Skip to content →

月別: 2018年6月

「メッセージはメディアである」

YOKO ONO―オノ・ヨーコ 人と作品 (講談社文庫)

YOKO ONO―オノ・ヨーコ 人と作品 (講談社文庫)

オノ・ヨーコはかつて、たしか飯村隆彦によるインタビューのなかで、マーシャル・マクルーハンの有名なテーゼ「メディアはメッセージである」を批判し、それを転倒させて「メッセージはメディアである」と言ったことがある。これはいかにもアーティストの気ままなことば遊びにすぎないかもしれない。しかし、つきつめて考えてみれば、これもまたひとつの真実を言い当てているように思える。

はじめに示したマクルーハンのテーゼは、彼の思想の技術決定論的な側面を端的にあらわしたものだ。すなわち、私たちがメディアを通じてなんらかのコンテンツを享受するとき、私たちにより強い影響を与えているのはコンテンツの内実よりも、メディアの技術的な条件の方である、ということだ。コンテンツそのものよりも、どのようなメディアを通じてそれを受け取るかのほうが、私たちの世界に対する認識のあり様を決定づける――どのようなメディアが支配的となるかに応じて、私たちの世界の捉え方も変わってくる、それゆえ具体的な中身よりもメディアの様式をこそ検討しなくてはならない、ということだ。

メディアはマッサージである: 影響の目録 (河出文庫)

メディアはマッサージである: 影響の目録 (河出文庫)

しかし、オノはそうしたマクルーハンの思想を権威主義的、制度的にすぎるとしてしりぞける。この批判をぼくなりに補足すれば、技術はときに私たちの世界認識のあり様を決定的に、不可逆的に変化させるが、しかし、技術が私たちの世界認識を隅から隅まで規定してしまうわけではない、少なくともそのように信じたい、ということだ。仮にそうした技術決定論を(きわめて素朴に、だが)ひとつの原理として採用してしまうと、市井に生きる人びとの側から世界を変革する余地が残されなくなってしまうだろう。技術の領域は高度化するにつれてブラックボックス化してしまうのだから。

それを踏まえて、オノがなかばたわむれに発した「メッセージはメディアである」という2つ目のテーゼは、メッセージを発すること、声をあげることそのものが媒介(メディア)となり、社会を変革しうる、と言い換えることができる。

メッセージはメディアを横断する。それが聴覚的であれ視覚的であれ、平面的であれ空間的であれ、あるメッセージはあらゆるメディアに憑依して私たちのもとに届けられ、しばしば私たち自身の奥深くまで浸透する。そのとき、メッセージはメディアという入れ物によって運ばれてくるひとつの言明であるというよりも、メディアに寄生してさまざまな宿り主のあいだを渡り歩くウィルスのようなものである、とも考えられる。

こうした主客を反転させた捉え方は、SNS時代以降、ヴァイラルな(ウィルス様の)コミュニケーションの危険なまでの効力を目の当たりにしたわれわれにとって、むしろ馴染み深いものではないだろうか。音声、画像、映像、あるいはテクスト、などのかたちをとってインターネット上を流通する多種多様なメッセージは、じっさい、(その影響力の大きさには諸説あるとはいえ)よかれあしかれ人びとに感染し、社会の方向性をひそかに決定づけている。

メッセージは物理的な支持体(メディウム)に従うものではなく、むしろそれ自体が人びとにイメージをもたらし、思考を促し、行動を動機づける、ひとそろいの環境そのものなのであって、それゆえに、メッセージを発することそのものが世界のあり方を変革する契機ともなりうるのだ。街角のビルボードやポスターに記された「WAR IS OVER IF YOU WANT IT」というセンテンスはそれ自体、「あなたが求めさえすれば戦争は終わる」というメッセージであると同時に、「世界を変えるために必要なのは、メッセージを発することだ」ということのデモンストレーションなのである。

個々のメッセージの力は、テクノロジーが私たちの世界認識を規定する力と比べれば、圧倒的に小さい。オノ・ヨーコジョン・レノンというよかれあしかれ世界で最も著名な夫婦が発したメッセージでさえ、テレビやラジオ、あるいはSNSといったメディアそのものの持つ力に及ばないだろう。しかし、そうしたテクノロジーの内側に、そして人びとの心に憑依し、感染したメッセージは静かに変革の灯火を燃やし続けるのである。実際、「WAR IS OVER」というメッセージはいまだに私たちの心の中に存在し続け、ふとしたところに掲示され、根強く増殖を続けている。

Comments closed

世界を背負わないこと――James Blake – Don't Miss It

先月末にYouTubeで公開されたJames Blakeの新曲、”Don’t Miss It”が各種ストリーミング・サービスでも配信されている。1月に公開された”If the Car Beside You Moves Ahead“に続いて、アコースティックなサウンドとエレクトロニックなビートが融合したトラックに、印象的なエディットやエフェクトが施されたヴォーカルが乗る、まさにJames Blakeといった楽曲だ。

どこか抽象的かつ隠喩的でドラッグへの参照も見られた”If the Car…”の歌詞と比べると、”Don’t Miss It”の歌詞は率直で、胸を打つ切実さがある。ひとことでまとめるならば、利己的な想念にとりつかれることで見失ってしまった、かけがえのない人生の歓びに対する、後悔にあふれた讃歌だと言えるだろう。

genius.com

世界がぼくを締め出した/すべてを与えてしまえば、ぼくはすべてを失ってしまう/あらゆることがぼくに関わっている/自分こそが一番重要なことだ/きみはこういう堂々巡りな考えを持ったことがないのかい?

冒頭のヴァースで示されているとおり、この曲で「ぼく」は、世界から疎外されるとともに、「あらゆることが自分のためにあり、自分こそがもっとも重要なのだ」という視野狭窄に陥っている。そして、つづく2つ目のヴァースで歌われているように、この状態のままでいるかぎり、「なににも巻き込まれなくて済む、リアルタイムで世界を見なくて済む、煩わしいことを忘れられる、外に出なくても済む、列に割り込むことだってできる、好き放題言うこともできる、好きなときに眠ることもできる…」のだ。

しかし、このヴァースの最後には、その代償がつきつけられる。

でもそうするとぼくは、それを見逃してしまうんだ/それを見逃してはいけない/僕のように見逃してほしくないんだ

それの正体は、最後のヴァースできわめて具体的に、しかし具体的であるがゆえに正確に名指すことができない、繊細なモーメントとして列挙される。

完璧なイメージを求める必要がなくて/なんの問題も見当たらないようなとき/それを見逃してはいけない

あるいは、

気の合う仲間とつるんでいて/鈍い痛みがどこかに消えてしまう、そんなとき/それを見失ってはいけない

そしてまた、

抜け殻みたいな感覚が抜けて/まわりのみんなが「調子よさそうじゃん」と話しかけてくる、そんなとき/それを見失ってはいけない

抑うつ状態にあると、孤独に苛まれ、世界をたったひとりで背負っているような感覚に陥ることがある。苦しみを背負い、自暴自棄になり、結果としてあたかも「自分の好きなように」生きているかのような利己的な行動をとるようになってしまう。しかし、それによって苦しみが根っこから解消されたわけではない。苦しみから目をそらし、苦しみをやわらげるための行き当たりばったりな行動でしかないのだから。

James Blakeはこの曲で、そうした隘路に迷い込まないための忠告をあなたに与える。弱さに押し流されそうになるのに耐えて、生活のふとした瞬間にあらわれる満ち足りたモーメントに注意を払うこと。同じ苦しみをわかつ人びとにこの声が届くかどうかはわからないけれど、「ぼく」と同じ側に落ちてきそうな人びとへ、精神を振り絞ってメッセージを届けようとしている。

絶望に染まることばに反して、ピアノとバックコーラスは救いのように響く。ただしそれは、無用な多幸感をもたらしはしない。なぜなら、この曲が伝えようとするものは、宗教的恍惚や啓示ではなく、なにげない生活そのものが救いでありうることだからだ。

Comments closed

すぐそこにあるカタストロフとその不安――Oneohtrix Point Never – Age of

Age Of [解説・歌詞対訳 / ボーナストラック1曲収録 / 初回盤のみ特殊パッケージ仕様 / 国内盤] (BRC570)

Age Of [解説・歌詞対訳 / ボーナストラック1曲収録 / 初回盤のみ特殊パッケージ仕様 / 国内盤] (BRC570)

Oneohtrix Point NeverことDaniel Lopatinは、ここ10年で最も注目され、活躍するエレクトロニック・ミュージックの作り手だ。暴力的で、過剰にドラマチックで、かつ人を食ったシニカルなユーモアを湛えた彼の作品は、さまざまなサブテクスト――インタビュー、ミュージックビデオ、あるいは物語――とともにもたらされ、さながら謎解きの様相さえ呈してリスナーを魅了してきた。サウンドとサブテクストから垣間見える退廃的な世界観はきわめて物語的・映画的であり、実際そうした作家性は映画”Good Time”の劇伴を手がけるという仕事に結実している。

Good Time Original Motion Picture Soundtrack [帯解説・ボーナストラック1曲収録 / 国内盤] (BRC558)

Good Time Original Motion Picture Soundtrack [帯解説・ボーナストラック1曲収録 / 国内盤] (BRC558)

最新作 Age of は、歌にフォーカスを当てたポップなつくりで彼の音楽に対する間口を圧倒的に広げている。と同時に、絶妙に挟まれる変調とノイズは、ポップ・ミュージックに近づきつつも(もとよりそのメロディセンスにはポップさが宿っていたとも思うのだけれど)その約束事をはぐらかそうとする彼のひねくれた実験精神を感じさせる。むしろ、形式上のポップさゆえに、彼がこの作品においてなにを試みようとしているのかがより鮮明になっているようにさえ思える。

私見ながら、この作品に一貫しているのは、カタストロフの予兆と、それに対する絶え間ない不安ではないかと思う。もちろんそれは歌詞のレベル、サブテクストのレベルで表現されているが、同時にサウンドのレベルにおいても同じテーマが表現されている。

具体的にはこうだ。バロック的なハープシコードのサウンドがかすかに歪み、ピッチを変調され、ノイズすれすれにカットアップされる1曲目 “Age Of” から、MVも制作された “Black Snow” 、あるいは “Warning” などの曲に特徴的なように、メロディの流れを変調やノイズが寸断し、その向こう側に無秩序=カオスの深淵がぱっくりと顔を覗かせるかのような演出が散りばめられている。

歌、そしてメロディは任意のサウンドのなかにひとつの秩序をつくりだす。その秩序は、いつでも単なる無秩序へと還元されうる。あらゆるメロディは常にカオスに転じる可能性を孕みながら鳴り響くのだ。しかし、幾層にもわたって高度に形式化されたポップスの枠組みにおいては、この秩序から無秩序へのカタストロフの可能性が認識されることはほとんどない。Age of は、通常は無視される根源的な脆弱性を巧みにその物語のなかに取り入れ、カタストロフへの不安を描写し、体感させることに成功している。

加えて、このカタストロフは無限に延期され私たちを宙吊りにする「来るべき終末」ではなく、常にこの瞬間に訪れてしまっている、私たちの暮らすディストピアそのものでもある。

“Black Snow” のMVの冒頭、防護服に身を包みながらカメラを通じてこちらを指差す怪物の姿は、おそらく福島第一原発ライブカメラに現れた「指差し作業員」を参照しているものと思われる。なにしろ、ほかに類例がない特異なイメージだ。ビデオのなかでは、登場人物たちが果たしてなんの脅威から身を守っているのか明示はされないが、怪物のデスクの上が大写しになるカットには”RADIOACTIVE WASTE…”という表題のあるVHSテープのケースが写り込んでおり、脅威のひとつに放射能が想定されていることは間違いないだろう。

放射能をカタストロフのイメージとして特権的に論じることはここでは避けたい。それはあまりにもセンシティヴな問題であり、かつあまりにもリアルな、現在進行形の問題だからだ。しかし、現実に起こった大規模な原発事故と、それに対するいち作業員のアクションを参照しているという事実は、Age of の終末論的な世界観を、否が応でも私たちの暮らすこの現実世界に引き寄せる。私たちはカタストロフの可能性に曝されているのではなく、むしろそのカタストロフを他の秩序で覆い尽くすことで単に忘却しているに過ぎないのではないか。OPNの作品をとりまくオカルト的な要素は、SF的想像力を喚起するのみならず、すでに訪れているカタストロフへ私たちの意識を向けるよう促すのである。

さて、こうした秩序と無秩序のあわいを往還する運動は、Daniel Lopatinのディスコグラフィのなかでは、Chuck Personという変名でリリースされた Chuch Person’s Eccojams Vol.1 にも見いだせる。

2010年リリースの本作は、テン年代初頭に隆盛を見せ、その余波が未だ収まらないVaporwaveの原点としてカルト的な人気を誇っている。安っぽいヒット曲のサンプリングがディレイによって変調され、針飛びのように奇妙なループを施される本作は、ポップ・ソングが暴力的な編集によって無秩序へと還っていく、デカダンな快楽に満ちている。この作品に刺激されたVaporwaveのアーティストたちが、廃墟と化したショッピングモールをひとつの理想郷と見なした、シニシズムの極北のような音楽をつくりだしたことは、全く的を射ているというほかない。

Age ofEccojams を接続することで見えてくることのひとつに、秩序=音楽が無秩序=単なるサウンドに還元されるという事態が、デジタル化以降のオーディオにおいてとりわけ重要な意味を持つこと、というふうに思うんですが、長くなったのでこの件はまたいつか…… しかもこのデジタル化以降のオーディオにおける秩序の喪失という主題は、放射能被害ともリンクするのであった…… などと、多少陰謀論がかった話になりそうなので、まあ、話半分で……。

Comments closed

なぜカニエ・ウェストは問題なのか?――メンタルヘルスと「スーパーヒーロー」

昨今はすっかりお騒がせセレブ化してしまったカニエ・ウェストが、待望の新作 Ye をリリースした。そのサウンドはエポックとまではいわずとも安定したクオリティを保っており、プロデューサー/ミュージシャンとしての才覚は鈍っていないことをアピールするかのようだった。カニエは昨今のヒップホップ・シーンにおけるゴスペルへの接近や信仰への回帰の中心的存在だが、今作でもたとえば”Ghost Town”(tr.6)のような楽曲にその片鱗が伺える。特に同曲の終盤にふとあらわれる、アカペラのコーラスとサブベースだけのパートには、天上的な悦楽だけではなくて大地にしっかりと足をつけたような力強さを感じた。

とはいえ、すでにさまざまなメディアで指摘されていることだが、同作におけるリリックの内容は、ままスキャンダラスとまでは言わないものの、カニエのお騒がせ体質が滲み出た微妙なものになっていたように思う。NMEの報道によれば、TMZのインタビューで例の「奴隷制は選択」発言をして騒動になったあと、歌詞があまりにもセンシティヴだということでアルバムがまるごと一枚ポシャったらしい。それでもなお論争を呼ぶ作品になっているわけだから、もしそのバージョンがリリースされていたらとんでもない問題作になっていたかもしれない。

具体的なリリックの内容については、ライターの池城美菜子さんによる全曲解説が簡潔で的を射ているように思うので、そちらを参照してもらいたい。個人的には、”Wouldn’t Leave”につづられている「嫁の忠誠心を試してどこまでついてこれるか見極めろ」みたいな内容に、「こいつマジでやべーやつじゃん」とドン引きした。”Yikes”の「ラッセル・シモンズみたいにおれも#MeTooされたらどうしよ~ 怖い~」みたいな茶化しもどうかと思う。まあ、ヒップホップという音楽の体質から考えればこのくらいはアベレージという気もするものの、やはりこのタイミングでこの内容というのは厳しいものがある。

しかし今回問題にしたいのは、前述のNMEの記事(元はBIG BOY TVにアップロードされたインタビュー動画だが)で紹介されている、彼の精神的な問題に関する発言だ。彼は「39歳になったら、精神的な問題があると診断された。まあみんな何かしら抱えているものだと思う。何かしら抱えているんだけど、おれがアルバムで言ったみたいに、それは障害じゃなくてスーパーパワーなんだ」と述べている。こういった発言が、同じ苦しみを抱えている人びとをエンカレッジするならば良いのだが、NMEで紹介されている他の発言には、「他のアーティストと違っておれは自分を最後まで貫く」とか、「もしこの境遇にいるのがカニエ・ウェストじゃなかったら、どうなっていたと思うよ?」みたいなものがみられる。つまるところ、ミュージシャンとしてのカニエ自身を他者――他のミュージシャン、あるいは一般大衆――から卓越化するためのギミックとして病を扱うかのようなレトリックがみられるのだ。

このように、「苦しみの共有」ではなく、「苦しみを強みに転換する強さをもった自分」にフォーカスがあたっている点に、近年のカニエの発言に通底する問題が隠れているように思う。端的に言ってしまえば、いわゆる「ネオリベ」(あまりこのレッテルは好きではないのだが)と呼ばれて批判される類の自己責任論だ。「奴隷制は選択」という発言にしても、制度的な問題を個人の選択の問題にすり替え、「奴隷制を捨てるという選択をしなかったのだから、実質的に奴隷制は黒人自らが選んだものではないのか」と主張したわけだから、その論理は一貫している(ついでに言えば、つい最近炎上している某アパレルECサイトの某氏の過労死に関する発言を彷彿とさせもする)。カニエのなかでは、心の病でさえも、個人の能力次第で乗り越えが可能なものであって、それを乗り越えられないということは…… いや、ここまでは言うまい。カニエもさすがにそこまで口にしてはいないのだから。

マーク・フィッシャーは著書『資本主義リアリズム』のなかで、メンタルヘルスの問題が社会全体の福祉に関わる問題ではなく、個人の脳生理学的な問題に還元されていく現代の傾向を厳しく批判したが、メンタルヘルスの個人化・私有化(privatization)の先では、メンタルヘルスの問題が「病をいかに乗り越えるか」という個人間の卓越化の材料に堕してしまいさえするのだ。

資本主義リアリズム

資本主義リアリズム

  • 作者: マークフィッシャー,セバスチャンブロイ,河南瑠莉
  • 出版社/メーカー: 堀之内出版
  • 発売日: 2018/02/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
  • この商品を含むブログ (2件) を見る

That’s my bipolar shit, nigga what? / That’s my superpower, nigga ain’t no disability / I’m a superhero! I’m a superhero!(おれが言ってんのはおれの双極性障害のことなんだよ、お前らわかるか?/こいつはスーパーパワーで、障害なんかじゃないんだ/おれはスーパーヒーローだ! おれはスーパーヒーローだ!)

“Yikes”をしめくくるアウトロのシャウトは、双極性障害における躁状態からくる錯乱した万能感を感じさせる。と同時に、そうした歪んだ認知が彼自身の自己認識をどのようなものにしているかを物語ってもいる。病にとりつかれた彼は、それに苦しまされると同時に、それをまさしく原動力として「スーパーヒーロー」になるのだ。しかし、この「スーパーヒーロー」は誰を救うのだろうか? いまのカニエの姿からは、弱き者に寄り添い強き者に立ち向かう「ヒーロー」像なんて、とてもじゃないが想像できない。

2 Comments