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なぜ「直感で楽しむ」のではいけないのか――現代アートのたしなみ方覚書、はじめに

 とある記事が、SNSのタイムラインに流れてきた。エルズワース・ケリーやジャクソン・ポロックの作品をひきあいに、「なんでこの絵は○○億円もするの?」というのがキャッチの、かんたんな「現代アート入門」といった具合の記事だ。試しに読んでみると、ちょっとがっかりしてしまった。現代アート好きが、そうでない人たちに対してよく使ってしまうレトリックの数々が、反復されていたからだ。その最たるものが、「アートは直感で楽しむもの」というやつ。「先入観で難しいなんて思わないでほしい」と思って、ついこういうことを口走ってしまうのだ。

 いや、こういうことを言ってしまいたくなるのもよくわかる。現代アートにかぎらず、アートのおもしろみを「わかる」ための近道のひとつは、とにかく数を見ること、あるいは数を見ることはかなわなくとも、じっくりと、穴が空くほどみることに限ると思うからだ。それが正しい理解かどうかであるかはともかくとして、自分なりの「わかり」のかたちを手に入れるには、そうするしかない。だから、「なんも考えなくていいからとにかく見てくれ」と言いたくなる。しかし問題は、この「とにかくたくさん見る」というのがいちばん難しい、ということだ。

 人間、なにか特別なモチベーションがないかぎり、自分にとって優先順位の低い情報をインプットしようなどとは思わないものだ。「ちょっと興味がある」くらいのモチベーションでは、アートの見方を自分なりに体得するほどの経験値を貯める前に、挫折してしまうだろう。なにしろ、漫画やアニメ、映画といったポップカルチャーの作品が、オーディエンスを楽しませ注意を惹きつけておく技法を蓄積してきたのに比較して、アートにはそうした技法の蓄積がどうしても少ない。というか、それを拒絶してでも貫きたい表現があるがゆえに、アーティストはアートという領域で勝負することを選んでいるというべきか。 ともあれ、作品そのものに他のエンタメのような動機づけを期待できない以上、アートをみるという行為に対する動機づけを作品の外側からきちんと提供しなければ、せっかく興味を持ってくれた人がいたずらに挫折してしまうことになってしまう確率は高い。

 その点で、「直感で楽しむだけでいいんです」というアドバイスは、なんの動機づけも提供してくれない。せいぜい、僕が読んだ記事のライターに対してそうだったように、「わからない自分」を肯定してくれる安心感を与えてくれるだけだ。しかし、それはアートに少しでも興味を持ってくれた人から、好奇心を奪うもろ刃の剣でもある。好奇心は、アートの鑑賞において大事な動機づけのひとつだ。「この作品っていったいなんなんだろう」という素朴な問いこそが、アートの世界の入り口に人々を誘い込む、最強の動機づけなのだから。

 くり返すが、アートがアートである所以は、観る側に優しくないという一点に尽きる。その壁を突破するためには、いくらかの経験値と、押し寄せてくる「わからなさ」を跳ね返す好奇心が必要なのだ。だから、「わからない自分」を肯定するのではなくて、最初にめばえた、自分なりにわかろうとしたい、その気持ちを上手にファシリテートしてくれる人が必要なのだ。

 そういうわけで、音楽の話題を中心に執筆してきたこのブログでも、何回かにわけて、トピックごとに「現代アートのたしなみ方」を自分なりにまとめておこうと思う。いやもちろん、自分がりっぱなファシリテーターになれると思っているわけではない。ただ、ちょっとした糸口は見つけている。アート好きが他人に現代アートを勧めるときに使いがちないくつかのレトリックをときほぐすことで、ちょっとは役に立つ文章が書けるのではないか、と思うのだ。

 いまのところ、この文章のトピックである「なぜ『直感で楽しむ』のではいけないのか」に加えて、あと2つのトピックについて書けたらな、と思っている。ひとつめは、「『最初にやったからすごい』のか」。ふたつめは、「『みんなほんとはわかったふりをしているだけ』なのか」。どちらも、現代アートの愛好者が、現代アートを擁護しようとしたり、あるいは自虐のつもりで、そうでない人たちに対して言ってしまいがちなことだ(と思う、僕はね)。気が向いたら書くからいつ更新するかはわからないけど、すこしでも気にかけていただければ幸いです。

caughtacold.hatenablog.com

Published in Japanese