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オリヴィエ・アラン著、永富正之・二宮正之訳『和声の歴史』(と、菊地成孔+大谷能生『M/D』を少し)

文庫クセジュ448 和声の歴史 (文庫クセジュ 448)

文庫クセジュ448 和声の歴史 (文庫クセジュ 448)

 この本、原著の出版が1965年、邦訳が1969年に出ているのだが、手元にあるのは2007年の第十七刷。けっこうなロングセラーだ。ギリシア時代の音楽理論(旋法だとかいわゆるピタゴラス音律だとか)から20世紀中葉の当時最先端の現代音楽に至るまでを通覧し、和声ないし調性というシステムがいかにして確立し、そして飽和・崩壊することになったかをコンパクトにまとめた一冊になっている。豊富な譜例がひかれているのがかえって譜面に慣れていない初学者には敷居が高く思えるけれど、記述は端的でわかりやすい。この手の通史を読んで思うのは、調性というものが18世紀に確立するまでには少なくとも数世紀ものゆるやかな発展があったにもかかわらず、一度調性がひとつのシステムとして確立した途端に、ほんの2世紀足らずでその限界にまで達してしまう、近代特有のダイナミズムだ。もちろんこれは現在検討することができる資料の絶対的な量が中世以前はとても限られていて、その発展の様相が断片的にしか捉えられないという時代的な制限によるところも大きいのだが。

 本書はトータル・セリエリズムや電子音楽、具体音楽といった同時代の試みにも一瞥を向け、クラシック以前においては旋法が、クラシック音楽においては和声が担ってきた音楽の「牽引力」は、これまでとはまた別の場所に見いだされることになるのではないか、と論じて終わる。そこで少し感動してしまったのは、いささか些細な点ではあるのだが、音響物理学の同時代の成果に言及したくだりで、次のように述べるところだ。

われわれの感覚のなかで、もっとも分析的でもっとも具体的な耳の能力を、過小評価してはならない。真摯な態度で聞きもせず、くりかえして聞きもしないで、ある集合音または集合音の連結を、倍音列との関係がただちに認められないからまったく意味がない、と決めつけることはできないだろう。*1

 理論の檻の中に自ら閉じこもってしまえば自ずとそこは袋小路になってしまう。むしろ耳を開き、耳を頼りにすること。その重要性を説くこの一節は、本書を通読したときには存外に重く響いてくるものだ。

すこし雑記

 さて、和声ないし調性というシステムが飽和し、もはやそこに発展を見出すことはできない(そこに閉じこもるべきではない)という前提にたてば、前述のトータル・セリエリズム等の試みのように、音高と持続以外のパラメーターのなかにも「牽引力」(音楽をつくりだし、進めていく力)を見出していくことになるだろう。これは実際、無調から十二音技法を経由してトータル・セリエリズムに至る道程の教科書的な図式化にしかないかもしれないが、本書がその末尾で控えめに、しかし力強くそう示唆するとき、ふと思い出した文章があった。

[…]モーダリティという概念を最広義に拡大するとき、たとえば、あらゆるロックに偏在するブルース・ペンタトニックは旋律上のモーダリティですし、 編曲一般からエレクトリック・ノイズのイコライジング/フィルタリングまで、すべての音色/音質の変化もモーダリティと言えますし、これはのちにやりますが、ポリリズムを前提とした「リズム・チェンジ」もモード概念で説明が可能であり、前項でお話しした通り、音楽につねに付帯する「モード」、つまり服装や流行の変化も、これは言うまでもなくモード・チェンジです。*2

 菊地成孔大谷能生の『M/D』からの一節だ。この本は毀誉褒貶激しく、とりわけある一人の攻撃者に対して菊地が反撃に打ってでたことによってその印象は増してしまったわけだが、一見そうした怪しげな著者らのフカシとも思えるこの「モード」解釈と同じことを本書は言ってんじゃん。と思ったのだった。調性の崩壊に伴うオルタナティヴなシステムの探求は、まさしく「音色とか強弱の効果などという音の高さ以外の《特性のなかにあるいは見いだしうる》」*3にあるわけだ。なーんだそういうことか。というあれがあれしたのです。

*1:『和声の歴史』146頁

*2:菊地成孔大谷能生『M/D マイルス・デューイ・デイヴィスⅢ世研究(上)』河出文庫、433頁、強調は筆者による

*3:『和声の歴史』142頁

カテゴリー: Japanese