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月別: 2017年7月

リリック・ヴィデオ、音と記号のあわい――環ROY“ことの次第”MVを見る

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なぎ

なぎ

 先月、4年ぶりのニューアルバム《なぎ》をリリースした環ROYの“ことの次第”のミュージック・ヴィデオが公開されていた。ざらざらとした手触りの画面のなかに、糸くずやあるいは微生物のような細長い物体が漂い、ふと言葉を結んでは解けていく非常にミニマルな作品だ。言ってみればこれは昨今すっかりありふれたリリック・ヴィデオの類とも受け取れるかもしれない。しかしこの作品はふつうリリック・ヴィデオが果たすべき機能とは違うなにかを見せている。

リリック・ヴィデオの機能

 世界で初めてのミュージック・ヴィデオ、と称される映像作品は多くあるが、そのひとつにBob Dylanによる“Subterranean Homesick Blues”(1965)がある。見てわかるとおり、この作品はリリック・ヴィデオの原型と言って良い。

 2000年代以降のリリック・ヴィデオとは制作背景も流通過程も異なるとは言え1、このヴィデオはリリック・ヴィデオが果たす役割を端的に示している。めくり捨てられる一枚一枚のカードは、立て板に水のように流れていくDylanの歌に打ち込まれた韻という楔を、視覚的に強調する。つまり、音声として流れ過ぎ去っていく歌を書かれた言葉として画面に定着させることで、その作用を露わにしようとするのだ。

 あるいはJusticeの“D.A.N.C.E.”(2007)では、歌が言葉となり、言葉がイメージとなることによって、ともすれば聞き流されてしまう歌詞の内容をヴィヴィッドに見る者に伝えようとする。ここでは、歌詞の持つ意味作用を定着させ、増幅させることがリリック・ヴィデオの果たすべき役割となっている。

 リリック・ヴィデオの普及が本格化する2010年以降の諸作品においては、より単純に歌詞を画面に表示することに終始するものも少なくないとはいえ、基本的な役割は、歌という音声を書き言葉に翻訳することにあるといっていいだろう。それによって、視聴者は歌の意味についてより正確な理解を得る、というところだろうか。

歌の力と言葉の力

 しかし、問題はそこにある。僕たちは極めて安易にも、歌の力と言葉の力を混同してしまうのだ。

 歌詞として書き下された文章は、あくまで歌の骨格でしかない。Corneliusの“あなたがいるなら”レビューで書いたように、たとえテクストとしての歌詞を丸暗記していたとしても、歌のマジックはつねにそれらの言葉を驚きとともに聴く者に提示する。テクストとして書き下された歌詞の支えがない場合はなおさらだ。ちょっとしたノイズのように思えた掠れた声が歌の一部であったり、あるいはたんなるハミングかと思われるような声の流れがメロディによって引き伸ばされたひとつの言葉であったり、途切れたと思った言葉が再び線をなし意味を結び始めたり、そういった運動を歌詞は記録していない。

 環ROYが“ことの次第”で描き出すのは、歌と言葉のあいだに結ばれるこの微妙な距離と、そこに生まれる運動にほかならない。

鳴き声は整理され声に変わる/意味は時と場を僕らに与え/時と場は物語を紡いでる

 あるいは、

二つの拍 繋がりを持った/言葉は音楽へ変わった/そして音に戻り 時と場に融け/時と場は 物語を紡いでる

 これらのラインが物語る通り、音/声/言葉/意味/物語は、互いに融通無碍に絶え間なくその姿を変えていく。注意したいのは、この詞においては、音を最も低次として物語を頂点とするヒエラルキーが想定されているわけではない、という点だ。たとえば音はひととびに意味を成しうるし、物語は一瞬で音へと還ってゆく。フックに現れる五つの母音はそれを象徴しているかのようだ。この五つの母音は、音響的な処理をほどこされることによって、トラックを構成する音のようにも、遠くから響く物言わぬ声のようにも、あるいは「あいうえお」という現代の日本語話者には極めて馴染み深いひとつのシーケンスのようにも響く。

 そして、“ことの次第”のミュージック・ヴィデオがいわゆるリリック・ヴィデオと一線を画しているのは、歌詞を言葉として定着させるのではなく、まさにこの抽象的で曖昧な運動を視覚化している点にある。

幻視される言葉とその残像

 荒いかすれたノイズを含んだ8mmフィルムのようでもあり、それでいてブロックノイズの残る低解像度のMPGのようでもある映像の中に漂う、生命のようにも単なるブラウン運動のようにも見える白い粒子。ヴィデオ全体を通底するこのトーン自体が、グリッチ的かつ有機的な響きを持つ“ことの次第”のトラックに呼応している。画面じゅうを動き回るこれらの粒子はひものように伸び縮みしながら環ROYの発する言葉をトレースし、あるいは先回りして視覚化する。言葉をすべておいかけるでもなく、粒子の奔放な動きそのものが視覚的な快楽を満たしてくれる。

 粒子の微細な振動が像を結び、記号となり、散っていく。それは歌を視覚的な文字記号に還元してしまう通常のリリック・ヴィデオの機能とは反対に、ひとことひとことが明瞭に発せられる環ROYのラップを、トラックという音の渦のなかに融解させるかのように機能する。また、僕たちは、飛び交う粒子たちのなかに、言葉になる寸前の図像を幻視しもする。耳が捉えた音声イメージが画面に投影され、そこに存在したかどうかも定かではない言葉の姿を、不意に捉えてしまうのだ。

 このヴィデオを見、そして聴くという経験はきわめて錯綜した感覚を産む。あるときには、聞き取りそこなった言葉がイメージによって補完され、またあるときには、耳の中に飛び込んでくる言葉がイメージに投影され、目に焼き付いてしまった残像は、あたかもその言葉=イメージをしかと目にしたかのような錯覚を生じさせる。音/声/言葉/意味/物語という様々な状態を自在に横断するイメージ/音響。それはミュージック・ヴィデオがしばしば目指す共感覚的ヴィジョンの提示というよりも、音と記号とのあいだにたゆたい、ときに引き裂かれる「歌」の視覚化と言った方がいい。

ミュージック・ヴィデオの「共感覚的」な側面を進歩させた立役者は数多くあげられるだろうけれど、その筆頭は間違いなくミシェル・ゴンドリーだろう。

 こんなこと僕が言うまでもないことかもしれないが、“ことの次第”のミュージック・ヴィデオの、一見地味でミニマルな装いのなかに秘められた豊かな経験を、じっくりと味わって欲しいと思う。


  1. ありていにいえば、00年代以降、もっとわかりやすく言えばYouTube以降に普及したリリック・ヴィデオは、通常のミュージック・ヴィデオを撮影するよりも低コストに制作できる、便利なプロモーション手段という側面を持つ。しばしばリリック・ヴィデオは正式なミュージック・ヴィデオの公開に先駆けて披露される「つなぎ」の役割を担っていて、ソーシャルメディア上のバズを維持するために重宝されているのだ。

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ミレニアル世代は優れた(ネット・)サーファーなのか?:うんざりするような若者論へ、『蒸気波要点ガイド』を添えて

gqjapan.jp

 ほんの数百字の短い記事だが、もう、なにもかも、まるっきりうんざりする記事だ。「過去が縦軸から横軸になった時代」だの、「どんな音楽にも分け隔てなくアクセス」だの、「広大なアーカイブの海を巧みに泳げる」だの……そしてとどめにはこうだ。

そしてもしかしたら、マンチェスターの中学生がフジロックのサチモスの動画で音楽に目覚めるかもしれない。エキサイティングな時代になった!

 このライターはどこまで本気でこれを書いているのだろうか。言っておくけど僕は「そんなことはありえない」と言いたいわけじゃない。「そんなことはあまりにもありふれている」からこそ、このライターの正気を疑うのだ。90年代にインターネットの夜明けを目撃した人々が抱いた過剰なオプティミズムがいま突然冷凍睡眠から目覚めたみたいな、そんなアナクロニズムにまみれた文章だ。これとそっくりそのまま同じ文章が00年前後のカルチャー誌に載っていても僕はまったく不思議に思わない(当時はYouTubeのようなインターネット上の動画インフラはまだ成立していない、という客観的事実を除けば)。

 あらゆるものごとがフラット化していくらでも自由にアクセス可能となり、既存のヒエラルキーを打ち破る。このような「革命的」で「斬新な」スローガンは、実のところ掃いて集めたらもうひとつお月さまができるくらい吐き散らかされてきた。「ジャンルを横断する」? おお結構。「No Walls Between Music」? まさに真理だ(というかこれは信仰のようなもので、僕は死んでも否定したくはない)。けれどもそれはこのライターが讃えるような「ミレニアル世代」――ざっくりと言えば、日本でいうゆとり世代以降――の持つ独自の精神などではない。このスローガンの起源はお望みならグーテンベルクの時代に、あるいは百科全書派の時代に、または産業革命の時代に、さらには電気の時代、電子の時代、ネットワークの時代に、それぞれ求めることができるだろう。しかしそんな大風呂敷を拡げなくとも、少なくともインターネット以降の感覚で言っても、「エキサイティングな時代」などとうの昔にベッドルームにやってきていたはずだ。

メディアはマッサージである: 影響の目録 (河出文庫)

メディアはマッサージである: 影響の目録 (河出文庫)

 ライター曰く「広大なアーカイブの海を巧みに泳げるのがミレニアル世代の特徴」だそうだ。しかし、ミレニアル世代はそんな全能感からは程遠いところにいると思う。むしろ彼/彼女らの大部分は、狭く喧しいSNSのエコー・チェンバーに閉じ込められ、かろうじてSNS上のフィードにサムズ・アップすることによってのみ安息を得ているのではないか。僕の言うことがあまりにもペシミスティックでディストピア的だと感じられるなら、「アーカイヴの海」を自由に泳ぎ回る若者たちなんていう表現も、それと同じくらいオプティミスティックでユートピア的なおとぎ話にすぎない。

 インターネットに伝わるいにしえの言い回しに、「ネット・サーフィン」というのがある。インターネット上のウェブサイトをリンクからリンクへ気ままに辿ってゆく優雅な時間つぶしのことだ。もはやこの言葉が使われなくなって十年は経つだろう。インターネットに触れるインターフェイスは、コンピューターのスクリーンからスマートフォンのタッチパネルに変化した。また、ブログの隆盛以来、そうしたインターフェイスを通して覗くウェブサイトも、静的に構築されたコンテンツから、絶え間なく更新されるSNSのフィードへと変化した。もはや僕たちはどこへ導かれるかもわからないネットワーク上をサーフするスリルを忘れ、終わることのないタイムラインをぼんやりと眺めることに慣れてしまっているのかもしれない。

 果たしてミレニアル世代に広大なネットワークの海をサーフする筋力は残っているのだろうか? あるいは、そのネットワークはサーフするに値する「いい波」を僕たちに提供してくれるのだろうか? たしかに、TwitterInstagram、Snapchatを操りながらタイムライン上の情報を華麗に編集し、我が物とするたくましさを人々はまだ失ってはいないし、この技巧はまさに情報をブリコラージュし生活を構築する「日常的実践 Art de Faire(ミシェル・ド・セルトー)」の現代版だと言える。しかしそれはSNS以前の人々がインターネットの向こう側に幻視した、あらゆるヒエラルキーの消失した「アーカイヴの海」を舞台とはしていない。わざわざ古めかしい海の上へと漕ぎ出す人々なんて、今更いるのだろうか?

日常的実践のポイエティーク (ポリロゴス叢書)

日常的実践のポイエティーク (ポリロゴス叢書)

 Suchmosがそれだ、と言いたいひとはたくさんいるだろう。それをわざわざ否定したいとも思わない。しかし運良くきょう届いたばかりの佐藤秀彦・編(?)『蒸気波要点ガイド』をめくっていると、「ジャズとロックのクロスオーバー」ごときが霞んで消えてしまうほどの広大な「海」がこのZINEのなかに封じ込められているように思えてならない。いつ途絶えるともしれないVaporwaveというジャンルの命脈は、ミレニアル世代が喪失した「すべてがフラットな情報の海」という輝かしいユートピアへの羨望と、そのユートピアの不可能性を笑い飛ばすようなシニシズムとによって支えられている。僕を含めたミレニアル世代は「波」を、そしてその母たる「海」を再発明しなければならない。Vaporwaveはその名が奇しくも示している通り、インターネット上にふたたびもたらされたひとつの「波」であって、その母はまさにインターネット上に漂う情報の断片たちの織りなす「海」だ――ただし、その海は豊穣とは無縁の空虚とほとんど変わらない。

 ともあれ、Vaporwaveに限らず、SNS時代以降に真面目に文化をつくることを考えるのならば、失われた海に思い切ってダイヴする勇気か、海そのものを再発明する大胆さか、そのいずれかが必要なのではないかと思う。まあ、そのどちらを選ばずとも、気がつけば文化は自然に育まれるものではあるのだけれど。

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