Skip to content →

月別: 2018年3月

『みんなほんとはわかったふりをしているだけ』なのか――現代アートのたしなみ方覚書、その3

www.independent.co.uk

https://i0.wp.com/static.independent.co.uk/s3fs-public/styles/story_large/public/thumbnails/image/2016/05/26/10/art-glasses.jpg?ssl=1

 とある美術館(アートギャラリー)で、こんないたずらがあったそうだ。なんの変哲もないただの眼鏡を床に放置してみたところ、たくさんの観客がそれを作品と勘違いして、しげしげと眺めた、という。この話をどういうふうに考えるべきだろうか。たわいもない冗談? 「芸術作品とただのモノの区別もつかない観客たち」を嘲笑するちょっと悪趣味な皮肉? 「アート好きなんて、ほんとはなにがしかわかったふりをしてるだけで、アート作品とただのモノの区別もつかない」と言ってそのスノビズムにひとこと釘を刺したくなる人もいるだろう。

 しかし、このいたずらをアート好きのはなをあかしたり、あるいは大衆の無知を明るみにだしたりするだけのものだと考えるのももったいない。むしろ、「なぜこんないたずらが成立するか?」ということが重要だと思う。アートを観る――とりわけ美術館で――という行為がどのようなモノやコトに支えられているかを考える良い例だからだ。

 僕が提案したいのは、基本的に美術館と観客のあいだには一種の信頼関係が構築されている、ということだ。美術館は観客がある程度自分たちの意図したような前提を持って展示を見てくれると(ひとまずは)考えるし、観客も、美術館が自分たちを不当に騙したり、貶めたりしないという前提を持って展示を見る。美術館にいってアートを見るということは、単にアート作品という独立したモノを見に行くというだけではなくて、この信頼関係にのっかって、その場にあるモノを主体的に解釈していくプロセスであると僕は考える。

 その構図は、たとえば演劇に似ている。演劇では、舞台上で起こる出来事のおおかたすべてを、「フィクション」ないし「演じられた/演出されたもの」として、いちどかっこに入れて鑑賞するということが当たり前に行われる。よく考えるとこれは奇妙なことだ。眼の前にいる生身の人間を、彼・彼女自身ではない、誰かほかの人(役柄)として見る。観客は「劇場っていうのはそういう場所だから」とほとんど無意識に考えるし、劇場側も「観客はそういう前提で見てくれるはずだ」ということをあてにしている(これを専門用語で「不信の宙吊り」という)。そして大抵の場合、それはそこそこうまくいっている。

 同じように、美術館では、そのなかに配置されるオブジェや出来事のおおかたすべてを、モノそのものであるよりも、アート作品であるとか、アートを楽しみ、理解するための手がかりとして見るということが行われているわけだ。作品、キャプション、テクスト、監視員、ソファ、カタログ、照明、etc…展示室のなかにあるあらゆるモノは、それぞれが特有の役割を果たし、理解されることを待っている。

 床に(意図的に)放置されたただの眼鏡は、この信頼関係のなかに入り込んだエラーだ。美術館と観客の信頼関係のうちに紛れ込むことによって、たんなるモノだったはずのものが、あたかも意味をもつオブジェであるかのように見えてしまう。もちろん、「もしかしてただの落とし物かもしれない」とか、そういう可能性を折り込みつつも、アートを鑑賞する美術館という場のもつ特性を考慮したうえで、そのモノの意味、あるいはそのモノがそこに置かれている意味を考えざるを得ない。

 絵画や彫刻といったアート作品としてのステータスが比較的堅固なものであればともかく、20世紀以降のアート作品にはしばしば私たちが日常的に触れるモノとほとんど見た目上区別がつかないものも多い。したがってなおのこと、「果たしてそれが芸術作品かどうか」「芸術作品だとすればどんな意味を持っているのか」を「じっくりと見る」ことを通じて見極めなければならない。だから、「ただの眼鏡をしげしげと眺める」という行為は、スノビズムのあかしでも無知の証拠でもなく、アートを見るという行為にはつきものの、熟慮と判断をあらわしていると僕は思う。

 このいたずらは、美術館という場とその観衆が共有している信頼関係のひとつのありようを明るみに出しているといえる。その信頼関係にのっとっている限り、展示室のなかに配置されたオブジェは等しくアートの鑑賞の手がかりになる。たとえそれがエラーだったとしても、ひとまずは美術館の善意を信頼するほかないのだ。この仕組を鮮やかに示したという点で、これはただのいたずらを超えた、ひとつのアート作品(行為)だとさえ言えるかもしれない。かつてBanksyが自分の作品を勝手に美術館に展示してしまったように。

 だから、「アート作品とそれ以外のモノの区別がつけられない」ことをもって、「アート好きはわかったふりをしているだけ」と言うのは根本的に的を外している。アート好きは、手に入る材料から一所懸命自分なりの意味を紡ごうと、どうにかしてわかろうとしているのだ。たとえそこにエラーが含まれていようとも、ひとまずその可能性をかっこに入れてでも、わかろうとする。そして、眼の前に提示されるわからなさにあえて留まることに、深い愉しみを覚える。そもそも、すべてが十分にわかってしまったら、おもしろくもなんともないじゃないか、とさえ思う。

 僕が大学時代にお世話になった先生は、こういう比喩を好んでいた。いわく、人間関係において、「わかった」というのはたいてい、別れのことばなのだ、と。「あなたのことはもう十分にわかった」――だから、もうそれ以上あなたを理解しようとは思わない。さようなら。

 アートも同じだ。僕を惹きつけてやまないアート作品はいつでも、天啓のような理解を与えると同時に、どこかに「わからなさ」を残している。常に「わからなさ」につきまとわれつつも、まさにその「わからなさ」に引き寄せられて、自分で自ら意味を紡いでいく経験。アートに限らず、良質なエンターテインメントというのは共通してこの「わからなさ」を湛えているように思う。いわく言い難い魅力にとりつかれて何度も同じ映画やアニメを見てしまうことってあるでしょう。しかしアートは、その純度がきわめて高いのだ。それは、観客に委ねられた解釈の幅が、他のエンタメよりも大きいことに由来すると思う。

 「わかったふりをしている」だなんてとんでもない。「わからない」からこそ魅了され、とりつかれたように見つづけてしまうのだ。この「わからなさ」の魅力をどう伝えるべきか、まだ答えは出ていないけれど、今後書くいくつかのケース・スタディでプレゼンできればと思う。

Comments closed

『最初にやったからすごい』のか――現代アートのたしなみ方覚書、その2

https://i0.wp.com/www.jackson-pollock.org/images/jackson-pollock-paint.jpg?ssl=1

 たとえばあなたは、一見なんのことやらわからない意味不明な絵画やオブジェを前にして、こんなことを思ったことがあるかもしれない。「こんなの、誰でもできるんじゃないの?」と。それはたとえばジャクソン・ポロックの絵の具が撒き散らされた巨大な絵画かもしれないし、カール・アンドレの、床に整然と並べられたタイルかもしれない。あるいはそれはルチオ・フォンタナによって切り裂かれたカンヴァスかもしれないし、ダン・フレヴィンの蛍光灯かもしれない。いずれにせよ、20世紀以降のいわゆる現代アートに、そんな例は枚挙に暇がない。めくるめく物語も、心安らぐ風景も、こころ動かす人物像も見当たらない。そのうえ、どうやら表面上、技巧らしい技巧は見えてこない。どうにもつかみどころのないこれらの作品の、なにがすごいんだろうか?

 しばしば、「これのなにがすごいの?」と聞かれたアート好きは、答えにすこし窮してから、こう答える。「アートの歴史のなかで、いちばん最初にあれこれのことをやったのが、この作品なんだ」。一番最初にカンヴァスに絵の具を撒き散らし、一番最初に床にタイルを並べ、一番最初にカンヴァスを切り裂き、一番最初に蛍光灯を作品に使い…… たとえそれがぱっと見誰にでもできそうなことでも、「一番最初」という刻印があるがゆえにこの作品はすごいのだ。それを聞いたあなたは、「そんなものなのか」とひととき納得するかもしれないが、同時にこうも思うだろう。「『一番最初』だからって、なにがそんなにすごいわけ?」。けっきょく疑問は先延ばしになっただけで、本質的な解決を見ない。

 「最初にやったからすごい」というのは確かに間違いではない。誰も思いつかなかった斬新なアイデアというのも、アートの歴史を前進させる重要な要素のひとつだからだ。しかし、「歴史上はじめて」だったらなんでも偉いのかといえば、決してそうとは限らない。「歴史上はじめてだったけれど、大して評価されずに消えていったもの」もたくさんあるだろう。もとよりアートの歴史に名前を残す作品やアーティストなど、ごくごく一部にすぎない。「最初にやった」以外のプラスアルファがいくつもあってはじめて、有象無象の作品の海の中から頭一つ抜け出して、後世の私たちの目にとまるようになるのだ。

 こういう「最初にやったからすごい」式の説明が問題なのは、まるでアートが「新奇なアイデア合戦」であるかのような誤解を与えてしまうことだ。とりわけ現代アートに対しては、そういう戯画化がしばしば見られる。スキャンダラスで奇抜な作品で世を騒がせるアーティスト、などというのはもはや非常に通俗的なステレオタイプになっている。しかし、作品の価値基準を「新しさ」にばかり求めてしまうと、アイデアや表現そのものの意図や効果から注意が逸らされてしまう。また、そうした表面的な「新しさ」は時間の経過に伴って古く、陳腐になってゆく。良いアート作品というものは、そういった時間の圧力を押しのけてなお僕たちに新鮮な魅力を提示してくれるものだ。少なくとも、いま僕たちがアート作品として受容しているものの大半は、そうした時間の経過を経てなお評価されているものばかりなのだ(込み入った話にはなるが、その評価基準の是非については次回論じる)。そう考えれば、「最初にやったからすごい」式の説明は、作品の魅力の大部分をざっくりと切り捨ててしまっていると言える。

 時間をかけて見極めるべきなのはつねに、「それがどれだけ新しい(新しかった)か」ではなく、むしろ「それが僕たちになにを与えてくれているか」ということである。そのために必要なのは、第一に、観察である。次いで、観察から得られた事実や印象から、その作品がどんな経験を自分に与えているかを、試しに言語化することだ。

 たとえばジャクソン・ポロックの作品、《ワン 31番, 1950 / One Number 31, 1950》(1950年)を例に見てみよう。

f:id:tortoisetaughtus:20180308065444j:plain

 僕は学生時代にニューヨークに行く機会にめぐまれ、この作品の実物を見たことがある。縦が2.7mほど、幅は5.3mほどにもなるこの作品に、僕は圧倒された。僕は身長が180cmあるそこそこの大男なのだけれど、それでもなおこの作品の巨大さは、まるで見ている僕を包み込むようだった。と同時に、ぎりぎりまで近寄って見てみると、そのディテイルは思いの外繊細で、イメージとも紋様ともつかない独特の感触をもってこちらに迫ってくる。また、それがただ絵の具をぶちまけたのではなく、この絵画全体が「ダイナミックな線の集積」であることも次第にわかってくる。線そのものは画家の豊かで大胆な動きを感じさせつつも、隙間なく幾重にも重ねられたその厚みは、むしろ慎重なコントロールの気配を覚えさせた。編み目のように複雑な全体像は、見るたびに色彩の焦点がかわり、そのためめまぐるしく画面の印象は変わっていく。あるいはひとつひとつの線をたどろうとしてみれば、めまいを催させるようなめくるめく視覚体験を僕たちは経験することになる。

 それは、たとえば風景画や人物がを味わうのとはまったく異なる経験だ。「現実にどれだけ似ているか」あるいは「現実からどれだけ飛躍しているか」といった評価軸とも、「その人の人間性があらわれているかどうか」といった評価軸ともかけ離れて、純粋に、絵画をみる、描かれたものを見るという行為そのものの愉しみがそこにはある。ポロックの用いたポアリングという手法――粘度の低いエナメル塗料をカンヴァス上に滴らせる――がたとえ新奇さを喪ったとしても(じっさい彼がこの技法を用いてから半世紀以上が過ぎ、珍しくもなんともない表現になっているのだが)、それによって生み出された絵画が僕たちに見せてくれる世界そのものは古びない、と僕は思う。

 また、ルチオ・フォンタナの《空間概念「期待」/ Concetto spaziale ‘Attesa’》(1960年)はどうだろう。

f:id:tortoisetaughtus:20180308065841j:plain

 カンヴァスに大胆に開かれた裂け目。これを「単にカンヴァスを切り裂いただけ」と片付けてしまうのは簡単だ。けれども、この作品の切り裂かれたカンヴァスの向こうには暗色の裏地が張られ、裂け目の向こう側にはあたかも漆黒の、無限の空間が広がっているかのようにしつらえられている。つまり、「切り裂くこと」そのものが重要だったのではなく、「切り裂くという行為の向こう側に見えてくるもの」までが、フォンタナにとっては肝心だったのだ。それは、伝統的に(具体的にはルネサンス以来)空間を絵として描きこむ対象であったカンヴァスを僕たちの目の前の空間そのものに引き戻し、さらにはその向こう側に果てしない空間を想起させる試みだったわけだ。

 そういうわけで、僕がまずおすすめしたいのは、「これのなにがすごいんだろう?」と思ったならば、まずは自分の目にうつるものすべてに気を配って、隅々まで観察することだ。そのときは、観察している自分の心の動きも気に留めておくと良いだろう。思い浮かんだ感想や連想は、鑑賞の大事な材料になる。これにはなかなか忍耐がいるが、美術館をうろついていてふと気になった作品をひとつだけでも、何分も、何十分もかけて見てみて欲しい。たとえば絵画なら、画家の動きや、使われている画材の特徴、質感まで気を配りながら。もちろん、こうしたアプローチでは歯が立たない作品もたくさんある。それについてもいつか話さなければならないと思うけれど、今回はここまで。さようなら。

 作品画像はそれぞれ、所蔵館であるニューヨーク近代美術館MoMA)及びテート・ギャラリーのウェブサイトから引用した。

 Jackson Pollock. One: Number 31, 1950. 1950 | MoMA

 ‘Spatial Concept ‘Waiting’’, Lucio Fontana, 1960 | Tate

caughtacold.hatenablog.com

Comments closed

なぜ「直感で楽しむ」のではいけないのか――現代アートのたしなみ方覚書、はじめに

 とある記事が、SNSのタイムラインに流れてきた。エルズワース・ケリーやジャクソン・ポロックの作品をひきあいに、「なんでこの絵は○○億円もするの?」というのがキャッチの、かんたんな「現代アート入門」といった具合の記事だ。試しに読んでみると、ちょっとがっかりしてしまった。現代アート好きが、そうでない人たちに対してよく使ってしまうレトリックの数々が、反復されていたからだ。その最たるものが、「アートは直感で楽しむもの」というやつ。「先入観で難しいなんて思わないでほしい」と思って、ついこういうことを口走ってしまうのだ。

 いや、こういうことを言ってしまいたくなるのもよくわかる。現代アートにかぎらず、アートのおもしろみを「わかる」ための近道のひとつは、とにかく数を見ること、あるいは数を見ることはかなわなくとも、じっくりと、穴が空くほどみることに限ると思うからだ。それが正しい理解かどうかであるかはともかくとして、自分なりの「わかり」のかたちを手に入れるには、そうするしかない。だから、「なんも考えなくていいからとにかく見てくれ」と言いたくなる。しかし問題は、この「とにかくたくさん見る」というのがいちばん難しい、ということだ。

 人間、なにか特別なモチベーションがないかぎり、自分にとって優先順位の低い情報をインプットしようなどとは思わないものだ。「ちょっと興味がある」くらいのモチベーションでは、アートの見方を自分なりに体得するほどの経験値を貯める前に、挫折してしまうだろう。なにしろ、漫画やアニメ、映画といったポップカルチャーの作品が、オーディエンスを楽しませ注意を惹きつけておく技法を蓄積してきたのに比較して、アートにはそうした技法の蓄積がどうしても少ない。というか、それを拒絶してでも貫きたい表現があるがゆえに、アーティストはアートという領域で勝負することを選んでいるというべきか。 ともあれ、作品そのものに他のエンタメのような動機づけを期待できない以上、アートをみるという行為に対する動機づけを作品の外側からきちんと提供しなければ、せっかく興味を持ってくれた人がいたずらに挫折してしまうことになってしまう確率は高い。

 その点で、「直感で楽しむだけでいいんです」というアドバイスは、なんの動機づけも提供してくれない。せいぜい、僕が読んだ記事のライターに対してそうだったように、「わからない自分」を肯定してくれる安心感を与えてくれるだけだ。しかし、それはアートに少しでも興味を持ってくれた人から、好奇心を奪うもろ刃の剣でもある。好奇心は、アートの鑑賞において大事な動機づけのひとつだ。「この作品っていったいなんなんだろう」という素朴な問いこそが、アートの世界の入り口に人々を誘い込む、最強の動機づけなのだから。

 くり返すが、アートがアートである所以は、観る側に優しくないという一点に尽きる。その壁を突破するためには、いくらかの経験値と、押し寄せてくる「わからなさ」を跳ね返す好奇心が必要なのだ。だから、「わからない自分」を肯定するのではなくて、最初にめばえた、自分なりにわかろうとしたい、その気持ちを上手にファシリテートしてくれる人が必要なのだ。

 そういうわけで、音楽の話題を中心に執筆してきたこのブログでも、何回かにわけて、トピックごとに「現代アートのたしなみ方」を自分なりにまとめておこうと思う。いやもちろん、自分がりっぱなファシリテーターになれると思っているわけではない。ただ、ちょっとした糸口は見つけている。アート好きが他人に現代アートを勧めるときに使いがちないくつかのレトリックをときほぐすことで、ちょっとは役に立つ文章が書けるのではないか、と思うのだ。

 いまのところ、この文章のトピックである「なぜ『直感で楽しむ』のではいけないのか」に加えて、あと2つのトピックについて書けたらな、と思っている。ひとつめは、「『最初にやったからすごい』のか」。ふたつめは、「『みんなほんとはわかったふりをしているだけ』なのか」。どちらも、現代アートの愛好者が、現代アートを擁護しようとしたり、あるいは自虐のつもりで、そうでない人たちに対して言ってしまいがちなことだ(と思う、僕はね)。気が向いたら書くからいつ更新するかはわからないけど、すこしでも気にかけていただければ幸いです。

caughtacold.hatenablog.com

Comments closed

ジョーゼフ・ジョルダーニア『人間はなぜ歌うのか? 人類の進化における「うた」の起源』森田稔訳、アルク出版、2017年

人間はなぜ歌うのか? 人類の進化における「うた」の起源

人間はなぜ歌うのか? 人類の進化における「うた」の起源

 音楽なんていったいなんの役に立つのか? と正面切って問うのはなかなか勇気がいることだ。とりわけそれがレトリックではなく本心からの問いであり、さらには、その問いに進化生物学的な視座から答えようなどというと、あまりのスケールの大きさに卒倒しそうになる。これまで、この問いを立てて答えを探ろうとした研究者はさほど多くない、とジョーゼフ・ジョルダーニアは伝える。むしろ、驚くほど少ない、と。なにしろ進化論の始祖、チャールズ・ダーウィンでさえも、進化の系譜における音楽の役割の不可解さにはさじを投げていたのだ。ジョルダーニアは、人間にとってもっとも身近な音楽である「うた」に関する比較音楽学的・人類学的・進化生物学的考察をもって、この問いに答えようとする。そこから導き出すストーリーは、あまりにも大胆だ。いわく、「人間を人間足らしめたのは、まさしく『うた』だった」。人間の祖先は言語を獲得するよりも先に「うた」を手に入れ、「うた」の力でここまで――まさしく僕たちの今の姿まで――進化してきたのだ、という。

 話のさわりだけをさっくりと説明しよう。ジョルダーニアによれば、比較音楽学的な調査の結果からは、モノフォニー(独唱)よりもポリフォニー(複数の声部を持つ合唱、本書では西洋音楽におけるそれよりも広い意味で用いられている)のほうが「うた」のかたちとして古いという仮説がたてられるという。つまり、まず単純な旋律があり、それが次第に複雑な合唱になったのでなくて、人間の「うた」はそもそもが合唱だったのだ、ということだ。また、ジョルダーニアは、生物学において見過ごされがちなある重要な事実を指摘する。すなわち、樹上に住む生き物はよく鳴き声を発するが、地上に住む生き物は鳴き声を発しないのだ。これはある種自明の理で、外敵に発見されるリスクの高い地上では、生き物は沈黙せざるを得ない。にもかかわらず、人間は歌う。少なくとも、「うた」を歌うというよくわからない習慣を捨てることなく地上に立ち、進化を遂げた。この矛盾に対するジョルダーニアの答えは、まさに逆転の発想だ。人間はむしろ、声を上げ、威嚇することで自分たちの身を外敵から守ることを選んだのだ。二足歩行も、頭髪も、その他あらゆる人間のある種不可思議な進化のあり方も、身を隠すのではなくあえて身を晒し、天敵を威嚇するという生存戦略の結果なのだ。

 その仮説の正当性については、ぜひ本書を読んで検討してもらいたいのだけれど、威嚇のために声を上げる、という観点から人間の「うた」の特性を分析すると、意外なほどストーリーはすんなりと進む。たとえば、人間の「うた」がそもそもポリフォニー=合唱であったらしいという話にしても、より効果的な威嚇のために声をあわせ、リズムをあわせ、より大きな音を発しようとしたことから派生したと考えれば納得がいく。和音もまた、音に厚みをもたらすことに貢献したとかんがえられる。現存するポリフォニー文化でしばしば見られる長短二度の音程による「不協和」なハーモニーも、効果としては同様だ。むしろ、複雑な倍音を持つ鋭い不協和音のほうがより効果的だったかもしれない。

 音楽なんていったいなんの役に立つのか? その問いに答える方法はいくらでもある。いっそはなから役立たずだと認めてしまうのも手だし、音楽の社会的な機能や療法的な機能を並べ立てていかに音楽が有用かを論じることもできよう。しかし、本書は違う。「うた」は人間を人間たらしめた、もっとも重要な本能なのだと言う。ジョルダーノは本書の末尾でこのように高らかに宣言する。

われわれは心底から社会的であり、心底から音楽的である。われわれの音楽性と社会的本性は何百万年ものあいだ、相携えて進んできた。音楽を競争[コンペティション]の手段として用いる多くの他の種とは異なり、われわれにとって音楽は何よりもまず協同するためのツールである。それが、和声が歌う人々を一つのグループにまとめ上げた理由であり、おそらくそれが、われわれの社会的本質の最良のシンボルと言えるだろう。(pp.301-302)

 もちろんこれを、音楽好きが自分の都合の良い証拠だけ集めた妄想だと斬って捨てる人もいるだろう。音楽を嫌う人だってたくさんいる。しかし、音楽という文化がこれほどまで地球上に偏在し、そして絶えることなく伝えられてきた事実を前にすると、このくらいの理屈がなければ納得ができないのだ。

Comments closed

「うた」と韻、メロディという鋳型――集団行動『充分未来』について

充分未来

充分未来

すこしまわりくどい話からはじめる。

韻を踏む、という行為の魅力は、なによりもことばとことばのあいだに思いがけない関係性を生みだし、想像力をぐっと遠くまで連れて行ってくれることにあると思う。ただ「音が似ている」というだけで撚り合わされたことばが、いわゆる「こうもり傘とミシン」のように運命的な(しかし偶然的な)出逢いを果たす。さしづめ韻とは「手術台」のようなものだ。そこからことばはシュールレアルな力を得て、イメージへと一気に跳躍する。

しかしとりわけ「うた」において韻を韻たらしめる条件というのは書き言葉よりも複雑だ。というのは、ことばが発音されるとともに引き伸ばされ、歪められることによって、多少無理のある脚韻も「うた」においては成立する、ということがままある。こうしたねじれた韻は、書き起こされて図示されうるわかりやすく形式化された韻とはまた異なる。「うた」においてのみ、声においてのみ成立し、イメージへと跳躍する韻というものがある。

本題に入ろう。

真部脩一のソングライティングはことば遊びのような性格を持っていて、それがかれの作家性の重要な要素であると私は思う。ことばを通じて描かれる物語や情景、あるいはそこから生じる感情に重きを置くのではなく、ことばそのものが折り重なり、ぶつかりあってイメージを生み出す、そういう感じがかれの書く曲にはあった。かれの書く詞はたとえば「物語を効果的に描ききれているか」というような、合目的性では評価しきれない。目的を欠いたことば自体の運動をつかみとる必要がある。

そのテクニックのうちのひとつに、押韻があることは言うまでもない。突拍子もなく飛び出てくる固有名詞や、ありふれたメタファーをひとひねりすることで生まれるユーモアと並んで、かれの詞には効果的な押韻がいたるところに見られる。彼が2017年に結成した新バンド、集団行動の二作目にあたる『充分未来』を聴いて感じたのは、そんな押韻の魅力がこれまで以上に詰まっているということだった。かつそれは、書き文字のなかでは姿をなかなかあらわさない、まさに「うた」の韻だ、と思った。

たとえばタイトル曲の「充分未来」は相対性理論時代を少し彷彿とさせるような、わらべうたのように牧歌的なことばのならびのなかに、モラトリアムとその終わりが描かれた一曲だ。4回繰り返されるAメロは、同じことばづかい(繰り返される「~の中」など)を含めて律儀に韻が踏まれている。完全な脚韻やそれに近いものだけをピックアップしても、「ユートピアルートビア/ゆとりある」「ハートは止まない/過去はまだない/カッコーは鳴かない」という具合だ。童謡を思わせる「たんたんたぬきは穴の中/かんかんからすも山の中/とんとん遠くの森の中」という戯画化された、抽象的な韻律のなかに、3番目だけ「炭酸ガラスの瓶の中」と具体的なイメージを滑り込ませているのも心地よい。

あるいは「フロンティア」は韻によって繋げられることばたちの運動が、ちょうど平歌とサビの見せる世界の広さを対比して見せている。平歌では、グルーヴを切断するかのように歩き出し、立ち止まりながらスタッカート気味に踏まれる「フロント/プライド/フライト/暗い日を」といった韻が、歌詞から香る別れや孤独を強調する。それに対して、サビではすこしねばりの聴いた「もの思えば/追えば/ことばが/フォーエバー/とれば」というなめらかに流れる韻が、開放感あふれる詞の内容とあいまって、これから始まろうとする新しい旅への期待を高めている。それはまさに「行き場のないメロディーが」想像力の翼を得て羽ばたき出すように感じられるのだ。

さらに、いずれの韻も、反復されるメロディやリズムのなかに流し込まれることで、母音の不一致やシラブルの多寡を乗り越えて、ことばの連なりとして浮かび上がってくる。「春」ではその意外性がより際立っていて、メロディの鋳型へと注ぎ込まれた「窓辺に立ち/アドベンチャー」や「戻れずに/モノレールの」といったことばが、ゆるやかにつながってさまざまなイメージを聴き手のなかに呼び起こしてゆく。

しかし、単純ながらもこのメロディと韻の関係をもっとも感じさせたのは、真部脩一らしからぬストレートでポップなギターロックである「鳴り止まない」だった。「朝8時から/流れ出したこの曲が」という出だしの8小節には、一見韻らしい韻はない。けれども、1小節目と4小節目冒頭「あ」が「あー」と1小節半引き伸ばされ、同じように「な」が「なぁー」と引き伸ばされることによって、この音たちはもとのことばの一部であることをやめて、「ああ」という感嘆の響きに同化するのだ。

なに、ごく単純なことじゃないか。と思われるかもしれない。しかし、ことばを巧みに操って聴き手をほんのちょっとシュールレアルな非日常に導いてきた真部が、まっすぐにロックンロールの、音楽の快楽を描き出したこの曲において、この発見はなかなかに清々しいものだった。彼の作家性をそのままに、胸をくすぐるような青春の香りを漂わせるこの曲は、たんにキャッチーなだけではない魅力を持っている。

それにしても、こうした真部の楽曲を堂々と歌う齋藤里菜の歌声のたのもしさはなんだろうか。『充分未来』にもうひとつ発見があるとするならば、お仕着せでも歌い上げるでもなく歌詞に、メロディに寄り添ってのびのびと声を発する齋藤の魅力が溢れているところにあるかもしれない。集団行動は新メンバーや新ヴォーカリストを募集するなど、今後も姿を変えていくことだろう。それがいつか相対性理論のように不定形な「ユニット」のようになるのか、あるいはバンドとして洗練されていくのかはわからない。しかし、『充分未来』が捉えている集団行動というバンドの姿は、ポスト・相対性理論といった前置きを抜きに、バンドとしてのゆるやかな成長を見せていることは間違いない。

Comments closed