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The mask of masculinity is a mask that's wearing me

 音楽好きおじさんによるマウンティングがどうの問題が断続的にバズる昨今、思うのだけれど、そもそも世の男性の多くは自分も含めて実はマウンティング以外のコミュニケーションの切り出し方を知らないのではないか。というのはマスキュリンでホモソーシャルなコミュニティにおいては通過儀礼のように他人にマウンティング的な問答をしがちだからだ。それを通過するとコミュニティの内部における位置が定まり、かつそのコミュニケーションの様式を守る限りコミュニティの内部においてはある種の免状を手に入れたも同然、ということになる。マウンティングを乗り越えるということは男性にとって「盃をかわす」ことにている。

 問題はそのコミュニティには外部があるのに、そうしたコミュニケーションの様式をどこにでも通用する印籠がごとく誇示してしまうことだろう。でもって事実それは(男性の側から見える景色のなかでは)通用してしまっていたのだ。傷つけ、抑圧し、あるいは敬遠され、当人には気づかない。

 似たような事例に「下ネタ」がある。しばしばミソジニック、ホモフォビックな下ネタに、いかに「上手に」のっかるか。男性中心のコミュニティにはそんな規則みたいなものがある。そうしたコミュニケーションの様式にうまくアジャストできれば地位は上がるし、外れれば場から排除されてしまうので、初めはそれに抵抗を抱いていたとしても、そのコミュニティのなかに居場所を求める限りそうした表現に慣らされ、いつしか内面化してしまう。でもって最悪なことに、コミュニティの外側(直接的には女性や同性愛者、あるいはそうしたコミュニティに属してこなかった男性など)にもまた、「友愛のしるし」かのように下ネタをふるわけだ。よかれと思ってミソジニー、よかれと思ってホモフォビア。世のセクハラってそういうことだと思う。だから男性からしたら「女性とコミュニケーションをとるなってことか?!」みたいに感じられる。

 男性が社会生活を通して学ぶコミュニケーションの類型はあまりにも貧しい。そしてまた、自分の苦しみを語るボキャブラリーも。「非モテ」とか「弱者男性」、そうだな、これもまたTwitterでバズってた話を持ち出してしまうけど、加藤智大の手記や、それに対するリアクションとか、ああいうのを見ていると、世で語られる男性の「生きづらさ」はあまりにも類型化されていてなんだかたしかな手応えがない。いかにして「生きづらさ」を語り、乗り越え、あるいは変えていくかということに対する解像度がめちゃくちゃ粗いんじゃなかろうか。この「貧しさ」あるいは「粗さ」こそが男性性の最大の敵という気がする。

 話は変わるけど、ヒプノシスマイクの脚本家が過去にしたツイートが女性蔑視的であるとして韓国で波紋を呼び、脚本家を交代させようという運動が起こっている。その規模が実際のファンベースに対してどのくらいのものか、いまいち把握しきれていないのだけれど、指摘を受けているツイートを見ると、いかにも日本の男性――とは実は限らないのだが、それはそれとして――がよくやる、軽いユーモアのつもりでセクハラ丸出しの、中学生とか高校生に対するノスタルジーロリコン精神が混じり合ったきわどいジョークで、しかしこう指摘されでもしなければさらっと受け流してしまうほどには自分のなかで自然化されているジョークでもあった。

 実際に脚本家がロリコンであるかどうかはさておくとして、ロリコンをネタにした冗談を悪びれずにちょっと気の利いたネタツイくらいの感覚でツイートできてしまう、ということ自体が、日本の倫理水準のおかしさの指標になっている。「いやいや、ただの冗談だよ」というほうが実はまずい。なぜなら、「このくらいの冗談はアリ」というコンセンサスが世間にあるということを証明してしまうからだ。特にいまや覇権レベルの人気を博す女性向けコンテンツに関わっている人がこういうこと言っちゃうの、と、日本のコンテンツ業界特有の妙な「寛容さ」(もちろんアイロニーとして)に慣れない人はドン引きだろう。

 果たしてヒプマイの脚本家に対する抗議運動がどういう展開を見せるかはわからない。だって結構属人的なプロジェクトじゃない? 脚本家の肝いりで始まったというか。そこをすげ替えて運営できるほどのシステムができているのか。あるいは百歩譲って交代はないとして、こうした指摘に対して誠実に対応することができるのか。「日本じゃこれくらいの冗談は当たり前だし、そんなこと言われてもしょうがないっすよ」みたいに済ませるのだろうか。そういうのの積み重ねで後戻りできないレベルで日本の倫理観はだめんなってると思うのだけれど。

 ヒプマイは作品世界内での(「女尊男卑」設定のセンセーショナルな印象とは裏腹な)マッチョイズムやホモフォビア的発言、あるいは世界の描写に含まれるジェンダーバイアスなどで議論を呼んでもいるが、そこには常に「実は○○という設定があってこういう言動や描写になっている」という解釈の余地が残っている。しかしコンテンツを作る側、とりわけこのコンテンツの要となる脚本家が、極めて日本的な「寛容さ」にどっぷり浸かっている様を見ると、そうした「解釈」も単なる忖度なんじゃないかと思えてしまう。ついでに、せっかくユニークな設定をつくりだしたのに、ヒップホップのマッチョイズムもベタに取り入れてしまってるんじゃないか、とか。

 そういうわけで、ホモソーシャルな共同体におけるコミュニケーションのプロトコルミソジニーホモフォビアとシスヘテロ男性目線での「下ネタ」、そしてマウンティング)がいかに男性の「生きづらさ」を貧しくしているか、ということと、こうしたプロトコルがいかにポップカルチャーを通じて日本に浸透しているか、を最近しばしば考えた。2018年はそういう年だったと思う。自分もいち男性として配慮のない失態を繰り返した一年でもあったし、そんななかで物書きとして徐々に仕事が増えていったことで、結構葛藤が続いた。しかしここで言葉を、自分が使える語りの方法を増やしていかなかったら、ずっと自分は非モテとかそんな話をし続けないといけなくなるんだと思うとその方が怖い。その点、励みになったのは、やはりIDLESだったのかもなあ。2018年のベストアルバムはまた別に発表するし、恐らくそこにIDLESはあえて入れないかもしれないけれど、自分の立ち位置を振り返ろう、というときに戻っていく作品はIDLESだった、その意味でベストアルバムは『Joy as an Act of Resistance』だろう。

カテゴリー: Japanese