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3.20

 朝5時くらいに起きる。やーっぱ体調があんまよろしくない。熱や倦怠感でなく頭痛である。気圧の問題だろう。ああ、そういえば左耳の違和感はなくなってきた。あれなんだったんだろうなあ。
 頭痛に見舞われつつ、ちょっと楽になってきたタイミングで長島有里枝『「僕ら」の「女の子写真」から わたしたちのガーリーフォトへ』(大福書林、2020年)を読み進める。
 タイミングを見計らいつつ、原稿の調べ物もし、書けるところは(アウトライン程度に)書いていく。思ったより指定された分量が書きたい分量より足りないかもしれない。どうしよっかな……。
 東京までの出張の依頼がきていたのだが、自分の体調が悪すぎるからCOVID-19のこともあるしなるべく遠出はしたくない。という理由で断る。いや、マジで、日常生活はかろうじて送れているけれども、かなり休み休み、ぐったり寝込みながらやっているのである。インタビュー仕事とか、もっとしてみたいのだけれど、身体がままならない。
 お昼ごはん食べようとしたらお米なくて、炊くのもラーメン煮るのもパスタ茹でるのもだるすぎて、台所をあさってカップ麺を探し出して食べる。ほんとはカレーやパスタをちゃんとつくりたいのだが。
 午後、寝込んでしまう。頭痛がひどい。吐きそう。
 夕方に起き出して、スーパーにカップ麺とか買いに行く。だらだらしてしまう。カントリーマアム店頭で「集まりに最適!」とポップがついていた。田舎っぽい(人と集まるときのためのお茶菓子、という発想)。
 夜、調べ物をしつつ、長島さんの本を読み切る。非常に良い本。90年代の「女の子写真」と呼ばれた女性の写真家たちの活動について、(主に)男性論客たちによるテクストの批判的な読解によってその言説群の欺瞞を指摘し、ライオットガールズに代表されるガーリーカルチャー≒第三波フェミニズムとの共振としてあらためて位置づけなおす。90年代のポップカルチャー/サブカルチャーを再考するためにも重要な一冊だと思う。男性論客がいかに女性写真家を「写真」や「芸術」の場から疎外しつつ、そこにファンタジーや自分自身を投影してきたか。ときに男性ホモソーシャルの競合相手に対する卓越化の道具としてさえ女性写真家への移入は用いられる。こうして改めて見るときわめてグロテスクな行いで、しかしそれはそのまま(なんでかライターなんて仕事をしてしまっている)自分にもはねかえってくる。
 本筋からはそれるけれど、長島さんはほかならぬ当事者なのでいくらでも当事者としての回想を書き留めることができようけれども、おそらく修士論文として書かれたという制度上の制約ということもあってか、あくまで分析されるのは(たとえ自身の発言であっても)テクストである、というところがなんか興味深かった。自らの発言であっても既に20年とか30年前のことでもはや歴史化されているという事情もあろうが、アーティスト自身がこれをやっているのは、語り方に宿る制度の痕跡や、あるいは制度が保証する権威性とか、あるいはあえて遠ざけられた当事者性とか、いろんなことを考えてしまう(悪いことばかりでなく、仮にこのテクストを実践と捉えるなら? というポジティヴな意味で)。

Published in Japanese