Skip to content →

「父殺し」のない「新しさ」はありうるのか

「父殺し」は「父‐母‐息子」という三者の関係が「いつか息子も父になる」ことによって無限に反復されていくもので、言ってみれば「テーゼ‐アンチテーゼ→ジンテーゼ」という弁証法的なプロセスを家父長制のアナロジーに落とし込んでいる。

新しさこそが絶対的な価値である近代の諸芸術においては、父殺し=弁証法的プロセスが規範となり、先行世代を殺すことこそが新しさを生み出し、歴史を推進する原動力とされた。それは結局「新しさなんてものはもうない」という諦念と倦怠に行き着くしかないのだが。

こうした弁証法的プロセスを前提として歴史を語ることは20世紀も後半になるとだいぶん相対化されたように思うが、より大衆的なレベルでは直観的に把握しやすいこともあって広く使われ続けてきた。その代表例はおそらくロックをめぐる批評的言説である。

まあ、もはやいまどき「カウンターカルチャー」の名を素朴に掲げて文化としてエスタブリッシュされた「父」に対する若き「子」の反発を露骨に語るような人もほとんどいない。しかし言説の端々にその残り香は残り続けている感はある。

それは「新しさ」を絶対的な商品価値としてプロモートすることが使命だったいっときの音楽産業がもたらした後遺症といったところだろう。しかし今や最大の商品は「新しさ」ではなく「ノスタルジー」だ。もはや「新しさ」の可能性のみならず、それを称揚する動機まで失われて久しい。

こうした「新しさ」をめぐる袋小路以外にもこの規範が孕む問題はあり、たとえばそれは単線的な歴史認識や起源の隠蔽だ。不動の「母」に対して「ワタシ=男」だけが入れ替わっていく構図。このことはよく考えることがあって、いわば起源をめぐるパラドックスのようなものがある。

ふつう「起源」というと、一つの点、歴史的・空間的に特定される点を想起するだろう(アフリカにいたとされる人類の「イヴ」のように)。しかしビッグバンという究極的な点を除けば、むしろ「起源」とは複数的なものである。

このことは、「私に父と母がいて、父にも父と母がいるように、母にもまた父と母がいる」という単純な前提を改めて思い出すとあっさり明らかになる。歴史の突端である現在=「私」は、「父」の系譜のみならず「母」の系譜も受け継いでいる。

そのように考えると、次々と代替わりしては殺される「父」をめぐる単線的な歴史は実のところ一世代遡るごとに2のn乗ずつ次々増え発散していく「父」と「母」の逆ツリーであって、この逆ツリーは実際にはいろんな場所で循環したり短絡したりもしている。

さらには起点としての「私」すらも絶対的ではない(いまを生きる「私」は数多く各々異なりながら存在する)とすれば、もはやこれはツリーでも逆ツリーでもない、複雑に絡み合うネットワークである。

生物学的に不可逆なプロセスである世代交代のアナロジーを離れて「文化」の話に移ればそれはなおのこと複雑になる。影響は必ずしも過去から現在へ向かって走るばかりではなく、常にアナクロニズムのうちにあるから。ここではもはや生物学のアナロジーは適用しえない。

単一の起源から多様性が生まれるのではなく、すでに複数の起源が複数の「私=現在」を構築し、相互作用しつづける。そこには「父」も「母」も存在しない。「血統」とか「世代」といった概念すらどこまで信頼できるかわからない。

表現するということはある意味で「にもかかわらずあえて系譜を描く」ことに近いが、それは自ら=現在のうちに宿っているほとんど無限に等しい潜在的な多様性の交錯を意識することからしか始まらないのではないか。「父殺し」を欠いた「新しさ」とは。

Published in Japanese