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カテゴリー: Japanese

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埼玉県小川町のカレー屋「CURRY & NOBLE 強い女」は名前に違わずヤバかった

 えー、本日の日記は特別編ということで、埼玉県比企郡小川町にできたばかりのカレー屋さん「CURRY & NOBLE 強い女」訪問記です。パキスタン風の無水カレーを出すこのお店、店主はおれの学部時代の同期で、卒業後はライヴハウスのブッキング担当などをしていた。そんな彼女がカレー屋をはじめる、しかもすげぇ名前で、というのは寝耳に水の話だった。たまたまいい時期に東京に滞在する予定だったので、「強い女」という強烈な名前に好奇心を抑えきれなかったフォロワーなどと共に埼玉まで脚を伸ばしたのだった。

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 具体的にお店についてレポートするその前に、小川町についてわかる範囲で説明を。小川町は東武東上線の終点。池袋から1時間ちょいくらいで行ける適度な田舎。「郊外」というには「山」すぎるけど、マジの「田舎」と言うほどでもなく、きっちりと開発されている印象だ。2011年の震災をきっかけに移住者が増え、都心への交通の便がよいこともあって家庭を持ちはじめるくらいの世代が結構チェックしている町らしい。また、小川町を含む比企郡一帯は野外アクティヴィティ向けのレジャースポットを多く抱えているらしく、同行者のひとり(レトリカ松本氏)は小川町にパラグライダーを体験しにきたことがあるらしい。

 というとなかなか賑わっているようにも思えるが、実際にはシャッター街化が進んでいる。商店街らしい商店街があるわけではないのだけれど、駅から「強い女」に向かう道中は空きテナントや空きビルが目立った。逆に言うと、それだけなにかを起こす「すき間」が街のなかにあるわけで、同行者たちはかなり興味深く物件を物色していた。単純に住もうと思うと人気の上昇に伴っていい物件が見つかりにくくなっている、と「強い女」の店主は言っていたけれど、それでも家賃相場はかなり安いし、あるいはリノベーションを前提に物件探しをすると掘り出しモノ――具体的には「強い女」が入居した物件――が見つかるらしい。

 ようやく本題。「強い女」は、通りを歩いていると前触れなくいきなり登場する。淡い青のファサードと店名を告げる窓のカッティングシートが洒落ていて、「すき間」だらけの街のなかにすっぽりと収まりつつも強烈な存在感を放っていた。

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 空き家を完全DIYでリノベーションした店内は、無塗装のコンパネをところどころ残した手作り感と、肝心なポイントはスマートにキメるバランス感覚が心地よい。

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 店内はカウンターのある土間と、板張りのスペースにわかれている。それがまるでステージのようなので、小さなライヴやトークイベントなんかにはうってつけだろう。話によると、近い内にアップライトピアノを店内に置く予定とのことで、アコースティック中心のライヴイベントはもちろん行っていくつもりらしい。(二枚目で微笑んでいるのが店主である)

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 肝心のカレーは鶏肉がたっぷりはいった、トマトベースの無水カレー。カレーには詳しくないけれど、辛さを推すというよりはトマトの酸味と肉のうま味をスパイスで引き立てるやさしい味だった。さらに、ちょっと変わった風味のする岩塩を「ちょい足し」することで味のインパクトががらっと変わる。酸味のニュアンスを楽しむカレーから、シャープなうま味が食欲をそそるカレーになって、結構面白い。ある種スポーツのように汗をかいて味わうというよりも、親しみやすい入り口とじっくり味わう繊細さで惹きつける感じか。

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 頼んだのはサラダバーと食後のお茶、そしてデザートがついたセットだったので、京番茶とチョコレートケーキをカレーのあとにいただいた。カレーに番茶って意外と合うのね……とよくわからない感慨に包まれた昼下がりであった。

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 ちなみに「強い女」のとなりは、ファミリースナックの「つよいみかた」。ここは子供連れでも入れるカラオケスナックをめざしてつくられたそうで、新宿ゴールデン街を渡り歩いた経歴を持つママが賑やかに出迎えてくれる。もはやここでは酒を飲んで楽しかったなあみたいな感じになっていたのでレポートにはならない。すみません。でもカレー食ったあとに流れで一杯酒のんでわっはっは、みたいなの、どんな平和な午後だよ、と思った。

 いろいろとおもしろいし気になるところが多かったから、「強い女」って名前の由来についても訊いてみたんだけれど、直接的な由来は秘密、とのことなのでここには書きません。でも、「強い女」という名前が時代の風を読んだ結果ってわけじゃなくて、店主が仲間と店の構想をふくらませるうちにたどりついたフレーズだったのは面白かった。店内ではずっと女性のフォークシンガーの楽曲が流れていて、それも「こういう人たちの曲が流れているようなお店っていいよね」という彼女たちなりの理想を求めた結果だという。

 まあ、要はどれもこれも、やりたいことを好き勝手やってるだけなんだけど、それが絶妙に「強い女」っていう店名に説得力を与えていた。店主はちょっと童顔で、京都育ちゆえか言葉遣いもぱっと聴いただけだと柔らかい。でも凄く芯があって野心があって、「こういう強さっていいよな」と思える。冗談めかして「『強い女』って言って出てくるのが私みたいなのだと、『どこが強い女なん?』ってなると思う」と言っていたけれども、とんでもない。こういう強さを胸張って強さと言える世の中にしてくんだよ君らとかおれらがさ、と思った。

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私的2018年のベストアルバム・EP、25枚(25位~11位まで)

 2018年はいい音楽がたくさんありましたね。そのなかから25枚ほど選んでみました。順位は一応つけてありますが、まあもうだいたい甲乙つけがたいっすよ。トップ10枚はゆるがないかもしれないけど。25位から11位まで。トップ10だけ見たい人は↓の記事をどうぞ~。

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The mask of masculinity is a mask that's wearing me

 音楽好きおじさんによるマウンティングがどうの問題が断続的にバズる昨今、思うのだけれど、そもそも世の男性の多くは自分も含めて実はマウンティング以外のコミュニケーションの切り出し方を知らないのではないか。というのはマスキュリンでホモソーシャルなコミュニティにおいては通過儀礼のように他人にマウンティング的な問答をしがちだからだ。それを通過するとコミュニティの内部における位置が定まり、かつそのコミュニケーションの様式を守る限りコミュニティの内部においてはある種の免状を手に入れたも同然、ということになる。マウンティングを乗り越えるということは男性にとって「盃をかわす」ことにている。

 問題はそのコミュニティには外部があるのに、そうしたコミュニケーションの様式をどこにでも通用する印籠がごとく誇示してしまうことだろう。でもって事実それは(男性の側から見える景色のなかでは)通用してしまっていたのだ。傷つけ、抑圧し、あるいは敬遠され、当人には気づかない。

 似たような事例に「下ネタ」がある。しばしばミソジニック、ホモフォビックな下ネタに、いかに「上手に」のっかるか。男性中心のコミュニティにはそんな規則みたいなものがある。そうしたコミュニケーションの様式にうまくアジャストできれば地位は上がるし、外れれば場から排除されてしまうので、初めはそれに抵抗を抱いていたとしても、そのコミュニティのなかに居場所を求める限りそうした表現に慣らされ、いつしか内面化してしまう。でもって最悪なことに、コミュニティの外側(直接的には女性や同性愛者、あるいはそうしたコミュニティに属してこなかった男性など)にもまた、「友愛のしるし」かのように下ネタをふるわけだ。よかれと思ってミソジニー、よかれと思ってホモフォビア。世のセクハラってそういうことだと思う。だから男性からしたら「女性とコミュニケーションをとるなってことか?!」みたいに感じられる。

 男性が社会生活を通して学ぶコミュニケーションの類型はあまりにも貧しい。そしてまた、自分の苦しみを語るボキャブラリーも。「非モテ」とか「弱者男性」、そうだな、これもまたTwitterでバズってた話を持ち出してしまうけど、加藤智大の手記や、それに対するリアクションとか、ああいうのを見ていると、世で語られる男性の「生きづらさ」はあまりにも類型化されていてなんだかたしかな手応えがない。いかにして「生きづらさ」を語り、乗り越え、あるいは変えていくかということに対する解像度がめちゃくちゃ粗いんじゃなかろうか。この「貧しさ」あるいは「粗さ」こそが男性性の最大の敵という気がする。

 話は変わるけど、ヒプノシスマイクの脚本家が過去にしたツイートが女性蔑視的であるとして韓国で波紋を呼び、脚本家を交代させようという運動が起こっている。その規模が実際のファンベースに対してどのくらいのものか、いまいち把握しきれていないのだけれど、指摘を受けているツイートを見ると、いかにも日本の男性――とは実は限らないのだが、それはそれとして――がよくやる、軽いユーモアのつもりでセクハラ丸出しの、中学生とか高校生に対するノスタルジーロリコン精神が混じり合ったきわどいジョークで、しかしこう指摘されでもしなければさらっと受け流してしまうほどには自分のなかで自然化されているジョークでもあった。

 実際に脚本家がロリコンであるかどうかはさておくとして、ロリコンをネタにした冗談を悪びれずにちょっと気の利いたネタツイくらいの感覚でツイートできてしまう、ということ自体が、日本の倫理水準のおかしさの指標になっている。「いやいや、ただの冗談だよ」というほうが実はまずい。なぜなら、「このくらいの冗談はアリ」というコンセンサスが世間にあるということを証明してしまうからだ。特にいまや覇権レベルの人気を博す女性向けコンテンツに関わっている人がこういうこと言っちゃうの、と、日本のコンテンツ業界特有の妙な「寛容さ」(もちろんアイロニーとして)に慣れない人はドン引きだろう。

 果たしてヒプマイの脚本家に対する抗議運動がどういう展開を見せるかはわからない。だって結構属人的なプロジェクトじゃない? 脚本家の肝いりで始まったというか。そこをすげ替えて運営できるほどのシステムができているのか。あるいは百歩譲って交代はないとして、こうした指摘に対して誠実に対応することができるのか。「日本じゃこれくらいの冗談は当たり前だし、そんなこと言われてもしょうがないっすよ」みたいに済ませるのだろうか。そういうのの積み重ねで後戻りできないレベルで日本の倫理観はだめんなってると思うのだけれど。

 ヒプマイは作品世界内での(「女尊男卑」設定のセンセーショナルな印象とは裏腹な)マッチョイズムやホモフォビア的発言、あるいは世界の描写に含まれるジェンダーバイアスなどで議論を呼んでもいるが、そこには常に「実は○○という設定があってこういう言動や描写になっている」という解釈の余地が残っている。しかしコンテンツを作る側、とりわけこのコンテンツの要となる脚本家が、極めて日本的な「寛容さ」にどっぷり浸かっている様を見ると、そうした「解釈」も単なる忖度なんじゃないかと思えてしまう。ついでに、せっかくユニークな設定をつくりだしたのに、ヒップホップのマッチョイズムもベタに取り入れてしまってるんじゃないか、とか。

 そういうわけで、ホモソーシャルな共同体におけるコミュニケーションのプロトコルミソジニーホモフォビアとシスヘテロ男性目線での「下ネタ」、そしてマウンティング)がいかに男性の「生きづらさ」を貧しくしているか、ということと、こうしたプロトコルがいかにポップカルチャーを通じて日本に浸透しているか、を最近しばしば考えた。2018年はそういう年だったと思う。自分もいち男性として配慮のない失態を繰り返した一年でもあったし、そんななかで物書きとして徐々に仕事が増えていったことで、結構葛藤が続いた。しかしここで言葉を、自分が使える語りの方法を増やしていかなかったら、ずっと自分は非モテとかそんな話をし続けないといけなくなるんだと思うとその方が怖い。その点、励みになったのは、やはりIDLESだったのかもなあ。2018年のベストアルバムはまた別に発表するし、恐らくそこにIDLESはあえて入れないかもしれないけれど、自分の立ち位置を振り返ろう、というときに戻っていく作品はIDLESだった、その意味でベストアルバムは『Joy as an Act of Resistance』だろう。

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Ariana Grande「imagine」

 Ariana Grandeの新曲。もはや『Sweetener』よりも話題をかっさらっていると言える「thank u, next」に続く「imagine」も過去の恋人たちへのメッセージで、こちらは甘美な恋人同士の日常を描いたかと思いきや、コーラスでは「そんな世界を想像して」とか「そういう世界を想像できないの?」とちゃぶ台を返すようなフレーズが出てくる。失われた関係を責めるようでもあるけれど、「想像して」と繰り返すアウトロは元彼たちに「いい思い出にしよう」とお願いするようでもあり、自分自身に「そう想像しておこう」と言い聞かせているようでもある。

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 リリックビデオもさりげなく凄い。なんでデータモッシング、と思いつつ、データが欠如してサイケデリックでカラフルなイメージになっていく様子が、かつての関係を理想化しようとする曲の内容とあっているのが面白い。最後の「Imagine it」のリフレインでブラックアウトするところもいい。歌詞のなかにも「Click, click, click and post」とinstagramを彷彿とさせるラインがプリ・コーラスにあったりして、SNS時代の人間関係を背景としたこの曲にはさりげなくフィットしたビデオだ。ちゅーか、単純に、めっちゃエモーショナルじゃない?! 崩れ行く氷河がさらにモッシュされて二重に崩れていって美しいパターンが生まれていくの素晴らしい。こいつら(Ariana Grandeとそのチーム)マジで凄い。このSNSへの適応とクリエイティヴィティの発露にもはや言葉もない。

 サウンドも結構変で、低域はあんまり使わずに、かわりにステレオ感を思いっきり強調して残響成分とかハモりの配置に趣向を凝らしている。2分20秒のあたりから出てくるピアノの音が最初アタック削れていたり、音数が少ないバラードでこのスケール感を出せるサウンドデザインとアリアナの声のオーラが凄い。細かい話をすると、基本的には3連の三拍子(正確にはすごくゆったりした6/8か)にのせたメロディなのに、「Click, click click, and post~」のプリ・コーラスのところだけ付点八分っぽい譜割りなんだよね。するとそこだけスピード感が上がるの。そのラインに続いて「Quick quick quick, let’s go」ってくるあたりなんか、デート中にインスタ映えするところ見つけて急いでセルフィを二人で撮って、アップして、「じゃ、早く行こう」って去っていくみたいな情景が浮かんでくる。おもしろい。

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「マーケティング志向」という新たなカリスマ像とその虚妄

news.yahoo.co.jp

AmPmは、巧みな戦略でストリーミングプラットフォームを「ハック」して、異例の成功を達成した音楽ユニットとしてしばしば紹介される。上掲の記事もまあ、そんな感じの紹介をしていて、別に間違っちゃいない。実際数字が出てるんだから。そして、AmPmのアティチュードはまったく正しいと思う。しかし僕が不満なのは、この記事がAmPmのマーケター的な側面をあまりにも強調して、あたかも旧態依然とした日本の音楽業界にはマーケティングが存在しないかのように書いてしまっていることだ。

だが、ビジネスライクに映るマーケティングという言葉自体、日本の音楽シーンでは避けられがちだった。J-POPシーンでは、市場の攻略よりも自己表現が価値を持つという「信仰」があるからだ。そんなJ-POPシーンから見れば、AmPmは「仏作って魂入れず」に見えるのかもしれない。

これを読むと、ある人はAmPmを慣習にとらわれないイノベーターと捉え、またある人は音楽の「魂」を踏みにじる悪人に思ってしまうかもしれない。あるいは次の箇所。

J-POPシーンには別の「信仰」もある。音楽を制作するなかで自分のパーソナルな部分を出すことに価値があるという考え方だ。「右」はそれを真っ向から否定する。[……]自分自身の感情もエゴも殺す――。すべてはマーケットを分析して得た答えだ。

エゴを排して「冷静」な「分析」に従って音楽を制作し、配信する。それで実際に成功を収めている。「良かれ悪しかれこれが新時代の音楽のあり方だ」と問題提起をしている、かのように見える。

しかしちょっと考えればわかることだが、ここで取り上げられているふたつの「信仰」――マーケティングよりも自己表現、作り手はエゴイスティックであれ――が実際のJ-POPシーンにどれだけ根付いているかは疑問だ。たしかに音楽ジャーナリズムはミュージシャンのパーソナリティを重視して、テクニカルな話題やビジネスの話題を避ける傾向にある。作品にこめた思いとか産みの苦しみとか作り手としての信念をミュージシャン自身に語らせるインタヴュー記事はうんざりするほど世の中に溢れかえっている。けれどもそれはあくまで音楽ジャーナリズムの問題でしかない。レコード会社がまさか、マーケティングをしていないとでも思っているのだろうか。バンドやミュージシャンがまさか、自分の作品をどう売るべきかつゆほども考えていないとでも思っているのだろうか。

そもそも、自分たちで曲を書き、自分たちで演奏する、というかたちのミュージシャン自体そこまで多いわけじゃないだろう。バンドブームやSSWブームのころならともかく、とりわけプロデューサーを戴いたヴォーカルグループやアイドルユニットがこれほどチャートを席巻している時代に、だ。ごく一部のロックバンドやシンガーソングライターにしか、その「信仰」は通用しない。

「信仰」にマーケティングを対置する書き手は重要な部分を見落としている。ちょっと誇張した表現になるが、そうした「信仰」を広めること自体が一種のマーケティング戦略なのだ。ミュージシャンとしてのオーセンティシティを保証して、彼こそは金を払う価値のある人間だと思わせること、それこそが重要な市場戦略だったのだ。ロックバンドであれシンガーソングライターであれアイドルであれ、「ホンモノ」のストーリーを背負っていることが、売るための必要条件だとされてきた。それが、マーケティングの詳細な方法論や技術上の条件が大きく変化したことによって通用しなくなった、というだけの話だ。「信仰」からマーケティングへ、ではなく、ある種のマーケティングからまた別種のマーケティングへと時代が移り変わったにすぎない。

実際、「2017年3月に「Best Part of Us」が配信されたのも、曲調と季節の関係性を意識して春を選んだからだ」というくだりが前掲の記事には登場するけれど、「春に春っぽい曲をリリースする」なんて、数ある「さくら」ソングがやってきたこととどれだけ違いがあるというのだろうか? TUBEが夏らしいイメージで売り、広瀬香美が冬の女王であった時代となにが違うのか? 季節感にあった曲を適切なタイミングでリリースするくらいのことを見事なマーケティングって呼んでいいのか?

「信仰」とはマーケティングのヴァリエーションでしかない。さらに言えば、マーケティングもまた「信仰」のヴァリエーションでしかない、のかもしれない。マーケティング的である、というプレゼンをされたら、「春には春っぽい曲を出す」程度のことさえ「新しい!」と勘違いしてしまうほどなのだから。

もうマーケター的な振る舞いがもてはやされるのなんか見飽きている。「自己表現という古臭い観念から自由である」というアピールは、「ありのままの自分を率直に表現している」というアピールと同じくらい、「スター」や「カリスマ」の条件だと言っていいだろう。ゴールデンボンバーの鬼龍院翔によるヴィジュアル系の流儀を汲んだ毎度毎度の趣向を凝らした仕掛けや、ポルカドットスティングレイの雫の「リスナーのニーズにあわせたマーケティング的な作曲」というアティチュード、あるいは西野カナ「トリセツ」をめぐる「マーケティングをして書いた実は戦略的な曲」なる評価、などなど……。こういう話題を聞くと人は現実には誰も信じていないような「信仰」とやらを突然信じだし、あるいは批判しだす。でも気づいて欲しいのだが、「ナイーヴな音楽業界」なんてそもそも存在しない(ナイーヴさ故に業界に押しつぶされるミュージシャンは山程いるだろうが)。

それゆえAmPmの革新性は見誤られる。凡百のマーケター的振る舞いの一部に回収されてしまう。問題なのは音楽業界が旧来のマーケティングの方法を捨てて新しいプラットフォームへとモデルを転換できないことであって、「信仰」などではないのだ。「信仰」のガワをはがせばそこにあるのは保身と既得権益と怠惰。それを批判して乗り越えることこそAmPmがやってみせていることであって、彼らはもはや弱者などではない。むしろ、既存のしがらみがないからこそ新しいマーケティングの方法を実践でき、トライアンドエラーができる逆説的な強者なのだ。

「信仰」とマーケティングという二項対立で物語をつくろうとして結局上掲の記事が陥っているのは、それこそ冷静で切実な現状認識に従って行動しているにすぎないだろうAmPmを、ゼロ年代的なネオリベのハッタリみたいに描いてしまうという事態だ。記事タイトルに使われている「想定内」という言葉に既視感のある人は、一定世代より上には多いだろう。堀江貴文がフジテレビ買収騒動のときに繰り返し口にしていた言葉だ。彼が慣習にとらわれない資本と市場の論理を武器に新しい世代としてゼロ年代のアイコンになった時代から、一歩も進んでいない。まったくくだらないと思う。

「信仰」とやらにとらわれているのは果たして誰なのか。その「信仰」をかたちを変え延命させてしまっているのは誰なのか。賢しらな顔をし、あるいはしかつめらしい顔をしているくせに、大した批判精神を持ち合わせていないのはどこのどいつだ?

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Jeff Tweedy『WARM』

 Wilcoのフロントマンによるソロ作。曲自体はわりかしWilco節なのだが、よりプライヴェート感あふれる手触り。デッドながら温かいサウンドが70年代の名盤みたいな風格を漂わせててほんと素晴らしい。「How Hard It Is For A Desert To Die」や「How Will I Found You?」みたいに無茶苦茶スローで言ってしまえばスカスカな曲も、アンビエンスを強調したりリバーブで空間を埋め尽くしてしまわず、弦の豊かな鳴りを活かしつつ、カウンターメロディやささいなフレーズを積み重ねて空間を満たしていくアプローチがシンプルながらめちゃ効果的。特にボリューム奏法の使い方が素晴らしくて、「Let’s Go Rain」で左右チャンネルに満遍なく重ねられたボリューム奏法の音色が空間の奥行きをぐーっと演出するところとか、もうほとんどオーケストラっつーか。ギターを丁寧に重ねて配置していくことで表現できることってまだこんなにあるんだ?! っていう驚きがそこかしこにある。年間ベストアルバムにランクインしているのも見かけたけど納得。ただ豊かなソングとサウンドに身を委ねてもいいし、じーっくり聴いて研究するのもいい、素晴らしい仕事だ。

WARM

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Jeremy Dutcher『Wolastoqiyik Lintuwakonawa』――クラシック、ポップ、人類学が交錯する一作

 TLでにわかに話題になっていたJeremy Dutcher。名前は英語圏の人かな? と思いつつアルバムタイトルも何語かわからないし、フランス語も出てきたりする。調べたらカナダの先住民コミュニティに育ち、クラシックの教育を受けた後人類学も学んだらしい。カナダはそもそも英語圏とフランス語圏が一国のなかに同居しているわけだけれども、しかしもちろん先住民も多数いるわけで、英仏を中心としたアングロサクソン中心のカナダ音楽界に対する挑戦もあるらしい。蓄音機に正対するミュージシャン、というアートワークもいろいろと複雑な歴史を感じさせる。調べてみたいのう。

 このアルバムは人類学的な調査によって渉猟された先住民の歌声を採譜して、クラシックの技法を用いつつ蘇らせる、というひとつの意欲的なプロジェクトであると同時に、それがポストクラシカルの問題系のひとつ(と思う)である録音技術の活用みたいなところと通じ合っていて、しかもカナダの歴史的なコンテクストにも分け入っている。とはいえサウンド自体は有無を言わせぬ迫力もある。

 ここでは単旋律のプリミティヴな歌とポリフォニックないしハーモニックなクラシックとの衝突があり、恐らく歌唱法についてもテナー歌手として受けた教育と先住民の歌とのあいだで衝突が起こってるんではないかと聴いた印象で思う。もちろんあえて衝突させてるわけじゃないだろうけど。むしろ、丁寧にケアして蘇らせ、現在に生きる者として先住民に伝わってきた音楽をプレゼンテーションしようとしてるんだろう。しかしまあ、いろいろ考えてしまう取り組みではある(この記事を参照→「和声」という枷)。歌詞で語られている内容とアレンジがどれほどかみあっているのか、ドラマチックな演出の是非は、とか……。

 やっぱりジャケットは象徴的で、初期の録音技術においては記録することと再生することが物理的に等価だったわけですよね。だからこれだけ見ても録音してるのか聴いてるのかわからない。聴く/録るというどちらにも属さないミュージシャンが、中立な機械の前に座ってるという構図。このアートワークの元ネタになっているのは白人の人類学者? エンジニア? が先住民の歌声を録音しようとしてるところなんだけれど、録る・録られるという主客の関係を止揚しようとしている(ギャグではないです、念の為)アーティストの試みが鮮やかに出ているなあと思う。コロニアルな人類学的眼差しと眼指される先住民という図式を相対化して、さらに一歩先に行こうみたいな。

 とはいえ言説先行ではなく人を震わす作品になっているのも確かなので一聴をおすすめしたい次第。

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音楽の有用性について――河西秀哉『うたごえの戦後史』(人文書院、2016年)

うたごえの戦後史

うたごえの戦後史

 河西秀哉『うたごえの戦後史』(人文書院、2016年)を読了。戦後の合唱運動が戦前・戦中の厚生運動から思想的においても関わる人物の点でも地続きであることをはじめとして面白い話が数多い。戦前は全体主義に奉じる国民の育成のために、戦後はいわゆる「戦後民主主義」に適した「近代的な市民」の教育のために、ほとんど同じロジックを展開しつつ、全国的な合唱運動が組織されたわけだ。また、共産党の影響下で政治色が強かったうたごえ運動とか、あるいは日本独特の「おかあさんコーラス(ママさんコーラス)」のような敗戦から高度経済成長までの合唱運動に関する記述もきわめて興味深い。求められる役割、あるいは合唱が奉仕すべき対象を少しずつ変えながらも合唱運動は脈々と続いてきた。

 ここで両義的なのは、さまざまな理念や目的のもとで組織化される合唱運動が、音楽を手段として社会や個人を変えようというものであった一方で、また同時に音楽という文化を広く大衆へ根付かせるための手段でもあった――つまり手段と目的が常に曖昧に重なり合っていた――ということだ。音楽はメッセージを伝える「声」であり「活動」である。そしてまた、「声」や「活動」は音楽を世に根付かせる役割も果たす。社会なり政治なりと音楽とは切り離し難い、というのはまさにこの点にこそ見出されるべきかもしれない。

 さて、ざっくりとまとめると合唱運動が理想とした運動の参加者像は、戦前・戦中は全体主義に奉ずる国民、戦後には民主主義社会を支える近代的な市民であったのだけれども、本書では高度経済成長以降、そもそも合唱のような集団によるレクリエーションの文化が衰えることによって合唱運動全般が退潮してゆくことが指摘される。問題をこと音楽に絞った場合、レコードの普及やマスメディアの急速な発達によって、ポップ・ミュージックが「ともに歌うもの」から「聴取し、消費するもの」へ移行したことで、合唱が社会全体に対して持つ影響力が衰えていったことは想像がつく。本書では、社会運動のなかに音楽を組み込み、その有用性をプレゼンテーションする合唱運動の戦略を「音楽の社会化」と繰り返し呼んでいるが、「音楽の社会化」よりも先に、消費文化の発達による社会そのものが変容し、そもそもそうした役割を音楽のような娯楽に求めること自体が低調になっていったものと思われる。

 昨今、音楽を社会から切り離されたある種の余剰、「無駄なもの」として位置づけたうえで、「無駄だからこそ意味がある」というような論の展開をする人が多いけれども、歴史を紐解けば音楽がよかれあしかれいかに「有用」なものかは嫌というほど例が出てくる。「音楽は本当は世の中に必要ない(でもだからこそ必要なのだ)」というのはそうした「有用性」の危うさに対する防御反応なんじゃないだろうか。そこを認識したうえで戦略的に音楽の無用さを訴えるぶんにはいいと思うんだけれども、単に音楽の有用性を否認しているだけだとそれはそれで誰かさんに足元すくわれてもしゃあないんではという気がする。

natalie.mu

 ナタリーで大石始さんと高岡謙太郎さんがやっている連載は、録音物やパフォーマンスとしての音楽のみならず、その外側に広がっている音楽の裾野に分け入っていくような内容で毎回おもしろい。上掲のチアダンスを取り上げた回なんかはここまで書いてきた音楽の「有用性」をよく示していて、人によってはきわめて不純に感じられるかもしれない。しかしそうした価値判断や好き嫌いは別として、果たしてチアダンスを通じて音楽が示そうとしている「有用性」の正体はなんなのか、という批判的な考察は常に必要だろう。

 全体主義に奉じる臣民の教育から、自立した近代的な市民の教育へと変遷を辿った合唱運動(戦後の合唱運動に大きな流れをつくった「おかあさんコーラス」はジェンダー化された女性の役割分担という問題も含んでいてそう簡単にまとめられるものでもないのだが)の流れの後に位置づけられるであろうチアダンスの求める理想の個人像は、「リーダーシップ」や「問題解決能力」といった言葉にあらわれているように、資本主義社会における理想的なビジネスパーソン像に重なる。だいたい高度経済成長時代くらいまでは、近代的な民主主義国家をつくりあげるために個々人に自発性とか主体性が求められていたのが、いつしか奉仕の対象が国家とか民主主義という理念ではなく資本主義社会にすり替わっている。もちろん「有用」な音楽は、そうした主体の教育にも適している――必ずしも最も適しているわけでもないと思うけれども。

 芸術とか文化がこのような「有用性」を見せるのは個人的にもあんまり好きなもんじゃないのだが、しかし一方で芸術は無用なものであるとただ唱えることで現実を否認するのも気に入らない。最近はとくに愛国ソングとかBTSのあれこれなんかで「音楽と政治」の危うい関係が取りざたされることが多いけれど、そうしたポップ・ミュージックの世界の外側に広がる音楽の外延において音楽が重宝されるその「有用性」への意識もまた重要であることを再認識した。『うたごえの戦後史』はその点できわめてアクチュアルに読める一冊ではないかと思う。

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興行師・経営者に擬態するデュシャン「デュシャンと日本美術」展

 東博デュシャン展、第一部は思いの外ためになった。第二部は、まぁ……。

 まずこの展示を通じてデュシャンの仕事にまとめて触れると、立体視への関心やロトレリーフ、遺作のディテイル(両眼用に開けられた2つの穴、はたから見ると見世物用のジオラマのような内部構造など)からは美術から排除されてきた視覚文化に対する意識が感じられたし、その文脈で精密光学なるタームも考えるべきなのだろう。

 また、大量生産品を作品に転用するレディメイドもさることながら、大量のマルティプル、出版物やポスターへの自作イメージの再利用、逆に広告に由来するイメージの自作への転用、また「産業」の文脈におかれるロトレリーフ等々、作品の多くが工業化・資本主義化された近代の消費社会にまつわるモチーフや形式を援用していることも、改めて興味深い(フルクサスのインスピレーション源としてのデュシャンの理解が深まったというか)。

 第一の点(美術の制度外の視覚文化に対する関心)と第二の点(消費社会へのアジャスト)を自分なりにまとめると、興行師・経営者としてのデュシャン、というフレーズに行き着く。近代的な「アーティスト」なる職業が世の中の諸生産体制の変化によって揺らいだことへの応答として、より直接消費社会にコミットしうるような「アーティスト」像の模索として、見世物屋や技術者への擬態と、(度重なるマルティプルの制作などのかたちで)いささか戯画化されたつくる=売るのサイクルそのものを活動の軸とした起業家・経営者への擬態が彼の活動のなかにあるのではないかということだ。

 ただそれは消費社会の論理にアジャストして生き抜くことのみを目的としたものではない。あくまでそれは擬態であり批評的営為である。言葉遊びによるユーモアやいささか露悪的にも思える性的なモチーフへのオブセッション(この展示においてはデュシャンの若年期からのささやかな執着として異性が位置づけられていたように思う)といった作品に内在する余剰や、需給にもとづく市場原理のほかにも価値体系をもつ美術なる領域を生活に隣接させようという試みそのものが、すでにして撹乱的だからだ。

 美術なる領域、あるいは制度の読み替えと共に、市場経済がすっかり浸透した生活の領域への侵犯という、ふたつの試みが限りなく隣接する場所にデュシャンはいるのであって、そう考えてみると千利休の日常の美が云々みたいな悠長なことを言う第二部は、もちろんそれ以外にも言うことはいろいろあるのだが、美術や工芸の伝統とか制度といったもののなかに安住しきっていてまったくつまらないと思う。

 個人的には立体視やロトレリーフ、遺作の問題系に連なる消費社会における視覚文化の脈絡においてデュシャンを考えるっていうの面白そうだなあと思ったのでまあいろいろ読みたい、暇があればね…… 平芳さんの本からかな……。

 そういえば平芳さんの美術手帖でのレビューよかったっすね。

bijutsutecho.com

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