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月別: 2018年9月

「SHOPPINGMALL」再考――vaporwaveの「美学aesthetic」を複数化する

FANTASY CLUB

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 tofubeatsの前作『FANTASY CLUB』に収録された「SHOPPINGMALL」は、先駆けてYouTubeで公開されるなり2016年話題のトラックとなった。メジャーデビュー以降、ヒップホップあがりのダンス・ミュージックのプロデューサーとして、J-POPにいかにして食い込むかに腐心してきたように見える彼が、その集大成といえる盛りだくさんのコラボレーションに彩られた『POSITIVE』を経て、唐突につきつけた鋭い言葉。ショッピングモールを背景に「最近好きなアルバムはあるかい?」と問いかけるこの曲は、彼の持ち味である批評精神を改めて知らしめた。

 またそれは、tofubeatsを語る上で無視することができないインターネット・カルチャーの文脈を強く意識させるものだった――とりわけ、vaporwaveと呼ばれるミーム・ミュージックの文脈を。しばしば本人も語ることだが、vaporwaveの記念碑的作品であるMacintosh Plus『Floral Shoppe』のリリースにほんの少し先駆けて、彼はポップスをスクリューして過剰なエフェクトを施したダウンテンポ主体のEP『スローモーション(ひみつの)』をリリースしている。

 このシンクロニシティが予見していたように、tofubeatsはvaporwaveに一時期深い共感を覚え、Macintosh Plusの同作より「リサ・フランク420/現代のコンピュー」をしばしばフロアを「清め」るためにかけたりもしていた。

 vaporwaveにおいてショッピングモールは特権的なアイコンの位置を占めている。その象徴性はたとえば猫 シ Corp.によって広められたMall Softなるコンセプチュアルな派生ジャンルを生み出した。ショッピングモールはローカルな特色を貫通してしまうその空間的な均質性から、ポップカルチャーにおいてヴァナキュラーなものが消失した高度資本主義社会の象徴として描かれてきた。その文脈をひきついだうえで、インターネットというこれもまた均質的で空間性の消失した空間――すでにこの時点で自己撞着が起こってしまっているのだが、われわれにとってインターネットはあいかわらず「空間」のメタファーで語られる――に対するフェティッシュとなかば混同されるかたちで、vaporwaveの文脈のなかに取り入れられていった。

 しかしvaporwaveにおけるショッピングモールは徹底的に空虚であり、しばしば「廃墟」のイメージに重ね合わされる。スクリューとチョップによる徹底的な文脈の破壊、チープな音色による意図的な凡庸さ。文脈と差異化のゲームから降りて、無意味な操作、凡庸なテクスチャそのものに浴するvaporwaveの美学にとってモールは最適の舞台であると同時に、そのモールでさえすでに機能不全に陥っているという徹底的なシニシズムの徴候をも示す「空間」なのだ。

 vaporwaveの方法論的な始祖として位置づけられるDaniel Lopatin(Oneohtrix Point Never)の『Chuck Person’s Eccojams Vol.1』(2010年)はすでに、ポップソングの断片を楽曲構造を無視した恣意的なループとエコーによって音響に還元し、ポップ・ミュージックを成立させる音響空間(=録音芸術にまつわる言説においてしばしば空間的なメタファーが飛び交うことに留意したい)そのものを現出させた。その抽象的な音響空間はポップ・ミュージックの周縁/限界を示す「廃墟」であり、その「廃墟」に具体的なアイコンと批評的な象徴性を付与したものがモール・ミュージックとしてのvaporwaveである、とひとまずはまとめることができるだろう。

 とはいえ、「ポップスの音響空間=均質的なショッピングモール」のなかでその無意味さや触覚そのものと戯れるという美学は次第に当初のラディカルさを失い、文脈を際限なく拡張しながら、ノスタルジーの境域へと近づいていってしまった。それはvaporwaveの再ポップ化とでも言うべき現象であって、2010年代も末になってこの音楽にふたたび脚光があたりつつあるいま、むしろvaporwaveとは特定の時代を想起させる記号や肌触りの集積と大雑把に定義したほうがよくなったのかもしれない。あらゆるカルチャーの彼岸と思えた「廃墟」は実はまったく廃墟などではなく、未だ機能する――というか過剰なまでに機能し、われわれの生活をとりかこむ――現実の空間そのものであったことが明るみに出たわけだ。

gamelifehack.hatenablog.com

 しかし、だからといって初期vaporwaveのシニシズムとぎりぎりの批評精神を復興させよう、というのもまた単なるノスタルジーに過ぎないだろう。モダニズム進歩主義や歴史的アヴァンギャルドの反骨精神をそのまま反復することはできない。それはすでに1960年代のネオ・ダダが試みて、断念したことだ。むしろネオ・ダダはその後のポストモダンの展開への結節点として、モダンにそもそも内在していた「不純さ」(おおざっぱにいって、フリード的な意味での、あるいはケージ的な意味での「演劇性」)を抽出し、換骨奪胎したものと言えるだろう。むしろわれわれが習うべきはネオ・ダダ的なスタンスであり、vaporwaveのシニシズムに内在していた別個の可能性を再び開かせる方向へと、意図するにせよ意図せざるにせよ向かうほかないものと思われる。

 ふたたび「SHOPPINGMALL」に戻ってみる。結論直前まで一気にすっ飛ばすと、この曲は、vaporwave的な無意味との戯れ、時代を象徴する感性に一度距離を置きながら、現実のショッピングモールに足を踏み入れる曲だと言える。地方に住まう人びとにとってはあまりにも自明なことだが、ショッピングモールは思想的な遊戯の舞台である以前に、われわれの生活を支える文化的インフラである。ファスト・ファッション、ファスト・フード、シネマ・コンプレックス、中途半端な品揃えの新刊書店、あるいは「ヴィレッジ・ヴァンガード」。それらが都市生活者からどれほど批判され、嘲笑されようとも、殺風景なロードサイドにかろうじて文化をもたらす一大拠点なのである。

 ポップ・ミュージックと「わたし」との関係を自問自答するtofubeatsの煩悶は、ほかでもないショッピングモールを歩き回るなかで発される。だだっぴろい空間の各所で鳴り響く無意味なオートチューンとか、流行りのバンドのヒットソングに満たされた空間のなかで孤独に歩くなかで問われるのは、自分がほんとうに求めているものはなにか、といういささかナイーヴな問題だ。このショッピングモールに自分がほんとうに求めるものがある気はしない。しかし、まさしくここにおいて、自分は文化を実践していかなければならない。

 つまり、この問いはtofubeatsの端的に実存的な問題であると同時に、「この空虚さのうえに文化は可能か」という彼のプロデューサーとしての実践――ビジネスを続けられるか、ではなく、ビジネスにモチベーションを注ぎ続けられるか――に関わる問題でもある。そしてまた、リスナーにとっても、「それでもなお音楽を信じられるか」、ないし、「信じ続けられているか」というアクチュアルな問いとして響くのである。

 机上の空論じみた「廃墟としてのショッピングモール」を、われわれの文化的な生活を支える実在の「ショッピングモール」に引き戻す。vaporwaveのシニシズムを、我がこととして再び捉え直す。単にそこに限界を、終焉を重ね見て事足れりとするのではなく、ここからはじまるなにかはありうるのかと問う。「SHOPPINGMALL」とはそのような曲であるし、『FANTASY CLUB』はその果実でもある。神という絶対的な対象を欠く「祈り」に包まれた『FANTASY CLUB』については筆者の以下の記事を参照されたい。

caughtacold.hatenablog.com

caughtacold.hatenablog.com

 加えて、JEVAの「イオン」、あるいは田我流のその名も「vaporwave」といった話題曲もまた、同様の文脈から語られうるだろう。


 自明視されているショッピングモール像やvaporwaveの美学=aestheticを、日本のローカルな文脈からふたたび照らし直す。われわれの足場がほかならぬこの空虚さやもどかしさにあることを明るみに出しつつ、そこから始まる文化の可能性を示唆する。こうした戦略は、単にaestheticの「誤解」あるいは「曲解」と言われるかもしれない。本来は現実世界から隔絶された仮想空間で展開された文化を現実にそのまま移植することの是非は問われるだろうし、「vaporwaveはそういうもんじゃない」という反発も生まれるかもしれない。けれども、自分はあえてこれらをaestheticの批判的な反復であり、有意義であると擁護したい。

 そもそもvaporwaveをめぐる言論は、もとから多い方ではないうえに、過剰に欧米中心的、あるいはアメリカ中心的すぎるきらいがある(たとえば過去のこの書評を参照のこと。Vaporwaveは誰のものか、と思ってしまった――Grafton Tanner, "Babbling Corpse: Vaporwave And The Commodification Of Ghosts," Zero Books, 2016. – ただの風邪。)。vaporwaveのつくり手はグローバルに分散しており、その文脈も拡散しているはずである。われわれはショッピングモールをアメリカ人のようには見ない。「廃墟としてのショッピングモール」は日本でも冗談ではなくなってきているものの、アメリカの比ではないだろうし、向こうではよりアクチュアルな感覚としてこの「廃墟」は受け止められている可能性はある。それを、インターネットの均質性、非‐場所性だけを担保に「グローバルに共有された時代の感性」などとくくることは可能なのか。もちろんそうした国境を超えた共感、シンクロニシティは起こりうるし、まさしくtofubeatsとvaporwaveの共振はそうした現象だったわけだけれども、改めて「われわれは同じものをみているか」と問い直す必要があるのではないか。

 あるいは、アジアにおけるvaporwave的表象の受容は、なかばオリエンタリズムの視線を感じるアジア外のものとは異なる文脈のうえにあるのではないか。たとえばそれは中国にとってはノスタルジーというよりもバブル期の日本という具体的な繁栄の象徴として自らに重ね合わせうるものかもしれないし、韓国にとってはプレK-POP期であり現在に通じる韓国大衆音楽が形成されつつあった80年代という文化的原点への回帰といいうるかもしれない――少し時代は異なるけれど、たとえばIUによる大衆歌謡のカヴァー(「어젯밤 이야기(昨日の夜の話)」など)にそうした香りをかぎとることも可能だろう。

 グローバルに浸透したvaporwaveを、そのアメリカ中心的な言説布置から改めてローカルな、アクチュアルな問題に接続しなおす。そのうえで、vaporwaveの操作の美学(チョップ、スクリュー、カットアップ)に立ち返り、「ここからなにが生まれるか」を、無意味の戯れとしてではなく、文化の未来の問題として考える。tofubeats「SHOPPINGMALL」はその契機であった、とここでは結論づけたい。

 ちなみに、vaporwaveの操作の美学がもともとヒップホップの文脈から生じたもの(チョップド&スクリュードはヒップホップのミックステープで用いられた手法が一般化したものだ)であることを考慮すると、vaporwave的な美学の批判的継承の受け皿としてヒップホップのミュージシャンが浮上しているのはきわめて興味深いし、的を射ている。田我流「vaporwave」はもちろん、Future Funk的なアニメの引用や80’sノスタルジー、映像加工をふんだんに用いたDJ CHARI & DJ TATSUKI「ビッチと会う feat. Weny Dacillo, Pablo Blasta & JP THE WAVY」も例として挙げておくべきか。

 最後に、まもなくリリースが控えるtofubeatsの新譜『RUN』のいくつかの部分に、この論が触発されていることを告白しておく。「操作の美学」の向こうでわれわれを待つえもいわれぬ「何か」の姿が『RUN』で描かれ、そして語られる――あくまで個人的な見方だけれど――ことを予告して本論を閉じる。

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【動画】宇多田ヒカル「誓い」のリズム解釈とフロウ

 自作動画です。しこしこつくってました。以前とりあげた宇多田ヒカル「誓い」の譜割りについて、基本的なリズムの(おれの)解釈とおもしろいと思ったポイントに絞って解説しています。コンテントIDにひっかかってないけど、こういう使い方ならいいのかな?

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「芸能」の復興――星野源はなぜ三浦大知に共感するか

 この夏に最も話題を呼んだJ-POPのリリースといえば、三浦大知『球体』(及びその次作「Be Myself」)、そして星野源「アイデア」だった、とひとまず言ってよいだろう。これらのリリースでお茶の間から音楽ファンまで広いリスナー層に訴えかけたこのふたりは、互いにリスペクトを捧げあい、とりわけラジオ番組やTV番組をホストしている星野は、自らの番組で『球体』について語り、あるいは三浦を出演者として招くほどだった。

アイデア

アイデア

 なぜこのふたりがこれほど共感しあっているのか、ということを考える際に重要な点がある。それは、「芸能」というあいまいで周縁的な――それでいて私たちの生活に最も馴染みのある――領域への愛着だ。

 芸能とはなにか。それは、語りとか演奏とかダンスといった表現領域の純粋性とか専門性から離れて、多様な芸(=アート)が混じり合う、境界上の世界だ。芸能というくくりののなかにはそれぞれのプロフェッショナリズムが存在し、はっきりとした分業制が敷かれている一方で、それが劇場であるとか街頭であるとかテレビであるとか、いわゆるメディアを通じてひとたび私たちの前に姿をあらわす場合には、雑多な芸事がからまりあった総合的な娯楽としてたち顕れることになる。

 その傾向がより顕著になったのはおそらく戦後、テレビが芸能の主要なメディアとなり、また芸能界そのものとなったことに起因するだろうから、ここからの議論はもっぱらそうした「テレビ以降の芸能」の問題と考えてもらったほうがいいかもしれない。

 さて、芸能のこの不純さは私たちを常に引きつける一方で、ことそれが表現としての価値付けの問題になると、ほとんど忌むべき対象となる。いわゆるファイン・アートとかシリアス・ミュージックと呼ばれるハイ・アートの世界のみならず、ポップ・ミュージックの世界においても、芸能的な不純さには両義的な態度がしばしば見られる。

 というのもこの不純さは表現者にある程度の制約や妥協を強いるものであり、かつ表現者の神秘性を損なうものだからだ(あるいはそれとは矛盾するように、「親密さを疎外する」という理由で芸能を忌避する流れもあると思うけれど、ここでは取り上げない)。あえてテレビ出演を避けたり、メディアとのタイアップを避けたりといった戦略によって、表現者は芸能の世界とうまく距離をとり、自身のイメージが過剰に捻じ曲げられることのないよう注意深く動くことになる。

 また、そうした不純さに対する微妙な態度は受け手の側にも見られる。これもよく言及されることだけれど、日本を代表するR&Bの名プロデューサー松尾潔いわく、「歌って踊るパフォーマーと、歌だけ歌うパフォーマーがいる場合、たとえ両方とも同じくらい歌が上手くても、売れるのはたいてい後者」だという。「歌もダンスも」よりも「歌だけ」の方がより高尚に思えてしまう、という先入観は、「二兎を追う者は一兎をも得ず」にも似た、パフォーマンスの純粋さに対する信仰によるものではないだろうか。

 あるいは、バラエティでよく見かける「芸能人」がコアな音楽好きだったりすると、途端に評価が一変したり、などというのもよく聞く話だ。そこにはどこか、猥雑な芸能の世界に対する、純粋な音楽の世界(などというものは――クラシックの世界にさえ――ないのだけれど)の優位が感じられる。

 他方、星野源は一貫して、あいまいで境界的な領域のうえで活動を展開してきたと言える。SAKEROCK時代からすでに演劇の世界に足を踏み入れていたことをここで過大評価するつもりはないけれども、いまから振り返ってみればそのように解釈もできる。あんまりこういう言葉を使うのも好きじゃないのだがあえて言えば、「マニア受け」するようなインスト・エキゾ・バンドみたいなことをやりつつもメインストリームの世界に単身乗り込んでいき、ほとんど国民的と言える歌手になったその足跡は、単なるセルアウトとかそういうものではなく、あらかじめ志向していたものだ、と考えたほうがすんなり納得できるし、彼が売れたのも、そもそもそういった素養が彼に備わっていたためだ、という予感もさせる。

 その極地が、ひとつにはNHKの生バラエティ番組「おげんさんといっしょ」であり、次には冒頭で言及した「アイデア」だ。

 「おげんさんといっしょ」は、放送時間のまるまるほとんどが生演奏の音楽とコントで構成され、また高畑充希藤井隆といった女優とか芸人の音楽的なポテンシャルを開花させる場としても極上のプログラムである。嬉々として主婦のかっこうをしてカメラに向かう星野自身の姿は、芸能という領域が持つ猥雑な力とポップな魅力を体現するかのようだ。もはや時代錯誤といっていいスタジオ内のセットも、ミュージシャンに着せられるコスプレまがいの衣装も、単なる気まぐれやサーヴィスではなく、星野源が思い描く芸能のあり方なのだ。

 また「アイデア」は一見するとOK GOとかいったミュージックビデオの名手と並べて語りたくなるビデオだけれども、細かなカメラ割りと「撮って出し」の生々しさ、そして繰り返し画面にあらわれるスタジオの「裏側」から垣間見える現場の空気感などは、むしろ日本のバラエティショーの脈絡に位置づけるべきものではないかと思う。菊地成孔はかつて星野源のパフォーマンスを「ひとりシャボン玉ホリデー」と呼び、じっさい星野自身もクレージーキャッツへの愛慕を隠さない著名人のひとりなのだけれども、「アイデア」のビデオほど星野のクレージーキャッツや「シャボン玉ホリデー」的なバラエティショーへの愛着を形式の点からして表現しているものはないだろう(もちろん、これまでのビデオやパフォーマンスにおいてもそのオマージュとおぼしき要素はたくさんみられるわけだけれども、詳しく論じるほどの知識が私にはない)。

miyearnzzlabo.com

 アルバム『YELLOW DANCER』以来星野が掲げているイエロー・ミュージックなる概念については、本人から、あるいは評論家やライターからいろいろに言及されてきたけれども、そうした語りに微妙に欠けているのは、こうした芸能的な視座ではないかと思う(もう言われてたらごめんなさい。っていうか本人がもう言ってそうだけど)。イエロー・ミュージックは、洋の東西を問わないさまざまなジャンルの日本的なごった煮であるだけではなく、芸能という雑多な領域へ足を踏み入れることを恐れず、むしろ芸能というものの価値を再び認めなおそうという彼の活動そのものを指しているようにも思える。

 途切れることなく続くタイアップ、J-POP的な構成に対する執着、嬉々として歌番組に出演するスタンス、どれもいわゆる「音楽好き」――とりわけロックのイデオロギーに強く影響を受けているタイプの――からすれば、彼の足かせのように見えるかもしれない。しかしむしろ、外から見ればクリエイティビティを制限するように見えるその不純さこそが、星野源が復興しようとしている価値観そのものなのではないか。

 ひるがえって、三浦大知に目を向けてみよう。三浦は、「歌って踊る」ポップアクトとして近年稀に見る洗練を遂げ、日本のエンターテインメントに改めてパフォーマーとしてのプロフェッショナリズムをプレゼンしなおしているかのようなところがある。そのスタンスは、表現者としての自意識から離れて、さまざまなプロフェッショナリズムが交錯する芸能という領域に、まさにど直球を投げ込んでいると言えよう。『球体』は、芸能の領域に特有の高度な分業制を極めたところにどのような表現が可能かという取り組みであり、「Be Myself」はそのテレビ映えする展開や振付の妙からして、その成果をメディアの場へとうつしなおす一曲だ、と思う。

 そのように考えると、星野源三浦大知に共感する理由は自ずとはっきりするだろう。ふたりとも、少しずつ文脈は違う――前者はテレビの育んだ戦後の芸能文化を、後者は高度なエンタメの制度としての芸能を自らの系譜として選ぶだろう――とはいえ、ロック的なイデオロギーから抜け出した、あいまいな芸能という領域に、改めて光を当てる表現者だからだ。

 ただし、彼らが復興しようとする芸能とは、旧態依然とした企画で徐々に視聴者から見捨てられつつあるテレビ業界のなかにあるのでもないし、まして時代の変化に遅々として対応できない音楽業界にあるのでもない。むしろそれは、文化の共通言語を失った時代の私たちが再び互いに語り合う言葉を作り出すための、新しい芸能、オルタナティヴなポップである。それは星野源がこれまでにドラマの主題歌のなかに忍ばせてきた多様性への讃歌に伏線を読み取ることができるし、三浦大知のエンターテインメントに対する圧倒的な信頼と献身にその可能性を感じることができる。

 メディア環境が急激に変化を遂げるなかで、彼らは少なくとも切りうるカードを切りながら、自分たちなりの芸能のあり方を考えている。それがいったい5年後、10年後にどんなかたちをとるのかなんてわかりやしないのだけれど、少なくとも私は、彼らの進まんとする方向に――人びとの共通言語をつくりだす、雑多でポップな芸能という領域の復興に――共感を惜しまない。

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