスリム化すればミュージシャンが豊かになるとは言い難い。ミュージシャンがどのようなスタンスを選ぶか――信頼できるチームを組むのか、業務をアウトソースしていくのか――こそが、検討すべき問題であるように思う。

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Iglooghostとポケモン、ポストポップ・アート

www.thefader.com

 The FADER magに2つの新作EPのリリースを控えたIglooghostのインタビューが掲載されていた。彼は昨年リリースしたBRAINFEEDERからのアルバム『Neo Wax Bloom』も好評の弱冠20歳(今年で21だろうか?)。いわゆるビーツものともトラップとかダブステップ系のベース・ミュージックともなんか違う、プラスティックな質感の音色がころころと変わっていく風景のなかで跳ね回ってるみたいな、謎のエレクトロニック・ミュージック。

プロモーション映像もなんか妙だし、いかにも一筋縄ではいかないキャラクターも印象的だ。

 インタビューで興味深かったのは、「なんでフルレングスじゃなくて2枚のEPをリリースするの?」という質問に対する答え。以下、引用してみよう。

たぶん正直に言うとポケモンで育ったからだと思う。それが僕の頭の中に居座ってるコンセプトなんだ。(ポケモンには)ダイアモンド・パールがあって、もともとは赤と青があった。たんなる詐欺なんだけどね――だってゲームはおんなじなんだから――でもだからこそ、僕は2つのEPを出すというアイデアが気に入ってる。僕はモノを集めるのが好きで、(2つのEPを出すというのも)自分が好きな行為を模してるんだ。いろんな意味で、子どものときに持ってた商品にはインスパイアされている。そんなのぜんぶ資本主義的なものなんだけれど、あなたもそういうものから美しさを得られるはずだよ。(そういう美こそ)子供だった僕を刺激していたものだ。僕が抽出しようとしているのはそれ。たぶん商品を売るっていうよりは、モノを手に入れたときに覚える感覚のほうが近い。

 自分のプロジェクトの参照元ポケモン(しかもダイアモンド・パール)だというのもおもしろいけど、なにより、自分が資本主義社会のなかで消費行為から得ている快楽や美とはなにかを、創作を通じて抽出しようという試みはとてもおもしろい。消費そのものを罪悪とみるよりは、それを換骨奪胎して、異なる美へと結晶化させてみよう、という意志。僕はVaporwave的なシニシズムにシンパシーを覚える世代なので、こうしたIglooghostのスタンスは新鮮に思えた。

 ある意味でそれは、消費を記号の生産と流通の問題に還元したポップ・アート以降の感覚から離れて、消費という行為そのものの正体に迫ろうというちょっとした試みのようだ。そのときに考慮されるのは、抽象化、ないしはゲーム化された消費という行為のモデルであって、ポップ・アートのように「記号の生産様式・生産手段」ではない。再生速度の変化やカットアップ、ループなど、制作に用いられる諸操作を露悪的に誇示してみせるVaporwaveはこの意味でポップ・アートの領域にとどまっているけれど、Iglooghostのナンセンスと寓意ってそのネクストステージなのかもなあ、と大風呂敷を広げたくなった。

ポケットモンスター ダイヤモンド(特典なし)

ポケットモンスター ダイヤモンド(特典なし)

Neo Wax Bloom

Neo Wax Bloom

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「メッセージはメディアである」

YOKO ONO―オノ・ヨーコ 人と作品 (講談社文庫)

YOKO ONO―オノ・ヨーコ 人と作品 (講談社文庫)

オノ・ヨーコはかつて、たしか飯村隆彦によるインタビューのなかで、マーシャル・マクルーハンの有名なテーゼ「メディアはメッセージである」を批判し、それを転倒させて「メッセージはメディアである」と言ったことがある。これはいかにもアーティストの気ままなことば遊びにすぎないかもしれない。しかし、つきつめて考えてみれば、これもまたひとつの真実を言い当てているように思える。

はじめに示したマクルーハンのテーゼは、彼の思想の技術決定論的な側面を端的にあらわしたものだ。すなわち、私たちがメディアを通じてなんらかのコンテンツを享受するとき、私たちにより強い影響を与えているのはコンテンツの内実よりも、メディアの技術的な条件の方である、ということだ。コンテンツそのものよりも、どのようなメディアを通じてそれを受け取るかのほうが、私たちの世界に対する認識のあり様を決定づける――どのようなメディアが支配的となるかに応じて、私たちの世界の捉え方も変わってくる、それゆえ具体的な中身よりもメディアの様式をこそ検討しなくてはならない、ということだ。

メディアはマッサージである: 影響の目録 (河出文庫)

メディアはマッサージである: 影響の目録 (河出文庫)

しかし、オノはそうしたマクルーハンの思想を権威主義的、制度的にすぎるとしてしりぞける。この批判をぼくなりに補足すれば、技術はときに私たちの世界認識のあり様を決定的に、不可逆的に変化させるが、しかし、技術が私たちの世界認識を隅から隅まで規定してしまうわけではない、少なくともそのように信じたい、ということだ。仮にそうした技術決定論を(きわめて素朴に、だが)ひとつの原理として採用してしまうと、市井に生きる人びとの側から世界を変革する余地が残されなくなってしまうだろう。技術の領域は高度化するにつれてブラックボックス化してしまうのだから。

それを踏まえて、オノがなかばたわむれに発した「メッセージはメディアである」という2つ目のテーゼは、メッセージを発すること、声をあげることそのものが媒介(メディア)となり、社会を変革しうる、と言い換えることができる。

メッセージはメディアを横断する。それが聴覚的であれ視覚的であれ、平面的であれ空間的であれ、あるメッセージはあらゆるメディアに憑依して私たちのもとに届けられ、しばしば私たち自身の奥深くまで浸透する。そのとき、メッセージはメディアという入れ物によって運ばれてくるひとつの言明であるというよりも、メディアに寄生してさまざまな宿り主のあいだを渡り歩くウィルスのようなものである、とも考えられる。

こうした主客を反転させた捉え方は、SNS時代以降、ヴァイラルな(ウィルス様の)コミュニケーションの危険なまでの効力を目の当たりにしたわれわれにとって、むしろ馴染み深いものではないだろうか。音声、画像、映像、あるいはテクスト、などのかたちをとってインターネット上を流通する多種多様なメッセージは、じっさい、(その影響力の大きさには諸説あるとはいえ)よかれあしかれ人びとに感染し、社会の方向性をひそかに決定づけている。

メッセージは物理的な支持体(メディウム)に従うものではなく、むしろそれ自体が人びとにイメージをもたらし、思考を促し、行動を動機づける、ひとそろいの環境そのものなのであって、それゆえに、メッセージを発することそのものが世界のあり方を変革する契機ともなりうるのだ。街角のビルボードやポスターに記された「WAR IS OVER IF YOU WANT IT」というセンテンスはそれ自体、「あなたが求めさえすれば戦争は終わる」というメッセージであると同時に、「世界を変えるために必要なのは、メッセージを発することだ」ということのデモンストレーションなのである。

個々のメッセージの力は、テクノロジーが私たちの世界認識を規定する力と比べれば、圧倒的に小さい。オノ・ヨーコジョン・レノンというよかれあしかれ世界で最も著名な夫婦が発したメッセージでさえ、テレビやラジオ、あるいはSNSといったメディアそのものの持つ力に及ばないだろう。しかし、そうしたテクノロジーの内側に、そして人びとの心に憑依し、感染したメッセージは静かに変革の灯火を燃やし続けるのである。実際、「WAR IS OVER」というメッセージはいまだに私たちの心の中に存在し続け、ふとしたところに掲示され、根強く増殖を続けている。

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世界を背負わないこと――James Blake – Don't Miss It

2020/9/19 若干改稿。

先月末にYouTubeで公開されたJames Blakeの新曲、”Don’t Miss It”が各種ストリーミング・サービスでも配信されている。1月に公開された”If the Car Beside You Moves Ahead“に続いて、アコースティックなサウンドとエレクトロニックなビートが融合したトラックに、印象的なエディットやエフェクトが施されたヴォーカルが乗る、まさにJames Blakeといった楽曲だ。

どこか抽象的かつ隠喩的でドラッグへの参照も見られた”If the Car…”の歌詞と比べると、”Don’t Miss It”の歌詞は率直で、胸を打つ切実さがある。ひとことでまとめるならば、利己的な想念にとりつかれることで見失ってしまった、かけがえのない人生の歓びに対する、後悔にあふれた讃歌だと言えるだろう。

genius.com

世界がぼくを締め出した/すべてを与えてしまえば、ぼくはすべてを失ってしまう/あらゆることがぼくに関わっている/自分こそが一番重要なことだ/きみはこういう堂々巡りな考えを持ったことがないのかい?

冒頭のヴァースで示されているとおり、この曲で「ぼく」は、世界から疎外されるとともに、「あらゆることが自分のためにあり、自分こそがもっとも重要なのだ」という視野狭窄に陥っている。そして、つづく2つ目のヴァースで歌われているように、この状態のままでいる限り、「なににも巻き込まれなくて済む、リアルタイムで世界を見なくて済む、煩わしいことを忘れられる、外に出なくても済む、列に割り込むことだってできる、好き放題言うこともできる、好きなときに眠ることもできる…」はずなのだ。

しかし、反実仮想(could)が列挙されるこのヴァースの最後には、仮にそのとおりに行動した場合の、その代償がつきつけられる。

でもそうするとぼくは、それを見逃してしまうんだ/それを見逃してはいけない/僕のように見逃してほしくないんだ

「それ」の正体は、最後のヴァースできわめて具体的に、しかし具体的であるがゆえに正確に名指すことができない、繊細なモーメントとして列挙される。

完璧なイメージを求める必要がなくて/なんの問題も見当たらないようなとき/それを見逃してはいけない

あるいは、

気の合う仲間とつるんでいて/鈍い痛みがどこかに消えてしまう、そんなとき/それを見失ってはいけない

そしてまた、

抜け殻みたいな感覚が抜けて/まわりのみんなが「調子よさそうじゃん」と話しかけてくる、そんなとき/それを見失ってはいけない

抑うつ状態にあると、孤独に苛まれ、世界をたったひとりで背負っているような感覚に陥ることがある。苦しみを背負い、自暴自棄になり、結果としてあたかも「自分の好きなように」生きているかのような利己的な行動をとるようになってしまう。しかし、それによって苦しみが根っこから解消されたわけではない。苦しみから目をそらし、苦しみをやわらげるための行き当たりばったりな行動でしかないのだから。

James Blakeはこの曲で、そうした隘路に迷い込まないための忠告をあなたに与える。弱さに押し流されそうになるのに耐えて、生活のふとした瞬間にあらわれる満ち足りたモーメントに注意を払うこと。同じ苦しみをわかつ人びとにこの声が届くかどうかはわからないけれど、「ぼく」と同じ側に落ちてきそうな人びとへ、精神を振り絞ってメッセージを届けようとしている。

絶望に染まることばに反して、ピアノとバックコーラスは救いのように響く。ただしそれは、無用な多幸感をもたらしはしない。なぜなら、この曲が伝えようとするものは、宗教的恍惚や啓示ではなく、なにげない生活そのものが救いでありうることだからだ。

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すぐそこにあるカタストロフとその不安――Oneohtrix Point Never – Age of

Age Of [解説・歌詞対訳 / ボーナストラック1曲収録 / 初回盤のみ特殊パッケージ仕様 / 国内盤] (BRC570)

Age Of [解説・歌詞対訳 / ボーナストラック1曲収録 / 初回盤のみ特殊パッケージ仕様 / 国内盤] (BRC570)

Oneohtrix Point NeverことDaniel Lopatinは、ここ10年で最も注目され、活躍するエレクトロニック・ミュージックの作り手だ。暴力的で、過剰にドラマチックで、かつ人を食ったシニカルなユーモアを湛えた彼の作品は、さまざまなサブテクスト――インタビュー、ミュージックビデオ、あるいは物語――とともにもたらされ、さながら謎解きの様相さえ呈してリスナーを魅了してきた。サウンドとサブテクストから垣間見える退廃的な世界観はきわめて物語的・映画的であり、実際そうした作家性は映画”Good Time”の劇伴を手がけるという仕事に結実している。

Good Time Original Motion Picture Soundtrack [帯解説・ボーナストラック1曲収録 / 国内盤] (BRC558)

Good Time Original Motion Picture Soundtrack [帯解説・ボーナストラック1曲収録 / 国内盤] (BRC558)

最新作 Age of は、歌にフォーカスを当てたポップなつくりで彼の音楽に対する間口を圧倒的に広げている。と同時に、絶妙に挟まれる変調とノイズは、ポップ・ミュージックに近づきつつも(もとよりそのメロディセンスにはポップさが宿っていたとも思うのだけれど)その約束事をはぐらかそうとする彼のひねくれた実験精神を感じさせる。むしろ、形式上のポップさゆえに、彼がこの作品においてなにを試みようとしているのかがより鮮明になっているようにさえ思える。

私見ながら、この作品に一貫しているのは、カタストロフの予兆と、それに対する絶え間ない不安ではないかと思う。もちろんそれは歌詞のレベル、サブテクストのレベルで表現されているが、同時にサウンドのレベルにおいても同じテーマが表現されている。

具体的にはこうだ。バロック的なハープシコードのサウンドがかすかに歪み、ピッチを変調され、ノイズすれすれにカットアップされる1曲目 “Age Of” から、MVも制作された “Black Snow” 、あるいは “Warning” などの曲に特徴的なように、メロディの流れを変調やノイズが寸断し、その向こう側に無秩序=カオスの深淵がぱっくりと顔を覗かせるかのような演出が散りばめられている。

歌、そしてメロディは任意のサウンドのなかにひとつの秩序をつくりだす。その秩序は、いつでも単なる無秩序へと還元されうる。あらゆるメロディは常にカオスに転じる可能性を孕みながら鳴り響くのだ。しかし、幾層にもわたって高度に形式化されたポップスの枠組みにおいては、この秩序から無秩序へのカタストロフの可能性が認識されることはほとんどない。Age of は、通常は無視される根源的な脆弱性を巧みにその物語のなかに取り入れ、カタストロフへの不安を描写し、体感させることに成功している。

加えて、このカタストロフは無限に延期され私たちを宙吊りにする「来るべき終末」ではなく、常にこの瞬間に訪れてしまっている、私たちの暮らすディストピアそのものでもある。

“Black Snow” のMVの冒頭、防護服に身を包みながらカメラを通じてこちらを指差す怪物の姿は、おそらく福島第一原発のライブカメラに現れた「指差し作業員」を参照しているものと思われる。なにしろ、ほかに類例がない特異なイメージだ。ビデオのなかでは、登場人物たちが果たしてなんの脅威から身を守っているのか明示はされないが、怪物のデスクの上が大写しになるカットには”RADIOACTIVE WASTE…”という表題のあるVHSテープのケースが写り込んでおり、脅威のひとつに放射能が想定されていることは間違いないだろう。

放射能をカタストロフのイメージとして特権的に論じることはここでは避けたい。それはあまりにもセンシティヴな問題であり、かつあまりにもリアルな、現在進行形の問題だからだ。しかし、現実に起こった大規模な原発事故と、それに対するいち作業員のアクションを参照しているという事実は、Age of の終末論的な世界観を、否が応でも私たちの暮らすこの現実世界に引き寄せる。私たちはカタストロフの可能性に曝されているのではなく、むしろそのカタストロフを他の秩序で覆い尽くすことで単に忘却しているに過ぎないのではないか。OPNの作品をとりまくオカルト的な要素は、SF的想像力を喚起するのみならず、すでに訪れているカタストロフへ私たちの意識を向けるよう促すのである。

さて、こうした秩序と無秩序のあわいを往還する運動は、Daniel Lopatinのディスコグラフィのなかでは、Chuck Personという変名でリリースされた Chuck Person’s Eccojams Vol.1 にも見いだせる。

2010年リリースの本作は、テン年代初頭に隆盛を見せ、その余波が未だ収まらないVaporwaveの原点としてカルト的な人気を誇っている。安っぽいヒット曲のサンプリングがディレイによって変調され、針飛びのように奇妙なループを施される本作は、ポップ・ソングが暴力的な編集によって無秩序へと還っていく、デカダンな快楽に満ちている。この作品に刺激されたVaporwaveのアーティストたちが、廃墟と化したショッピングモールをひとつの理想郷と見なした、シニシズムの極北のような音楽をつくりだしたことは、全く的を射ているというほかない。

Age ofEccojams を接続することで見えてくることのひとつに、秩序=音楽が無秩序=単なるサウンドに還元されるという事態が、デジタル化以降のオーディオにおいてとりわけ重要な意味を持つこと、というふうに思うんですが、長くなったのでこの件はまたいつか…… しかもこのデジタル化以降のオーディオにおける秩序の喪失という主題は、放射能被害ともリンクするのであった…… などと、多少陰謀論がかった話になりそうなので、まあ、話半分で……。

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なぜカニエ・ウェストは問題なのか?――メンタルヘルスと「スーパーヒーロー」

昨今はすっかりお騒がせセレブ化してしまったカニエ・ウェストが、待望の新作 Ye をリリースした。そのサウンドはエポックとまではいわずとも安定したクオリティを保っており、プロデューサー/ミュージシャンとしての才覚は鈍っていないことをアピールするかのようだった。カニエは昨今のヒップホップ・シーンにおけるゴスペルへの接近や信仰への回帰の中心的存在だが、今作でもたとえば”Ghost Town”(tr.6)のような楽曲にその片鱗が伺える。特に同曲の終盤にふとあらわれる、アカペラのコーラスとサブベースだけのパートには、天上的な悦楽だけではなくて大地にしっかりと足をつけたような力強さを感じた。

とはいえ、すでにさまざまなメディアで指摘されていることだが、同作におけるリリックの内容は、ままスキャンダラスとまでは言わないものの、カニエのお騒がせ体質が滲み出た微妙なものになっていたように思う。NMEの報道によれば、TMZのインタビューで例の「奴隷制は選択」発言をして騒動になったあと、歌詞があまりにもセンシティヴだということでアルバムがまるごと一枚ポシャったらしい。それでもなお論争を呼ぶ作品になっているわけだから、もしそのバージョンがリリースされていたらとんでもない問題作になっていたかもしれない。

具体的なリリックの内容については、ライターの池城美菜子さんによる全曲解説が簡潔で的を射ているように思うので、そちらを参照してもらいたい。個人的には、”Wouldn’t Leave”につづられている「嫁の忠誠心を試してどこまでついてこれるか見極めろ」みたいな内容に、「こいつマジでやべーやつじゃん」とドン引きした。”Yikes”の「ラッセル・シモンズみたいにおれも#MeTooされたらどうしよ~ 怖い~」みたいな茶化しもどうかと思う。まあ、ヒップホップという音楽の体質から考えればこのくらいは未だにアベレージという諦念もあるものの、やはりこのタイミングでこの内容というのは厳しいものがある。

しかし今回問題にしたいのは、前述のNMEの記事(元はBIG BOY TVにアップロードされたインタビュー動画だが)で紹介されている、彼の精神的な問題に関する発言だ。彼は「39歳になったら、精神的な問題があると診断された。まあみんな何かしら抱えているものだと思う。何かしら抱えているんだけど、おれがアルバムで言ったみたいに、それは障害じゃなくてスーパーパワーなんだ」と述べている。こういった発言が、同じ苦しみを抱えている人びとをエンカレッジするならば良いのだが、NMEで紹介されている他の発言には、「他のアーティストと違っておれは自分を最後まで貫く」とか、「もしこの境遇にいるのがカニエ・ウェストじゃなかったら、どうなっていたと思うよ?」みたいなものがみられる。つまるところ、ミュージシャンとしてのカニエ自身を他者――他のミュージシャン、あるいは一般大衆――から卓越化するためのギミックとして病を扱うかのようなレトリックがみられるのだ。

このように、「苦しみの共有」ではなく、「苦しみを強みに転換する強さをもった自分」にフォーカスがあたっている点に、近年のカニエの発言に通底する問題が隠れているように思う。端的に言ってしまえば、いわゆる「ネオリベ」(あまりこのレッテルは好きではないのだが)と呼ばれて批判される類の自己責任論だ。「奴隷制は選択」という発言にしても、制度的な問題を個人の選択の問題にすり替え、「奴隷制を捨てるという選択をしなかったのだから、実質的に奴隷制は黒人自らが選んだものではないのか」と主張したわけだから、その論理は一貫している(ついでに言えば、つい最近炎上している某アパレルECサイトの某氏の過労死に関する発言を彷彿とさせもする)。カニエのなかでは、心の病でさえも、個人の能力次第で乗り越えが可能なものであって、それを乗り越えられないということは…… いや、ここまでは言うまい。カニエもさすがにそこまで口にしてはいないのだから。

マーク・フィッシャーは著書『資本主義リアリズム』のなかで、メンタルヘルスの問題が社会全体の福祉に関わる問題ではなく、個人の脳生理学的な問題に還元されていく現代の傾向を厳しく批判したが、メンタルヘルスの個人化・私有化(privatization)の先では、メンタルヘルスの問題が「病をいかに乗り越えるか」という個人間の卓越化の材料に堕してしまいさえするのだ。

資本主義リアリズム

資本主義リアリズム

  • 作者: マークフィッシャー,セバスチャンブロイ,河南瑠莉
  • 出版社/メーカー: 堀之内出版
  • 発売日: 2018/02/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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That’s my bipolar shit, nigga what? / That’s my superpower, nigga ain’t no disability / I’m a superhero! I’m a superhero!(おれが言ってんのはおれの双極性障害のことなんだよ、お前らわかるか?/こいつはスーパーパワーで、障害なんかじゃないんだ/おれはスーパーヒーローだ! おれはスーパーヒーローだ!)

“Yikes”をしめくくるアウトロのシャウトは、双極性障害における躁状態からくる錯乱した万能感を感じさせる。と同時に、そうした歪んだ認知が彼自身の自己認識をどのようなものにしているかを物語ってもいる。病にとりつかれた彼は、それに苦しまされると同時に、それをまさしく原動力として「スーパーヒーロー」になるのだ。しかし、この「スーパーヒーロー」は誰を救うのだろうか? いまのカニエの姿からは、弱き者に寄り添い強き者に立ち向かう「ヒーロー」像なんて、とてもじゃないが想像できない。

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BTS(防弾少年団)"ANPANMAN"の衝撃――ポスト「クール・ジャパン」へ向けて

いまやK-POPアイドルグループ界で押しも押されもせぬ活躍ぶりを見せるBTS(防弾少年団)が、先日アルバムLOVE YOURSELF 轉 ‘Tear’をリリースした。そのなかに、日本人なら「おっ?」と思うようなタイトルの一曲がある。その名も”ANPANMAN”。そう、やなせたかし原作の、アニメ版もすっかりおなじみのキャラクター、アンパンマンを題材にしたものだ。それだけ聞くと、ちょっとしたノヴェルティソングというか、いわゆるネタとして消費される類の曲なのかなと思ってしまうのだが、意外にも曲の内容は、「そうきたか!」と思わされる、捻りの効いたものだった。

genius.com

大意はこんなものだ。小さい頃からバットマンやスーパーマンに憧れていた少年が、大人になるにつれてそうした荒唐無稽でゴージャスなヒーロー像を受け入れられなくなっていく。しかし、アンパンマンになら自分も近づけるかもしれない――困っている人を見つけたらそっとアンパンを差し出す、そんなヒーローにならなれるかもしれない。むしろ、そんなアンパンマンこそが新しい時代のヒーローなんじゃないのか? 超人的な力もいらない、富もバットモビールもいらない。僕はアンパンマンを求めている、僕こそがアンパンマンだ。

MCUをはじめとするアメコミもののブロックバスターが世界の映画史上を席巻し、アメリカン・ヒーロー像そのものも多様化し、進歩していく。しかし、そうしたアメリカン・ヒーローがグローバル・スタンダード化するのに待ったをかけて、BTSはアジア人としてそこにもうひとつのオルタナティヴを提示しているわけだ。アンパンマンというキャラクターを知る人にとってはちょっとユーモラスな、知らない人にとってはエキゾチックな印象を与えながら。

もちろん、アンパンマンというキャラクターが日本発のものだということを考えて、うれしくなる人もいれば複雑な気持ちになる人もいるだろう。いずれにせよ、アジア文化がグローバルにプレゼンスを上げていくなかで、日本の、ともすれば「こどものもの」として軽んじられそうなキャラクターを、このタイミングで、この文脈で取り上げるBTSの鋭さには、してやられたと感じる。作品のテーマの咀嚼の仕方も抜群だ。いわゆるアニメでおなじみのアンパンマンというよりは、そのプロトタイプである、アンパンをくばるおっさんとしてのアンパンマンを想像したほうがよりリアルにこの曲が響くかもしれない。

あんぱんまん (キンダーおはなしえほん傑作選 8)

あんぱんまん (キンダーおはなしえほん傑作選 8)

最近ひしひしと感じるのは、いわゆる「クール・ジャパン」の名の下で繰り広げられる日本の文化政策がたいした実を結ばない一方で、コンテンツのクオリティ向上や圧倒的な経済成長を背景に中韓の文化のグローバルな存在感が増している、ということだ。このことは、すっかりグローバル・チャートでもおなじみになったK-POPアイドルたちのみならず、ビリビリ動画の躍進などといったことにも裏付けられている。KAWAIIにせよOTAKUにせよ、日本文化は相変わらず海外のひとびとから一定の支持を受けているものの、その受容は「クール・ジャパン」としてよりも、むしろ「クール・アジアン」というように、日中韓を中心としたアジア文化全体がひとつの文脈のうえに整理されているような印象を受ける。

www.itmedia.co.jp

そこで登場したのが、”ANPANMAN”という決定打だというわけだ。韓国のアイドルグループが、日本の絵本のキャラクターに憧れるポップスを、グローバルにプレゼンテーションする。もはや日本・韓国といった線引きを超えて、ハイブリッドなアジア文化が新しい文化のフレームとして機能しているのだ。もちろん、この勢いの一因には、先日RealSoundでも遅まきながら紹介した88risingのようなプラットフォームをはじめとした、アジア発のアーティストをプロモートする動きもあるだろう。

しかし、日本はいまのところこうした動きにきれいに便乗することができていない。つくり手や受け手といった個人の単位では盛んになってきている交流も、少しスケールが大きくなると鈍くなりがちだ。中韓を単なるライバルであったり、ましてエキゾチックな観察の対象とみなすような風潮はすっぱりと終わりにして、政治的融和の道のりは長いとしても、せめて文化的交流は絶やさず、アジアにおける日本文化のプレゼンスを維持し、「アジア文化」という大きな枠組みを建設的に発展させていく時代だと思う。というのも、いまさらにすぎるだろうか?

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『みんなほんとはわかったふりをしているだけ』なのか――現代アートのたしなみ方覚書、その3

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 とある美術館(アートギャラリー)で、こんないたずらがあったそうだ。なんの変哲もないただの眼鏡を床に放置してみたところ、たくさんの観客がそれを作品と勘違いして、しげしげと眺めた、という。この話をどういうふうに考えるべきだろうか。たわいもない冗談? 「芸術作品とただのモノの区別もつかない観客たち」を嘲笑するちょっと悪趣味な皮肉? 「アート好きなんて、ほんとはなにがしかわかったふりをしてるだけで、アート作品とただのモノの区別もつかない」と言ってそのスノビズムにひとこと釘を刺したくなる人もいるだろう。

 しかし、このいたずらをアート好きのはなをあかしたり、あるいは大衆の無知を明るみにだしたりするだけのものだと考えるのももったいない。むしろ、「なぜこんないたずらが成立するか?」ということが重要だと思う。アートを観る――とりわけ美術館で――という行為がどのようなモノやコトに支えられているかを考える良い例だからだ。

 僕が提案したいのは、基本的に美術館と観客のあいだには一種の信頼関係が構築されている、ということだ。美術館は観客がある程度自分たちの意図したような前提を持って展示を見てくれると(ひとまずは)考えるし、観客も、美術館が自分たちを不当に騙したり、貶めたりしないという前提を持って展示を見る。美術館にいってアートを見るということは、単にアート作品という独立したモノを見に行くというだけではなくて、この信頼関係にのっかって、その場にあるモノを主体的に解釈していくプロセスであると僕は考える。

 その構図は、たとえば演劇に似ている。演劇では、舞台上で起こる出来事のおおかたすべてを、「フィクション」ないし「演じられた/演出されたもの」として、いちどかっこに入れて鑑賞するということが当たり前に行われる。よく考えるとこれは奇妙なことだ。眼の前にいる生身の人間を、彼・彼女自身ではない、誰かほかの人(役柄)として見る。観客は「劇場っていうのはそういう場所だから」とほとんど無意識に考えるし、劇場側も「観客はそういう前提で見てくれるはずだ」ということをあてにしている(これを専門用語で「不信の宙吊り」という)。そして大抵の場合、それはそこそこうまくいっている。

 同じように、美術館では、そのなかに配置されるオブジェや出来事のおおかたすべてを、モノそのものであるよりも、アート作品であるとか、アートを楽しみ、理解するための手がかりとして見るということが行われているわけだ。作品、キャプション、テクスト、監視員、ソファ、カタログ、照明、etc…展示室のなかにあるあらゆるモノは、それぞれが特有の役割を果たし、理解されることを待っている。

 床に(意図的に)放置されたただの眼鏡は、この信頼関係のなかに入り込んだエラーだ。美術館と観客の信頼関係のうちに紛れ込むことによって、たんなるモノだったはずのものが、あたかも意味をもつオブジェであるかのように見えてしまう。もちろん、「もしかしてただの落とし物かもしれない」とか、そういう可能性を折り込みつつも、アートを鑑賞する美術館という場のもつ特性を考慮したうえで、そのモノの意味、あるいはそのモノがそこに置かれている意味を考えざるを得ない。

 絵画や彫刻といったアート作品としてのステータスが比較的堅固なものであればともかく、20世紀以降のアート作品にはしばしば私たちが日常的に触れるモノとほとんど見た目上区別がつかないものも多い。したがってなおのこと、「果たしてそれが芸術作品かどうか」「芸術作品だとすればどんな意味を持っているのか」を「じっくりと見る」ことを通じて見極めなければならない。だから、「ただの眼鏡をしげしげと眺める」という行為は、スノビズムのあかしでも無知の証拠でもなく、アートを見るという行為にはつきものの、熟慮と判断をあらわしていると僕は思う。

 このいたずらは、美術館という場とその観衆が共有している信頼関係のひとつのありようを明るみに出しているといえる。その信頼関係にのっとっている限り、展示室のなかに配置されたオブジェは等しくアートの鑑賞の手がかりになる。たとえそれがエラーだったとしても、ひとまずは美術館の善意を信頼するほかないのだ。この仕組を鮮やかに示したという点で、これはただのいたずらを超えた、ひとつのアート作品(行為)だとさえ言えるかもしれない。かつてBanksyが自分の作品を勝手に美術館に展示してしまったように。

 だから、「アート作品とそれ以外のモノの区別がつけられない」ことをもって、「アート好きはわかったふりをしているだけ」と言うのは根本的に的を外している。アート好きは、手に入る材料から一所懸命自分なりの意味を紡ごうと、どうにかしてわかろうとしているのだ。たとえそこにエラーが含まれていようとも、ひとまずその可能性をかっこに入れてでも、わかろうとする。そして、眼の前に提示されるわからなさにあえて留まることに、深い愉しみを覚える。そもそも、すべてが十分にわかってしまったら、おもしろくもなんともないじゃないか、とさえ思う。

 僕が大学時代にお世話になった先生は、こういう比喩を好んでいた。いわく、人間関係において、「わかった」というのはたいてい、別れのことばなのだ、と。「あなたのことはもう十分にわかった」――だから、もうそれ以上あなたを理解しようとは思わない。さようなら。

 アートも同じだ。僕を惹きつけてやまないアート作品はいつでも、天啓のような理解を与えると同時に、どこかに「わからなさ」を残している。常に「わからなさ」につきまとわれつつも、まさにその「わからなさ」に引き寄せられて、自分で自ら意味を紡いでいく経験。アートに限らず、良質なエンターテインメントというのは共通してこの「わからなさ」を湛えているように思う。いわく言い難い魅力にとりつかれて何度も同じ映画やアニメを見てしまうことってあるでしょう。しかしアートは、その純度がきわめて高いのだ。それは、観客に委ねられた解釈の幅が、他のエンタメよりも大きいことに由来すると思う。

 「わかったふりをしている」だなんてとんでもない。「わからない」からこそ魅了され、とりつかれたように見つづけてしまうのだ。この「わからなさ」の魅力をどう伝えるべきか、まだ答えは出ていないけれど、今後書くいくつかのケース・スタディでプレゼンできればと思う。

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『最初にやったからすごい』のか――現代アートのたしなみ方覚書、その2

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 たとえばあなたは、一見なんのことやらわからない意味不明な絵画やオブジェを前にして、こんなことを思ったことがあるかもしれない。「こんなの、誰でもできるんじゃないの?」と。それはたとえばジャクソン・ポロックの絵の具が撒き散らされた巨大な絵画かもしれないし、カール・アンドレの、床に整然と並べられたタイルかもしれない。あるいはそれはルチオ・フォンタナによって切り裂かれたカンヴァスかもしれないし、ダン・フレヴィンの蛍光灯かもしれない。いずれにせよ、20世紀以降のいわゆる現代アートに、そんな例は枚挙に暇がない。めくるめく物語も、心安らぐ風景も、こころ動かす人物像も見当たらない。そのうえ、どうやら表面上、技巧らしい技巧は見えてこない。どうにもつかみどころのないこれらの作品の、なにがすごいんだろうか?

 しばしば、「これのなにがすごいの?」と聞かれたアート好きは、答えにすこし窮してから、こう答える。「アートの歴史のなかで、いちばん最初にあれこれのことをやったのが、この作品なんだ」。一番最初にカンヴァスに絵の具を撒き散らし、一番最初に床にタイルを並べ、一番最初にカンヴァスを切り裂き、一番最初に蛍光灯を作品に使い…… たとえそれがぱっと見誰にでもできそうなことでも、「一番最初」という刻印があるがゆえにこの作品はすごいのだ。それを聞いたあなたは、「そんなものなのか」とひととき納得するかもしれないが、同時にこうも思うだろう。「『一番最初』だからって、なにがそんなにすごいわけ?」。けっきょく疑問は先延ばしになっただけで、本質的な解決を見ない。

 「最初にやったからすごい」というのは確かに間違いではない。誰も思いつかなかった斬新なアイデアというのも、アートの歴史を前進させる重要な要素のひとつだからだ。しかし、「歴史上はじめて」だったらなんでも偉いのかといえば、決してそうとは限らない。「歴史上はじめてだったけれど、大して評価されずに消えていったもの」もたくさんあるだろう。もとよりアートの歴史に名前を残す作品やアーティストなど、ごくごく一部にすぎない。「最初にやった」以外のプラスアルファがいくつもあってはじめて、有象無象の作品の海の中から頭一つ抜け出して、後世の私たちの目にとまるようになるのだ。

 こういう「最初にやったからすごい」式の説明が問題なのは、まるでアートが「新奇なアイデア合戦」であるかのような誤解を与えてしまうことだ。とりわけ現代アートに対しては、そういう戯画化がしばしば見られる。スキャンダラスで奇抜な作品で世を騒がせるアーティスト、などというのはもはや非常に通俗的なステレオタイプになっている。しかし、作品の価値基準を「新しさ」にばかり求めてしまうと、アイデアや表現そのものの意図や効果から注意が逸らされてしまう。また、そうした表面的な「新しさ」は時間の経過に伴って古く、陳腐になってゆく。良いアート作品というものは、そういった時間の圧力を押しのけてなお僕たちに新鮮な魅力を提示してくれるものだ。少なくとも、いま僕たちがアート作品として受容しているものの大半は、そうした時間の経過を経てなお評価されているものばかりなのだ(込み入った話にはなるが、その評価基準の是非については次回論じる)。そう考えれば、「最初にやったからすごい」式の説明は、作品の魅力の大部分をざっくりと切り捨ててしまっていると言える。

 時間をかけて見極めるべきなのはつねに、「それがどれだけ新しい(新しかった)か」ではなく、むしろ「それが僕たちになにを与えてくれているか」ということである。そのために必要なのは、第一に、観察である。次いで、観察から得られた事実や印象から、その作品がどんな経験を自分に与えているかを、試しに言語化することだ。

 たとえばジャクソン・ポロックの作品、《ワン 31番, 1950 / One Number 31, 1950》(1950年)を例に見てみよう。

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 僕は学生時代にニューヨークに行く機会にめぐまれ、この作品の実物を見たことがある。縦が2.7mほど、幅は5.3mほどにもなるこの作品に、僕は圧倒された。僕は身長が180cmあるそこそこの大男なのだけれど、それでもなおこの作品の巨大さは、まるで見ている僕を包み込むようだった。と同時に、ぎりぎりまで近寄って見てみると、そのディテイルは思いの外繊細で、イメージとも紋様ともつかない独特の感触をもってこちらに迫ってくる。また、それがただ絵の具をぶちまけたのではなく、この絵画全体が「ダイナミックな線の集積」であることも次第にわかってくる。線そのものは画家の豊かで大胆な動きを感じさせつつも、隙間なく幾重にも重ねられたその厚みは、むしろ慎重なコントロールの気配を覚えさせた。編み目のように複雑な全体像は、見るたびに色彩の焦点がかわり、そのためめまぐるしく画面の印象は変わっていく。あるいはひとつひとつの線をたどろうとしてみれば、めまいを催させるようなめくるめく視覚体験を僕たちは経験することになる。

 それは、たとえば風景画や人物がを味わうのとはまったく異なる経験だ。「現実にどれだけ似ているか」あるいは「現実からどれだけ飛躍しているか」といった評価軸とも、「その人の人間性があらわれているかどうか」といった評価軸ともかけ離れて、純粋に、絵画をみる、描かれたものを見るという行為そのものの愉しみがそこにはある。ポロックの用いたポアリングという手法――粘度の低いエナメル塗料をカンヴァス上に滴らせる――がたとえ新奇さを喪ったとしても(じっさい彼がこの技法を用いてから半世紀以上が過ぎ、珍しくもなんともない表現になっているのだが)、それによって生み出された絵画が僕たちに見せてくれる世界そのものは古びない、と僕は思う。

 また、ルチオ・フォンタナの《空間概念「期待」/ Concetto spaziale ‘Attesa’》(1960年)はどうだろう。

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 カンヴァスに大胆に開かれた裂け目。これを「単にカンヴァスを切り裂いただけ」と片付けてしまうのは簡単だ。けれども、この作品の切り裂かれたカンヴァスの向こうには暗色の裏地が張られ、裂け目の向こう側にはあたかも漆黒の、無限の空間が広がっているかのようにしつらえられている。つまり、「切り裂くこと」そのものが重要だったのではなく、「切り裂くという行為の向こう側に見えてくるもの」までが、フォンタナにとっては肝心だったのだ。それは、伝統的に(具体的にはルネサンス以来)空間を絵として描きこむ対象であったカンヴァスを僕たちの目の前の空間そのものに引き戻し、さらにはその向こう側に果てしない空間を想起させる試みだったわけだ。

 そういうわけで、僕がまずおすすめしたいのは、「これのなにがすごいんだろう?」と思ったならば、まずは自分の目にうつるものすべてに気を配って、隅々まで観察することだ。そのときは、観察している自分の心の動きも気に留めておくと良いだろう。思い浮かんだ感想や連想は、鑑賞の大事な材料になる。これにはなかなか忍耐がいるが、美術館をうろついていてふと気になった作品をひとつだけでも、何分も、何十分もかけて見てみて欲しい。たとえば絵画なら、画家の動きや、使われている画材の特徴、質感まで気を配りながら。もちろん、こうしたアプローチでは歯が立たない作品もたくさんある。それについてもいつか話さなければならないと思うけれど、今回はここまで。さようなら。

 作品画像はそれぞれ、所蔵館であるニューヨーク近代美術館MoMA)及びテート・ギャラリーのウェブサイトから引用した。

 Jackson Pollock. One: Number 31, 1950. 1950 | MoMA

 ‘Spatial Concept ‘Waiting’’, Lucio Fontana, 1960 | Tate

caughtacold.hatenablog.com

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