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Jeremy Dutcher『Wolastoqiyik Lintuwakonawa』――クラシック、ポップ、人類学が交錯する一作

 TLでにわかに話題になっていたJeremy Dutcher。名前は英語圏の人かな? と思いつつアルバムタイトルも何語かわからないし、フランス語も出てきたりする。調べたらカナダの先住民コミュニティに育ち、クラシックの教育を受けた後人類学も学んだらしい。カナダはそもそも英語圏とフランス語圏が一国のなかに同居しているわけだけれども、しかしもちろん先住民も多数いるわけで、英仏を中心としたアングロサクソン中心のカナダ音楽界に対する挑戦もあるらしい。蓄音機に正対するミュージシャン、というアートワークもいろいろと複雑な歴史を感じさせる。調べてみたいのう。

 このアルバムは人類学的な調査によって渉猟された先住民の歌声を採譜して、クラシックの技法を用いつつ蘇らせる、というひとつの意欲的なプロジェクトであると同時に、それがポストクラシカルの問題系のひとつ(と思う)である録音技術の活用みたいなところと通じ合っていて、しかもカナダの歴史的なコンテクストにも分け入っている。とはいえサウンド自体は有無を言わせぬ迫力もある。

 ここでは単旋律のプリミティヴな歌とポリフォニックないしハーモニックなクラシックとの衝突があり、恐らく歌唱法についてもテナー歌手として受けた教育と先住民の歌とのあいだで衝突が起こってるんではないかと聴いた印象で思う。もちろんあえて衝突させてるわけじゃないだろうけど。むしろ、丁寧にケアして蘇らせ、現在に生きる者として先住民に伝わってきた音楽をプレゼンテーションしようとしてるんだろう。しかしまあ、いろいろ考えてしまう取り組みではある(この記事を参照→「和声」という枷)。歌詞で語られている内容とアレンジがどれほどかみあっているのか、ドラマチックな演出の是非は、とか……。

 やっぱりジャケットは象徴的で、初期の録音技術においては記録することと再生することが物理的に等価だったわけですよね。だからこれだけ見ても録音してるのか聴いてるのかわからない。聴く/録るというどちらにも属さないミュージシャンが、中立な機械の前に座ってるという構図。このアートワークの元ネタになっているのは白人の人類学者? エンジニア? が先住民の歌声を録音しようとしてるところなんだけれど、録る・録られるという主客の関係を止揚しようとしている(ギャグではないです、念の為)アーティストの試みが鮮やかに出ているなあと思う。コロニアルな人類学的眼差しと眼指される先住民という図式を相対化して、さらに一歩先に行こうみたいな。

 とはいえ言説先行ではなく人を震わす作品になっているのも確かなので一聴をおすすめしたい次第。

カテゴリー: Japanese